第1章(過去編)
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05 汝はいかにも美しい
(はあ……まったく、眠れなかった……!)
ついに別れの朝がやってきた。幸いにも天気は雲ひとつない快晴。しかし昨夜はさすがに眠ることが出来なかった。明日は何を話そう、どこに案内しよう、どんな顔して別れよう……考えることは山のようにあって、一晩中尽きることがなかった。
ユニはふらふらしながらも、朝食の席へ向かった。
「ユニ、どうしたのよ真っ青な顔して」
「あ……おはよ」
横から勢いよく現れたフィルに、ユニは少しよろめく。
「昨日、いつまで庭にいたの? 私と一緒に帰ればよかったのに」
「大丈夫、ちょっと寝不足なだけ……」
そうは言っても、と同僚たちから心配され、結局、奇跡的に一日休んでいいと言われた。外出をしていいかどうかは別の話だが、駄目と言われても、ユニはガイのもとへ行くだけだ。
ユニは支度をするとこっそり部屋を抜け出し、彼と出逢ったいつもの庭へ向かった。
ガイはもう庭で待っていた。いつもと変わらず姿勢が良くて妙に気品のある横顔は、ユニがお気に入りだと教えた花をみつめていた。本当に今日でお別れなのだと考えると、寂しくて、時が動き出すのが怖くて、ユニは声をかけられずにいた。
「いつまでそこに突っ立ってるんだい?」
とっくに気付いていたのか、ガイはこちらを見もせずに言った。ユニはドキリとして、目を伏せながらガイに近付いた。この庭の外で彼と会うのは初めてで、とても楽しみなのに、ずっと笑顔でいようと思っていたのに、今日で終わりだなんて寂しすぎて。
「そろそろ行こうか」
ユニに向き直ってガイが言う。彼はどうしてこう普通でいられるのだろう、自分はこんなにも胸が張り裂けそうなのに。一晩寝ないで考えた言葉も、何も、もう思い出せない。
「グランコクマにはいい所がたくさんあるんだろ? 時間がなくなると困るからな」
ガイが手を引いてくれたらよかったのに。そんなことを考えながら、ユニは重い足を動かすのに精一杯で、「そうだね」と呟く。
「けど、最後の時間をわたしなんかのために使って本当にいいの?」
なぜか、そんなことを口走る。彼に会えない明日を想像すると何もかもが不安で、感情が抑えられない。
「いいんだって。オレがそうしたいって言っただろ。それと、そんな顔するなよ、余計辛くなる」
「ご、ごめん……」
一秒ずつ、彼の時間はなくなっていくのに、楽しい記憶を残してあげたいと思っていたのに。でも胸がきりきりと痛んで仕方ない。顔をあげて笑うことが、どうしても出来ない。
「あー……ユニ」
「!!」
溜め息混じりの声と共に、俯いたユニの頭に、ぽんと温かい手が触れた。
ユニはばっと勢いよく顔をあげた。ガイはそれに驚いたのか、もとから一瞬触れるだけのつもりだったのか、すぐに手を退けた。
「さ、さわった……!」
「はは、悪かったか?」
頬を紅潮させて奇跡でも目の当たりにしたかのようなユニに、ガイは微笑む。
「今は、ユニ以上に大事なことなんてないからさ」
「……! あー、もー……」
その言葉に、きゅんと胸が苦しくなって、ユニは唇を引き結ぶ。苦しかった。好きすぎて苦しい。この一週間一瞬たりとも触れさせてくれなかったガイが、自分から女性のユニに触れるなんて。本当に夢みたいだ。
「ごめんガイ。わたし、ちゃんと案内する! 最後だもんね。任せておいて!」
「ああ、よろしく頼むよ」
ようやくいつもの調子を取り戻したユニの顔を見て、ガイは安心したように、花のように笑った。
「ガイ、こっちだよ」
ユニがまず彼を案内したのは、例のお気に入りの花畑だった。ガイにも何度か話をしたことがあり、彼も興味を持ってくれたので、最初はここだと決めていた。
「へえ、こんなところに花畑があるなんてなぁ」
住宅地の真ん中に突如現われた空き地に、ガイは感心したような声を漏らす。
「キミの庭とよく似ている気がするけど、ここもキミが手入れしているのかい?」
「ううん。ここは自然とこうなの」
「そうか、不思議な場所なんだな」
微笑むと、ガイも柔らかく微笑んだ。温かい日差しに、彼の金髪が滲む。このまま彼をこの花畑に閉じ込めてしまいたいと思った。そうしたら、ユニの好きなものばかりと、ずっとここで生きていけるのに。
花畑の奥へ進んでいくと、たんぽぽが寄り集まって咲いている場所があった。そのうちの何本かは羽根のような綿毛をつけていた。ユニは屈んで、それを摘む。
「ねえガイ。目を閉じてたんぽぽの綿毛を吹くと、願い事が叶うんだよ」
ユニが息を吹きつけると、視界いっぱいに白い綿毛が雪のように舞って、空へ飛んで行った。ガイは静かに、綿毛たちの行方を目で追っていた。
「ユニ、なんてお願いしたんだい?」
「ちょっと。内緒に決まってるでしょ」
口を尖らせるユニに、ガイは笑った。それは本当に太陽みたいに眩しくて。ユニの心がいっぱいに満たされていく。それは、今までずっと空っぽだったと思える程に。
「……いつか言えるといいな」
風にのせたのは、別れと神託。未来へ続く祈りの言葉。
「ん?」
「……なんでもないよ」
花畑の次は、商店街へ向かった。グランコクマの有名なものをたくさん教えたいし、何か欲しいものがあれば買ってあげるつもりだった。ついでに、前に言っていた「貴族の坊ちゃん」へのお土産も。
音機関を使った噴水のオブジェに夢中になっているガイを置いて、ユニは露店に並ぶ品々を見渡した。
「……んっ」
ユニの目に止まったのは、ガイたちへのお土産……というわけではなく、黄色いローズメリアの髪飾り。幾重にも重なった美しい花びらに、ユニは思わず魅入ってしまう。
「ユニ、それ欲しいのかい?」
「わ!」
突然横から言われ、ユニは驚いて振り返った。背後ではにこにこと笑うガイ。
「欲しいんだろ? 買ってあげるよ」
「え、え、いいよ! 値段……ほら結構高いし!」
財布を取り出して嬉しそうに言うガイに、ユニはあわてて値札を見せた。確かに欲しい。ガイとか関係なく単純に欲しい……。しかしこれではなんだか彼に悪い。ユニの方がガイに何かをあげる予定だったのに、逆にもらってしまうなんて。
「気にするなって。キミが大事にしてくれるなら、いくらでも喜んで」
この言葉にユニは力が抜けて、素直にお願いすることにした。不意に放たれる一言に、どうにも弱い。
店の人に商品を渡し、ガイは財布からお金を出す。その様子をうしろからドキドキしながら見ていると、ふと、ガイの手から何かが零れ落ちたのが見えた。それはひらひらと舞って、ぱさりと床に落ちる。ガイは気付いていないようだったので、ユニは屈んでそれを拾い上げた。
「ガイ、何か落としたよ」
「ああ、すまな……」
「え、バチカル……? キムラ……スカ……?」
ガイが制止するよりも先に、ユニはその紙に書かれたことを読み上げてしまった。
それは、バチカルへ向かう船のチケットだった。
瞬間、店主や他の客たちの間に緊張が走る。ユニの方も驚いて、ガイを見上げた。
「ガイ……これからキムラスカへ……?」
「……ああ」
掠れた声なのに、妙に響いていた。通行人もまるで聞き耳を立てているようだった。この静寂が、ユニの不安をいっそう掻き立てた。この時のマルクトとキムラスカは、船の往来など直接の交流こそあるものの、国民同士は憎み合っているような状況だった。
水の音と人々の他愛ないお喋りを耳にしながら、二人は噴水前のベンチに座っていた。もちろんその間には不自然な距離がある。
「ガイは……キムラスカ人だったんだ」
「ああ。黙っててすまなかった」
お互いに視線を交えずに会話する。ユニはまだよく状況が理解できていないものの、気まずい空気は拭えない。
「も、もしかしてキムラスカのスパイじゃないよね……? わたしを通してマルクトの動向を探っていたわけじゃ……」
「それは違う。これはただの旅行さ。キミに近付いたのはそういうわけじゃない」
「じゃあどういうわけ……?」
「いや、とくに理由はないんだけど……」
一瞬期待してしまったユニは、この返事に少しがっかりした。はじめて会ったときの様子とも合わせて、ガイは本当にただの旅行客で、ユニと知り合ったのも本当に偶然だったのだろうと、わかってはいた。それでも、この出会いに特別な意味があればいいのにと思っていた。
「けどキミに会えてよかったよ。おかげでこの一週間、楽しかった」
「……わたしもだよ」
彼の言葉には嘘がないように思えて、ユニは嬉しかった。やっぱり彼がキムラスカ人であろうと、関係ない。もう、好きになってしまったのだから。
「ガイ、その……わたし、ガイのこと……」
「なんだい?」
「……ごめん、なんでもない」
でも、何も言わない方がこの先もずっと綺麗な記憶でいてくれるだろうか?
その後、グランコクマの名所をいくつか案内しているうちに、とうとう船の時間が来てしまった。
港に着くと、ガイの連れの人が待っていた。その人はガイと少し話すと、先に船に乗った。港にはあまり人がおらず、ユニとガイの二人だけになる。
「じゃあ、ユニ。お別れだな」
傾き始めた陽を背に言ったガイの言葉が、胸をぎゅうぎゅう締め付ける。嵐でも戦争でもなんでもいい、ガイをここに留める理由が欲しかった。まだ何もできていない、せっかく出会えたのに、本当に幸せだったのに、もう終わりなんて。
「そんな顔するなよ」
覗き込むように言われて、ユニは視線を逸らした。どんな顔をしているか、自分でもわかってる。目にいっぱいに溜まった涙を、どうしたら零れさせないでいられるのか、教えて欲しいくらいだ。
「ガイ、ありがとう、楽し……かった」
「うん。オレも。正直言うとさ、キミのこと可愛くて仕方なかったよ」
「……もう帰っちゃうくせに、そんなこと言わないでよ」
相変わらずの気障な言葉に、ユニは妙に安堵する。こんなふうに照れて笑うことも、胸が苦しくなることも、彼と出会うまでは経験したこともなかった。
「……わたしね、この街しか知らないから、水槽の魚みたいに、この街の中でしか息が出来ないと思ってた」
何も知らなかった、ということを、彼と出会って知った。世界にはもっと綺麗なものがあって、愛しいものがあって、もっときらきらした日々があるのだと、初めて気付いた。
「この一週間のこと、わたし一生忘れない。この記憶だけで、ずっと生きていける」
「はは、それは大袈裟だよ」
「でも、全部変わったの、ガイに逢って、毎日が、全然別のものになった……」
そんな人、二度と会えない。だから自分は彼のことを忘れないでずっと好きでいられる。でも、彼にとってのユニは、これから一体どうなっていくのだろうか。
「……お願い。わたしのこと、忘れないで」
なんでもいい。彼が自分を覚えていてくれれば、きっとそれだけで充分なんだと思った。
「忘れるなんて出来ないさ。それに、また会えるよ」
ガイは、本気でそう思っているだろうか? ガイはキムラスカ人で、ユニはマルクト人で。何度も行き来できる距離ではないし、両国の関係はどんどん悪くなるだろう。きっと、もう会えない。でも彼がそう言ってくれるなら、信じたいと思う。
「なら、会いにきてね、絶対……」
「ああ」
海面の煌めきを背にして笑ったガイの笑顔を、ずっと忘れずにいられますように。
「じゃあ、またな」
ガイはひらりと手を振って歩き出した。ユニは一歩も動けなかった。ただ同じように、手を振るだけだ。
しかし何歩か離れた後で、潰れそうなくらいに胸が苦しくなって、抑えきれない気持ちが思わず唇から零れ落ちてしまう。
「ガイ……! 待って……」
呼んでしまった。見送ると決めたのに。もうこれ以上は迷惑をかけるだけなのに。駄目だ。振り返らずに行って欲しいのに、この手を伸ばしてしまいそうになる。苦しくて涙が溢れる。こんなに好きだったなんて。
声を聞き届けたガイは、真剣な顔をしてこちらを振り返った。逆光が影を落とす。心臓がどきりと跳ねる。
「ガイラルディアだ」
「……え?」
「オレの名前だよ」
彼が何を伝えようとしているのか、本当の意味ではよくわからなかった。だけど、きっとこれは彼にとってすごく意味のあることなんだと思う。伸ばしかけた両手を握り締めて、ガイを見つめた。
綺麗な空、波、光も何も、目に入らなかった。
「ガイラルディア」
「うん」
「ありがとう、大好きだよ!」
泣きながら言ってしまった言葉は、きっと本当の意味では彼に届かなかったのだろうけど。それでも彼が同じ様に、ユニにとってこれを言うことの意味を感じてくれていれば、泣けるほど嬉しいと思った。
その不完全を受け入れた日常は、もう戻れない淵まで加速する――
(はあ……まったく、眠れなかった……!)
ついに別れの朝がやってきた。幸いにも天気は雲ひとつない快晴。しかし昨夜はさすがに眠ることが出来なかった。明日は何を話そう、どこに案内しよう、どんな顔して別れよう……考えることは山のようにあって、一晩中尽きることがなかった。
ユニはふらふらしながらも、朝食の席へ向かった。
「ユニ、どうしたのよ真っ青な顔して」
「あ……おはよ」
横から勢いよく現れたフィルに、ユニは少しよろめく。
「昨日、いつまで庭にいたの? 私と一緒に帰ればよかったのに」
「大丈夫、ちょっと寝不足なだけ……」
そうは言っても、と同僚たちから心配され、結局、奇跡的に一日休んでいいと言われた。外出をしていいかどうかは別の話だが、駄目と言われても、ユニはガイのもとへ行くだけだ。
ユニは支度をするとこっそり部屋を抜け出し、彼と出逢ったいつもの庭へ向かった。
ガイはもう庭で待っていた。いつもと変わらず姿勢が良くて妙に気品のある横顔は、ユニがお気に入りだと教えた花をみつめていた。本当に今日でお別れなのだと考えると、寂しくて、時が動き出すのが怖くて、ユニは声をかけられずにいた。
「いつまでそこに突っ立ってるんだい?」
とっくに気付いていたのか、ガイはこちらを見もせずに言った。ユニはドキリとして、目を伏せながらガイに近付いた。この庭の外で彼と会うのは初めてで、とても楽しみなのに、ずっと笑顔でいようと思っていたのに、今日で終わりだなんて寂しすぎて。
「そろそろ行こうか」
ユニに向き直ってガイが言う。彼はどうしてこう普通でいられるのだろう、自分はこんなにも胸が張り裂けそうなのに。一晩寝ないで考えた言葉も、何も、もう思い出せない。
「グランコクマにはいい所がたくさんあるんだろ? 時間がなくなると困るからな」
ガイが手を引いてくれたらよかったのに。そんなことを考えながら、ユニは重い足を動かすのに精一杯で、「そうだね」と呟く。
「けど、最後の時間をわたしなんかのために使って本当にいいの?」
なぜか、そんなことを口走る。彼に会えない明日を想像すると何もかもが不安で、感情が抑えられない。
「いいんだって。オレがそうしたいって言っただろ。それと、そんな顔するなよ、余計辛くなる」
「ご、ごめん……」
一秒ずつ、彼の時間はなくなっていくのに、楽しい記憶を残してあげたいと思っていたのに。でも胸がきりきりと痛んで仕方ない。顔をあげて笑うことが、どうしても出来ない。
「あー……ユニ」
「!!」
溜め息混じりの声と共に、俯いたユニの頭に、ぽんと温かい手が触れた。
ユニはばっと勢いよく顔をあげた。ガイはそれに驚いたのか、もとから一瞬触れるだけのつもりだったのか、すぐに手を退けた。
「さ、さわった……!」
「はは、悪かったか?」
頬を紅潮させて奇跡でも目の当たりにしたかのようなユニに、ガイは微笑む。
「今は、ユニ以上に大事なことなんてないからさ」
「……! あー、もー……」
その言葉に、きゅんと胸が苦しくなって、ユニは唇を引き結ぶ。苦しかった。好きすぎて苦しい。この一週間一瞬たりとも触れさせてくれなかったガイが、自分から女性のユニに触れるなんて。本当に夢みたいだ。
「ごめんガイ。わたし、ちゃんと案内する! 最後だもんね。任せておいて!」
「ああ、よろしく頼むよ」
ようやくいつもの調子を取り戻したユニの顔を見て、ガイは安心したように、花のように笑った。
「ガイ、こっちだよ」
ユニがまず彼を案内したのは、例のお気に入りの花畑だった。ガイにも何度か話をしたことがあり、彼も興味を持ってくれたので、最初はここだと決めていた。
「へえ、こんなところに花畑があるなんてなぁ」
住宅地の真ん中に突如現われた空き地に、ガイは感心したような声を漏らす。
「キミの庭とよく似ている気がするけど、ここもキミが手入れしているのかい?」
「ううん。ここは自然とこうなの」
「そうか、不思議な場所なんだな」
微笑むと、ガイも柔らかく微笑んだ。温かい日差しに、彼の金髪が滲む。このまま彼をこの花畑に閉じ込めてしまいたいと思った。そうしたら、ユニの好きなものばかりと、ずっとここで生きていけるのに。
花畑の奥へ進んでいくと、たんぽぽが寄り集まって咲いている場所があった。そのうちの何本かは羽根のような綿毛をつけていた。ユニは屈んで、それを摘む。
「ねえガイ。目を閉じてたんぽぽの綿毛を吹くと、願い事が叶うんだよ」
ユニが息を吹きつけると、視界いっぱいに白い綿毛が雪のように舞って、空へ飛んで行った。ガイは静かに、綿毛たちの行方を目で追っていた。
「ユニ、なんてお願いしたんだい?」
「ちょっと。内緒に決まってるでしょ」
口を尖らせるユニに、ガイは笑った。それは本当に太陽みたいに眩しくて。ユニの心がいっぱいに満たされていく。それは、今までずっと空っぽだったと思える程に。
「……いつか言えるといいな」
風にのせたのは、別れと神託。未来へ続く祈りの言葉。
「ん?」
「……なんでもないよ」
花畑の次は、商店街へ向かった。グランコクマの有名なものをたくさん教えたいし、何か欲しいものがあれば買ってあげるつもりだった。ついでに、前に言っていた「貴族の坊ちゃん」へのお土産も。
音機関を使った噴水のオブジェに夢中になっているガイを置いて、ユニは露店に並ぶ品々を見渡した。
「……んっ」
ユニの目に止まったのは、ガイたちへのお土産……というわけではなく、黄色いローズメリアの髪飾り。幾重にも重なった美しい花びらに、ユニは思わず魅入ってしまう。
「ユニ、それ欲しいのかい?」
「わ!」
突然横から言われ、ユニは驚いて振り返った。背後ではにこにこと笑うガイ。
「欲しいんだろ? 買ってあげるよ」
「え、え、いいよ! 値段……ほら結構高いし!」
財布を取り出して嬉しそうに言うガイに、ユニはあわてて値札を見せた。確かに欲しい。ガイとか関係なく単純に欲しい……。しかしこれではなんだか彼に悪い。ユニの方がガイに何かをあげる予定だったのに、逆にもらってしまうなんて。
「気にするなって。キミが大事にしてくれるなら、いくらでも喜んで」
この言葉にユニは力が抜けて、素直にお願いすることにした。不意に放たれる一言に、どうにも弱い。
店の人に商品を渡し、ガイは財布からお金を出す。その様子をうしろからドキドキしながら見ていると、ふと、ガイの手から何かが零れ落ちたのが見えた。それはひらひらと舞って、ぱさりと床に落ちる。ガイは気付いていないようだったので、ユニは屈んでそれを拾い上げた。
「ガイ、何か落としたよ」
「ああ、すまな……」
「え、バチカル……? キムラ……スカ……?」
ガイが制止するよりも先に、ユニはその紙に書かれたことを読み上げてしまった。
それは、バチカルへ向かう船のチケットだった。
瞬間、店主や他の客たちの間に緊張が走る。ユニの方も驚いて、ガイを見上げた。
「ガイ……これからキムラスカへ……?」
「……ああ」
掠れた声なのに、妙に響いていた。通行人もまるで聞き耳を立てているようだった。この静寂が、ユニの不安をいっそう掻き立てた。この時のマルクトとキムラスカは、船の往来など直接の交流こそあるものの、国民同士は憎み合っているような状況だった。
水の音と人々の他愛ないお喋りを耳にしながら、二人は噴水前のベンチに座っていた。もちろんその間には不自然な距離がある。
「ガイは……キムラスカ人だったんだ」
「ああ。黙っててすまなかった」
お互いに視線を交えずに会話する。ユニはまだよく状況が理解できていないものの、気まずい空気は拭えない。
「も、もしかしてキムラスカのスパイじゃないよね……? わたしを通してマルクトの動向を探っていたわけじゃ……」
「それは違う。これはただの旅行さ。キミに近付いたのはそういうわけじゃない」
「じゃあどういうわけ……?」
「いや、とくに理由はないんだけど……」
一瞬期待してしまったユニは、この返事に少しがっかりした。はじめて会ったときの様子とも合わせて、ガイは本当にただの旅行客で、ユニと知り合ったのも本当に偶然だったのだろうと、わかってはいた。それでも、この出会いに特別な意味があればいいのにと思っていた。
「けどキミに会えてよかったよ。おかげでこの一週間、楽しかった」
「……わたしもだよ」
彼の言葉には嘘がないように思えて、ユニは嬉しかった。やっぱり彼がキムラスカ人であろうと、関係ない。もう、好きになってしまったのだから。
「ガイ、その……わたし、ガイのこと……」
「なんだい?」
「……ごめん、なんでもない」
でも、何も言わない方がこの先もずっと綺麗な記憶でいてくれるだろうか?
その後、グランコクマの名所をいくつか案内しているうちに、とうとう船の時間が来てしまった。
港に着くと、ガイの連れの人が待っていた。その人はガイと少し話すと、先に船に乗った。港にはあまり人がおらず、ユニとガイの二人だけになる。
「じゃあ、ユニ。お別れだな」
傾き始めた陽を背に言ったガイの言葉が、胸をぎゅうぎゅう締め付ける。嵐でも戦争でもなんでもいい、ガイをここに留める理由が欲しかった。まだ何もできていない、せっかく出会えたのに、本当に幸せだったのに、もう終わりなんて。
「そんな顔するなよ」
覗き込むように言われて、ユニは視線を逸らした。どんな顔をしているか、自分でもわかってる。目にいっぱいに溜まった涙を、どうしたら零れさせないでいられるのか、教えて欲しいくらいだ。
「ガイ、ありがとう、楽し……かった」
「うん。オレも。正直言うとさ、キミのこと可愛くて仕方なかったよ」
「……もう帰っちゃうくせに、そんなこと言わないでよ」
相変わらずの気障な言葉に、ユニは妙に安堵する。こんなふうに照れて笑うことも、胸が苦しくなることも、彼と出会うまでは経験したこともなかった。
「……わたしね、この街しか知らないから、水槽の魚みたいに、この街の中でしか息が出来ないと思ってた」
何も知らなかった、ということを、彼と出会って知った。世界にはもっと綺麗なものがあって、愛しいものがあって、もっときらきらした日々があるのだと、初めて気付いた。
「この一週間のこと、わたし一生忘れない。この記憶だけで、ずっと生きていける」
「はは、それは大袈裟だよ」
「でも、全部変わったの、ガイに逢って、毎日が、全然別のものになった……」
そんな人、二度と会えない。だから自分は彼のことを忘れないでずっと好きでいられる。でも、彼にとってのユニは、これから一体どうなっていくのだろうか。
「……お願い。わたしのこと、忘れないで」
なんでもいい。彼が自分を覚えていてくれれば、きっとそれだけで充分なんだと思った。
「忘れるなんて出来ないさ。それに、また会えるよ」
ガイは、本気でそう思っているだろうか? ガイはキムラスカ人で、ユニはマルクト人で。何度も行き来できる距離ではないし、両国の関係はどんどん悪くなるだろう。きっと、もう会えない。でも彼がそう言ってくれるなら、信じたいと思う。
「なら、会いにきてね、絶対……」
「ああ」
海面の煌めきを背にして笑ったガイの笑顔を、ずっと忘れずにいられますように。
「じゃあ、またな」
ガイはひらりと手を振って歩き出した。ユニは一歩も動けなかった。ただ同じように、手を振るだけだ。
しかし何歩か離れた後で、潰れそうなくらいに胸が苦しくなって、抑えきれない気持ちが思わず唇から零れ落ちてしまう。
「ガイ……! 待って……」
呼んでしまった。見送ると決めたのに。もうこれ以上は迷惑をかけるだけなのに。駄目だ。振り返らずに行って欲しいのに、この手を伸ばしてしまいそうになる。苦しくて涙が溢れる。こんなに好きだったなんて。
声を聞き届けたガイは、真剣な顔をしてこちらを振り返った。逆光が影を落とす。心臓がどきりと跳ねる。
「ガイラルディアだ」
「……え?」
「オレの名前だよ」
彼が何を伝えようとしているのか、本当の意味ではよくわからなかった。だけど、きっとこれは彼にとってすごく意味のあることなんだと思う。伸ばしかけた両手を握り締めて、ガイを見つめた。
綺麗な空、波、光も何も、目に入らなかった。
「ガイラルディア」
「うん」
「ありがとう、大好きだよ!」
泣きながら言ってしまった言葉は、きっと本当の意味では彼に届かなかったのだろうけど。それでも彼が同じ様に、ユニにとってこれを言うことの意味を感じてくれていれば、泣けるほど嬉しいと思った。
その不完全を受け入れた日常は、もう戻れない淵まで加速する――