第1章(過去編)
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18 やるせなく夢見る思い
日が落ちるとともに風が吹き荒れ出し、遠くの方で不気味に鳥が啼いた。雲が瞬く間に空に広がって、一気に暗くなる。
ユニは教会の入り口に座りこんでいた。
まばたきをすると、目に溜まっていたのだろう、涙が零れた。なぜだろう。こんなところで寝ていた? いつから?
何も思い出せない。
冷え切った身体が、寂しく吹く風にぶるりと震えた。
◇
教会へと戻る階段を足早に上ると、もう閉めきられているはずの巨大な扉の前で、少女が一人佇んでいるのが目に入った。違和感が、脳に不協和音のように響く。
追い風で前へ流れてきた赤い髪を掻き上げて、少年――アッシュは最後の一段を上った。
「……おい」
「……」
彼女と同じ高さの地面に立ち、少し離れた位置から呼んだが、まったく反応がなかった。何もない虚無をぼうっとみつめている。薄い茶色の髪が顔にかぶさっているのを払いのけようともしない。
「おい」
「……」
「……おい! お前!」
「!」
痺れを切らせたアッシュが声を張り上げると、ようやく彼女はこちらに気が付いたようだった。目が合うと、記憶が揺さぶられた。
(こいつ、たしか……)
教会の中で何度か視界に彼女が入ってきたことがあった。なかば怯えたように見開かれた瞳も、まったく知らないというわけではなく、なんとなく見覚えがあった。もっと近くで彼女を見たことがあるような気もするが、いまいち思い出せない。
「ここで何をしているんだ?」
「……なに、も」
「なら、さっさと帰れ」
そう言って、アッシュは彼女の脇を通り過ぎた。しかし、何歩か進んだ後も背後の気配が動く様子はなかった。なんなんだ、コイツは。小さく舌打ちをして、アッシュは足を止めて振り返った。
「……お前、よく神託の盾本部にいるな?」
「あ、はい……」
そう、ただ視界の端に捉えていただけではない。彼女のことは少なからず知っていた。
よくアニスと一緒にいた。なぜだか知らないがシンクが相手をしていることも多かった。導師とも会話しているのを見たことがある。
とくに気にしていた訳ではないが、彼女のまるで友達に会いに来るかのような行動は、本部の殺伐とした空気のなかでは少し目立っていた。
「もう日も暮れた。いつまでもここにいると兵が怪しむ」
「はあ……」
太陽が消えて薄暗くなり、教会の扉も閉められ、辺りにはアッシュとこの少女くらいしかいない。自分なりに彼女の身を案じて言った言葉なのに、気の抜けた返事が返ってきて、アッシュの短気な細胞は少しイラッとする。
ただの腹が立つ部外者だ。どうしてこの少女が神託の盾を気に入っているのかわからないし、団員が彼女のことを見逃している理由もわからない。
「聞いてるか? さっさと帰れと言ってるんだ」
「う、うん……」
困ったような声で返事をされて、アッシュは思わず眉を顰めた。彼女は辺りを挙動不審に見まわしていた。何かを探したり、誰かを待っているわけでもなさそうなのに。どうも様子がおかしかった。
そのとき、階段を数人の神託の盾騎士団員が上ってくるのが見えた。巡回の任務が終わったのだろう。喋りながら、鎧をひきずるようにしてやってくる。
「ちっ、面倒だな……おい、こっちへ来い!」
「へ? あ、うん……」
騎士団内でなにかと話題の女と一緒にいるところを見られるのは面倒だと判断し、咄嗟に彼女の腕を掴んで茂みへ駆けこんだ。彼女には自分の意思がないようで、素直に手をひかれるままついてきた。
「……もう、あの人たち行ったけど……」
「ああ、わかってる」
団員たちが教会へ入っていくのを見届けてから、ようやく彼女は、ぼんやりとだが言葉らしいものを喋った。
「……もう一度訊く。お前、こんな時間まで教会で何をしていた? またあいつらとお喋りでもしてたのか?」
「ううん……違う、よ。今日はみんなに会ってない……なんだろ? ずっと居眠りしてたのかなぁ……」
彼女の言葉は、まだ夢でも見ているかのように、明瞭さが欠けていた。一日中巡礼者が耐えない教会の扉の前で、ずっと居眠りなんて出来るわけがない。とにかく様子がおかしい。
「……お前、家は何処だ」
「え?」
「とりあえず少し寝ろ。家までは送っていってやる」
「あ、えーと……」
このまま彼女を一人で放っておくとさらに厄介なことになるような気がして、アッシュは嫌々ながらも彼女を家まで送ると言ったのだった。もちろん、ただ彼女の身を案じただけではなく、少し気になることもあっての行動だったが。
彼女は「別にいいのに……」とこぼしながらも、感謝するようにアッシュに向けて頭を下げた。
「ありがとう」
「……礼はいい」
「……アッシュ」
「?」
頭を下げたまま表情の見えない彼女の口から、突然自分の名前が囁かれたのでアッシュは驚いた。名乗った覚えはないのだが。
「あなた、アッシュっていうんだよね?」
「あ、あぁ……」
顔をあげた彼女が思ったよりも傍にいたので、一瞬たじろいだ。一方の彼女はようやく意識が覚醒してきたらしく、青白かった頬にも赤みが差してきていた。
「前に……ここでぶつかったことがあるの。その時はごめんなさい。なんか怖そうな人だと思ったけど……心配してくれて、実は優しい人なんだね」
正直、よく覚えていないのだが、どうやら彼女とはこの辺りでひと悶着あったようだ。記憶にないが、彼女の方はアッシュのことを覚えていた。
「わたしのこと、覚えてないよね? まぁ、特徴ないし」
「……」
「でもわたしは……あなたの赤い髪が綺麗だったから覚えてる」
「……み、みつかると面倒だからあまり喋るな」
いきなりそんなことを言われて返す言葉がみつからず、さっと法衣を翻して茂みの奥へと進んだ。断じて照れ隠しではない、と己に言い聞かせて。振り返ると、彼女はゆっくりと踏む草を選ぶようにして後をついてくる。肩越しに「こっちだ。はやく来い」と言うと、彼女はへらりと笑って少し駆け足で追いついてきた。
(……変な奴だな)
駆け寄ってきた彼女はまるで従順な犬のようだった。愛想のない自分にこんなふうに接してくる者はあまりいない。こんなにたくさん誰かと話すのは、本当に久しぶりだった。
不思議な気分になり、彼女に背を向けた後で無意識に口角が上がっていた。日も落ちて湿った森のなかを通って、無事に家に辿り着くまで、アッシュは彼女に合わせて少しだけ歩みを緩めたのだった。
誰が漏らしたのだろうか。
ひそひそ、とそれは教会内で静かに広まりつつあった。
噂好きの団員たちはよく場所を問わずして集まっては根も葉もない話をするが、今回のそれについては陰謀じみた「噂」であり「事件」であり、誰もが真剣な顔で論じ合っていた。
自分におよそ関わりのない出来事であり、誰も真相を知らないからこそ、噂は自ら膨れ上がっていく。
どうやら一般人が見てしまったらしい……
モース様は…… あれは廃棄されるはずで……
いったいどんな罰を…… 確か主席総長が……
聞く場所によって細部が異なっているものの、概ね話は一貫しているように思えた。どうも真実らしく、広まっている。しかし、自身をここへ連れてきた張本人の名前まで囁かれているのは単純に不可解だった。
アッシュはやや苛立ちながら、噂が飛び交う中を早足で潜り抜けて行く。
「しかしまさか流失したりはしないだろう。それこそ大問題だぞ」
「ああ、犯人は神託の盾に捕えられたって聞いたぞ」
「それで、そいつはどうなったんだ?」
「さぁね……溜まった連中にやりたい放題にされたんじゃないか」
「……くだらん噂を流すんじゃねぇよ、屑が」
道の真ん中で突っ立って話をされては、聞きたくないものも聞こえてくる。とうとうアッシュは通り過ぎる際に噛み殺していた言葉を吐いた。
「……アッシュだ」
「……けっ、かわいくないやつ」
しかしここまでくるともはや無視できない問題ではある。背後に悪態を聞きながら、アッシュは教会を出た。
「は? 帰れって……?」
当の本人は、ポカンとした顔で玄関先に立ち尽くしていた。
噂話の中心人物は十代の少女であること、ダアトの住民ではなく旅行者であること、そして最近よく本部に出入りしていた人物であること――
そんな条件を満たすのはこの少女くらいしか思い当らない。アッシュ以外の者でも何人かはぴんときているはずだ。
そして、あの日――彼女の様子がおかしかったのは恐らく例の「事件」の直後だったのだろう。アッシュは言葉を選んで、話し始めた。
「ああ、この間お前が教会前をふらふらしていたのを何人かの兵士が見ていた」
「え……」
彼女は今日も教会へ行くつもりだったのか、身支度はすでに整えられていた。しかし件の噂が蔓延している今、教会や神託の盾本部へ出入りするのは避けるべきであった。そのために、アッシュはわざわざ彼女の家までやってきたのだ。
「それに加えて無断で本部に侵入していたのもばれたぞ。怪しいから捕まえて尋問する、と決定された」
「え!? な、なにそれ……」
「最悪の場合、刑が科される」
「ええええ!」
これはアッシュのついた嘘だったが、彼女には「事件」について思い当たる様子はなく、ただただ困惑しているようだった。自覚がないか、ショックで忘れたか、あるいは記憶を消されているか――
「今後、本部には来ない方がいい。本来はお前が考えているよりもずっと規律が厳しいところだ」
アッシュは腕組みをして、溜息をついた。「今までは運良く見逃されていただけだ」と言って彼女を見やると、泣きそうな顔をして扉に寄りかかっていた。少し遠まわしに言ったのだが、この言葉が意味していることを、彼女は理解しただろうか。
「どこかは知らないが、お前、ダアトの人間じゃないんだろ。面倒なことになる前にすぐ帰った方がいい」
「う、うん……」
「この家のやつらにも迷惑をかけたいなら、ダアトにいても構わないが」
「……わ、わかった。待ってて! 支度するから」
「まっ……?」
「待ってて……ください。怖いから……港まで送っていってくれる……?」
唐突に言われたので、思わず何も考えず頷いてしまった。彼女は震える声で「ありがとう」と言って扉を閉めた。
その後で、アッシュは小さく溜息をついた。やはり、「事件」のことは何も知らないようだ。ならば、本当のことを伝える必要はない。そして今の怯え様を見ると、この程度の嘘でも、彼女をダアトから遠ざけることは可能であるようだ。
(……巻き込まれるのはオレだけで構わない)
彼女に声をかけた日とは違って、今日は頭上に浮かぶ譜石がはっきりと見える程晴れた空だった。こんな良い日にこんな思いをするなんて不平等であり、こんな日以外の日にもこんな思いをしている自分もまた不運であると認めざるをえなかった。
よく知りもしない人間を助けてやろうだなんて、久々に沸いた同情も、結局は自分の存在理由の正当化にすぎないのだろうか。
日が落ちるとともに風が吹き荒れ出し、遠くの方で不気味に鳥が啼いた。雲が瞬く間に空に広がって、一気に暗くなる。
ユニは教会の入り口に座りこんでいた。
まばたきをすると、目に溜まっていたのだろう、涙が零れた。なぜだろう。こんなところで寝ていた? いつから?
何も思い出せない。
冷え切った身体が、寂しく吹く風にぶるりと震えた。
◇
教会へと戻る階段を足早に上ると、もう閉めきられているはずの巨大な扉の前で、少女が一人佇んでいるのが目に入った。違和感が、脳に不協和音のように響く。
追い風で前へ流れてきた赤い髪を掻き上げて、少年――アッシュは最後の一段を上った。
「……おい」
「……」
彼女と同じ高さの地面に立ち、少し離れた位置から呼んだが、まったく反応がなかった。何もない虚無をぼうっとみつめている。薄い茶色の髪が顔にかぶさっているのを払いのけようともしない。
「おい」
「……」
「……おい! お前!」
「!」
痺れを切らせたアッシュが声を張り上げると、ようやく彼女はこちらに気が付いたようだった。目が合うと、記憶が揺さぶられた。
(こいつ、たしか……)
教会の中で何度か視界に彼女が入ってきたことがあった。なかば怯えたように見開かれた瞳も、まったく知らないというわけではなく、なんとなく見覚えがあった。もっと近くで彼女を見たことがあるような気もするが、いまいち思い出せない。
「ここで何をしているんだ?」
「……なに、も」
「なら、さっさと帰れ」
そう言って、アッシュは彼女の脇を通り過ぎた。しかし、何歩か進んだ後も背後の気配が動く様子はなかった。なんなんだ、コイツは。小さく舌打ちをして、アッシュは足を止めて振り返った。
「……お前、よく神託の盾本部にいるな?」
「あ、はい……」
そう、ただ視界の端に捉えていただけではない。彼女のことは少なからず知っていた。
よくアニスと一緒にいた。なぜだか知らないがシンクが相手をしていることも多かった。導師とも会話しているのを見たことがある。
とくに気にしていた訳ではないが、彼女のまるで友達に会いに来るかのような行動は、本部の殺伐とした空気のなかでは少し目立っていた。
「もう日も暮れた。いつまでもここにいると兵が怪しむ」
「はあ……」
太陽が消えて薄暗くなり、教会の扉も閉められ、辺りにはアッシュとこの少女くらいしかいない。自分なりに彼女の身を案じて言った言葉なのに、気の抜けた返事が返ってきて、アッシュの短気な細胞は少しイラッとする。
ただの腹が立つ部外者だ。どうしてこの少女が神託の盾を気に入っているのかわからないし、団員が彼女のことを見逃している理由もわからない。
「聞いてるか? さっさと帰れと言ってるんだ」
「う、うん……」
困ったような声で返事をされて、アッシュは思わず眉を顰めた。彼女は辺りを挙動不審に見まわしていた。何かを探したり、誰かを待っているわけでもなさそうなのに。どうも様子がおかしかった。
そのとき、階段を数人の神託の盾騎士団員が上ってくるのが見えた。巡回の任務が終わったのだろう。喋りながら、鎧をひきずるようにしてやってくる。
「ちっ、面倒だな……おい、こっちへ来い!」
「へ? あ、うん……」
騎士団内でなにかと話題の女と一緒にいるところを見られるのは面倒だと判断し、咄嗟に彼女の腕を掴んで茂みへ駆けこんだ。彼女には自分の意思がないようで、素直に手をひかれるままついてきた。
「……もう、あの人たち行ったけど……」
「ああ、わかってる」
団員たちが教会へ入っていくのを見届けてから、ようやく彼女は、ぼんやりとだが言葉らしいものを喋った。
「……もう一度訊く。お前、こんな時間まで教会で何をしていた? またあいつらとお喋りでもしてたのか?」
「ううん……違う、よ。今日はみんなに会ってない……なんだろ? ずっと居眠りしてたのかなぁ……」
彼女の言葉は、まだ夢でも見ているかのように、明瞭さが欠けていた。一日中巡礼者が耐えない教会の扉の前で、ずっと居眠りなんて出来るわけがない。とにかく様子がおかしい。
「……お前、家は何処だ」
「え?」
「とりあえず少し寝ろ。家までは送っていってやる」
「あ、えーと……」
このまま彼女を一人で放っておくとさらに厄介なことになるような気がして、アッシュは嫌々ながらも彼女を家まで送ると言ったのだった。もちろん、ただ彼女の身を案じただけではなく、少し気になることもあっての行動だったが。
彼女は「別にいいのに……」とこぼしながらも、感謝するようにアッシュに向けて頭を下げた。
「ありがとう」
「……礼はいい」
「……アッシュ」
「?」
頭を下げたまま表情の見えない彼女の口から、突然自分の名前が囁かれたのでアッシュは驚いた。名乗った覚えはないのだが。
「あなた、アッシュっていうんだよね?」
「あ、あぁ……」
顔をあげた彼女が思ったよりも傍にいたので、一瞬たじろいだ。一方の彼女はようやく意識が覚醒してきたらしく、青白かった頬にも赤みが差してきていた。
「前に……ここでぶつかったことがあるの。その時はごめんなさい。なんか怖そうな人だと思ったけど……心配してくれて、実は優しい人なんだね」
正直、よく覚えていないのだが、どうやら彼女とはこの辺りでひと悶着あったようだ。記憶にないが、彼女の方はアッシュのことを覚えていた。
「わたしのこと、覚えてないよね? まぁ、特徴ないし」
「……」
「でもわたしは……あなたの赤い髪が綺麗だったから覚えてる」
「……み、みつかると面倒だからあまり喋るな」
いきなりそんなことを言われて返す言葉がみつからず、さっと法衣を翻して茂みの奥へと進んだ。断じて照れ隠しではない、と己に言い聞かせて。振り返ると、彼女はゆっくりと踏む草を選ぶようにして後をついてくる。肩越しに「こっちだ。はやく来い」と言うと、彼女はへらりと笑って少し駆け足で追いついてきた。
(……変な奴だな)
駆け寄ってきた彼女はまるで従順な犬のようだった。愛想のない自分にこんなふうに接してくる者はあまりいない。こんなにたくさん誰かと話すのは、本当に久しぶりだった。
不思議な気分になり、彼女に背を向けた後で無意識に口角が上がっていた。日も落ちて湿った森のなかを通って、無事に家に辿り着くまで、アッシュは彼女に合わせて少しだけ歩みを緩めたのだった。
誰が漏らしたのだろうか。
ひそひそ、とそれは教会内で静かに広まりつつあった。
噂好きの団員たちはよく場所を問わずして集まっては根も葉もない話をするが、今回のそれについては陰謀じみた「噂」であり「事件」であり、誰もが真剣な顔で論じ合っていた。
自分におよそ関わりのない出来事であり、誰も真相を知らないからこそ、噂は自ら膨れ上がっていく。
どうやら一般人が見てしまったらしい……
モース様は…… あれは廃棄されるはずで……
いったいどんな罰を…… 確か主席総長が……
聞く場所によって細部が異なっているものの、概ね話は一貫しているように思えた。どうも真実らしく、広まっている。しかし、自身をここへ連れてきた張本人の名前まで囁かれているのは単純に不可解だった。
アッシュはやや苛立ちながら、噂が飛び交う中を早足で潜り抜けて行く。
「しかしまさか流失したりはしないだろう。それこそ大問題だぞ」
「ああ、犯人は神託の盾に捕えられたって聞いたぞ」
「それで、そいつはどうなったんだ?」
「さぁね……溜まった連中にやりたい放題にされたんじゃないか」
「……くだらん噂を流すんじゃねぇよ、屑が」
道の真ん中で突っ立って話をされては、聞きたくないものも聞こえてくる。とうとうアッシュは通り過ぎる際に噛み殺していた言葉を吐いた。
「……アッシュだ」
「……けっ、かわいくないやつ」
しかしここまでくるともはや無視できない問題ではある。背後に悪態を聞きながら、アッシュは教会を出た。
「は? 帰れって……?」
当の本人は、ポカンとした顔で玄関先に立ち尽くしていた。
噂話の中心人物は十代の少女であること、ダアトの住民ではなく旅行者であること、そして最近よく本部に出入りしていた人物であること――
そんな条件を満たすのはこの少女くらいしか思い当らない。アッシュ以外の者でも何人かはぴんときているはずだ。
そして、あの日――彼女の様子がおかしかったのは恐らく例の「事件」の直後だったのだろう。アッシュは言葉を選んで、話し始めた。
「ああ、この間お前が教会前をふらふらしていたのを何人かの兵士が見ていた」
「え……」
彼女は今日も教会へ行くつもりだったのか、身支度はすでに整えられていた。しかし件の噂が蔓延している今、教会や神託の盾本部へ出入りするのは避けるべきであった。そのために、アッシュはわざわざ彼女の家までやってきたのだ。
「それに加えて無断で本部に侵入していたのもばれたぞ。怪しいから捕まえて尋問する、と決定された」
「え!? な、なにそれ……」
「最悪の場合、刑が科される」
「ええええ!」
これはアッシュのついた嘘だったが、彼女には「事件」について思い当たる様子はなく、ただただ困惑しているようだった。自覚がないか、ショックで忘れたか、あるいは記憶を消されているか――
「今後、本部には来ない方がいい。本来はお前が考えているよりもずっと規律が厳しいところだ」
アッシュは腕組みをして、溜息をついた。「今までは運良く見逃されていただけだ」と言って彼女を見やると、泣きそうな顔をして扉に寄りかかっていた。少し遠まわしに言ったのだが、この言葉が意味していることを、彼女は理解しただろうか。
「どこかは知らないが、お前、ダアトの人間じゃないんだろ。面倒なことになる前にすぐ帰った方がいい」
「う、うん……」
「この家のやつらにも迷惑をかけたいなら、ダアトにいても構わないが」
「……わ、わかった。待ってて! 支度するから」
「まっ……?」
「待ってて……ください。怖いから……港まで送っていってくれる……?」
唐突に言われたので、思わず何も考えず頷いてしまった。彼女は震える声で「ありがとう」と言って扉を閉めた。
その後で、アッシュは小さく溜息をついた。やはり、「事件」のことは何も知らないようだ。ならば、本当のことを伝える必要はない。そして今の怯え様を見ると、この程度の嘘でも、彼女をダアトから遠ざけることは可能であるようだ。
(……巻き込まれるのはオレだけで構わない)
彼女に声をかけた日とは違って、今日は頭上に浮かぶ譜石がはっきりと見える程晴れた空だった。こんな良い日にこんな思いをするなんて不平等であり、こんな日以外の日にもこんな思いをしている自分もまた不運であると認めざるをえなかった。
よく知りもしない人間を助けてやろうだなんて、久々に沸いた同情も、結局は自分の存在理由の正当化にすぎないのだろうか。