第1章(過去編)
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21 アンダンティーノ、おだやかに、表情豊かに
「アッシュ! おまたせ!」
元気よく手を振りながら走って来た彼女を一瞥し、アッシュはまたたゆたう水の方へ視線を戻した。
ジェイド・カーティスという名前については何度か耳にしたことがあった。
その名が共通して現れる話題に対しては、まったくいい印象を持っていない。顔を見たこともないのに、憎んで、恨んでさえいた。しかしその恨みさえもやがては呪いのように自分へ返って来た。力のない自分。取り戻すことが出来ない自分。奪われたままの自分。結局飼い慣らされている自分。
(今日は嫌な記憶ばかり掘り起こされる)
小さく舌打ちをしてからもう一度ユニの顔を見たら、もうひとつ、ジェイド・カーティスについて思い出したことがあった。確か彼は『皇帝の懐刀』などと言われていた気がする。ということは、皇帝の部下である彼女とも知り合いである可能性が高い。
(……ちっ、因果なものだな)
譜石が見下ろす星のもとで、すべてが繋がっているかのような錯覚に陥った。
「ごめんねアッシュ。なんか付き合わせちゃって」
「付き合いたくなくても、明日にならなきゃダアト行きの船は来ない。お前に合わせるしかないだろうが」
アッシュとユニは並んで、グランコクマの中心街から少し離れた静かな通りを歩いていた。不思議な気分だった。ダアトを離れ、いつもの緊張感から解放され、ほのぼのとした街を、女と並んで歩いている。穏やかな空気、暖かい気候、あれほど望んでいた平穏なのに、これ以上ここにいるとなんだか毒されてしまいそうだった。
「アッシュ、神託の盾はわたしを探しているかなあ」
「……さぁな」
「アッシュも怪しまれてるよね……ほんとごめん」
「……こんなこともあろうかと思って数日間の不在を申告してきてある。問題はない」
「え、すごい!」
ユニとグランコクマまで来てしまうことは実は考えていなかったわけではなく、予測の範囲内だった。無論、それ以外のパターンで事を終わらせるつもりだったが。しかしそれを彼女に知らせるのは、なんだか恥ずかしいというか、負けた気がして、今まで言わずにいたのだ。
「……せっかく逃がしてやったんだから、向こうのことは気にするんじゃねぇよ。オレの苦労が無駄になる」
「そうだね、ありがとう! ほんとに……アッシュがこんなに親切な人だとは思わなかったよ」
親切、と言われて少々似合わないと感じたが、悪い気はしなかった。たまにはこういうのも良いかもしれない。消えない嫌悪感から逃れて、のんびりと、穏やかに、あの頃みたいに一日を過ごすのも。
――毒される。
幸せな感情が心に蔓延しはじめたとき、ハッとして目を見開いた。なぜか、心がそれを拒絶していた。いつからあんな空気に慣れてしまったのだろうか。殺気のない、眠たくなりそうな日常が、不自然だと感じてしまう。平穏な一日のなかに居る自分の存在に、違和感すら覚えた。やはりもう、戻れない域まで来てしまったのだろうか。
(……骨の髄までやられちまってるみてぇだな)
青く涼しげに流れる水路に、過る、影。深淵がすぐそこまで迫ってきているようだった。
「アッシュ、助けてくれたお礼にわたしがグランコクマで一番好きな場所に案内してあげる」
そう言う彼女に連れられてきた場所は、小さな花畑だった。
一般市民の暮らす地区の奥、家々の落とす影をうまく避けた陽だまりに、突如として現れるそれは、まるで異空間だった。日の光を返す若い草が、第四音素を雫として纏い輝いていた。黄色に赤に青にピンクに……色とりどりの花は、アッシュにとっては久しぶりに見る、幻のように鮮やかな光景だった。
「アッシュはお花とか好きじゃないかな?」
「……特別好きなわけじゃないけどな」
「そっか。ね、綺麗じゃない? ここ」
「ああ、そうだな」
花畑に視線を戻して相槌を打つと、その視界にユニが入り込んできた。ユニは花畑のなかへずんずんと進み、あるところで立ち止まると「アッシュ」と呼んで手招きした。
「今日天気いいからここで少しのんびりしようよ。ここ座って。日当たりよくてすっごい気持ちいいから」
そう言って彼女が指し示した場所は、他と比べると少し草が倒れていた。いつもここでぼうっとしていたのだろうかと思うと、無意識に気持ちがほどけていく。
反論する理由もないのでアッシュは大人しく腰をおろした。その隣にユニも座る。花畑で、並んで座る男女、春の午後。そこに自分がいるなんて、平和すぎて可笑しかった。
「ここにいれば仕事なんかしなくていいし、上司もいないんだから、眉間にしわなんか寄せなくていいんだよ~」
「……」
陽だまりの中で沸き立つ草の香りに、さすがに頭がぼんやりしてきていた。ここでは神託の盾騎士団のアッシュでなく、ただの自分でいられるかもしれないと思い始めてしまっていた。
しかし、「自分」とは一体どの自分なのだろうか。
自分は、誰でいたいのだろう。
「アッシュ。これはお礼だから、受け取って」
いつの間にか彼女は立ち上がっていて、白い膝が目の前にあった。何が、と問う間もなく、頭の上にふわりとかぶせられたものがあった。
――花でつくった、冠だった。
「……!!」
いい歳して女に花を貰うなんて、とアッシュは少し赤面した。しかもそれ以前に、遊びでも自分が王冠を戴くなんて。
「子供じみててごめん。でも似合う気がしたんだ」
呆然として見上げると、陽の光が彼女の背にじわりと滲み、思わず目を細めた。ユニも、この景色も、なにもかもがあたたかくて、幻のように消えてしまいそうで、自分には眩しすぎた。かつては自分の傍にあったのかもしれないけれど、もう思い出せもしない。
ずっと会っていないあの国の王女も、今は彼女と同じくらいの年齢で。今でこそしないだろうが、数年前は同じように花畑に出て花冠をつくったりしただろうか。
「こんなところまでほんとにありがとう、アッシュ。また一つここでの思い出が増えちゃったな」
「前にも誰かダアトの奴を連行してきたのか?」
「いやいや、そんなのはアッシュだけだって。そうじゃなくて、えーと……」
笑いながら話しはじめた彼女だったが、なぜか、次第に表情が曇っていった。
「あれ? 誰のことだっけ……」
「……またそれか」
笑いが消えた後も、彼女の顔は少し強張っていた。
今日だけで、二度も? 単なる物忘れか? まさかあの「事件」の影響だろうか? そう考えて一度注意深く彼女の様子を観察してみたが、本人は「気のせいだったかも」と頭を掻いた。
仮に、なんらかの後遺症があったとしても、この街にいる限り生活に支障はない筈。自分が彼女の人生に干渉できるのもここまでだ、と感じた。彼女のために出来ることはやった。自分でも十分すぎると思うほどに。
気付けば日が暮れ始めていた。気を抜くと、毎日はあっという間に過ぎていく。
「もう夕方になっちゃった。そろそろ帰ろっか」
橙の陽を背にして穏やかに微笑んだ彼女は、アッシュの心の奥の凍った部分までも融かしてしまいそうで、しかしそれがなんだか怖くて、「ああ」と相槌だけ打って目を伏せたのだった。
彼女がピオニーのもとで働くようになってから、一年が経つ、と船内で聞いていた。大事な何かをみつけても、失ったとしても、彼女はきちんとここへ戻って来ることが出来る。
(オレは……帰れない)
アッシュの戻るべき場所は、きっとバチカルだった。でも今は、アッシュではない者がかつてアッシュのいた場所にいて、かつての自分を生きている。戻れるか? どちらが本物だろうか? 自分がそうだと言えるのだろうか? 今となっては――
「で、なんでお前もついてくるんだ」
「せっかくだし、一人より二人のが楽しいよ?」
港の近くに戻った二人は、宿屋の前で揉めていた。というのも、アッシュとしては、ユニは宮殿に戻るものだと考えていたのだが、ユニの方はアッシュと一緒に宿に泊まる気でいたらしい。
「お前、自分の立場わかってるのか?」
「立場? うん。陛下にはちゃんと外泊許可もらったから大丈夫だよ」
そういうことではないのだが、彼女はあっけらかんと頷いてみせる。拒否する気も説教する気も失せて、アッシュは聞こえるように舌打ちだけをした。
「……言っておくが、違う部屋だぞ」
「えー、それじゃつまんない」
「ちっ、黙ってろ」
さすがにここはアッシュとしても譲れなかった。文句を言うユニを無視して、宿屋の扉を開いた。
「ちょうどよかったね。部屋いっぱいなんて」
「よくないッ!」
しかし、結局二人は同じ部屋にいた。ほぼ満室で、たった一部屋しか空いていなかったためである。他の宿を探すと言ったアッシュを押し切り、ユニが無理やりこの部屋に決めたのだった。ソファを陣取ったユニは嬉しそうに笑いかけるが、アッシュはプイと顔を背ける。
(くそ、なんでオレはこいつを振り切れないんだ……ダアトで船に乗せて終わる筈が、なぜグランコクマまで来て一緒に泊まるはめに……)
苛立ちで悶々としつつも、少しでもユニの方を見ないようにアッシュは努めた。もちろん、そんな気はまったくないが、同じ部屋に一晩いたら何が起こるかわかったものではない。それなのになんでユニの方からこんなことを望んだりするのだろうか。
「……」
「……あのねアッシュ」
「な、なんだ」
少しの気まずい沈黙の後で、ユニが口を開いた。体がびくりと反応してしまう。だから嫌だったんだ。ベッドの縁に腰掛ける自分の背後で、布の擦れる音がした。ユニがベッドの上に乗ったのだろう。
「わたし、どうしてもアッシュとやりたいことがあったの」
「……」
「なんだかわかる?」
拳を握りしめると、じんわりと汗が滲んだ。何があっても、承諾するわけにはいかない。こんな状況になった今だって、心変わりなんて考えられなかった。たとえ一生このままだっていい。他の誰かとどうにかなるなんて、想像したこともなかった。
「……ユニ」
「ん?」
「オ、オレは……」
ぎぎぎ、と音がしそうなくらいぎこちなく振り返ると、四つん這いになったユニがアッシュの顔を覗き込んでいた。唾を飲み込む。せっかくの決断も台無しになってしまいそうで、頭がくらくらした。
「ねぇ、トランプやろう!?」
「……あァ?」
盛大な溜息で、場に捨てたトランプが吹き飛びそうだった。
ユニがやりたいこととは、トランプゲームだった。彼女は「徹夜でトランプ」というのに妙な憧れがあったらしい。身構えていた分、馬鹿馬鹿しくて拍子抜けしてしまった。いや、期待していたわけではないけれど。
「えへへ、わたし一回こういうのやりたくて」
「そうかよ」
照れ笑いをする彼女はやたらと子供っぽく見えた。大人っぽく見えたらそれはそれでこの状況下においてすごく困るのだが。そしてとりあえず、あまり場数を踏んでいないせいだろうが、物凄く弱い。アッシュの方もこんなゲームをするのは久しぶりなのだが、それにしてもユニは弱かった。
「しかしお前、下手すぎるぞ」
「しょ、しょうがないでしょ……」
そしてこの発言が、長い夜の始まりになってしまった。
「じゃ、わかった! アッシュに勝つまでやる!」
「……朝までかかるぞ」
「望むところ。もとから一晩中やるつもりだったもん」
「……」
「アッシュ! おまたせ!」
元気よく手を振りながら走って来た彼女を一瞥し、アッシュはまたたゆたう水の方へ視線を戻した。
ジェイド・カーティスという名前については何度か耳にしたことがあった。
その名が共通して現れる話題に対しては、まったくいい印象を持っていない。顔を見たこともないのに、憎んで、恨んでさえいた。しかしその恨みさえもやがては呪いのように自分へ返って来た。力のない自分。取り戻すことが出来ない自分。奪われたままの自分。結局飼い慣らされている自分。
(今日は嫌な記憶ばかり掘り起こされる)
小さく舌打ちをしてからもう一度ユニの顔を見たら、もうひとつ、ジェイド・カーティスについて思い出したことがあった。確か彼は『皇帝の懐刀』などと言われていた気がする。ということは、皇帝の部下である彼女とも知り合いである可能性が高い。
(……ちっ、因果なものだな)
譜石が見下ろす星のもとで、すべてが繋がっているかのような錯覚に陥った。
「ごめんねアッシュ。なんか付き合わせちゃって」
「付き合いたくなくても、明日にならなきゃダアト行きの船は来ない。お前に合わせるしかないだろうが」
アッシュとユニは並んで、グランコクマの中心街から少し離れた静かな通りを歩いていた。不思議な気分だった。ダアトを離れ、いつもの緊張感から解放され、ほのぼのとした街を、女と並んで歩いている。穏やかな空気、暖かい気候、あれほど望んでいた平穏なのに、これ以上ここにいるとなんだか毒されてしまいそうだった。
「アッシュ、神託の盾はわたしを探しているかなあ」
「……さぁな」
「アッシュも怪しまれてるよね……ほんとごめん」
「……こんなこともあろうかと思って数日間の不在を申告してきてある。問題はない」
「え、すごい!」
ユニとグランコクマまで来てしまうことは実は考えていなかったわけではなく、予測の範囲内だった。無論、それ以外のパターンで事を終わらせるつもりだったが。しかしそれを彼女に知らせるのは、なんだか恥ずかしいというか、負けた気がして、今まで言わずにいたのだ。
「……せっかく逃がしてやったんだから、向こうのことは気にするんじゃねぇよ。オレの苦労が無駄になる」
「そうだね、ありがとう! ほんとに……アッシュがこんなに親切な人だとは思わなかったよ」
親切、と言われて少々似合わないと感じたが、悪い気はしなかった。たまにはこういうのも良いかもしれない。消えない嫌悪感から逃れて、のんびりと、穏やかに、あの頃みたいに一日を過ごすのも。
――毒される。
幸せな感情が心に蔓延しはじめたとき、ハッとして目を見開いた。なぜか、心がそれを拒絶していた。いつからあんな空気に慣れてしまったのだろうか。殺気のない、眠たくなりそうな日常が、不自然だと感じてしまう。平穏な一日のなかに居る自分の存在に、違和感すら覚えた。やはりもう、戻れない域まで来てしまったのだろうか。
(……骨の髄までやられちまってるみてぇだな)
青く涼しげに流れる水路に、過る、影。深淵がすぐそこまで迫ってきているようだった。
「アッシュ、助けてくれたお礼にわたしがグランコクマで一番好きな場所に案内してあげる」
そう言う彼女に連れられてきた場所は、小さな花畑だった。
一般市民の暮らす地区の奥、家々の落とす影をうまく避けた陽だまりに、突如として現れるそれは、まるで異空間だった。日の光を返す若い草が、第四音素を雫として纏い輝いていた。黄色に赤に青にピンクに……色とりどりの花は、アッシュにとっては久しぶりに見る、幻のように鮮やかな光景だった。
「アッシュはお花とか好きじゃないかな?」
「……特別好きなわけじゃないけどな」
「そっか。ね、綺麗じゃない? ここ」
「ああ、そうだな」
花畑に視線を戻して相槌を打つと、その視界にユニが入り込んできた。ユニは花畑のなかへずんずんと進み、あるところで立ち止まると「アッシュ」と呼んで手招きした。
「今日天気いいからここで少しのんびりしようよ。ここ座って。日当たりよくてすっごい気持ちいいから」
そう言って彼女が指し示した場所は、他と比べると少し草が倒れていた。いつもここでぼうっとしていたのだろうかと思うと、無意識に気持ちがほどけていく。
反論する理由もないのでアッシュは大人しく腰をおろした。その隣にユニも座る。花畑で、並んで座る男女、春の午後。そこに自分がいるなんて、平和すぎて可笑しかった。
「ここにいれば仕事なんかしなくていいし、上司もいないんだから、眉間にしわなんか寄せなくていいんだよ~」
「……」
陽だまりの中で沸き立つ草の香りに、さすがに頭がぼんやりしてきていた。ここでは神託の盾騎士団のアッシュでなく、ただの自分でいられるかもしれないと思い始めてしまっていた。
しかし、「自分」とは一体どの自分なのだろうか。
自分は、誰でいたいのだろう。
「アッシュ。これはお礼だから、受け取って」
いつの間にか彼女は立ち上がっていて、白い膝が目の前にあった。何が、と問う間もなく、頭の上にふわりとかぶせられたものがあった。
――花でつくった、冠だった。
「……!!」
いい歳して女に花を貰うなんて、とアッシュは少し赤面した。しかもそれ以前に、遊びでも自分が王冠を戴くなんて。
「子供じみててごめん。でも似合う気がしたんだ」
呆然として見上げると、陽の光が彼女の背にじわりと滲み、思わず目を細めた。ユニも、この景色も、なにもかもがあたたかくて、幻のように消えてしまいそうで、自分には眩しすぎた。かつては自分の傍にあったのかもしれないけれど、もう思い出せもしない。
ずっと会っていないあの国の王女も、今は彼女と同じくらいの年齢で。今でこそしないだろうが、数年前は同じように花畑に出て花冠をつくったりしただろうか。
「こんなところまでほんとにありがとう、アッシュ。また一つここでの思い出が増えちゃったな」
「前にも誰かダアトの奴を連行してきたのか?」
「いやいや、そんなのはアッシュだけだって。そうじゃなくて、えーと……」
笑いながら話しはじめた彼女だったが、なぜか、次第に表情が曇っていった。
「あれ? 誰のことだっけ……」
「……またそれか」
笑いが消えた後も、彼女の顔は少し強張っていた。
今日だけで、二度も? 単なる物忘れか? まさかあの「事件」の影響だろうか? そう考えて一度注意深く彼女の様子を観察してみたが、本人は「気のせいだったかも」と頭を掻いた。
仮に、なんらかの後遺症があったとしても、この街にいる限り生活に支障はない筈。自分が彼女の人生に干渉できるのもここまでだ、と感じた。彼女のために出来ることはやった。自分でも十分すぎると思うほどに。
気付けば日が暮れ始めていた。気を抜くと、毎日はあっという間に過ぎていく。
「もう夕方になっちゃった。そろそろ帰ろっか」
橙の陽を背にして穏やかに微笑んだ彼女は、アッシュの心の奥の凍った部分までも融かしてしまいそうで、しかしそれがなんだか怖くて、「ああ」と相槌だけ打って目を伏せたのだった。
彼女がピオニーのもとで働くようになってから、一年が経つ、と船内で聞いていた。大事な何かをみつけても、失ったとしても、彼女はきちんとここへ戻って来ることが出来る。
(オレは……帰れない)
アッシュの戻るべき場所は、きっとバチカルだった。でも今は、アッシュではない者がかつてアッシュのいた場所にいて、かつての自分を生きている。戻れるか? どちらが本物だろうか? 自分がそうだと言えるのだろうか? 今となっては――
「で、なんでお前もついてくるんだ」
「せっかくだし、一人より二人のが楽しいよ?」
港の近くに戻った二人は、宿屋の前で揉めていた。というのも、アッシュとしては、ユニは宮殿に戻るものだと考えていたのだが、ユニの方はアッシュと一緒に宿に泊まる気でいたらしい。
「お前、自分の立場わかってるのか?」
「立場? うん。陛下にはちゃんと外泊許可もらったから大丈夫だよ」
そういうことではないのだが、彼女はあっけらかんと頷いてみせる。拒否する気も説教する気も失せて、アッシュは聞こえるように舌打ちだけをした。
「……言っておくが、違う部屋だぞ」
「えー、それじゃつまんない」
「ちっ、黙ってろ」
さすがにここはアッシュとしても譲れなかった。文句を言うユニを無視して、宿屋の扉を開いた。
「ちょうどよかったね。部屋いっぱいなんて」
「よくないッ!」
しかし、結局二人は同じ部屋にいた。ほぼ満室で、たった一部屋しか空いていなかったためである。他の宿を探すと言ったアッシュを押し切り、ユニが無理やりこの部屋に決めたのだった。ソファを陣取ったユニは嬉しそうに笑いかけるが、アッシュはプイと顔を背ける。
(くそ、なんでオレはこいつを振り切れないんだ……ダアトで船に乗せて終わる筈が、なぜグランコクマまで来て一緒に泊まるはめに……)
苛立ちで悶々としつつも、少しでもユニの方を見ないようにアッシュは努めた。もちろん、そんな気はまったくないが、同じ部屋に一晩いたら何が起こるかわかったものではない。それなのになんでユニの方からこんなことを望んだりするのだろうか。
「……」
「……あのねアッシュ」
「な、なんだ」
少しの気まずい沈黙の後で、ユニが口を開いた。体がびくりと反応してしまう。だから嫌だったんだ。ベッドの縁に腰掛ける自分の背後で、布の擦れる音がした。ユニがベッドの上に乗ったのだろう。
「わたし、どうしてもアッシュとやりたいことがあったの」
「……」
「なんだかわかる?」
拳を握りしめると、じんわりと汗が滲んだ。何があっても、承諾するわけにはいかない。こんな状況になった今だって、心変わりなんて考えられなかった。たとえ一生このままだっていい。他の誰かとどうにかなるなんて、想像したこともなかった。
「……ユニ」
「ん?」
「オ、オレは……」
ぎぎぎ、と音がしそうなくらいぎこちなく振り返ると、四つん這いになったユニがアッシュの顔を覗き込んでいた。唾を飲み込む。せっかくの決断も台無しになってしまいそうで、頭がくらくらした。
「ねぇ、トランプやろう!?」
「……あァ?」
盛大な溜息で、場に捨てたトランプが吹き飛びそうだった。
ユニがやりたいこととは、トランプゲームだった。彼女は「徹夜でトランプ」というのに妙な憧れがあったらしい。身構えていた分、馬鹿馬鹿しくて拍子抜けしてしまった。いや、期待していたわけではないけれど。
「えへへ、わたし一回こういうのやりたくて」
「そうかよ」
照れ笑いをする彼女はやたらと子供っぽく見えた。大人っぽく見えたらそれはそれでこの状況下においてすごく困るのだが。そしてとりあえず、あまり場数を踏んでいないせいだろうが、物凄く弱い。アッシュの方もこんなゲームをするのは久しぶりなのだが、それにしてもユニは弱かった。
「しかしお前、下手すぎるぞ」
「しょ、しょうがないでしょ……」
そしてこの発言が、長い夜の始まりになってしまった。
「じゃ、わかった! アッシュに勝つまでやる!」
「……朝までかかるぞ」
「望むところ。もとから一晩中やるつもりだったもん」
「……」