第1章(過去編)
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01 春の花のあした
眩しさを避けるように、薄く目を開ける。狭い視界に色とりどりの花が滲み、陽光を受けて宝石のように輝いた。愛しい愛しい私の景色は、春になったばかりの午後。冬の残り香みたいな寒さがひんやりと肌を包み、風がそっと吹き抜ける。
水の流れる音が、永遠のように響いた。
ああ、ここにはこんなにたくさんのことがあるのに。不完全に気付いたときから大切なものは見えなくなって、何かを求めて、世界は走り出す。
「……寝ちゃった」
瞼をごしごしと擦って、ユニは身体を起こした。背が低く太い木の根元で、伸びをして立ち上がる。実年齢より若く見られがちな十六歳の少女の淡い茶色の髪から、枕にしていた草がきらきらと零れ落ちた。
水の都グランコクマ。
この空き地は、誰かが整備しているわけでもないのに、一年中花が咲いていた。住宅街を歩いていると唐突に出現するこの手付かずの花畑は、まるで別の場所から切り取られてきたかのような不思議な空気を漂わせている。
住み込みで働いている宮殿からそう遠くないこの場所が、ユニのお気に入りだった。昼休みは天気が良ければだいたいここへやってくる。特別変わったことがなくとも、美しい花で満たされた狭い世界だけで充分だった。
「ふわ~、何時になったかなぁ。そろそろ行かないと」
欠伸を一つして、ユニは花畑を後にした。
「ユニちゃん!」
「ひぇ! マールさん……」
とくに急ぐ様子もなく宮殿に戻ってきたユニを見るなり、大声をあげる。運悪く、遅れて戻ってきたところを上司にみつかってしまった。びくつくユニを視界に入れながらも、周りにいたメイドや兵士たちは、毎度のことだと気にも留めない。
「何度言ったら遅刻しないで帰って来られるの!?」
「すみません! 日差しが気持ちよくてついうとうと……」
「つい、ですって!?」
「はい、だって、こんなにいい天気で……」
「……それはそれは。じゃあのんびりした分、きっちり反省してもらわないといけないわね」
「え……あの、ま、まさか……」
低く響く彼女の声に、ユニの表情は次第に曇っていく。
「ユニちゃん、あなたは当分の間外出禁止です」
「ま、またですか~……」
ユニはぐったりと肩を落とした。実は先月も外出禁止令を出されたばかり。あれは結構な拷問だった。どれだけ気持ちの良い日でも、街に出かけられないのだから。
「若いからって甘えるんじゃありません。あなたがきちんと規律を守れば、私は何も言わないのよ」
「……」
「あら、嫌ならこの仕事やめてもいいけど?」
「い、いえ! 今日からちゃんとします!」
この仕事、というのは宮廷庭師のことだ。ユニあわてて元気よく返事をしてみせた。
「はぁ、マールさんも人が悪いよ」
ユニは担当する南側の庭に出て、空を仰いだ。やめてもいい、だなんて。やめられるはずがないことを、彼女も知っているのに。
溜め息をついて今度は地面をみつめる。草の間に見える地面はいつもより乾燥しているようだった。このところ天気がよく、雨は降っていなかった。ユニは一人頷くと、先端に飾り物の黄色いバラがついた細いロッドをくるくるとまわし始めた。足元に淡く光る譜陣があらわれ、ユニのまわりに空気中の第四音素(フォースフォニム)が収束する。
「第四音素よ、水気となりてこの地を潤せ」
慈しむような声で呟くと、音素が水となって具現化し、噴水のように溢れ庭を包み込んだ。
ユニは特別な訓練を受けたわけではないが、グランコクマには大量の第四音素があるので、このような簡単な譜術なら難なく発動できた。とはいえ他の庭師たちは、通常それなりの訓練を積むようだ。
ユニは、このささやかな才能は両親から受け継いだものだと信じている。
「うわ!」
「!?」
目を閉じて草木が潤っていくのを感じていたユニは、小さな叫び声によって現実に引き戻された。
その声は、茂みの向こうから聞こえてきた。この時間、この庭には普段ユニしかいないはずだったから、不審に思って声は出さなかった。侵入者かもしれない。とりあえずロッドを構えてじりじりと近寄るが、自分の心臓が嫌な音を立てていることに気付くと、急に不安になった。その辺にいる兵士を呼んだ方がいいだろうか。でも、その間に逃げられてしまうかもしれない。
こうなったら、自信はないけど、自力で捕まえるしかない。大丈夫、たぶんなんとかなる。この庭に侵入した不届きな輩を捕まえてピオニー皇帝陛下の御前に突き出すだけでいい。それが出来たら、きっと報奨金を頂けるはず。そのお金で旅行に行けるかもしれない。行ったことのないマルクトの街、敵国だけどキムラスカにも興味はあるし、ダアトにも行きたいし……。そういえば、宮殿勤めの忙しさやらなんやらで、物心ついた頃からグランコクマを出たことがなかった。
ならば絶対、捕まえて手柄を立てる。いつの間にか奮い立ち、不安は消えていた。
「覚悟なさい! わたしの庭をおびやかす者!」
「え!?」
「え……?」
大声で茂みの中へ飛び込んだユニの前にいたのは、悪党には見えない風貌の金髪の青年だった。見ると、腰に剣を差しているものの、抜刀もせず、慌てて手を挙げて無抵抗をアピールしていた。
ユニはロッドを握りしめたまま硬直する。
(誰……このひと……)
大好きな花畑でうたた寝をして、仕事に遅刻して、外出禁止を言い渡され、文句を言いながら庭へ向かう。
それだけでよかった。こうして彼と向かい合うまでは。でも出会ってしまったから、もう戻れなくなった。
完全だった日常が、この日から少しずつ変容して、気付かないうちに、世界は曖昧にずれ始めていく。
眩しさを避けるように、薄く目を開ける。狭い視界に色とりどりの花が滲み、陽光を受けて宝石のように輝いた。愛しい愛しい私の景色は、春になったばかりの午後。冬の残り香みたいな寒さがひんやりと肌を包み、風がそっと吹き抜ける。
水の流れる音が、永遠のように響いた。
ああ、ここにはこんなにたくさんのことがあるのに。不完全に気付いたときから大切なものは見えなくなって、何かを求めて、世界は走り出す。
「……寝ちゃった」
瞼をごしごしと擦って、ユニは身体を起こした。背が低く太い木の根元で、伸びをして立ち上がる。実年齢より若く見られがちな十六歳の少女の淡い茶色の髪から、枕にしていた草がきらきらと零れ落ちた。
水の都グランコクマ。
この空き地は、誰かが整備しているわけでもないのに、一年中花が咲いていた。住宅街を歩いていると唐突に出現するこの手付かずの花畑は、まるで別の場所から切り取られてきたかのような不思議な空気を漂わせている。
住み込みで働いている宮殿からそう遠くないこの場所が、ユニのお気に入りだった。昼休みは天気が良ければだいたいここへやってくる。特別変わったことがなくとも、美しい花で満たされた狭い世界だけで充分だった。
「ふわ~、何時になったかなぁ。そろそろ行かないと」
欠伸を一つして、ユニは花畑を後にした。
「ユニちゃん!」
「ひぇ! マールさん……」
とくに急ぐ様子もなく宮殿に戻ってきたユニを見るなり、大声をあげる。運悪く、遅れて戻ってきたところを上司にみつかってしまった。びくつくユニを視界に入れながらも、周りにいたメイドや兵士たちは、毎度のことだと気にも留めない。
「何度言ったら遅刻しないで帰って来られるの!?」
「すみません! 日差しが気持ちよくてついうとうと……」
「つい、ですって!?」
「はい、だって、こんなにいい天気で……」
「……それはそれは。じゃあのんびりした分、きっちり反省してもらわないといけないわね」
「え……あの、ま、まさか……」
低く響く彼女の声に、ユニの表情は次第に曇っていく。
「ユニちゃん、あなたは当分の間外出禁止です」
「ま、またですか~……」
ユニはぐったりと肩を落とした。実は先月も外出禁止令を出されたばかり。あれは結構な拷問だった。どれだけ気持ちの良い日でも、街に出かけられないのだから。
「若いからって甘えるんじゃありません。あなたがきちんと規律を守れば、私は何も言わないのよ」
「……」
「あら、嫌ならこの仕事やめてもいいけど?」
「い、いえ! 今日からちゃんとします!」
この仕事、というのは宮廷庭師のことだ。ユニあわてて元気よく返事をしてみせた。
「はぁ、マールさんも人が悪いよ」
ユニは担当する南側の庭に出て、空を仰いだ。やめてもいい、だなんて。やめられるはずがないことを、彼女も知っているのに。
溜め息をついて今度は地面をみつめる。草の間に見える地面はいつもより乾燥しているようだった。このところ天気がよく、雨は降っていなかった。ユニは一人頷くと、先端に飾り物の黄色いバラがついた細いロッドをくるくるとまわし始めた。足元に淡く光る譜陣があらわれ、ユニのまわりに空気中の第四音素(フォースフォニム)が収束する。
「第四音素よ、水気となりてこの地を潤せ」
慈しむような声で呟くと、音素が水となって具現化し、噴水のように溢れ庭を包み込んだ。
ユニは特別な訓練を受けたわけではないが、グランコクマには大量の第四音素があるので、このような簡単な譜術なら難なく発動できた。とはいえ他の庭師たちは、通常それなりの訓練を積むようだ。
ユニは、このささやかな才能は両親から受け継いだものだと信じている。
「うわ!」
「!?」
目を閉じて草木が潤っていくのを感じていたユニは、小さな叫び声によって現実に引き戻された。
その声は、茂みの向こうから聞こえてきた。この時間、この庭には普段ユニしかいないはずだったから、不審に思って声は出さなかった。侵入者かもしれない。とりあえずロッドを構えてじりじりと近寄るが、自分の心臓が嫌な音を立てていることに気付くと、急に不安になった。その辺にいる兵士を呼んだ方がいいだろうか。でも、その間に逃げられてしまうかもしれない。
こうなったら、自信はないけど、自力で捕まえるしかない。大丈夫、たぶんなんとかなる。この庭に侵入した不届きな輩を捕まえてピオニー皇帝陛下の御前に突き出すだけでいい。それが出来たら、きっと報奨金を頂けるはず。そのお金で旅行に行けるかもしれない。行ったことのないマルクトの街、敵国だけどキムラスカにも興味はあるし、ダアトにも行きたいし……。そういえば、宮殿勤めの忙しさやらなんやらで、物心ついた頃からグランコクマを出たことがなかった。
ならば絶対、捕まえて手柄を立てる。いつの間にか奮い立ち、不安は消えていた。
「覚悟なさい! わたしの庭をおびやかす者!」
「え!?」
「え……?」
大声で茂みの中へ飛び込んだユニの前にいたのは、悪党には見えない風貌の金髪の青年だった。見ると、腰に剣を差しているものの、抜刀もせず、慌てて手を挙げて無抵抗をアピールしていた。
ユニはロッドを握りしめたまま硬直する。
(誰……このひと……)
大好きな花畑でうたた寝をして、仕事に遅刻して、外出禁止を言い渡され、文句を言いながら庭へ向かう。
それだけでよかった。こうして彼と向かい合うまでは。でも出会ってしまったから、もう戻れなくなった。
完全だった日常が、この日から少しずつ変容して、気付かないうちに、世界は曖昧にずれ始めていく。