第2章(外殻大地編)
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33 全ては束の間の幻
時々見る夢がある。それはいつも、グランコクマで庭の草木に水遣りをしている夢だった。
あの頃は、確かに退屈ではあったけれど、平和だった。あの頃は、こんな危険と隣り合わせの旅をすることになるなんて、想像もしなかった。
――どっちがよかった?
はっとして飛び起きる。背中を冷たい何かがぬるりと這っていったような嫌な感触が残っていた。
嫌な夢を見た後は決まって、もう瞼を閉じるのが嫌になる。寝がえりを打つと、ひんやりとした布団に触れた。エンゲーブの朝は、少し肌寒い。窓の外に目を向けると、うっすらと明るくなっていた。ちょうど夜が明けた頃だろうか。
(こんな早くに目が醒めちゃった……どうしよう、散歩でもしようかな、でも神託の盾が来てたらやばいし……ま、まぁまだ追いついて来ないはずだけど……)
ごろごろしながらそんなことを考えていると、宿の入口の方から小さな物音が聞こえた。加えて、誰かが外へ出ていく足音。
(……?)
ジェイドだろうか、と思ってユニは静かに起き上がると、念のためロッドを掴んで部屋のドアを開けた。無意識に音を立てずに外へ出ると、村の入口であたりをきょろきょろと見回している少年――イオンがいた。
「イ、イオン様!?」
「わ、あ、ユニ! し、静かに……!」
驚きからそのまま放り出された声は朝早い静かな村に木霊した。イオンはびくりと大きく肩を震わせて、「しーっ」と人差し指を立ててユニに歩み寄る。
「あの、お散歩ですか? だったらわたしかアニスのどちらかを護衛に……」
「す、すみません、散歩というか……」
昼間のこともあり、ユニが窘めるように言うと、イオンは少しばつの悪そうな表情をするのだった。
「実は……チーグルの森へ向かおうとしていたんです」
いたずらを白状する子供のように、少しだけ興奮した様子で、イオンは言った。
「え!? チ、チーグルの森って……!」
確かに、村のすぐ北に「チーグルの森」があると聞いていた。しかし、村の外なら、魔物も出る。そこが安全であるという保証はない。
「イ、イオン様、それはかなり危険だと思いますが……」
「ユニ。聖獣と言われるチーグルが人に害をなすなんて、何か事情があるはずなんです」
言い聞かすように話し始めたユニを遮り、イオンは先ほどとは違って意志の固い表情を見せた。食糧泥棒の件はあくまでこの村の問題であって、こちらにもこちらの任務がある以上、言ってしまえばイオンには関係のないことなのに。ユニは無意識に少し後ずさりした。なんだか、気圧されてしまう。
「チーグルは魔物の中でも賢くて大人しい。人間の食べ物を盗むなんて、おかしいんです。チーグルに縁がある者としては、見過ごせません」
「……イオン様」
「お願いします、ユニ。僕をチーグルの森まで連れて行ってください! 彼らの話を聞きたいんです!」
「……」
これには困ってしまった。おとなしいチーグルだって、現に村から食糧を盗み出している。次は人に怪我をさせるかもしれない。そして護衛が、軍人のジェイドやアニスならともかく、ユニひとりなんて。今、わざわざそんな危険に飛び込む必要があるのだろうか。
ジェイドに相談したら、チーグルの森で調査などしている時間はないと却下されてしまうだろう。アニスはどうだろうか、イオンの頼みなら、聞くだろうか。
決めかねていると、イオンの真剣かつ母性をくすぐるような眼差しに気付いてしまった。きらきらと輝く、少しだけ潤んだ瞳。まっすぐにみつめてくる、何かを訴えかける視線。ユニだけを強く頼ってくれている。まるで雨の中に捨てられてずぶ濡れになった子犬だ。これを見捨てるのは至難の業であった。
(ああ……負けましたよ、イオン様)
ユニは顔を傾けて彼に笑いかけた。すると、イオンの顔にぱあっと明るい笑みが浮かんだ。それが答えだった。大丈夫。この辺りの魔物は比較的おとなしいと聞いた。それにまだ、神託の盾も来ないはず。すぐに戻ってくれば、なんとか許してくれるだろう。「子どもは明るいうちに遊んでおきなさい」というジェイドの言葉が脳裏を過った。いや、これは遊びではないけれど。
「そういえば、イオン様はマルクト出身なんですよね?」
「えっ」
村を出て歩き始めると、日も昇ってきた。まだ空気はひんやりとして冷たいが、日差しが暖かい。見通しのよい平野には、魔物の姿は見当たらなかった。村の北、深い緑に染まる大木を目指して、ユニたちは草を踏みしめていた。
「預言で導師になることを詠まれた子が、マルクトの普通のご家庭にお生まれになった、それが当代の導師……って本で読みました。……イオン様?」
「あ、はい。そうです。ユニはどちらの出身でしたか?」
「あ、昔イオン様に言ったかもしれませんが、私はグランコクマです」
「……す、すみません、そうでしたね」
ユニは二年前のことをはっきりと思い出しながら話していたが、イオンは少しだけ言葉を濁らせる。もしかしてよく覚えていないのだろうか。確かに、そこまで親しくしていたわけでもないけど。
「導師イオンにこう言うのもなんですが、わたしはイオン様と縁があるなあと勝手に思ってるんです。同じマルクト出身で、二年ぶりにこうして再会もできて……あ、あと!」
ひらめいたのでついつい大きな声を出した。するとイオンはそれに対して不自然なくらいにびくりと肩を跳ねさせる。それを見てユニは人差し指を立てたまま一瞬固まって、でも、何事もなかったかのように続けた。
「……イオン様も、実はこういうところへ来るのが初めて、だったりします?」
「……!」
エンゲーブを歩き回っていたときに、気が付いたことがあった。グランコクマやダアトに比べれば、発展の遅れている建造物、市場の商品や人々の流れ、目が行くところが、ユニとイオンは同じだった。
「わたしが初めてダアトに行った時にも思ったんですけど、新しい街って不思議ですよね。自分の見たことのあるものがすべてだと思っていたのに、ここはこんなにも違う」
「……ええ、そうですね」
なぜか俯き気味なイオンに、妙な違和感を覚えた。どうにも反応が鈍い。
わたしが話しているのは、イオン様、ですよね――?
「……」
「あ! あそこが森の入り口っぽいですね! あともう少しですよー」
「! はい、行きましょう。ユニ」
いや、これは根拠のない違和感だ。今は、彼に、自分に、気が付かないふりをしよう。
いよいよ緑が濃くなってきて、ここから先がチーグルの森であるとわかった。いくつもの大木が根を地面に這わせ、生い茂る葉で光の届かない場所には苔が生えていた。ほとんど人の手が加えられた様子がない。
「わーおっきい森ですね。涼しくて気持ちいい」
「はい。緑がとてもきれいですね」
ユニとイオンはすっかり緊張が緩み、辺りをきょろきょろと見まわしていた。珍しい植物もたくさんある。そういったものに興味津々のイオンを見て、ユニは彼を連れて来てよかったと思うのだった。
(小さい頃からずっと、ローレライ教団に閉じ込められていたんですよね。だから、これくらい、いいよね)
これからは自分が、イオンにいろいろな景色を見せてあげよう、と密かに思った。しかしそんなことを言える立場ではないし、もうこんな自由はできないだろうということはわかっていたが。
「ユニ! 見てください、この花は……」
イオンに呼ばれ、視線を空から彼の方へ移した。嬉しそうな顔をするイオンと、大きく鮮やかな花と、そしてその向こうに――魔物がいた。
「イオン様!」
ユニは急いで走り出し、彼の前へ立ち塞がった。イオンも魔物に気付き、ユニに身を寄せる。すると、茂みから次々と、狼のような魔物が現れて、周りを取り囲んだ。
「……囲まれてしまいました」
一匹ずつ攻撃していたら、イオンを守れない。しかし辺り一面を吹き飛ばせるほどの上級譜術を発動する時間を稼ぐことは困難だ。どうすればいいのだろう。ぎゅ、とロッドを握り締める音が、さらにユニを焦らせる。
「……ユニ、僕がやります」
「! だ、だめです! イオン様っ」
イオンはすっとユニの肩に手を置いた。そして躊躇なく、体勢を低くする。ユニの制止を彼は聞いていなかった。手のひらに集まった音素が、爆発しそうなくらいに光輝いていた。イオンはそれを地に振り下ろす。
「イオン様!」
「アカシック・トーメント!」
その瞬間、イオンを中心にして大地に光の譜陣が広がった。そして、まばゆい光が収束するころには、二人を囲んでいた魔物はみな倒れ、消滅していった。森に音がなくなると、イオンはゆっくりと立ち上がってユニの方へ視線を向ける。
「ユニ、怪我はありませんか……」
彼はふらつきながら、ユニに笑顔を見せた。そしてそのまま重力に逆らうことなく、ぐらりと地面めがけて倒れ込んだ。
「あ、イ、イオン様!」
慌ててその身体を抱きとめるが、恐怖で震える足はバランスを崩し、一緒にへたりと座り込んでしまった。
「おい、お前! 大丈夫か!?」
「!」
その時突然、バタバタと駆け寄る足音と大声が聞こえて、ユニはびくりとしてイオンを抱きしめた。見ると、赤毛の少年と茶髪の女性がこちらへ向かってきていた。敵なのか、味方なのか。混乱してよくわからない。
「あ、あなたたちは……」
「……ユニ……? ユニなの!?」
「え……? ど、どうして……」
名前を呼ばれ、イオンを抱く手に力を込めながら恐る恐る彼らの顔を覗き込んだ。茶髪の女性のひどく驚いた顔が、ユニの記憶を揺さぶった。ダアト、教会、美しい旋律――
「え、うそ、ティア……!?」
「そうよ! やっぱりユニなのね!」
記憶の底に沈んでいた名前が、砂埃をあげながら再び浮上して、ユニの口をついて出た。ユニとティアの間だけで共有された景色が見えない赤毛の少年は「へ? お前ら知り合いなのか?」とぽかんとしながら言った。
「えぇ、昔の友達よ。でもユニ、どうしてイオン様とこんなところに……?」
「……うぅ」
「イオン様!」
ティアが釈然としない面持ちでユニに訊いてきたとき、イオンが呻き声をあげて目を開けた。「ユニ……僕なら大丈夫です。少しダアト式譜術を使いすぎただけで……」と言いながら、自力で身体を起こした。
「こちらの方々は……? 確か昨日エンゲーブにいらした……」
「ルークだ」
「……ルーク。古代イスパニア語で『聖なる焔の光』という意味ですね。いい名前です」
こんな時に何を呑気な、とユニは思ったが、ふわりと微笑んだイオンに、赤毛の少年はややたじろぎ、刺々した雰囲気が和らいでいた。
「私は神託の盾騎士団モース大詠師旗下情報部第一小隊所属、ティア・グランツ響長であります」
ティアがかしこまった様子で言うと、イオンは目を見開く。
「あなたがヴァンの妹ですか。噂は聞いています。お会いするのは初めてですね」
「はぁ!? お前が、師匠(せんせい)の妹!?」
突然ルークが大きな声を出して、驚いた鳥が何羽か飛び立っていった。ユニはなんとなく嫌な予感がしたので、キーンとする耳を押さえて、次の騒音に備えた。
「しかも神託の盾の人間だったのか!? じゃあ、殺すとか殺さないとかって、あれは何だったんだよ!?」
「殺す……?」
「あ、いえ、こちらの話です……」
穏やかではない話にユニとイオンは首を傾げたが、ティアは手をあげて遮った。その時、ティアの背後を、ひょこひょこと動く小さな動物が通り過ぎる。
「あれは……チーグルです!」
「なに!?」
イオンが慌ててその方を指すと、ルークはくるりと向きを変え、走り出した。「おい! はやく来いよ! 見失っちまう!」と叫んで、また追いかける。ティアは大きく溜息をついて、彼を追った。とりあえず、ユニたちもそれに続く。
「今は、ヴァンとのこと、追及しない方がいいですか?」
イオンはティアに並んで、静かに訊ねる。 ユニもその横で彼女の顔色を伺った。
「すみません。私の故郷に関わることです。できることなら彼やイオン様を巻き込みたくはありませんので……」
そう言われるとかえって気になるものだが、それよりも、なぜかユニはルークに対して妙な違和感を覚えてしまっていた。
彼のことを知っているような、懐かしいような、誰かに似ているような気がしていたのだ。
時々見る夢がある。それはいつも、グランコクマで庭の草木に水遣りをしている夢だった。
あの頃は、確かに退屈ではあったけれど、平和だった。あの頃は、こんな危険と隣り合わせの旅をすることになるなんて、想像もしなかった。
――どっちがよかった?
はっとして飛び起きる。背中を冷たい何かがぬるりと這っていったような嫌な感触が残っていた。
嫌な夢を見た後は決まって、もう瞼を閉じるのが嫌になる。寝がえりを打つと、ひんやりとした布団に触れた。エンゲーブの朝は、少し肌寒い。窓の外に目を向けると、うっすらと明るくなっていた。ちょうど夜が明けた頃だろうか。
(こんな早くに目が醒めちゃった……どうしよう、散歩でもしようかな、でも神託の盾が来てたらやばいし……ま、まぁまだ追いついて来ないはずだけど……)
ごろごろしながらそんなことを考えていると、宿の入口の方から小さな物音が聞こえた。加えて、誰かが外へ出ていく足音。
(……?)
ジェイドだろうか、と思ってユニは静かに起き上がると、念のためロッドを掴んで部屋のドアを開けた。無意識に音を立てずに外へ出ると、村の入口であたりをきょろきょろと見回している少年――イオンがいた。
「イ、イオン様!?」
「わ、あ、ユニ! し、静かに……!」
驚きからそのまま放り出された声は朝早い静かな村に木霊した。イオンはびくりと大きく肩を震わせて、「しーっ」と人差し指を立ててユニに歩み寄る。
「あの、お散歩ですか? だったらわたしかアニスのどちらかを護衛に……」
「す、すみません、散歩というか……」
昼間のこともあり、ユニが窘めるように言うと、イオンは少しばつの悪そうな表情をするのだった。
「実は……チーグルの森へ向かおうとしていたんです」
いたずらを白状する子供のように、少しだけ興奮した様子で、イオンは言った。
「え!? チ、チーグルの森って……!」
確かに、村のすぐ北に「チーグルの森」があると聞いていた。しかし、村の外なら、魔物も出る。そこが安全であるという保証はない。
「イ、イオン様、それはかなり危険だと思いますが……」
「ユニ。聖獣と言われるチーグルが人に害をなすなんて、何か事情があるはずなんです」
言い聞かすように話し始めたユニを遮り、イオンは先ほどとは違って意志の固い表情を見せた。食糧泥棒の件はあくまでこの村の問題であって、こちらにもこちらの任務がある以上、言ってしまえばイオンには関係のないことなのに。ユニは無意識に少し後ずさりした。なんだか、気圧されてしまう。
「チーグルは魔物の中でも賢くて大人しい。人間の食べ物を盗むなんて、おかしいんです。チーグルに縁がある者としては、見過ごせません」
「……イオン様」
「お願いします、ユニ。僕をチーグルの森まで連れて行ってください! 彼らの話を聞きたいんです!」
「……」
これには困ってしまった。おとなしいチーグルだって、現に村から食糧を盗み出している。次は人に怪我をさせるかもしれない。そして護衛が、軍人のジェイドやアニスならともかく、ユニひとりなんて。今、わざわざそんな危険に飛び込む必要があるのだろうか。
ジェイドに相談したら、チーグルの森で調査などしている時間はないと却下されてしまうだろう。アニスはどうだろうか、イオンの頼みなら、聞くだろうか。
決めかねていると、イオンの真剣かつ母性をくすぐるような眼差しに気付いてしまった。きらきらと輝く、少しだけ潤んだ瞳。まっすぐにみつめてくる、何かを訴えかける視線。ユニだけを強く頼ってくれている。まるで雨の中に捨てられてずぶ濡れになった子犬だ。これを見捨てるのは至難の業であった。
(ああ……負けましたよ、イオン様)
ユニは顔を傾けて彼に笑いかけた。すると、イオンの顔にぱあっと明るい笑みが浮かんだ。それが答えだった。大丈夫。この辺りの魔物は比較的おとなしいと聞いた。それにまだ、神託の盾も来ないはず。すぐに戻ってくれば、なんとか許してくれるだろう。「子どもは明るいうちに遊んでおきなさい」というジェイドの言葉が脳裏を過った。いや、これは遊びではないけれど。
「そういえば、イオン様はマルクト出身なんですよね?」
「えっ」
村を出て歩き始めると、日も昇ってきた。まだ空気はひんやりとして冷たいが、日差しが暖かい。見通しのよい平野には、魔物の姿は見当たらなかった。村の北、深い緑に染まる大木を目指して、ユニたちは草を踏みしめていた。
「預言で導師になることを詠まれた子が、マルクトの普通のご家庭にお生まれになった、それが当代の導師……って本で読みました。……イオン様?」
「あ、はい。そうです。ユニはどちらの出身でしたか?」
「あ、昔イオン様に言ったかもしれませんが、私はグランコクマです」
「……す、すみません、そうでしたね」
ユニは二年前のことをはっきりと思い出しながら話していたが、イオンは少しだけ言葉を濁らせる。もしかしてよく覚えていないのだろうか。確かに、そこまで親しくしていたわけでもないけど。
「導師イオンにこう言うのもなんですが、わたしはイオン様と縁があるなあと勝手に思ってるんです。同じマルクト出身で、二年ぶりにこうして再会もできて……あ、あと!」
ひらめいたのでついつい大きな声を出した。するとイオンはそれに対して不自然なくらいにびくりと肩を跳ねさせる。それを見てユニは人差し指を立てたまま一瞬固まって、でも、何事もなかったかのように続けた。
「……イオン様も、実はこういうところへ来るのが初めて、だったりします?」
「……!」
エンゲーブを歩き回っていたときに、気が付いたことがあった。グランコクマやダアトに比べれば、発展の遅れている建造物、市場の商品や人々の流れ、目が行くところが、ユニとイオンは同じだった。
「わたしが初めてダアトに行った時にも思ったんですけど、新しい街って不思議ですよね。自分の見たことのあるものがすべてだと思っていたのに、ここはこんなにも違う」
「……ええ、そうですね」
なぜか俯き気味なイオンに、妙な違和感を覚えた。どうにも反応が鈍い。
わたしが話しているのは、イオン様、ですよね――?
「……」
「あ! あそこが森の入り口っぽいですね! あともう少しですよー」
「! はい、行きましょう。ユニ」
いや、これは根拠のない違和感だ。今は、彼に、自分に、気が付かないふりをしよう。
いよいよ緑が濃くなってきて、ここから先がチーグルの森であるとわかった。いくつもの大木が根を地面に這わせ、生い茂る葉で光の届かない場所には苔が生えていた。ほとんど人の手が加えられた様子がない。
「わーおっきい森ですね。涼しくて気持ちいい」
「はい。緑がとてもきれいですね」
ユニとイオンはすっかり緊張が緩み、辺りをきょろきょろと見まわしていた。珍しい植物もたくさんある。そういったものに興味津々のイオンを見て、ユニは彼を連れて来てよかったと思うのだった。
(小さい頃からずっと、ローレライ教団に閉じ込められていたんですよね。だから、これくらい、いいよね)
これからは自分が、イオンにいろいろな景色を見せてあげよう、と密かに思った。しかしそんなことを言える立場ではないし、もうこんな自由はできないだろうということはわかっていたが。
「ユニ! 見てください、この花は……」
イオンに呼ばれ、視線を空から彼の方へ移した。嬉しそうな顔をするイオンと、大きく鮮やかな花と、そしてその向こうに――魔物がいた。
「イオン様!」
ユニは急いで走り出し、彼の前へ立ち塞がった。イオンも魔物に気付き、ユニに身を寄せる。すると、茂みから次々と、狼のような魔物が現れて、周りを取り囲んだ。
「……囲まれてしまいました」
一匹ずつ攻撃していたら、イオンを守れない。しかし辺り一面を吹き飛ばせるほどの上級譜術を発動する時間を稼ぐことは困難だ。どうすればいいのだろう。ぎゅ、とロッドを握り締める音が、さらにユニを焦らせる。
「……ユニ、僕がやります」
「! だ、だめです! イオン様っ」
イオンはすっとユニの肩に手を置いた。そして躊躇なく、体勢を低くする。ユニの制止を彼は聞いていなかった。手のひらに集まった音素が、爆発しそうなくらいに光輝いていた。イオンはそれを地に振り下ろす。
「イオン様!」
「アカシック・トーメント!」
その瞬間、イオンを中心にして大地に光の譜陣が広がった。そして、まばゆい光が収束するころには、二人を囲んでいた魔物はみな倒れ、消滅していった。森に音がなくなると、イオンはゆっくりと立ち上がってユニの方へ視線を向ける。
「ユニ、怪我はありませんか……」
彼はふらつきながら、ユニに笑顔を見せた。そしてそのまま重力に逆らうことなく、ぐらりと地面めがけて倒れ込んだ。
「あ、イ、イオン様!」
慌ててその身体を抱きとめるが、恐怖で震える足はバランスを崩し、一緒にへたりと座り込んでしまった。
「おい、お前! 大丈夫か!?」
「!」
その時突然、バタバタと駆け寄る足音と大声が聞こえて、ユニはびくりとしてイオンを抱きしめた。見ると、赤毛の少年と茶髪の女性がこちらへ向かってきていた。敵なのか、味方なのか。混乱してよくわからない。
「あ、あなたたちは……」
「……ユニ……? ユニなの!?」
「え……? ど、どうして……」
名前を呼ばれ、イオンを抱く手に力を込めながら恐る恐る彼らの顔を覗き込んだ。茶髪の女性のひどく驚いた顔が、ユニの記憶を揺さぶった。ダアト、教会、美しい旋律――
「え、うそ、ティア……!?」
「そうよ! やっぱりユニなのね!」
記憶の底に沈んでいた名前が、砂埃をあげながら再び浮上して、ユニの口をついて出た。ユニとティアの間だけで共有された景色が見えない赤毛の少年は「へ? お前ら知り合いなのか?」とぽかんとしながら言った。
「えぇ、昔の友達よ。でもユニ、どうしてイオン様とこんなところに……?」
「……うぅ」
「イオン様!」
ティアが釈然としない面持ちでユニに訊いてきたとき、イオンが呻き声をあげて目を開けた。「ユニ……僕なら大丈夫です。少しダアト式譜術を使いすぎただけで……」と言いながら、自力で身体を起こした。
「こちらの方々は……? 確か昨日エンゲーブにいらした……」
「ルークだ」
「……ルーク。古代イスパニア語で『聖なる焔の光』という意味ですね。いい名前です」
こんな時に何を呑気な、とユニは思ったが、ふわりと微笑んだイオンに、赤毛の少年はややたじろぎ、刺々した雰囲気が和らいでいた。
「私は神託の盾騎士団モース大詠師旗下情報部第一小隊所属、ティア・グランツ響長であります」
ティアがかしこまった様子で言うと、イオンは目を見開く。
「あなたがヴァンの妹ですか。噂は聞いています。お会いするのは初めてですね」
「はぁ!? お前が、師匠(せんせい)の妹!?」
突然ルークが大きな声を出して、驚いた鳥が何羽か飛び立っていった。ユニはなんとなく嫌な予感がしたので、キーンとする耳を押さえて、次の騒音に備えた。
「しかも神託の盾の人間だったのか!? じゃあ、殺すとか殺さないとかって、あれは何だったんだよ!?」
「殺す……?」
「あ、いえ、こちらの話です……」
穏やかではない話にユニとイオンは首を傾げたが、ティアは手をあげて遮った。その時、ティアの背後を、ひょこひょこと動く小さな動物が通り過ぎる。
「あれは……チーグルです!」
「なに!?」
イオンが慌ててその方を指すと、ルークはくるりと向きを変え、走り出した。「おい! はやく来いよ! 見失っちまう!」と叫んで、また追いかける。ティアは大きく溜息をついて、彼を追った。とりあえず、ユニたちもそれに続く。
「今は、ヴァンとのこと、追及しない方がいいですか?」
イオンはティアに並んで、静かに訊ねる。 ユニもその横で彼女の顔色を伺った。
「すみません。私の故郷に関わることです。できることなら彼やイオン様を巻き込みたくはありませんので……」
そう言われるとかえって気になるものだが、それよりも、なぜかユニはルークに対して妙な違和感を覚えてしまっていた。
彼のことを知っているような、懐かしいような、誰かに似ているような気がしていたのだ。