第1章(過去編)
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17 羊の群れと立ち並ぶ生垣は
「ユニさん、今日もダアトへおでかけですか?」
「そうです! 行ってきますねーアスランさん」
「お気をつけて。またお土産話、待っていますよ」
宮殿を出る時にたまたますれ違ったアスランと、ほとんど叫びながら会話をしてユニは港へ駆けていった。アスランは「忙しい人だ」と微笑んで、慌ただしく出て行くその後ろ姿を見送った。
毎月必ずダアトへでかけるのがユニにとっての日常となってきていた。ピオニーには「勉強熱心でいいことだ」と言われるが、ジェイドにはあまりいい顔をされない。彼の鋭い勘が、ユニの心がグランコクマから離れつつあるのを感じているせいだろうか。
◇
「今日もユニはダアトに?」
大量の書類を抱えたジェイドは、ピオニーの私室をぐるりと見渡して言った。自称「整理整頓が苦手」なピオニーはユニがいないと一瞬で部屋を散らかしてしまうので、ジェイドは、この部屋が片付いているか否かでユニが傍にいるかいないかを判別していた。
「まったく……」
「なんだ、ユニももう大人だぞ。過保護はうざがられるぞ?」
書類をどんとピオニーの机に置くと、椅子にふんぞりかえって座っているピオニーがだるそうに視線を送ってきた。ユニがいないと部屋が片付かないだけでなく、この皇帝の仕事に対するやる気まで下がるのだから、溜息もつきたくなる。
「そういうあなたが一番過保護だと思いますがねぇ」
「そうか?」
「まぁ……私も心配しているんですよ。人を疑うことを知らないから、簡単に災難に巻き込まれそうで」
眼鏡を押し上げてふと窓の外を見ると、グランコクマの西方に年中漂っている雷雲が、いつもよりも街に近い位置で黒く渦巻いていた。確か今日は大雨の預言があった筈。なんとなく嫌な感じのする天気だった。
「ユニ、そろそろダアトに着く頃か? なにしてんだろうなぁ、今頃」
「そうですねぇ。私たちの目の届かない場所で、あの子は一体なにをしているんでしょうね」
稲妻が堕ちる音が、雲の向こうから聞こえてきた。
◇
「うわー今日は天気悪いなぁ」
いつものように教会へ続く道を歩くユニは、薄暗い空を見て思わず足を止めた。ダアトは晴れの多い気候でいつ来ても天気がよかったので、今日の空模様はなんだか不吉なもののように思える。分厚い雲で覆われた灰色の空からは、今にも雨が降り出しそうだった。
「降ってくる前に教会に着きたいな……」
観光客たちの間を縫うように、ユニは道を急いだ。
(グランコクマも、いつも天気いいし、どうせ今日も晴れてるんだろうなー。んで、陛下は仕事すっぽかしてジェイドが呆れて……)
脳裏に浮かんだそれは、いつも目にしていた光景だった。なんら変わりない。ユニがグランコクマにいる時も、ダアトにいる時も。
(……わたしがいなくても別に変わらない)
それならば、このまま帰らなくても――と考えて、頭を振った。
今日は休日だからだろうか、天気が悪いにも関わらず教会は人で溢れかえっていた。そのせいで警備の兵が増やされており、案の定、いつも本部へ入るときに使う通路はしっかり封鎖されている。
(……よし、仕方ない、あの道を使おう)
あの道とは、以前ダアトに来た際にユニがみつけた教会内部への入り口の一つだった。教会の裏手の方を探索していたら偶然みつけた古い扉。なぜか鍵は開いており、例のわかりにくい迷路のような廊下へと繋がっていた。しかし繋がってはいるものの、その先でうまく神託の盾本部の近くまで進めるかはわからない。
(まぁ、探検ってことで……)
湿りはじめた空の下、すっかり教会の空気に慣れきっていたユニは軽い気持ちでその扉を押し開けた。木の軋む音がして、長い間使われていないためか埃が舞った。
ユニは足を踏み入れた。それは古い秘密を抱えた深淵への扉だったとは気付かずに。
(……ああ、やっぱり迷った……)
同じような壁の模様、柱が延々と続く。何度も来ているせいで多少は道を覚えたと思っていたが、なかなか見覚えのある場所に辿り着かなかった。普段の経路でもほとんど人に出くわさないのだが、この道には人の気配はおろか痕跡すらほとんど感じられなかった。かなり長い間使われていないのかもしれない。
もはや引き返せもしないので、ユニはとにかく歩いた。しばらくすればきっといつものようにシンクあたりが文句を言いながら助けにきてくれるだろう。それとも、ここには不釣り合いな元気な声でアニスが自分の名を呼ぶかもしれない。今日はいつもと違うから、めずらしくイオンやアリエッタにも会えるかもしれない。はたまた、ディストが変な椅子に乗ってやってくる可能性も――
自然と笑みが零れていた。友人たちに会える想像をするのは楽しいことだった。
しかし、いつまで経っても廊下の景色は変わらないし、誰もやってこなかった。
ユニはだんだん怖くなってきた。気力も体力も失われてきていた。初めてこの教会に迷い込んだ時と似た漠然とした不安に、胸が圧迫される。
(ここ……どこなんだろう……? どうしよう……誰か、誰でもいい。お願い。誰か助けて……)
そう懇願した時、塞ぎかけた視界の端で微かに揺れた、焔のような赤。
はっとして振り返ると、少し先の曲がり角にその赤が消えていくのが見えた。ユニの記憶の泉に石が投げ込まれて、その波紋が思い出を揺らす。
(赤い髪……前に、ダアトで会ったことある……)
何ヵ月か前に教会前の階段でぶつかった少年が、思い浮かんだ。
(確か……そう、アッシュ……)
きっと彼だ。とにかく人に会えれば誰でもよかったので、ユニは慌てて彼を追って走り出した。しかし、角を曲った先にはもう何も見当たらず、なんとなくその赤を幻覚として纏った空気があるだけだった。
(やば。幻覚でも見たのかなわたし……どうしよう……どうすれば……)
ユニは泣きたくなってきた。どこへ続くのか、終わりがあるのかもわからない道を一人で歩くのが、こんなに怖いとは思わなかった。もう前にも後ろにも進みたくない。ずるずると壁にもたれて、ユニは座り込んだ。
『ふぇ……も、もう無理です……』
『何を言っているんです? 立ちなさい。戦場では誰も待ってくれませんよ』
『でももう足が動かないんです~……』
『ではずっとそこで座り込んだままですか? 死を待つのですか?』
『死ってそんな大げさな……』
『その程度の覚悟ならば、もうあなたに教えることは何もありません』
『あ、待って下さい! すいません、やります!』
『……まったく、都合のいい方ですね』
『もう二度とこんなこと言いません! もうジェイドがいなくても、立ち止まったりしませんから!』
自分の頬を冷たい何かが伝って、目が覚めた。ユニはぼんやりと目を擦って、先ほど見ていた夢――昔の記憶を思い返していた。グランコクマという大切な街での、何気ない、いつの頃かも思い出せないくらいの一場面だった。
(止まらないって……言ったからなぁ……)
立ち上がると、少し休んでいたせいか先ほどよりも足が軽かった。これなら大丈夫。ユニは両頬をぴしゃりと叩いて、もう一度歩き出した。
(……なんだろう、この扉)
ようやく違う景色になったと思ったら、目の前に突然奇妙なほどに荘厳な扉が現れた。古く、重く、巨大な扉は、侵入者を拒むように聳える。しかし自分ごときの侵入者をその前まで招きいれてしまうなんて。もうこの扉の役割は終わっているのだろうか。
教会内でよく見かける模様と似たものが施されてはいるが、どこか様相が異なる。入ってよいのか、悪いのか、わからなかった。
(……でも引き返しても仕方ないし、入っちゃおうか)
ここに来るまで、結局誰にも出会わなかった。つまりここはほとんど人が来ない。よってこの扉を開けても、みつかる可能性はかなり低い。しかしここが希少な場所であればあるほど、やはり問題も生じてくる。
――もしも、ここが秘預言(クローズドスコア)の安置所だったら?
秘預言は、教団内でも詠師職以上の一部の人間しか閲覧権限を持たないほどの重要な秘密。閲覧権のない者が秘預言を調べれば、死罪となるほどの最高機密である。
(さすがに……そんな訳ないよね)
ユニは扉に手をかざし、ゆっくりと体重をかけた。それは不思議なほど重さがなく、まるでユニを導くように開いた。
(……ここは……?)
扉の向こうには、思っていた以上に広い空間があった。曇った窓から差す光はほとんど消えかかっており、そのわずかな光に、古ぼけた埃がきらきらと舞っている。
目が慣れてくると、中央の台座に透明な石がいくつか積み重なっているのが見えた。
無意識に足音を立てないようにして近付くと、その透き通った石に見覚えがあることに気付く。瞬間、ユニの全身をぞくりと冷たいものが駆け抜けて行った。
(これは……譜石……まさか、本当に秘預言……!?)
急に脈拍が速くなり、ユニは胸を抑えつけた。乱れる呼吸が部屋に響き渡って怖くなった。今、誰かが来たら、隠れられる自信がない。それなのに、震える指はその譜石へと勝手に伸びていた。
(……よ、詠みたい……)
一握りの者しか触れることが出来ない秘預言が目の前にあるとしたら、それに近付かずにいられる人間など果たしているのだろうか。心が欲する星の真理。その欲求は、理性なんかで押し留められるものではない。
凍りついたように冷たくなった指で、ユニはやっとの思いで石を一つ拾い上げた。落とさないように、そっと、目の前にかざす。心臓が壊れそうなくらいに胸を叩く。
キラキラと透き通る石に記された古代イスパニア文字が、ユニに語りかけてくるようだった。念のため、とジェイドに叩き込まれた古代語の知識が、こんなところで役に立つなんて――
「……栄光を、掴む者」
「そこで何をしている!」
突然の怒鳴り声に、ユニはびくりと肩を震わせた。心臓は息をつく暇もないくらいに脈打って血を送り出しているはずなのに、なぜか身体中から血の気がひいていく。凍りついて動かない指から譜石が滑り落ちて、ユニの足元でガラスのように粉々に砕け散った。
「誰だ!?」
「い、いや……ちが、ちがう……」
ユニは蒼白な顔で、声のした方を見た。やや太った体型の司祭らしき男が、どすどすと荒い足音を立てて部屋に入ってくる。ユニは指一本動かせず、その場で死んだように立ち尽くしていた。唇から洩れる言葉もほとんど音にならない。
「何をしていた? 詠んだんだな?」
「……っ」
ユニは震える両手を握りしめながら、やっとの思いでふるふると首を振った。男のでっぷりとした顔はユニに対する憎しみと軽蔑の念を露わにしていた。男は問答無用とばかりにユニの腕を掴む。
「ひっ! ……ち、違います! わ、わたしは……!」
「戯言は聞き入れん! 来い! 来るのだ!」
やっと声が出たと思ったが、言い訳はもはやなんの意味もない。いわば現行犯逮捕だ。乱暴に腕を引かれ、ユニは転がりそうになった。
混乱しきったユニの頭にはっきりと「死罪」の二文字がよぎった。逆に言えば、浮かんだのはそれだけだった。
「……お、お願いします! どうか、死罪だけは……」
「死罪? ほう、そうか死罪をお望みか」
「……え……?」
ユニに言われてようやく思い出したかのように、男はその言葉を口にする。どういうことだろう、とユニはさらに困惑した。確かアニスなどから「閲覧権のない者が秘預言を調べれば、即刻死罪!」と聞いていたはずだが。男は足を止めてしばらく思考を巡らせると、いやらしく笑ってユニを見下ろした。
「ならば死ぬ前に教えてやろう、あれは秘預言ではない」
「……!?」
「死罪がよいというなら喜んで罰してやるが」
「な、なぜ……?」
秘預言でないのなら一体あの部屋はなんだというのだ? そこにいるのを見られただけで、理由も聞かずに強制的に捕まえられるなんて。見張りの兵もいなかったが、誰も寄り付かないほど教会の奥深くに隠す意図は? 秘預言の他にも、隠された預言があるのだろうか?
しかしそんなことはこの際どうでもいい。「死」以外に助かる道があるならどんな道でもいい。ピオニーに与えてもらった尊い命の灯を、こんなことで無駄にしたくはない。ユニは縋る思いで言葉を紡いだ。
「で、では死罪にはならないのですね……?」
「そうかもしれんが」
「じゃあ……!」
「ここへ侵入した場合の罰を定めた規則は存在しない。だが、あれを見たお前を帰すわけにもいかぬから……」
「そ、それじゃあ全部忘れますから! このことは誰にも漏らしません! お願いです!」
ユニが泣きつくような声をあげると、男はしばし汚らわしいものを見るような目でみつめたが、不意に何か思い付き、にたりと笑った。
「ほう、言ったな? では全て忘れてもらおう」
「……!?」
「導師イオン……いや、あれはもう弱っておるし、例のレプリカとやらを使うか」
「イ、イオン様に何を……!?」
いつのまにか足元に紫色に輝く譜陣が現れていた。
その閃光に包まれると同時に、ユニの脳がぐらりと揺れた。
「ユニさん、今日もダアトへおでかけですか?」
「そうです! 行ってきますねーアスランさん」
「お気をつけて。またお土産話、待っていますよ」
宮殿を出る時にたまたますれ違ったアスランと、ほとんど叫びながら会話をしてユニは港へ駆けていった。アスランは「忙しい人だ」と微笑んで、慌ただしく出て行くその後ろ姿を見送った。
毎月必ずダアトへでかけるのがユニにとっての日常となってきていた。ピオニーには「勉強熱心でいいことだ」と言われるが、ジェイドにはあまりいい顔をされない。彼の鋭い勘が、ユニの心がグランコクマから離れつつあるのを感じているせいだろうか。
◇
「今日もユニはダアトに?」
大量の書類を抱えたジェイドは、ピオニーの私室をぐるりと見渡して言った。自称「整理整頓が苦手」なピオニーはユニがいないと一瞬で部屋を散らかしてしまうので、ジェイドは、この部屋が片付いているか否かでユニが傍にいるかいないかを判別していた。
「まったく……」
「なんだ、ユニももう大人だぞ。過保護はうざがられるぞ?」
書類をどんとピオニーの机に置くと、椅子にふんぞりかえって座っているピオニーがだるそうに視線を送ってきた。ユニがいないと部屋が片付かないだけでなく、この皇帝の仕事に対するやる気まで下がるのだから、溜息もつきたくなる。
「そういうあなたが一番過保護だと思いますがねぇ」
「そうか?」
「まぁ……私も心配しているんですよ。人を疑うことを知らないから、簡単に災難に巻き込まれそうで」
眼鏡を押し上げてふと窓の外を見ると、グランコクマの西方に年中漂っている雷雲が、いつもよりも街に近い位置で黒く渦巻いていた。確か今日は大雨の預言があった筈。なんとなく嫌な感じのする天気だった。
「ユニ、そろそろダアトに着く頃か? なにしてんだろうなぁ、今頃」
「そうですねぇ。私たちの目の届かない場所で、あの子は一体なにをしているんでしょうね」
稲妻が堕ちる音が、雲の向こうから聞こえてきた。
◇
「うわー今日は天気悪いなぁ」
いつものように教会へ続く道を歩くユニは、薄暗い空を見て思わず足を止めた。ダアトは晴れの多い気候でいつ来ても天気がよかったので、今日の空模様はなんだか不吉なもののように思える。分厚い雲で覆われた灰色の空からは、今にも雨が降り出しそうだった。
「降ってくる前に教会に着きたいな……」
観光客たちの間を縫うように、ユニは道を急いだ。
(グランコクマも、いつも天気いいし、どうせ今日も晴れてるんだろうなー。んで、陛下は仕事すっぽかしてジェイドが呆れて……)
脳裏に浮かんだそれは、いつも目にしていた光景だった。なんら変わりない。ユニがグランコクマにいる時も、ダアトにいる時も。
(……わたしがいなくても別に変わらない)
それならば、このまま帰らなくても――と考えて、頭を振った。
今日は休日だからだろうか、天気が悪いにも関わらず教会は人で溢れかえっていた。そのせいで警備の兵が増やされており、案の定、いつも本部へ入るときに使う通路はしっかり封鎖されている。
(……よし、仕方ない、あの道を使おう)
あの道とは、以前ダアトに来た際にユニがみつけた教会内部への入り口の一つだった。教会の裏手の方を探索していたら偶然みつけた古い扉。なぜか鍵は開いており、例のわかりにくい迷路のような廊下へと繋がっていた。しかし繋がってはいるものの、その先でうまく神託の盾本部の近くまで進めるかはわからない。
(まぁ、探検ってことで……)
湿りはじめた空の下、すっかり教会の空気に慣れきっていたユニは軽い気持ちでその扉を押し開けた。木の軋む音がして、長い間使われていないためか埃が舞った。
ユニは足を踏み入れた。それは古い秘密を抱えた深淵への扉だったとは気付かずに。
(……ああ、やっぱり迷った……)
同じような壁の模様、柱が延々と続く。何度も来ているせいで多少は道を覚えたと思っていたが、なかなか見覚えのある場所に辿り着かなかった。普段の経路でもほとんど人に出くわさないのだが、この道には人の気配はおろか痕跡すらほとんど感じられなかった。かなり長い間使われていないのかもしれない。
もはや引き返せもしないので、ユニはとにかく歩いた。しばらくすればきっといつものようにシンクあたりが文句を言いながら助けにきてくれるだろう。それとも、ここには不釣り合いな元気な声でアニスが自分の名を呼ぶかもしれない。今日はいつもと違うから、めずらしくイオンやアリエッタにも会えるかもしれない。はたまた、ディストが変な椅子に乗ってやってくる可能性も――
自然と笑みが零れていた。友人たちに会える想像をするのは楽しいことだった。
しかし、いつまで経っても廊下の景色は変わらないし、誰もやってこなかった。
ユニはだんだん怖くなってきた。気力も体力も失われてきていた。初めてこの教会に迷い込んだ時と似た漠然とした不安に、胸が圧迫される。
(ここ……どこなんだろう……? どうしよう……誰か、誰でもいい。お願い。誰か助けて……)
そう懇願した時、塞ぎかけた視界の端で微かに揺れた、焔のような赤。
はっとして振り返ると、少し先の曲がり角にその赤が消えていくのが見えた。ユニの記憶の泉に石が投げ込まれて、その波紋が思い出を揺らす。
(赤い髪……前に、ダアトで会ったことある……)
何ヵ月か前に教会前の階段でぶつかった少年が、思い浮かんだ。
(確か……そう、アッシュ……)
きっと彼だ。とにかく人に会えれば誰でもよかったので、ユニは慌てて彼を追って走り出した。しかし、角を曲った先にはもう何も見当たらず、なんとなくその赤を幻覚として纏った空気があるだけだった。
(やば。幻覚でも見たのかなわたし……どうしよう……どうすれば……)
ユニは泣きたくなってきた。どこへ続くのか、終わりがあるのかもわからない道を一人で歩くのが、こんなに怖いとは思わなかった。もう前にも後ろにも進みたくない。ずるずると壁にもたれて、ユニは座り込んだ。
『ふぇ……も、もう無理です……』
『何を言っているんです? 立ちなさい。戦場では誰も待ってくれませんよ』
『でももう足が動かないんです~……』
『ではずっとそこで座り込んだままですか? 死を待つのですか?』
『死ってそんな大げさな……』
『その程度の覚悟ならば、もうあなたに教えることは何もありません』
『あ、待って下さい! すいません、やります!』
『……まったく、都合のいい方ですね』
『もう二度とこんなこと言いません! もうジェイドがいなくても、立ち止まったりしませんから!』
自分の頬を冷たい何かが伝って、目が覚めた。ユニはぼんやりと目を擦って、先ほど見ていた夢――昔の記憶を思い返していた。グランコクマという大切な街での、何気ない、いつの頃かも思い出せないくらいの一場面だった。
(止まらないって……言ったからなぁ……)
立ち上がると、少し休んでいたせいか先ほどよりも足が軽かった。これなら大丈夫。ユニは両頬をぴしゃりと叩いて、もう一度歩き出した。
(……なんだろう、この扉)
ようやく違う景色になったと思ったら、目の前に突然奇妙なほどに荘厳な扉が現れた。古く、重く、巨大な扉は、侵入者を拒むように聳える。しかし自分ごときの侵入者をその前まで招きいれてしまうなんて。もうこの扉の役割は終わっているのだろうか。
教会内でよく見かける模様と似たものが施されてはいるが、どこか様相が異なる。入ってよいのか、悪いのか、わからなかった。
(……でも引き返しても仕方ないし、入っちゃおうか)
ここに来るまで、結局誰にも出会わなかった。つまりここはほとんど人が来ない。よってこの扉を開けても、みつかる可能性はかなり低い。しかしここが希少な場所であればあるほど、やはり問題も生じてくる。
――もしも、ここが秘預言(クローズドスコア)の安置所だったら?
秘預言は、教団内でも詠師職以上の一部の人間しか閲覧権限を持たないほどの重要な秘密。閲覧権のない者が秘預言を調べれば、死罪となるほどの最高機密である。
(さすがに……そんな訳ないよね)
ユニは扉に手をかざし、ゆっくりと体重をかけた。それは不思議なほど重さがなく、まるでユニを導くように開いた。
(……ここは……?)
扉の向こうには、思っていた以上に広い空間があった。曇った窓から差す光はほとんど消えかかっており、そのわずかな光に、古ぼけた埃がきらきらと舞っている。
目が慣れてくると、中央の台座に透明な石がいくつか積み重なっているのが見えた。
無意識に足音を立てないようにして近付くと、その透き通った石に見覚えがあることに気付く。瞬間、ユニの全身をぞくりと冷たいものが駆け抜けて行った。
(これは……譜石……まさか、本当に秘預言……!?)
急に脈拍が速くなり、ユニは胸を抑えつけた。乱れる呼吸が部屋に響き渡って怖くなった。今、誰かが来たら、隠れられる自信がない。それなのに、震える指はその譜石へと勝手に伸びていた。
(……よ、詠みたい……)
一握りの者しか触れることが出来ない秘預言が目の前にあるとしたら、それに近付かずにいられる人間など果たしているのだろうか。心が欲する星の真理。その欲求は、理性なんかで押し留められるものではない。
凍りついたように冷たくなった指で、ユニはやっとの思いで石を一つ拾い上げた。落とさないように、そっと、目の前にかざす。心臓が壊れそうなくらいに胸を叩く。
キラキラと透き通る石に記された古代イスパニア文字が、ユニに語りかけてくるようだった。念のため、とジェイドに叩き込まれた古代語の知識が、こんなところで役に立つなんて――
「……栄光を、掴む者」
「そこで何をしている!」
突然の怒鳴り声に、ユニはびくりと肩を震わせた。心臓は息をつく暇もないくらいに脈打って血を送り出しているはずなのに、なぜか身体中から血の気がひいていく。凍りついて動かない指から譜石が滑り落ちて、ユニの足元でガラスのように粉々に砕け散った。
「誰だ!?」
「い、いや……ちが、ちがう……」
ユニは蒼白な顔で、声のした方を見た。やや太った体型の司祭らしき男が、どすどすと荒い足音を立てて部屋に入ってくる。ユニは指一本動かせず、その場で死んだように立ち尽くしていた。唇から洩れる言葉もほとんど音にならない。
「何をしていた? 詠んだんだな?」
「……っ」
ユニは震える両手を握りしめながら、やっとの思いでふるふると首を振った。男のでっぷりとした顔はユニに対する憎しみと軽蔑の念を露わにしていた。男は問答無用とばかりにユニの腕を掴む。
「ひっ! ……ち、違います! わ、わたしは……!」
「戯言は聞き入れん! 来い! 来るのだ!」
やっと声が出たと思ったが、言い訳はもはやなんの意味もない。いわば現行犯逮捕だ。乱暴に腕を引かれ、ユニは転がりそうになった。
混乱しきったユニの頭にはっきりと「死罪」の二文字がよぎった。逆に言えば、浮かんだのはそれだけだった。
「……お、お願いします! どうか、死罪だけは……」
「死罪? ほう、そうか死罪をお望みか」
「……え……?」
ユニに言われてようやく思い出したかのように、男はその言葉を口にする。どういうことだろう、とユニはさらに困惑した。確かアニスなどから「閲覧権のない者が秘預言を調べれば、即刻死罪!」と聞いていたはずだが。男は足を止めてしばらく思考を巡らせると、いやらしく笑ってユニを見下ろした。
「ならば死ぬ前に教えてやろう、あれは秘預言ではない」
「……!?」
「死罪がよいというなら喜んで罰してやるが」
「な、なぜ……?」
秘預言でないのなら一体あの部屋はなんだというのだ? そこにいるのを見られただけで、理由も聞かずに強制的に捕まえられるなんて。見張りの兵もいなかったが、誰も寄り付かないほど教会の奥深くに隠す意図は? 秘預言の他にも、隠された預言があるのだろうか?
しかしそんなことはこの際どうでもいい。「死」以外に助かる道があるならどんな道でもいい。ピオニーに与えてもらった尊い命の灯を、こんなことで無駄にしたくはない。ユニは縋る思いで言葉を紡いだ。
「で、では死罪にはならないのですね……?」
「そうかもしれんが」
「じゃあ……!」
「ここへ侵入した場合の罰を定めた規則は存在しない。だが、あれを見たお前を帰すわけにもいかぬから……」
「そ、それじゃあ全部忘れますから! このことは誰にも漏らしません! お願いです!」
ユニが泣きつくような声をあげると、男はしばし汚らわしいものを見るような目でみつめたが、不意に何か思い付き、にたりと笑った。
「ほう、言ったな? では全て忘れてもらおう」
「……!?」
「導師イオン……いや、あれはもう弱っておるし、例のレプリカとやらを使うか」
「イ、イオン様に何を……!?」
いつのまにか足元に紫色に輝く譜陣が現れていた。
その閃光に包まれると同時に、ユニの脳がぐらりと揺れた。