第1章(過去編)
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19 何がそうさせるのかはわからないが
(ちッ……うっとおしい……)
傍目に見てもわかるほどにイライラしながら大股で歩く赤い髪の少年と、怯えながらもその腕にしっかりとつかまる健気な少女。そんなちぐはぐな二人を、本日のダアトへの巡礼者の何人かが目撃していたとかとかいないとか。
「だ、大丈夫? 追手とか、来てない?」
「……まださすがに来ないはずだ」
自身の腕につかまる青ざめた少女を見て、アッシュは肩を竦めた。港までついてきて欲しいと泣き付かれたため、嫌々ながらも承諾して、やっと丘を越えた。
しかしその道のりは散々なものだった。少しでも通行人と目が合うと「あ、あれ、通行人に化けた神託の盾じゃ……?」と言い、少し進むごとに後ろを確認しては追手がいないかと訊いてくる。いい加減腹も立ってきたが、ここまで怖がらせれば、今後ダアト、ましてや教会になど近付かないだろう。ある意味、アッシュが彼女のためにここまでしてやった成果が出たともいえる。
都合のいいことに、アニスやシンク、その他ユニに関わりのあった団員たちは、ヴァンとともにことごとく長期の任務でダアトを離れていた。皆、噂が収束する頃に戻ってくる予定だ。彼らの耳に入るとまた一段と面倒なことになるだろうから、その前に団員たちが噂話に飽きてくれているといいが。
「しかしお前、まさかマルクトの皇帝に仕えていたとはな……」
「うん、そう、驚いた?」
そして先ほど聞いた話では、彼女はグランコクマに住んでおり、皇帝直属の世話係であるらしい。これもまた好都合だった。ダアトは原則として他国に干渉しない。他国には手が出せないのである。皇帝に守られている彼女には、なおのこと手が出しにくいはず。
(普通にグランコクマで過ごしていれば、まず巻き込まれることはない)
丘を下ればそこはもう港だった。
「ほら、船。来たぞ」
「う、うん……」
監視されているわけでもないのに、なんとなく通行人の視線を感じるのは、彼女があまりにも悲痛な表情をしているせいだろう。自分が彼女を泣かせているように見えるのかもしれない。俯いた彼女はいまだにアッシュの服の裾を握りしめている。その力は緩みそうになかった。
「じゃあ……ここまで送ってきてくれて、ありがとう」
ぼそぼそと、視線を落として彼女は言葉を紡ぎ出す。
「ああ」
「……みんなによろしくね。アッシュも元気でね」
「わかってる」
「……船の中で待ち伏せされてたりとか、しないかな?」
「そこまで手をまわしてるわけないだろ」
「……じゃあ、グランコクマの港で待ち伏せ……」
「ったく、さっさと乗れ!」
言い放ってからアッシュは「しまった」と思った。つい声を荒げてしまい、さらに周囲の視線が集まった。彼女は頬を上気させ、目にいっぱいに涙を溜めながらこちらを見上げている。今、まばたきをすれば確実に涙が零れ落ちる。そんな顔をされては、怯まずにはいられなかった。
「う……アッシュぅ……」
「……」
(……なぜこんなことになっている……!?)
気が付くと彼女に手をひかれるまま船に乗っていた。汽笛の音が無常にも鳴り響いて、ダアトの地はアッシュの意志と関係なしにどんどん遠ざかっていった。しばらくすると陸地は完全に見えなくなり、四方はすべて水だけになった。甲板の端に立ちやや呆然としながら、眩しく輝く水しぶきに目を細めた。もう、乗ってしまったものはどうしようもなく、諦めるしかない。
「……本当にごめん、アッシュ。でもありがとう」
「……」
「アッシュもわたしといたら危ないのにね……本当に本当にごめん」
「……べ、別にオレは……」
「お礼っていうか、グランコクマに着いたら街を案内してあげるから」
「……それはいい」とやんわり断ると、彼女は少し悲しそうに笑った。まったく、楽観的なのか悲観的なのかわからない。腕組みをして見下ろした彼女は、おそらく年下の、成長しきっていないただの少女だった。きっと戦争の苦しみなんて、軍が何をしているのかなんて、そのもっと深くで何が行われているのかなんて、何も知らないのだろう。彼女が背負うには、あの「事件」は少し酷であった。出来ればそれを知ることなく、利用されることなく、関わることなく、生きてもらいたい。
「そっか。……あ、そうだ! じゃあ陛下にアッシュのこと報告……」
「お、おい! それだけはするな」
「へ?」
なかば嬉しそうに言った彼女を慌てて制止する。皇帝に付いていながら世界情勢に疎いとは思えないが、彼女はそこまで頭が回らなかったのだろう。ついつい溜息が漏れて、アッシュは視線を逸らした。
「お前が危険な目に遭ったという理由でマルクトがダアトに攻め込む口実を作ったらどうする。皇帝に報告なんてしなくていい」
「へ、陛下はそんな人じゃ……」
「グランコクマに着けばもう誰も追って来ない。オレのことは放っておけばいい」
少々きつい言い方だったかもしれない。しかしそれを訂正する術は持ち合わせていなかった。素直に謝ったり気持ちを伝えたりすることを、しばらくした覚えがなく、方法を忘れていた。俯いた彼女の目は見えない。思えば、彼女が笑っているのを見たのはずいぶん昔のことのように思えた。
こんな会話ばかりしていれば、それは当たり前のことかもしれないが。しかし別に嫌われても一向に構わなかった。もう、二度と会うこともないのだから。
「……ごめん」
「……」
「アッシュのことだけでもだめかな。わたしを送ってきてくれたって、陛下に伝えるのは……」
「オレは……いいから」
「え?」
「……オレはお前の観光案内で十分だ」
そう言うと、彼女は困ったように笑った。その表情を見ていたら、どうにも、ずっと抑え込んで押し殺していた感情が再び顔を見せそうで、少し切なくなった。
「――グランコクマ、グランコクマに到着いたしました」
単調な放送を聞きながら、はしゃぐわけでもなく二人は船を降りた。
少し歩くと、見慣れた街に着き恐怖感も拭い去られたのだろう、彼女はやや元気を取り戻し、巨大な水路の向こうで白く青く輝く円形の建物を指差した。
「あれがグランコクマの宮殿だよ」
「ああ、知っている」
「なんで?」
「……来たことがあるからだ」
「え? 神託の盾の任務とかで?」
身を乗り出して聞いてきたユニに「いや、さっきも言ったが神託の盾はめったに他国へ行かない」と訂正してからやっと墓穴だったと自覚した。自分も気が緩んでいるのだろうか、迂闊だった。
ではなんのため? 任務? 旅行? いや、自分が旅行好きに見えるだろうか。
「ふーん、まぁマルクト帝国の首都だしね。来たことくらいあるかー」
「……」
あえて詮索しないのか、本気で疑っていないのかはわからないが、彼女はそれ以上訊かなかった。「誰でも一度は来たい街ベスト三に毎年ランクインしてるしね」と自慢げに言い、数歩ごとに「あれが噴水公園」とか「あのお店のお菓子は三年連続金賞で」とか、アッシュにとってはどうでもいい情報を嬉しそうに伝えてくる。本当の幸せとは、そんなどうでもいいことばかりの日々なのだろうとぼんやりと思わせる、明るい声だった。
聞きながら目を細めると、ずっと焼き付いて離れない光景が脳裏に浮かんできた。諦めたはずだった。しかし諦め切れるとは、今も昔も思っていなくて。
力さえあれば、あいつさえいなければ、すべて元に戻せるのに。
「ねぇ、ところでアッシュは」
「……なんだ」
「バチカルって行ったことある?」
「!」
考えを読まれていたかのような質問に、どくんと心臓が跳ねた。彼女に心を読む能力があるとは思わないが、驚いて目を見開いてしまう。ユニは不思議そうに首を傾げた。そうだ、偶然だ。アッシュは誤魔化すようにさっと視線をはずして、髪を掻き上げた。いつもより湿っぽく、指通りが軽い。水の都で、深紅の髪はいつも以上に目立っていた。
「……バチカルに行ったことはない」
「そうなの。わたしも行ったことないんだ」
「……」
「でもすごく行きたいなってずっと思ってて。こんな緊張状態じゃなかったら、すぐにでも準備するのに」
「……あんな街」
「え?」
ギリ、と食いしばった奥歯が軋んだ。
あの街が自分のすべてだった。しかし奪われた。だからもうあの街には何もない。憎しみしかないはずなのに、こんなに恨んでいるのに、それが当然なのに、なぜかそうしようとすると胸が苦しくなるのだった。
「……」
「アッシュ?」
「……あの街は、ここみたいに繊細で煌びやかじゃないし、花も少ないぞ」
「え? ……うん、バチカルは巨大な譜石が落下してきた跡地に作られたんでしょ? 岩壁の街だもんね」
船の中でユニが「花が好き」と言っていたのを、聞き流していたようで実はきちんと聞いていたらしい。だからか、最初に思いついたのはそんなどうでもいいことだった。
「花は咲かないかもしれないけど、バチカルには闘技場があって、天空客車があって、縦に長い街の最上部には宮殿があって……」
「……ずいぶん詳しいんだな」
自分が思わず言いそうになっていたことをだいたい彼女が言ってくれたので少し助かった。今更、帰れもしない街について話すなんてことは到底出来なかったし、赦せなかったから。
「そうでしょ? いつ行ってもいいように観光ガイドとかたくさん読んで予習したんだ」
「なんでバチカルなんかに……」
尋ねると、彼女は少し赤くなって、はにかんだ。
「えへ、前からずっとね、すっごく行きたくて、いろいろ調べたりしてて……って、あれ? わたしなんでバチカルに行きたいんだっけ」
「……オレが知るかよ」
嬉しそうに話していたくせに、彼女はその理由をどうしても思い出せないと言った。うーんうーんと唸る彼女を、アッシュは横目に見て呆れる。
自分には、忘れたくても忘れられない理由があった。あの日の言葉は、今でも一字一句違わず思い出せる。まだ幼かった自分が言ったとは思えないほどに、本当の為政者の、真の恋人の言葉だった。
どこへ向かっているのか何も訊かずに彼女についてきたが、いつのまにか遠くに見えていた宮殿のすぐそばまで来ていた。近くで見るそれは、建築物としても芸術品としても一級といってよく、まさに巨大な権力を象徴しているようだった。しかしアッシュはたじろがない。もはやその身分ではないとはいえ、敵国の長の棲むところなのだから。身に沁み込んだ教えが蘇り、無意識に、眼光は鋭くなる。
「お前、まさか宮殿に向かってるんじゃないだろうな」
「え? そうだけど」
「……言ったはずだ。皇帝に報告はするなと」
「もう、しないってば。陛下に帰ったって挨拶だけしてくるから、宮殿に近づきたくないならここで待ってて」
ユニは言って、水路をまたぐ橋を渡って行った。少し怒ったようにしていたのは、アッシュがユニを疑っているせいか、皇帝を疑っているせいか。
(……グランコクマ、か)
子供の頃、アッシュは一度だけここに来たことがあった。
ND2002。ホド戦争が勃発し、自身の父が攻め込んだホド島は陥落した。その影響により各地で地獄のような戦乱が続いたが、半年後には当時の導師エベノスの仲裁で停戦した。その調印の際に、国王に随行した父に連れられてグランコクマへ来たのだ。ああ、確か王女も一緒だった。金と赤の髪が仲良く並んで、水に映るのを眺めていた、零れ落ちそうに遠いかすかな記憶。
目を薄く開くと、ゆらめく水のなかに幻想がみえた。あの日と同じ、二つの影。真っ青な水に映る、深紅の髪と、栗色の……
――栗色?
ハッとして振り返ると、自身よりもかなり背の高い男がうっすらと口元に笑みを浮かべて背後に立っていた。深い青の軍服。マルクト軍だった。
「……」
「神託の盾騎士団、ですね?」
男は含みのある低い声で訊く。この服では誤魔化せるはずがないので、アッシュは淡々と「そうだが」と答えた。男は顎をひいて眼鏡を押し上げた。光が反射して、彼の目が一時的に見えなくなった。
(ちッ……うっとおしい……)
傍目に見てもわかるほどにイライラしながら大股で歩く赤い髪の少年と、怯えながらもその腕にしっかりとつかまる健気な少女。そんなちぐはぐな二人を、本日のダアトへの巡礼者の何人かが目撃していたとかとかいないとか。
「だ、大丈夫? 追手とか、来てない?」
「……まださすがに来ないはずだ」
自身の腕につかまる青ざめた少女を見て、アッシュは肩を竦めた。港までついてきて欲しいと泣き付かれたため、嫌々ながらも承諾して、やっと丘を越えた。
しかしその道のりは散々なものだった。少しでも通行人と目が合うと「あ、あれ、通行人に化けた神託の盾じゃ……?」と言い、少し進むごとに後ろを確認しては追手がいないかと訊いてくる。いい加減腹も立ってきたが、ここまで怖がらせれば、今後ダアト、ましてや教会になど近付かないだろう。ある意味、アッシュが彼女のためにここまでしてやった成果が出たともいえる。
都合のいいことに、アニスやシンク、その他ユニに関わりのあった団員たちは、ヴァンとともにことごとく長期の任務でダアトを離れていた。皆、噂が収束する頃に戻ってくる予定だ。彼らの耳に入るとまた一段と面倒なことになるだろうから、その前に団員たちが噂話に飽きてくれているといいが。
「しかしお前、まさかマルクトの皇帝に仕えていたとはな……」
「うん、そう、驚いた?」
そして先ほど聞いた話では、彼女はグランコクマに住んでおり、皇帝直属の世話係であるらしい。これもまた好都合だった。ダアトは原則として他国に干渉しない。他国には手が出せないのである。皇帝に守られている彼女には、なおのこと手が出しにくいはず。
(普通にグランコクマで過ごしていれば、まず巻き込まれることはない)
丘を下ればそこはもう港だった。
「ほら、船。来たぞ」
「う、うん……」
監視されているわけでもないのに、なんとなく通行人の視線を感じるのは、彼女があまりにも悲痛な表情をしているせいだろう。自分が彼女を泣かせているように見えるのかもしれない。俯いた彼女はいまだにアッシュの服の裾を握りしめている。その力は緩みそうになかった。
「じゃあ……ここまで送ってきてくれて、ありがとう」
ぼそぼそと、視線を落として彼女は言葉を紡ぎ出す。
「ああ」
「……みんなによろしくね。アッシュも元気でね」
「わかってる」
「……船の中で待ち伏せされてたりとか、しないかな?」
「そこまで手をまわしてるわけないだろ」
「……じゃあ、グランコクマの港で待ち伏せ……」
「ったく、さっさと乗れ!」
言い放ってからアッシュは「しまった」と思った。つい声を荒げてしまい、さらに周囲の視線が集まった。彼女は頬を上気させ、目にいっぱいに涙を溜めながらこちらを見上げている。今、まばたきをすれば確実に涙が零れ落ちる。そんな顔をされては、怯まずにはいられなかった。
「う……アッシュぅ……」
「……」
(……なぜこんなことになっている……!?)
気が付くと彼女に手をひかれるまま船に乗っていた。汽笛の音が無常にも鳴り響いて、ダアトの地はアッシュの意志と関係なしにどんどん遠ざかっていった。しばらくすると陸地は完全に見えなくなり、四方はすべて水だけになった。甲板の端に立ちやや呆然としながら、眩しく輝く水しぶきに目を細めた。もう、乗ってしまったものはどうしようもなく、諦めるしかない。
「……本当にごめん、アッシュ。でもありがとう」
「……」
「アッシュもわたしといたら危ないのにね……本当に本当にごめん」
「……べ、別にオレは……」
「お礼っていうか、グランコクマに着いたら街を案内してあげるから」
「……それはいい」とやんわり断ると、彼女は少し悲しそうに笑った。まったく、楽観的なのか悲観的なのかわからない。腕組みをして見下ろした彼女は、おそらく年下の、成長しきっていないただの少女だった。きっと戦争の苦しみなんて、軍が何をしているのかなんて、そのもっと深くで何が行われているのかなんて、何も知らないのだろう。彼女が背負うには、あの「事件」は少し酷であった。出来ればそれを知ることなく、利用されることなく、関わることなく、生きてもらいたい。
「そっか。……あ、そうだ! じゃあ陛下にアッシュのこと報告……」
「お、おい! それだけはするな」
「へ?」
なかば嬉しそうに言った彼女を慌てて制止する。皇帝に付いていながら世界情勢に疎いとは思えないが、彼女はそこまで頭が回らなかったのだろう。ついつい溜息が漏れて、アッシュは視線を逸らした。
「お前が危険な目に遭ったという理由でマルクトがダアトに攻め込む口実を作ったらどうする。皇帝に報告なんてしなくていい」
「へ、陛下はそんな人じゃ……」
「グランコクマに着けばもう誰も追って来ない。オレのことは放っておけばいい」
少々きつい言い方だったかもしれない。しかしそれを訂正する術は持ち合わせていなかった。素直に謝ったり気持ちを伝えたりすることを、しばらくした覚えがなく、方法を忘れていた。俯いた彼女の目は見えない。思えば、彼女が笑っているのを見たのはずいぶん昔のことのように思えた。
こんな会話ばかりしていれば、それは当たり前のことかもしれないが。しかし別に嫌われても一向に構わなかった。もう、二度と会うこともないのだから。
「……ごめん」
「……」
「アッシュのことだけでもだめかな。わたしを送ってきてくれたって、陛下に伝えるのは……」
「オレは……いいから」
「え?」
「……オレはお前の観光案内で十分だ」
そう言うと、彼女は困ったように笑った。その表情を見ていたら、どうにも、ずっと抑え込んで押し殺していた感情が再び顔を見せそうで、少し切なくなった。
「――グランコクマ、グランコクマに到着いたしました」
単調な放送を聞きながら、はしゃぐわけでもなく二人は船を降りた。
少し歩くと、見慣れた街に着き恐怖感も拭い去られたのだろう、彼女はやや元気を取り戻し、巨大な水路の向こうで白く青く輝く円形の建物を指差した。
「あれがグランコクマの宮殿だよ」
「ああ、知っている」
「なんで?」
「……来たことがあるからだ」
「え? 神託の盾の任務とかで?」
身を乗り出して聞いてきたユニに「いや、さっきも言ったが神託の盾はめったに他国へ行かない」と訂正してからやっと墓穴だったと自覚した。自分も気が緩んでいるのだろうか、迂闊だった。
ではなんのため? 任務? 旅行? いや、自分が旅行好きに見えるだろうか。
「ふーん、まぁマルクト帝国の首都だしね。来たことくらいあるかー」
「……」
あえて詮索しないのか、本気で疑っていないのかはわからないが、彼女はそれ以上訊かなかった。「誰でも一度は来たい街ベスト三に毎年ランクインしてるしね」と自慢げに言い、数歩ごとに「あれが噴水公園」とか「あのお店のお菓子は三年連続金賞で」とか、アッシュにとってはどうでもいい情報を嬉しそうに伝えてくる。本当の幸せとは、そんなどうでもいいことばかりの日々なのだろうとぼんやりと思わせる、明るい声だった。
聞きながら目を細めると、ずっと焼き付いて離れない光景が脳裏に浮かんできた。諦めたはずだった。しかし諦め切れるとは、今も昔も思っていなくて。
力さえあれば、あいつさえいなければ、すべて元に戻せるのに。
「ねぇ、ところでアッシュは」
「……なんだ」
「バチカルって行ったことある?」
「!」
考えを読まれていたかのような質問に、どくんと心臓が跳ねた。彼女に心を読む能力があるとは思わないが、驚いて目を見開いてしまう。ユニは不思議そうに首を傾げた。そうだ、偶然だ。アッシュは誤魔化すようにさっと視線をはずして、髪を掻き上げた。いつもより湿っぽく、指通りが軽い。水の都で、深紅の髪はいつも以上に目立っていた。
「……バチカルに行ったことはない」
「そうなの。わたしも行ったことないんだ」
「……」
「でもすごく行きたいなってずっと思ってて。こんな緊張状態じゃなかったら、すぐにでも準備するのに」
「……あんな街」
「え?」
ギリ、と食いしばった奥歯が軋んだ。
あの街が自分のすべてだった。しかし奪われた。だからもうあの街には何もない。憎しみしかないはずなのに、こんなに恨んでいるのに、それが当然なのに、なぜかそうしようとすると胸が苦しくなるのだった。
「……」
「アッシュ?」
「……あの街は、ここみたいに繊細で煌びやかじゃないし、花も少ないぞ」
「え? ……うん、バチカルは巨大な譜石が落下してきた跡地に作られたんでしょ? 岩壁の街だもんね」
船の中でユニが「花が好き」と言っていたのを、聞き流していたようで実はきちんと聞いていたらしい。だからか、最初に思いついたのはそんなどうでもいいことだった。
「花は咲かないかもしれないけど、バチカルには闘技場があって、天空客車があって、縦に長い街の最上部には宮殿があって……」
「……ずいぶん詳しいんだな」
自分が思わず言いそうになっていたことをだいたい彼女が言ってくれたので少し助かった。今更、帰れもしない街について話すなんてことは到底出来なかったし、赦せなかったから。
「そうでしょ? いつ行ってもいいように観光ガイドとかたくさん読んで予習したんだ」
「なんでバチカルなんかに……」
尋ねると、彼女は少し赤くなって、はにかんだ。
「えへ、前からずっとね、すっごく行きたくて、いろいろ調べたりしてて……って、あれ? わたしなんでバチカルに行きたいんだっけ」
「……オレが知るかよ」
嬉しそうに話していたくせに、彼女はその理由をどうしても思い出せないと言った。うーんうーんと唸る彼女を、アッシュは横目に見て呆れる。
自分には、忘れたくても忘れられない理由があった。あの日の言葉は、今でも一字一句違わず思い出せる。まだ幼かった自分が言ったとは思えないほどに、本当の為政者の、真の恋人の言葉だった。
どこへ向かっているのか何も訊かずに彼女についてきたが、いつのまにか遠くに見えていた宮殿のすぐそばまで来ていた。近くで見るそれは、建築物としても芸術品としても一級といってよく、まさに巨大な権力を象徴しているようだった。しかしアッシュはたじろがない。もはやその身分ではないとはいえ、敵国の長の棲むところなのだから。身に沁み込んだ教えが蘇り、無意識に、眼光は鋭くなる。
「お前、まさか宮殿に向かってるんじゃないだろうな」
「え? そうだけど」
「……言ったはずだ。皇帝に報告はするなと」
「もう、しないってば。陛下に帰ったって挨拶だけしてくるから、宮殿に近づきたくないならここで待ってて」
ユニは言って、水路をまたぐ橋を渡って行った。少し怒ったようにしていたのは、アッシュがユニを疑っているせいか、皇帝を疑っているせいか。
(……グランコクマ、か)
子供の頃、アッシュは一度だけここに来たことがあった。
ND2002。ホド戦争が勃発し、自身の父が攻め込んだホド島は陥落した。その影響により各地で地獄のような戦乱が続いたが、半年後には当時の導師エベノスの仲裁で停戦した。その調印の際に、国王に随行した父に連れられてグランコクマへ来たのだ。ああ、確か王女も一緒だった。金と赤の髪が仲良く並んで、水に映るのを眺めていた、零れ落ちそうに遠いかすかな記憶。
目を薄く開くと、ゆらめく水のなかに幻想がみえた。あの日と同じ、二つの影。真っ青な水に映る、深紅の髪と、栗色の……
――栗色?
ハッとして振り返ると、自身よりもかなり背の高い男がうっすらと口元に笑みを浮かべて背後に立っていた。深い青の軍服。マルクト軍だった。
「……」
「神託の盾騎士団、ですね?」
男は含みのある低い声で訊く。この服では誤魔化せるはずがないので、アッシュは淡々と「そうだが」と答えた。男は顎をひいて眼鏡を押し上げた。光が反射して、彼の目が一時的に見えなくなった。