第1章(過去編)
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22 音と香りは夕暮れの大気に漂う
いつの間にか空は白み、カーテンの向こうが明るくなっていた。口笛を吹くように軽く、鳥の声が聞こえてくる。相変わらずに流れ続ける水音が、朝の訪れとともに少し優しくなったような気がした。
「……」
「やったー……はじめてアッシュに勝ったー……」
手をあげたポーズのまま、彼女は仰向けに倒れ込んだ。長い夜も、終わってしまえばなんだかあっという間で、こんな調子で季節なども通り過ぎていくんだろうと思った。重い瞼を懸命に上げる彼女を見てアッシュは苦笑した。夜が明けてしまった。
「ごめんね。本当に朝まで付き合わせちゃって」
シャワーを浴びてきたユニは濡れた髪を吹きながら、申し訳なさそうに笑った。水を浴びたことで目が覚めたのだろうか、一睡もしていないというのに彼女からは清々しささえ感じられた。
「オレは別にいい。こういう訓練もするからな」
「へー。……神託の盾って、なんでもやるんだね」
うっかりダアトに関することを口に出してしまった後で、かすかに寂しそうな顔をしたユニを直視できず、彼女の横をすり抜けて扉に手をかけた。
「お前こそ、眠らなくて平気なのか?」
「うん、なんか、楽しかったし……眠くない」
思えば、ダアトから逃げ出すまでの彼女の怯え様は酷いものだった。自分の腕を離さず、挙動不審に辺りをきょろきょろ見回して、自分たち以外は信じられないといった様子で。あれだけ怖がらせることになったのは予想外だが、これで彼女はもうダアトを訪れることはないだろう。彼女がダアトに現れないということは、教会にこれ以上の手がかりを残さないことにもなる。噂は所詮噂で、新しい情報がなければすぐに立ち消える。
彼らはこの件については丸め込むつもりだろうし、あの人だって手がかりがなければ深く探ろうとしないだろう。ユニが皇帝に仕えているとわかれば、なおのこと手が出しにくい。
(とにかく、ユニがグランコクマを離れなければ、接触することはまずありえない)
これ以上自分たちに関わらせなければ、彼女の安全は未来まで保証できる。
(……だから、二度と会わないことを願うべきなんだ)
宿を出ればもう港を見下ろせた。水平線近くに船と朝日が浮かんでいるのが見えた。
「じゃあ、アッシュ、船でゆっくり寝てね」
「ああ」
「本当にありがとう、ここまで来てくれて」
ダアト港での彼女は恐怖から今にも泣き出しそうだったが、今度もまた泣きそうなのを必死で堪えているのがよくわかった。よく泣く奴だ、と思う。
「フン、もう二度と徹夜には付き合わないからな」
「あはは」
笑って目を細めたせいで、ユニの目から涙が一筋零れ落ちた。ぽたりと地面を濡らしたそれはすぐに第四音素へと還っていった。
「あ、あれっ、おかしーな、なんでだろ」
「……馬鹿だな」
一粒の涙を皮切りに、抑えきれなくなったのだろうか、ユニはぼろぼろと涙を零し、止めどなく泣いていた。大粒の涙が地面にたくさんの跡をつけていく。誰かが自分の前でこんなに泣くのを見るのはいつ以来だろうか。
歪んだ笑顔のまま、ユニはアッシュの前でただ涙を流していた。それはアッシュと、ダアトとの別れのために流す涙だった。
アッシュは目を擦り続ける彼女を何もできずにみつめていた。涙を止める術はなくても、せめて涙を拭いてやれたらいいのにと頭の端で微かに思ったが、自分にはそんな優しさを持つ権利なんてないような気がして、動くことができなかった。
「ダアト行き、まもなく出港いたします」
船員の声が、賑やかな港に響いた。アッシュはグランコクマの地を蹴って、船へ向かった。真っ白に輝く朝日がちょうど目の高さにあって、痛いほどに沁みた。
アッシュが数歩歩いた後で、彼女は我慢できずに追いかけてきた。しかし。
「ユニ」
「え?」
船に乗る直前で、立ち止まって振り返った。彼女の目を見るのは、懐かしい日々を思い出してしまいそうでずっと嫌だったのだが。自分の緑の瞳に、悲愴な面持ちのユニが映っていた。
「ユニ、もうダアトには来るなよ」
「……うん」
そんなのわかってるよ、とでもいうようにユニは目を伏せた。彼女が欲しいのはこんな言葉じゃない。でも言わないと、念を押しておかないと、アッシュや彼女を護ろうとする人々の苦労が無駄になってしまうから。
「……あの、みんなによろしくね。しばらく会えないし」
「……だから、しばらくじゃないだろ」
「……ずっと……?」
「ああ」
彼女の目に、また涙が溜まっていく。彼女の中では、その言葉の受容と拒絶が繰り返されているのだろう。
アッシュは、手をのばして彼女の髪に触れた。ユニはびくりとして、怯えたようにこちらを見上げた。
「泣くんじゃねぇよ。仕方ないだろ」
「でも……」
「もうオレたちのことは忘れろ。お前はマルクトの人間で、ダアトや神託の盾とはなんの関係もない」
「でも、ダアトには友達ができて……」
「いいから、来るな」
絞り出すようなユニの声を遮って、アッシュは視線を外した。納得のいく「別れ」なんて、存在するのだろうか。どうにもならない理由、誰かの嘘のための犠牲、裏切りと拒絶。自分だってその被害者だった。今目の前にいるユニも同じだから、気持ちはわかる。しかし、同情するだけでは何も守れないのだ。
ユニの髪からするりと手を解いて、身体を船へ向けた。
「……ユニを、危険な目に遭わせたくねぇんだよ」
「……」
「あいつらだって、同じことを言うだろ」
「……わかった。アッシュごめん。ありがとう」
呟く声を背中で聞いて、アッシュは歩き始めた。彼女にとって一番大切なダアトの連中を引き合いに出して、最後に彼女を納得させるなんて、我ながら酷なことをしたと思った。いや、納得なんかじゃない。彼女をグランコクマに縛りつけるために、彼女自身による偽りの決意をさせたのだ。それしか、出来なかった。
汽笛が鳴り響いて、本日最初のダアト行きの船が、いまグランコクマから離れた。甲板に出ているアッシュと、海に落ちるギリギリのところに立っているユニとの距離も、少しずつ離れていく。いまだに涙を溜める彼女の瞳が朝日にきらきらと光っていた。
あんなことを言われて無理やりここに残されていくのだから、ユニはアッシユニ対して声をかけることも、手を振ることも出来ないのだろう。嫌なものだった。こんな記憶しか残せずに、彼女と永遠にも近い別れを迎えるなんて。彼女も自分も、つくづく運の悪い星のもとに生まれてしまったらしい。
しかし、遠くなっていく彼女を見ていたら、なんだか取り返しのつかないことをしてしまったような気がしてきた。船は少しずつスピードをあげるだろう。もう彼女はダアトには来ない。もう彼女は教会には来ない。もう彼女には誰も会えない。
(ありがとう。会えなくても、元気でね、アッシュ)
ハッとした。彼女の口が微かに動いたのを、アッシュは見逃さなかった。声になんてしていない、ただ口を動かしただけの、別れの言葉だった。
アッシュは無意識に欄干を掴んで、身を乗り出した。
「ユニ!」
「……!」
怒鳴るような声だったのに、驚いてパッと顔をあげたユニの表情は、こちらが泣きたくなるほど、鮮やかに輝いていた。
「時効が来たら迎えに来てやる!」
「え……」
「だからそれまでは、グランコクマを出るなよ!」
進んでいく船から発せられたアッシュの大声に、港にいた何人かがこちらを振り返った。構わない。朝日が逆光になって、彼女には自分の顔がよく見えないだろう。それで十分だった。こんな顔を見られたら、それこそ一生会いたくない。
「うんっ! アッシュ、ありがとう! わたし、ずっと待ってるから……!」
ユニは海に落ちそうになりながら、全身でアッシユニ向かって叫んだ。その目にはもう涙なんてないだろう。どうか、笑顔だけが残るように。
グランコクマが水平線に消えた後で、アッシュは客室に戻った。カーテンは締め切られ、灯りの付いていない暗い部屋の中で未来を描いた。それは決して明るいとはいえないものだった。
それに彼女が関わるべきではない。すべてが終わった後で、彼女の生活を取り戻してやるのが最高のかたちだと思えた。――終わりがあるとすれば、の話だが。
(……時効が来るとすれば、その時はもうアッシュじゃねぇよ)
永遠を待つよりは近くて、先の見えない遠い未来を与えた。来るかもわからない時を待ち続けるのは、彼女には酷だったろうか? それでも、待つあてがないよりずっとましだと思った。彼女が何かを信じながら過ごしていくのは、悪いことではないはずだと思いたかった。
◇
見えなかった不完全な世界。
よく見える目を与えられたわたしはそれに気付いて、新しい世界を求めて、そしてもっと素敵な場所をもみつけられたつもりだった。
けれど、結局ここに戻ってきた。最初の街に。何かをみつけて、その分何かを失って、ここへ還った。いま、目に映る街は、前と同じように不完全?
「ユニ、どうしましたか? 目が赤いですよ」
「ジェイドほどじゃ、ないですから」
また視界が潤んできて、胸が痛くなった。ぼやけてよく見えないけれど、きっと、ここでも、どこでだって生きていけるんだ。もう、何も願わなければ。
いつの間にか空は白み、カーテンの向こうが明るくなっていた。口笛を吹くように軽く、鳥の声が聞こえてくる。相変わらずに流れ続ける水音が、朝の訪れとともに少し優しくなったような気がした。
「……」
「やったー……はじめてアッシュに勝ったー……」
手をあげたポーズのまま、彼女は仰向けに倒れ込んだ。長い夜も、終わってしまえばなんだかあっという間で、こんな調子で季節なども通り過ぎていくんだろうと思った。重い瞼を懸命に上げる彼女を見てアッシュは苦笑した。夜が明けてしまった。
「ごめんね。本当に朝まで付き合わせちゃって」
シャワーを浴びてきたユニは濡れた髪を吹きながら、申し訳なさそうに笑った。水を浴びたことで目が覚めたのだろうか、一睡もしていないというのに彼女からは清々しささえ感じられた。
「オレは別にいい。こういう訓練もするからな」
「へー。……神託の盾って、なんでもやるんだね」
うっかりダアトに関することを口に出してしまった後で、かすかに寂しそうな顔をしたユニを直視できず、彼女の横をすり抜けて扉に手をかけた。
「お前こそ、眠らなくて平気なのか?」
「うん、なんか、楽しかったし……眠くない」
思えば、ダアトから逃げ出すまでの彼女の怯え様は酷いものだった。自分の腕を離さず、挙動不審に辺りをきょろきょろ見回して、自分たち以外は信じられないといった様子で。あれだけ怖がらせることになったのは予想外だが、これで彼女はもうダアトを訪れることはないだろう。彼女がダアトに現れないということは、教会にこれ以上の手がかりを残さないことにもなる。噂は所詮噂で、新しい情報がなければすぐに立ち消える。
彼らはこの件については丸め込むつもりだろうし、あの人だって手がかりがなければ深く探ろうとしないだろう。ユニが皇帝に仕えているとわかれば、なおのこと手が出しにくい。
(とにかく、ユニがグランコクマを離れなければ、接触することはまずありえない)
これ以上自分たちに関わらせなければ、彼女の安全は未来まで保証できる。
(……だから、二度と会わないことを願うべきなんだ)
宿を出ればもう港を見下ろせた。水平線近くに船と朝日が浮かんでいるのが見えた。
「じゃあ、アッシュ、船でゆっくり寝てね」
「ああ」
「本当にありがとう、ここまで来てくれて」
ダアト港での彼女は恐怖から今にも泣き出しそうだったが、今度もまた泣きそうなのを必死で堪えているのがよくわかった。よく泣く奴だ、と思う。
「フン、もう二度と徹夜には付き合わないからな」
「あはは」
笑って目を細めたせいで、ユニの目から涙が一筋零れ落ちた。ぽたりと地面を濡らしたそれはすぐに第四音素へと還っていった。
「あ、あれっ、おかしーな、なんでだろ」
「……馬鹿だな」
一粒の涙を皮切りに、抑えきれなくなったのだろうか、ユニはぼろぼろと涙を零し、止めどなく泣いていた。大粒の涙が地面にたくさんの跡をつけていく。誰かが自分の前でこんなに泣くのを見るのはいつ以来だろうか。
歪んだ笑顔のまま、ユニはアッシュの前でただ涙を流していた。それはアッシュと、ダアトとの別れのために流す涙だった。
アッシュは目を擦り続ける彼女を何もできずにみつめていた。涙を止める術はなくても、せめて涙を拭いてやれたらいいのにと頭の端で微かに思ったが、自分にはそんな優しさを持つ権利なんてないような気がして、動くことができなかった。
「ダアト行き、まもなく出港いたします」
船員の声が、賑やかな港に響いた。アッシュはグランコクマの地を蹴って、船へ向かった。真っ白に輝く朝日がちょうど目の高さにあって、痛いほどに沁みた。
アッシュが数歩歩いた後で、彼女は我慢できずに追いかけてきた。しかし。
「ユニ」
「え?」
船に乗る直前で、立ち止まって振り返った。彼女の目を見るのは、懐かしい日々を思い出してしまいそうでずっと嫌だったのだが。自分の緑の瞳に、悲愴な面持ちのユニが映っていた。
「ユニ、もうダアトには来るなよ」
「……うん」
そんなのわかってるよ、とでもいうようにユニは目を伏せた。彼女が欲しいのはこんな言葉じゃない。でも言わないと、念を押しておかないと、アッシュや彼女を護ろうとする人々の苦労が無駄になってしまうから。
「……あの、みんなによろしくね。しばらく会えないし」
「……だから、しばらくじゃないだろ」
「……ずっと……?」
「ああ」
彼女の目に、また涙が溜まっていく。彼女の中では、その言葉の受容と拒絶が繰り返されているのだろう。
アッシュは、手をのばして彼女の髪に触れた。ユニはびくりとして、怯えたようにこちらを見上げた。
「泣くんじゃねぇよ。仕方ないだろ」
「でも……」
「もうオレたちのことは忘れろ。お前はマルクトの人間で、ダアトや神託の盾とはなんの関係もない」
「でも、ダアトには友達ができて……」
「いいから、来るな」
絞り出すようなユニの声を遮って、アッシュは視線を外した。納得のいく「別れ」なんて、存在するのだろうか。どうにもならない理由、誰かの嘘のための犠牲、裏切りと拒絶。自分だってその被害者だった。今目の前にいるユニも同じだから、気持ちはわかる。しかし、同情するだけでは何も守れないのだ。
ユニの髪からするりと手を解いて、身体を船へ向けた。
「……ユニを、危険な目に遭わせたくねぇんだよ」
「……」
「あいつらだって、同じことを言うだろ」
「……わかった。アッシュごめん。ありがとう」
呟く声を背中で聞いて、アッシュは歩き始めた。彼女にとって一番大切なダアトの連中を引き合いに出して、最後に彼女を納得させるなんて、我ながら酷なことをしたと思った。いや、納得なんかじゃない。彼女をグランコクマに縛りつけるために、彼女自身による偽りの決意をさせたのだ。それしか、出来なかった。
汽笛が鳴り響いて、本日最初のダアト行きの船が、いまグランコクマから離れた。甲板に出ているアッシュと、海に落ちるギリギリのところに立っているユニとの距離も、少しずつ離れていく。いまだに涙を溜める彼女の瞳が朝日にきらきらと光っていた。
あんなことを言われて無理やりここに残されていくのだから、ユニはアッシユニ対して声をかけることも、手を振ることも出来ないのだろう。嫌なものだった。こんな記憶しか残せずに、彼女と永遠にも近い別れを迎えるなんて。彼女も自分も、つくづく運の悪い星のもとに生まれてしまったらしい。
しかし、遠くなっていく彼女を見ていたら、なんだか取り返しのつかないことをしてしまったような気がしてきた。船は少しずつスピードをあげるだろう。もう彼女はダアトには来ない。もう彼女は教会には来ない。もう彼女には誰も会えない。
(ありがとう。会えなくても、元気でね、アッシュ)
ハッとした。彼女の口が微かに動いたのを、アッシュは見逃さなかった。声になんてしていない、ただ口を動かしただけの、別れの言葉だった。
アッシュは無意識に欄干を掴んで、身を乗り出した。
「ユニ!」
「……!」
怒鳴るような声だったのに、驚いてパッと顔をあげたユニの表情は、こちらが泣きたくなるほど、鮮やかに輝いていた。
「時効が来たら迎えに来てやる!」
「え……」
「だからそれまでは、グランコクマを出るなよ!」
進んでいく船から発せられたアッシュの大声に、港にいた何人かがこちらを振り返った。構わない。朝日が逆光になって、彼女には自分の顔がよく見えないだろう。それで十分だった。こんな顔を見られたら、それこそ一生会いたくない。
「うんっ! アッシュ、ありがとう! わたし、ずっと待ってるから……!」
ユニは海に落ちそうになりながら、全身でアッシユニ向かって叫んだ。その目にはもう涙なんてないだろう。どうか、笑顔だけが残るように。
グランコクマが水平線に消えた後で、アッシュは客室に戻った。カーテンは締め切られ、灯りの付いていない暗い部屋の中で未来を描いた。それは決して明るいとはいえないものだった。
それに彼女が関わるべきではない。すべてが終わった後で、彼女の生活を取り戻してやるのが最高のかたちだと思えた。――終わりがあるとすれば、の話だが。
(……時効が来るとすれば、その時はもうアッシュじゃねぇよ)
永遠を待つよりは近くて、先の見えない遠い未来を与えた。来るかもわからない時を待ち続けるのは、彼女には酷だったろうか? それでも、待つあてがないよりずっとましだと思った。彼女が何かを信じながら過ごしていくのは、悪いことではないはずだと思いたかった。
◇
見えなかった不完全な世界。
よく見える目を与えられたわたしはそれに気付いて、新しい世界を求めて、そしてもっと素敵な場所をもみつけられたつもりだった。
けれど、結局ここに戻ってきた。最初の街に。何かをみつけて、その分何かを失って、ここへ還った。いま、目に映る街は、前と同じように不完全?
「ユニ、どうしましたか? 目が赤いですよ」
「ジェイドほどじゃ、ないですから」
また視界が潤んできて、胸が痛くなった。ぼやけてよく見えないけれど、きっと、ここでも、どこでだって生きていけるんだ。もう、何も願わなければ。