第1章(過去編)
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24 100% perfect girl
「あいつ、もうダアトには行かなくていい、だとさ」
ユニが戻ってきた数日後に、彼女がピオニーにそう言ったのだという。毎月彼女のために旅券を用意していたピオニーは不満そうな顔で、ジェイドに文句を吐いた。
「なんなんだ。ダアトで何かあったのか? 何か聞いてるか?」
「いえ、とくには」
仮説はいくつか立てたが、いずれも推測の域を出ない。先日のユニの失踪の理由と、ダアトで何が起きたのかといったことについては、彼女にはもう何も聞かないと決め込んだものであったし。
「まぁ、別にユニが話したくない理由があるならそれでいいけどな。……だが」
急に声のトーンを落としたかと思うと、ピオニーは眉を吊りあがらせて、机をどんと叩いた。ジェイドは皇帝のそんな行動を窘めるでもなく、ただ眺めていた。
「オレはあのネガティブさがどうにも気に食わん!」
「そうですか? 昔と比べればユニはそれなりに明るくなったように見えますが」
「いや、聞け、ジェイド」
ピオニーはわなわなと拳を震わせる。
「わたしって、幸せになれない体質なんですかね。やっと欲しいものを手に入れたと思ったのに、全部、わたしから逃げていくんですよ。はーあ、こんなことの繰り返しが人生なら、もう何もいらないですよー、だ」
「何がです?」
「……ユニの、最近の口癖だよ」
怒りはおさまったものの、今度は悲しくなってきたのか、ピオニーは俯きながら言った。ジェイドから見た最近の彼女は、無理にだとしても明るく振舞っているようだったが、どうやらピオニーの前ではうじうじと愚痴を言っていたらしい。
「ダアトで何かあったのがそんなにショックだったんでしょうかねぇ」
「だからなんなんだ……それがわからなきゃどうにもしてやれないぞ。それこそ、なにが楽しくてダアトへ行っていたのかもよくわからないしな」
「それにしても難しい子ですねぇ、あの子は」
「あー、育った環境が悪かったんだろうよ」
「陛下、ユニはここで育ったんじゃありませんか」
自分の国を「環境が悪い」というのはかなりの失言だが、ピオニーはそれを気にもとめずに「そうだったな」と溜息とともに吐き出す。
「保護者としてなんとかしてください。私ではああいうのは相手に出来ませんから」
「まったく調子がいいな、お前も」
呆れて笑いながら、ピオニーは腕を組んで天井を見つめた。誰にも会いたくなかったユニを迎えに行ったのは、気さくで自信に溢れるピオニーではなくて、冷めた態度で適切な距離をとるジェイドの方だった。
今度はピオニーが、その明るさで彼女を引っ張り上げる番だ。
「お、そうだ」
「何かひらめきましたか?」
「ああ。……よし。明日まで、この部屋にオレ以外の者の立ち入りを一切禁ずる! ユニにも言っとけ!」
そう言って部屋を閉め切った皇帝に一抹の不安を抱きながらも、ジェイドは素直に自室へと戻ったのである。
「ジェイドだったんですねー。このセレニアの花、持って行ってくれたの」
鍵を開けっ放しにしている自分の執務室の中には、勝手に入り込んだのであろうユニがいた。ジェイドが扉を開けると、こちらの姿を確認もせずに、彼女はぼそりと呟いたのだった。机の上で紫色の弱い光を浴びている花を、伏せるようにして眺めている。
「……ええ。あなたが家出している間に枯れては困るので、勝手ながら保護させていただきました」
「いえ、ありがとうございます。枯れていないか……心配してたんですよ」
まるでセレニアの花に話しかけるようにしてユニは会話を進める。その声色には、どことなく影があった。
「ってことは、わたしの部屋の扉壊したのもジェイドですね?」
「おや、ばれましたか」
「あはは」
おどけた声で答えると、彼女はようやくこちらを見た。その顔には笑顔が浮かんでいたけれど、少し寂しそうなものだった。ゆっくりと歩を進め傍にいき、ジェイドも彼女の頭の上からセレニアの花を見つめた。
「知り合いに頼んで、月光の成分に似せた光を出すライトを作っていただきました」
「へぇ、すごいですね」
「しかし、だいぶ長い間咲いていたようですから、あと数日が限界でしょうね」
「そうですか……」
花をみつめながら、視線を合わせずに話をする不思議な空気はまだ続いていた。お互いに、核心をつく話題を避けているようだった。他の大人の考えていることはいくらでもわかるのに、彼らよりもずっと傍にいて、彼らよりもずっと若い少女ひとりの気持ちも理解してやれないことが、我ながら結構情けない。
「その間に、植物学者の方がいくらかデータを取りたいと言っていましたが……ユニ?」
「あ……な、なんでもないです」
遠い目をして、花からも自分からも完全に意識が離れていたユニの肩に触れると、彼女はびくんとしてこちらを振り返った。相変わらずその瞳には悲しみの色が浮かんでいた。ピオニーには愚痴を言うのに自分には言わないのは、弱いところを隠したいのか、言っても共感や期待した答えは得られないと思っているのか。
本心を打ち明けない大人に対しては、何も話すことはないのだろうと、自分でもそう思うけれど。
「……」
「ユニ、あまり陛下に迷惑をかけないでくださいね」
「え……」
「あなたのことを、心配していましたよ」
「……ジェイドは……」
ユニは体を捻って、こちらに向き直った。ジェイドの長い髪がユニの肩に触れそうだった。月明かりに似せたライトだけが光源となっているこの部屋は薄暗く、こんなに近くにいるのに、俯き気味のユニの顔はよく見えなかった。するりと衣を擦れさせながら伸びたユニの手はジェイドの軍服を掴んで、力なく引き寄せた。
「ジェイドは別にいいですからね。心配なんかしないでください。わたしっていっつもこうで。心配も、期待も、甘やかすのも、別に、いらないですから……」
「……はい。では私はあなたの望むままにしましょう」
それが彼女の小さな拠り所になるのならば、今はいくらでも。
◇
「……なにこれ」
いつも通りの時間にピオニーの部屋へ行くと、その大きな扉に張り紙がしてあり、彼の、意外にも綺麗な字で『本日立ち入り禁止(とくにユニ)』と書かれていた。
「ユニさん、ユニさんじゃないですか」
「ん? あ、アスランさん」
わけがわからなくて扉の前で立ち往生していると、よく知る声に呼ばれた。アスランだった。彼はユニをみつけると、なんだか嬉しそうな顔で笑った。ユニはもう一度張り紙を見て、首を傾げた。
「アスランさん、なんですか? これ」
「あ、見ましたか? 書いてあるとおり、ユニさんは立ち入り禁止ですので。失礼します」
「え? あれ、ちょ、ちょっとー!」
立ち入り禁止なはずなのに、アスランは何事もないように扉を開けると部屋の中へ入ってしまった。ユニはそれに続いて入ることも出来ずに、やはり扉の前で呆然と立ち尽くしているだけなのであった。
「……では、失礼いたしました」
「あ、アスランさん!」
「おや、ユニさん、ここは立ち入り禁止で……」
「じゃあなんでアスランさんは入れるんですか! ここはわたしの仕事場です!」
しばらくするとアスランが扉から出てきた。ユニはすぐに彼を捕まえ、その行く手に立ち塞がった。納得がいかないし、なんだか嫉妬していた。この扉の向こうはユニの仕事場で、ユニの一番尊敬する人が待つ場所なのに。
けれど思い当たる節がないわけではない。その人に、このところ愚痴ばかり吐いているのが原因で「ユニに会いたくない」と思われているのかもしれない。しかし彼なら許してくれる、聞いてくれると思ったから、ユニは彼にだけは弱い弱い本音を零していた。全部受け止めてくれて、その光でユニの影を掻き消して、何も言わずに聞いて励ましてくれるのはピオニーだけだと思うから、暗いことをぶつけ続けていた。
「お、落ち着いてください、ユニさん。私は特別に立ち入りを許されていて……」
「そ、そうですか……」
本当のことを言えば、弱音を吐くのは、単純にピオニーに心配して欲しかっただけなのかもしれない。
けれどそれが原因で拒絶されるならば、きちんと謝ろう。ジェイドの言うとおり、彼に迷惑をかけるのと、心配してもらうのと、どちらも自分勝手すぎた。
ピオニーに会わない日は、ダアトに行っている日か家出していたときくらいしかなかった。何の理由もなく彼の顔を見ない日が来るなんて。少しだけ寂しい気持ちになりながら、ユニはジェイドに吹き飛ばされた後で間に合わせの扉が付けられた自室へ戻った。
一日中人がいなかった部屋はひんやりとしていて、腰かけたベッドは冷たかった。ジェイドがライトごと戻してくれたセレニアの花が、静かに窓際で咲いていた。
こんなに綺麗なのに、すぐに枯れてしまうなんて。否、すぐに枯れてしまうから綺麗なのかもしれない。
すぐになくなってしまうから、美しくて、嬉しくて、楽しくて、幸せ?
それならば、求め続けなければ、幸せは常に枯渇してしまう。しかしそんな生き方はきっと疲れてしまうだろう。なら、どうすればいい? どんなふうに生きていけばいいんだろう。
もやもやした気持ちで一晩を過ごし、眠った気がしないまま朝がきてしまった。
重たい胃、あげられない顔。足を引きずるようにしてユニはピオニーの私室へ向かった。
前日に彼の部屋の扉に貼ってあった『立ち入り禁止』の張り紙は、今はきれいに取り払われていた。ということは、いつものように普通に入っていいのだろうけど。
「……でも、入りにくい……陛下にあわせる顔がないよ」
ピオニーが近頃の自分に対して怒っていたり、呆れていたりすることについてはなんとなく自覚があった。けれど、彼に会うとついうじうじしてしまう。明るくて前向きなピオニーと一緒にいると、余計に気付かされるからだ。自分に自信がないことも、ダアトに行くことを諦め切れていないことも、また自分の世界に不満を持ってしまったことも、そのせいで周りに迷惑をかけ続けていることも。
(悪いのは全部わたし。こんなに、幸せな筈なのに……)
扉に両手を押しあて、その間に顔を伏せた。下を向くと目に涙が溜まった。
それでも、とりあえず今出来ることは、いつもみたいに、いや、いつも以上にいい笑顔で、この部屋に入ること。もう、愚痴なんて言わない。弱音なんて。
彼がわたしに与えてくれたこの世界で、生きていたいのだから。
「し、失礼いたします……んっ!?」
「お! 来たなユニ!」
――???
なにが起きた? なにが起きている? 今、この部屋で。あれ、入る部屋間違えたかな。いや、でもそんなはずはない。間違えようがない。毎日通ったこの場所だ。
じゃあ夢でないとしたら、これは現実で、今わたしが生きている世界で、陛下のお部屋で――
「ひいいいっ! なんですかこのブタたちはっ!!」
「ブタじゃない! ブウサギだぞ!」
「ブ、ブウサギ……!?」
ユニは目を見開いて、その光景をみつめた。ピオニーの部屋に、今までいなかったモノが、いる。ブタのようなウサギのような、耳が長く、太くて手足の短い生き物。一匹、二匹、三匹……
「ど、どうしたのですかこれは……だ、だめええぇ、お花かじっちゃ……ああっ、棚を倒さないで……!」
「まぁ来いよ。楽しいぞ」
「や、やめ……!」
混乱し、部屋で好き放題に暴れまわるブウサギを把握しきれないうちに、ピオニーがその中の一匹を抱えてユニのもとにやってきた。
「……ひっ!」
「かわいいだろ?」
「や、やだ、こんな……」
ユニは泣きそうになりながら後ずさった。突然出現した生き物によって部屋が荒らされている。でもピオニーは笑っている。自分の一番よく知る場所が、一晩でこんな意味のわからないことになっていて、泣きたくならない人間がいるだろうか。
ピオニーに抱えられたブウサギは鼻水を垂らしながら、キラキラした目でユニを見つめていた。そんな目で見られても、困るだけなのに。
「へ、陛下……」
耐えられなくなり、ついにぺたりと座りこんだユニを見て、ピオニーの腕からブウサギがぴょんと飛び出した。そして震えるユニの傍へ行き、さらに輝いた目で見つめるのだった。一体なにがどうなっているのやら。得体の知れない生き物が、ユニの知らないうちにこの部屋へやってきて、好き勝手に散らかしている。なんのつもりなのだろう、ユニへの嫌がらせだろうか? これでは、「部屋を汚すピオニー」が増えたようなものだ。
「やだっ……陛下……たすけてくださ……」
「よしよしサフィール、噛みつくなよ」
「サ、サフィール?」
顔をあげれば、屈んだピオニーが同じ目の高さにいた。彼が大きな手でふわふわとブウサギを撫でると、それは嬉しそうに目を細める。
「こいつの名前だよ」
「な、名前? あの、陛下、一体なにがどうなって……この有り様は……」
「何って……まぁ、前より楽しいだろ」
「!」
ピオニーは首をまわして部屋を駆け巡るブウサギたちを見た。こんなに騒がしいのは、久しぶり、というか、ユニが来てからほとんど初めてだった。
「ちなみにあれはジェイドだ。で、あっちはアスラン。それでこっちの毛並みのいいやつが……」
「陛下っ!!」
一匹ずつ指差して名前を説明していたピオニーを遮って、ユニはいきなり立ち上がった。ブウサギの喧騒を掻き消して響いた声に、彼もブウサギたちも一瞬動きを止めた。はからずも、座り込んでいたピオニーを見下ろす形になり、気を抜くと涙が零れてしまいそうだった。
「本当に申し訳ありませんでした……あの、ありがとうございます。わたしが……落ち込んでるから、こんなにかわいいお友達を連れてきて下さったんですね」
「……そうだな」
これは彼なりのユニに対する気遣いで、新しい生活の始まりの合図だった。去年よりも、一か月前よりも、昨日よりも、ずっと楽しくて明るい毎日のための。彼はまた、ユニが新しい世界へ踏み出すための手伝いをしてくれたのだ。
そうだ、何かを失っても、もっと大事なものをみつければいい。だけど捨てるのも、諦めるのも、本当に勇気のいることだから。ユニは過去にしがみついて、過去の幻影を追って、新しい一歩がどうしても踏み出せなかった。
立ち上がったピオニーが、そっと頭を撫でてくる。先程ブウサギにしていたのと同じように、だけどもっと優しく暖かく。彼には、何度も救われてしまった。
「ずっと、愚痴やわがままを言っててすみませんでした……。わたしは陛下やこの子たちがいればもう十分です。すごく幸せなのに、それを全然わかっていなくて……」
泣きそうになってユニの笑顔が歪み始めた、その時だった。
ガシャーン、と物凄い音が轟いた。
ユニは言葉を切って、その音のした方を見た。先程までここにいたブウサギ――サフィールが、テーブルにぶつかってガラスの花瓶を落下させていたところだった。
もちろん、ガラスは砕け散り、粉々になっていた。水浸しになった床の上で、ユニのお気に入りの花を頭にかぶせて、サフィールが目を丸くしてこちらを見ている。その花瓶は、ピオニーが即位した時にどこかの偉い人が贈ったとても高価なものだった。
すーっと、血の気がひく音がした。
「あーあ、サフィールのやつ、派手にやってくれたな」
「……」
「ユニ、悪いが片付けを……」
「や、やろーてめーぶっ殺すー!!」
「お、落ち着け! ユニ!」
ここが世界で一番美しくて、楽しくて、幸せな場所だと、今なら言えるだろう。
昨日は言えなかったけど、今は言えて、明日もそう言えるかは、まだわからない。新しいものは輝いて見えて、とても欲しくなるけれど、手に入れたら抱えきれずに零れ落ちて、また別のものが欲しくなってしまう。
掴んでは失い、咲いては枯れ、作り上げては壊し、その繰り返しは季節みたいに、人の意思に関わらず何度もやってくる。
完全な世界にはまだ出会えなくて、不協和音がこだまするなかをひたすら進んでいるところ。
星の記憶が見下ろし監視するこの世界で、真っ暗な真理を求めて、息をし続けているとしても。
「あいつ、もうダアトには行かなくていい、だとさ」
ユニが戻ってきた数日後に、彼女がピオニーにそう言ったのだという。毎月彼女のために旅券を用意していたピオニーは不満そうな顔で、ジェイドに文句を吐いた。
「なんなんだ。ダアトで何かあったのか? 何か聞いてるか?」
「いえ、とくには」
仮説はいくつか立てたが、いずれも推測の域を出ない。先日のユニの失踪の理由と、ダアトで何が起きたのかといったことについては、彼女にはもう何も聞かないと決め込んだものであったし。
「まぁ、別にユニが話したくない理由があるならそれでいいけどな。……だが」
急に声のトーンを落としたかと思うと、ピオニーは眉を吊りあがらせて、机をどんと叩いた。ジェイドは皇帝のそんな行動を窘めるでもなく、ただ眺めていた。
「オレはあのネガティブさがどうにも気に食わん!」
「そうですか? 昔と比べればユニはそれなりに明るくなったように見えますが」
「いや、聞け、ジェイド」
ピオニーはわなわなと拳を震わせる。
「わたしって、幸せになれない体質なんですかね。やっと欲しいものを手に入れたと思ったのに、全部、わたしから逃げていくんですよ。はーあ、こんなことの繰り返しが人生なら、もう何もいらないですよー、だ」
「何がです?」
「……ユニの、最近の口癖だよ」
怒りはおさまったものの、今度は悲しくなってきたのか、ピオニーは俯きながら言った。ジェイドから見た最近の彼女は、無理にだとしても明るく振舞っているようだったが、どうやらピオニーの前ではうじうじと愚痴を言っていたらしい。
「ダアトで何かあったのがそんなにショックだったんでしょうかねぇ」
「だからなんなんだ……それがわからなきゃどうにもしてやれないぞ。それこそ、なにが楽しくてダアトへ行っていたのかもよくわからないしな」
「それにしても難しい子ですねぇ、あの子は」
「あー、育った環境が悪かったんだろうよ」
「陛下、ユニはここで育ったんじゃありませんか」
自分の国を「環境が悪い」というのはかなりの失言だが、ピオニーはそれを気にもとめずに「そうだったな」と溜息とともに吐き出す。
「保護者としてなんとかしてください。私ではああいうのは相手に出来ませんから」
「まったく調子がいいな、お前も」
呆れて笑いながら、ピオニーは腕を組んで天井を見つめた。誰にも会いたくなかったユニを迎えに行ったのは、気さくで自信に溢れるピオニーではなくて、冷めた態度で適切な距離をとるジェイドの方だった。
今度はピオニーが、その明るさで彼女を引っ張り上げる番だ。
「お、そうだ」
「何かひらめきましたか?」
「ああ。……よし。明日まで、この部屋にオレ以外の者の立ち入りを一切禁ずる! ユニにも言っとけ!」
そう言って部屋を閉め切った皇帝に一抹の不安を抱きながらも、ジェイドは素直に自室へと戻ったのである。
「ジェイドだったんですねー。このセレニアの花、持って行ってくれたの」
鍵を開けっ放しにしている自分の執務室の中には、勝手に入り込んだのであろうユニがいた。ジェイドが扉を開けると、こちらの姿を確認もせずに、彼女はぼそりと呟いたのだった。机の上で紫色の弱い光を浴びている花を、伏せるようにして眺めている。
「……ええ。あなたが家出している間に枯れては困るので、勝手ながら保護させていただきました」
「いえ、ありがとうございます。枯れていないか……心配してたんですよ」
まるでセレニアの花に話しかけるようにしてユニは会話を進める。その声色には、どことなく影があった。
「ってことは、わたしの部屋の扉壊したのもジェイドですね?」
「おや、ばれましたか」
「あはは」
おどけた声で答えると、彼女はようやくこちらを見た。その顔には笑顔が浮かんでいたけれど、少し寂しそうなものだった。ゆっくりと歩を進め傍にいき、ジェイドも彼女の頭の上からセレニアの花を見つめた。
「知り合いに頼んで、月光の成分に似せた光を出すライトを作っていただきました」
「へぇ、すごいですね」
「しかし、だいぶ長い間咲いていたようですから、あと数日が限界でしょうね」
「そうですか……」
花をみつめながら、視線を合わせずに話をする不思議な空気はまだ続いていた。お互いに、核心をつく話題を避けているようだった。他の大人の考えていることはいくらでもわかるのに、彼らよりもずっと傍にいて、彼らよりもずっと若い少女ひとりの気持ちも理解してやれないことが、我ながら結構情けない。
「その間に、植物学者の方がいくらかデータを取りたいと言っていましたが……ユニ?」
「あ……な、なんでもないです」
遠い目をして、花からも自分からも完全に意識が離れていたユニの肩に触れると、彼女はびくんとしてこちらを振り返った。相変わらずその瞳には悲しみの色が浮かんでいた。ピオニーには愚痴を言うのに自分には言わないのは、弱いところを隠したいのか、言っても共感や期待した答えは得られないと思っているのか。
本心を打ち明けない大人に対しては、何も話すことはないのだろうと、自分でもそう思うけれど。
「……」
「ユニ、あまり陛下に迷惑をかけないでくださいね」
「え……」
「あなたのことを、心配していましたよ」
「……ジェイドは……」
ユニは体を捻って、こちらに向き直った。ジェイドの長い髪がユニの肩に触れそうだった。月明かりに似せたライトだけが光源となっているこの部屋は薄暗く、こんなに近くにいるのに、俯き気味のユニの顔はよく見えなかった。するりと衣を擦れさせながら伸びたユニの手はジェイドの軍服を掴んで、力なく引き寄せた。
「ジェイドは別にいいですからね。心配なんかしないでください。わたしっていっつもこうで。心配も、期待も、甘やかすのも、別に、いらないですから……」
「……はい。では私はあなたの望むままにしましょう」
それが彼女の小さな拠り所になるのならば、今はいくらでも。
◇
「……なにこれ」
いつも通りの時間にピオニーの部屋へ行くと、その大きな扉に張り紙がしてあり、彼の、意外にも綺麗な字で『本日立ち入り禁止(とくにユニ)』と書かれていた。
「ユニさん、ユニさんじゃないですか」
「ん? あ、アスランさん」
わけがわからなくて扉の前で立ち往生していると、よく知る声に呼ばれた。アスランだった。彼はユニをみつけると、なんだか嬉しそうな顔で笑った。ユニはもう一度張り紙を見て、首を傾げた。
「アスランさん、なんですか? これ」
「あ、見ましたか? 書いてあるとおり、ユニさんは立ち入り禁止ですので。失礼します」
「え? あれ、ちょ、ちょっとー!」
立ち入り禁止なはずなのに、アスランは何事もないように扉を開けると部屋の中へ入ってしまった。ユニはそれに続いて入ることも出来ずに、やはり扉の前で呆然と立ち尽くしているだけなのであった。
「……では、失礼いたしました」
「あ、アスランさん!」
「おや、ユニさん、ここは立ち入り禁止で……」
「じゃあなんでアスランさんは入れるんですか! ここはわたしの仕事場です!」
しばらくするとアスランが扉から出てきた。ユニはすぐに彼を捕まえ、その行く手に立ち塞がった。納得がいかないし、なんだか嫉妬していた。この扉の向こうはユニの仕事場で、ユニの一番尊敬する人が待つ場所なのに。
けれど思い当たる節がないわけではない。その人に、このところ愚痴ばかり吐いているのが原因で「ユニに会いたくない」と思われているのかもしれない。しかし彼なら許してくれる、聞いてくれると思ったから、ユニは彼にだけは弱い弱い本音を零していた。全部受け止めてくれて、その光でユニの影を掻き消して、何も言わずに聞いて励ましてくれるのはピオニーだけだと思うから、暗いことをぶつけ続けていた。
「お、落ち着いてください、ユニさん。私は特別に立ち入りを許されていて……」
「そ、そうですか……」
本当のことを言えば、弱音を吐くのは、単純にピオニーに心配して欲しかっただけなのかもしれない。
けれどそれが原因で拒絶されるならば、きちんと謝ろう。ジェイドの言うとおり、彼に迷惑をかけるのと、心配してもらうのと、どちらも自分勝手すぎた。
ピオニーに会わない日は、ダアトに行っている日か家出していたときくらいしかなかった。何の理由もなく彼の顔を見ない日が来るなんて。少しだけ寂しい気持ちになりながら、ユニはジェイドに吹き飛ばされた後で間に合わせの扉が付けられた自室へ戻った。
一日中人がいなかった部屋はひんやりとしていて、腰かけたベッドは冷たかった。ジェイドがライトごと戻してくれたセレニアの花が、静かに窓際で咲いていた。
こんなに綺麗なのに、すぐに枯れてしまうなんて。否、すぐに枯れてしまうから綺麗なのかもしれない。
すぐになくなってしまうから、美しくて、嬉しくて、楽しくて、幸せ?
それならば、求め続けなければ、幸せは常に枯渇してしまう。しかしそんな生き方はきっと疲れてしまうだろう。なら、どうすればいい? どんなふうに生きていけばいいんだろう。
もやもやした気持ちで一晩を過ごし、眠った気がしないまま朝がきてしまった。
重たい胃、あげられない顔。足を引きずるようにしてユニはピオニーの私室へ向かった。
前日に彼の部屋の扉に貼ってあった『立ち入り禁止』の張り紙は、今はきれいに取り払われていた。ということは、いつものように普通に入っていいのだろうけど。
「……でも、入りにくい……陛下にあわせる顔がないよ」
ピオニーが近頃の自分に対して怒っていたり、呆れていたりすることについてはなんとなく自覚があった。けれど、彼に会うとついうじうじしてしまう。明るくて前向きなピオニーと一緒にいると、余計に気付かされるからだ。自分に自信がないことも、ダアトに行くことを諦め切れていないことも、また自分の世界に不満を持ってしまったことも、そのせいで周りに迷惑をかけ続けていることも。
(悪いのは全部わたし。こんなに、幸せな筈なのに……)
扉に両手を押しあて、その間に顔を伏せた。下を向くと目に涙が溜まった。
それでも、とりあえず今出来ることは、いつもみたいに、いや、いつも以上にいい笑顔で、この部屋に入ること。もう、愚痴なんて言わない。弱音なんて。
彼がわたしに与えてくれたこの世界で、生きていたいのだから。
「し、失礼いたします……んっ!?」
「お! 来たなユニ!」
――???
なにが起きた? なにが起きている? 今、この部屋で。あれ、入る部屋間違えたかな。いや、でもそんなはずはない。間違えようがない。毎日通ったこの場所だ。
じゃあ夢でないとしたら、これは現実で、今わたしが生きている世界で、陛下のお部屋で――
「ひいいいっ! なんですかこのブタたちはっ!!」
「ブタじゃない! ブウサギだぞ!」
「ブ、ブウサギ……!?」
ユニは目を見開いて、その光景をみつめた。ピオニーの部屋に、今までいなかったモノが、いる。ブタのようなウサギのような、耳が長く、太くて手足の短い生き物。一匹、二匹、三匹……
「ど、どうしたのですかこれは……だ、だめええぇ、お花かじっちゃ……ああっ、棚を倒さないで……!」
「まぁ来いよ。楽しいぞ」
「や、やめ……!」
混乱し、部屋で好き放題に暴れまわるブウサギを把握しきれないうちに、ピオニーがその中の一匹を抱えてユニのもとにやってきた。
「……ひっ!」
「かわいいだろ?」
「や、やだ、こんな……」
ユニは泣きそうになりながら後ずさった。突然出現した生き物によって部屋が荒らされている。でもピオニーは笑っている。自分の一番よく知る場所が、一晩でこんな意味のわからないことになっていて、泣きたくならない人間がいるだろうか。
ピオニーに抱えられたブウサギは鼻水を垂らしながら、キラキラした目でユニを見つめていた。そんな目で見られても、困るだけなのに。
「へ、陛下……」
耐えられなくなり、ついにぺたりと座りこんだユニを見て、ピオニーの腕からブウサギがぴょんと飛び出した。そして震えるユニの傍へ行き、さらに輝いた目で見つめるのだった。一体なにがどうなっているのやら。得体の知れない生き物が、ユニの知らないうちにこの部屋へやってきて、好き勝手に散らかしている。なんのつもりなのだろう、ユニへの嫌がらせだろうか? これでは、「部屋を汚すピオニー」が増えたようなものだ。
「やだっ……陛下……たすけてくださ……」
「よしよしサフィール、噛みつくなよ」
「サ、サフィール?」
顔をあげれば、屈んだピオニーが同じ目の高さにいた。彼が大きな手でふわふわとブウサギを撫でると、それは嬉しそうに目を細める。
「こいつの名前だよ」
「な、名前? あの、陛下、一体なにがどうなって……この有り様は……」
「何って……まぁ、前より楽しいだろ」
「!」
ピオニーは首をまわして部屋を駆け巡るブウサギたちを見た。こんなに騒がしいのは、久しぶり、というか、ユニが来てからほとんど初めてだった。
「ちなみにあれはジェイドだ。で、あっちはアスラン。それでこっちの毛並みのいいやつが……」
「陛下っ!!」
一匹ずつ指差して名前を説明していたピオニーを遮って、ユニはいきなり立ち上がった。ブウサギの喧騒を掻き消して響いた声に、彼もブウサギたちも一瞬動きを止めた。はからずも、座り込んでいたピオニーを見下ろす形になり、気を抜くと涙が零れてしまいそうだった。
「本当に申し訳ありませんでした……あの、ありがとうございます。わたしが……落ち込んでるから、こんなにかわいいお友達を連れてきて下さったんですね」
「……そうだな」
これは彼なりのユニに対する気遣いで、新しい生活の始まりの合図だった。去年よりも、一か月前よりも、昨日よりも、ずっと楽しくて明るい毎日のための。彼はまた、ユニが新しい世界へ踏み出すための手伝いをしてくれたのだ。
そうだ、何かを失っても、もっと大事なものをみつければいい。だけど捨てるのも、諦めるのも、本当に勇気のいることだから。ユニは過去にしがみついて、過去の幻影を追って、新しい一歩がどうしても踏み出せなかった。
立ち上がったピオニーが、そっと頭を撫でてくる。先程ブウサギにしていたのと同じように、だけどもっと優しく暖かく。彼には、何度も救われてしまった。
「ずっと、愚痴やわがままを言っててすみませんでした……。わたしは陛下やこの子たちがいればもう十分です。すごく幸せなのに、それを全然わかっていなくて……」
泣きそうになってユニの笑顔が歪み始めた、その時だった。
ガシャーン、と物凄い音が轟いた。
ユニは言葉を切って、その音のした方を見た。先程までここにいたブウサギ――サフィールが、テーブルにぶつかってガラスの花瓶を落下させていたところだった。
もちろん、ガラスは砕け散り、粉々になっていた。水浸しになった床の上で、ユニのお気に入りの花を頭にかぶせて、サフィールが目を丸くしてこちらを見ている。その花瓶は、ピオニーが即位した時にどこかの偉い人が贈ったとても高価なものだった。
すーっと、血の気がひく音がした。
「あーあ、サフィールのやつ、派手にやってくれたな」
「……」
「ユニ、悪いが片付けを……」
「や、やろーてめーぶっ殺すー!!」
「お、落ち着け! ユニ!」
ここが世界で一番美しくて、楽しくて、幸せな場所だと、今なら言えるだろう。
昨日は言えなかったけど、今は言えて、明日もそう言えるかは、まだわからない。新しいものは輝いて見えて、とても欲しくなるけれど、手に入れたら抱えきれずに零れ落ちて、また別のものが欲しくなってしまう。
掴んでは失い、咲いては枯れ、作り上げては壊し、その繰り返しは季節みたいに、人の意思に関わらず何度もやってくる。
完全な世界にはまだ出会えなくて、不協和音がこだまするなかをひたすら進んでいるところ。
星の記憶が見下ろし監視するこの世界で、真っ暗な真理を求めて、息をし続けているとしても。