第1章(過去編)
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
13 ナタ・ワルツ
朝は弱いはずなのに、日が昇るとともに目が覚めてしまった。鳥のさえずりに誘われてカーテンを開けると、晴れ渡る空が眩しくて目を細める。神託の盾のみんなも、兵団らしく早起きして訓練でもしているのだろうか。
叔母さんに淹れてもらった温かい紅茶を飲みながら、教会への二度目の侵入について考えていた。
(……入れない……)
ユニは、神託の盾騎士団本部へ通じる通路を物陰からこそこそと見ていた。ちょうど昨日は見張りの兵が交替する瞬間だったのだろうか、誰もいなかったその入り口に、今日は物々しい雰囲気の兵士が仁王立ちしていた。昨日のユニの侵入がばれて警備を強化したのかもしれないから、うかつに顔を出すわけにもいかない。
(あれじゃ理由があっても入れてくれないだろうなあ)
全身を鋼鉄の鎧で覆い、息をしているのかわからないほどにぴたりと動かない兵士。それを倒してまで侵入する気はないし、ジェイドに習ったばかりの譜術がどこまで効くかもわからない。
くだらないお遊びはやめて、大人しく教会で預言でも詠んでもらえということだろうか。
でも、ただ彼らに会いたい、それだけなのに。どうしてこんな苦い思いをしなければならないのだろう。友達をつくることはこんなに難しいのだろうか?
「はあ……誰か……」
「こそこそ何してるのさ」
「ひっ!」
聞き覚えのある捻くれた声に、驚きと嬉しさで胸がざわめいた。ユニは勢いよく振り返って、少し目線をあげて、その目に彼を映した。いきなり背後から声をかけられるのはやっぱり慣れないのだけど。
「シンクっ!! あ……し、静かに……」
「うるさいのはアンタだけだよ」
「え、えへへ」
相変わらずの憎まれ口にも、ユニは微笑んだ。ジェイドのおかげで慣れているし、シンクなんて可愛いものだ。
そうして受け流しながらも、やはり彼の仮面が少し気になった。昨日は任務の一環で付けていたのだと思っていたのだが。彼は常に素顔を隠しているのだろうか。なぜ? 仮面がないからといってろくな感情表現は期待できないものの、一体、どんな事情があってこんなことをしているだろう。
(……でも訊かれたくないよね、そんなこと)
きっと彼なりの事情があるのだから、と詮索はやめることにする。それよりも大事なことは、またもいいタイミングで彼に会えたことなのだ。
「そうだ、シンク。少しお願いが……」
「また侵入したいって?」
「う、侵入じゃない……まぁ侵入だけど……」
先回りされて言葉を濁すユニを、シンクはゆっくりと見下ろした。見下ろすといってもあまり背の高さは変わらないのだけれど、変な威圧感みたいなものが漂っていたのだ。
「でも今日は別に用はないだろ?」
「けど、イオン様はいつでも来ていいって言ってたから」
「……ああそう、じゃあ勝手にしなよ」
「へ?」
シンクはなぜか吐き捨てるように言ってプイと顔を背けると、ユニを置いて歩き出した。
何が彼の勘に触ったのかよくわからないが、ここで逃がすわけには行かなかった。ユニは困惑しながら、慌てて彼の背を追った。
「シンク、ちょっと待ってよ」
「うるさい。せっかく僕が……」
不機嫌そうに言った言葉はほとんど聞き取れなかった。ユニが諦めて足を止めると、シンクはたちまち人の波に消えてしまった。
残されたユニは、行き交う人々の間を縫いながら、通路の端の方へ戻っていく。
(はあ、なに怒ってるんだろ、シンクは)
ただ、彼や、他の人に会いたいだけだったのに。
(……わたしの勝手な思い込みだったかなあ)
シンクなら、なんだかんだ言いながらも自分の力になってくれると勝手に信じていた。昨日出会ったばかりの人間の侵入の手助けなんて、やりたくもないのが普通なのに。
(シンクはわたしの……なんでもないのにね)
ひそかな好意が、裏返って苦しかった。
「あれー、昨日の。こんなトコでなにしてるのっ?」
ぼんやりするユニの隣に、いつの間にか女の子が座っていた。ツインテールの、例の騒がしい彼女だ。
「……!」
「しー! 隠れてるんでしょ?」
驚いて飛び退いたユニに、即座に人差し指を立てて彼女はにこりと笑った。数分前のユニなら喜んで物分かりのいい彼女に抱きついていただろう。しかしシンクのことで少し傷心していたユニは、もう神託の盾本部へ侵入する元気をなくしていた。
「……うん。さっきまでは隠れてた」
「ほえー? 何言ってるのー?」
両手を空にむけてさっぱりというポーズをとる彼女に、ユニは力なく微笑んだ。元気な人と話すと、結構体力をつかうのだ。無情にも、こんなに自分がダメージを受けていたのだとわかる。
「あ、そうだ。あなた名前なんて言うの?」
「わたし? ユニだよ」
「ふーん、ユニね。わたしはアニス! 覚えといてね」
「うん、ありがとう。アニス」
やっと聞けた彼女の名前を口にすると、アニスは華やかに笑った。そういえばシンクにはあれほど世話になっておきながら、まだ名乗ってもいなかった。
「ユニ、中に入りたいんじゃないの?」
「うん……今日はいいかな。また明日来るかも」
とはいえ、この地で過ごす時間はもう明日しか残されていなかった。しかしそれでも、今日はもう無理に入ろうという気が起きない。
シンクがいないのでは、もう、どうでもいい。
――というわけでもないのに。
「そっか。ところでユニって、何地区に住んでるのー?」
「地区……?」
彼女が言っているのはおそらくダアトの中での話だろう。ユニがこの街の人だと思い込んでいるのだ。そんな彼女に「違うよ、わたしはもう明後日には自分の国に帰らなきゃいけないんだよ」と告げるのは、少し寂しかった。
かつてグランコクマへの旅行者だったガイも、国に帰ることをユニに話した時はこんな気持ちだったのだろうか。いまだに鮮やかに残る記憶に、思わず目を伏せた。
(わかんないや。立場が同じだからって、同じふうには思わないかもしれないよね)
それでも、嘘を言って別れられるよりはずっとましだったと思えた。自分がガイからきちんと聞けて納得できたように。
「ごめんね、わたし、グランコクマから来たの」
「え……?」
「えー! 明後日には帰っちゃうの!? じゃあもう明日しか遊べないの!?」
いつ帰るの、と問い詰められたので正直に言うと、アニスは叫ぶようにユニの言葉を繰り返した。ユニは寂しさを感じながらも、彼女がこんなに驚いてくれたことが少し嬉しかった。
「ねえ、もうダアトには来ないの?」
「うーん、まだわかんない」
宮殿勤めだからお休みは不定期だし、また戦争への機運が高まれば旅行になんて行けないし。けれど、本当はまたみんなに会いたいと思っていた。
「あーあ残念。せっかく友達が出来たと思ったのにー」
アニスの言葉に、ユニの瞳が揺れた。胸の辺りが急に苦しくなって、熱くなった。ユニはずっと、誰かとこんなふうになりたいと望んでいた。また夢が叶ってしまいそうで、涙が出そうになる。
「ありがとう。明日、また遊びに来るね」
「うん! 絶対来て!」
ユニはアニスと指切りをした。彼女の明るい笑い声が今は救いだった。明日教会へ来ること、グランコクマには戻ってもまたダアトに来ることを約束して、ユニは手を離した。
教会の中へ駆けていくアニスの後ろ姿を、彼女が見えなくなるまでずっと目で追っていた。茶色のツインテールがぴょこぴょこと揺れる。昨日と同じだ。運命的にすれ違ったことも、踏んでしまった変なぬいぐるみのことも、彼女の元気な声も全部、忘れそうにないな、とユニは苦笑した。
「……ん?」
しかし、一度消えた人影がまた戻ってきた。ユニは眉を寄せて、まっすぐに近づいてくるそれをみつめた。全速力で戻ってきたアニスは、ユニの目の前で急停止し、ずい、とピンク色の紙袋を突き出した。思わずのけ反ったユニに、ふわりと甘い香りがふりかかる。
「わ、な、なに?」
「これ、わたしが焼いたお菓子なの。ほんとは人形修理してくれたお礼にディストに渡そうと思ってたんだけどね、ユニにあげるよ!」
「え、いいの?」
「いいよー。ディストにはいつでも会えるし」
何度も遭遇した甘い香りが、記憶を刺激する。
澱みなく、水が流れるように、全てを理解した。はじめてのダアトで、道に迷ったユニを案内してくれた、あの人の「誇り」が、この子なんだ。ユニはなんだか納得してしまい、思わずアニスをぎゅっと抱きしめた。
「うげ、苦しい」
「ありがとう、アニス!」
(こんなに優しくて明るい子なら、わたしだってこの子の友達であることを誇りに思うよ)
「じゃあまたね、アニス……あ!」
手を振って歩き出してから、ふと思い出した。そうだ、「彼」には、まだ何も言っていなかった。
「ごめん、ひとつ頼み事していい?」
「なになに? アニスちゃん、なんでも聞いてあげるよ」
「……シンクに……」
一体、何を伝えてもらおう? 思い返せば、まだなんにも伝えられていなかった。自分の名前と、グランコクマから来たこと、明後日にはもうダアトを発つこと……いや、そんなことじゃない。シンクにとって、いま一番大事なことって、なんだろう。
「なに? シンクに?」
「えと……ごめんって!」
「え?」
「ごめん、って言っといて」
思いついたことは、それだけだった。言いそびれたことはきっとこれだけだ。彼とわたしは、わたしとガイじゃないんだから。わたしがあの時知りたかったことを、彼も知りたいと思っているとは限らないから。
◇
「ごめん、だってよ」
「はぁ?」
食堂でアニスに捕まえられたシンクは、いきなりの彼女の言葉に疑問符を浮かべることしかできなかった。
「何の話?」
「ユニがね、あんたに言えって」
「ユニ?」
聞き覚えのない言葉を繰り返すと、アニスは怒ったように睨んできた。いきなり訳のわからないことを話されて、怒りたいのはこちらの方だというのに。
「あの茶色の髪の、グランコクマから来た子だよ」
「はぁ? グランコクマ?」
「ちょっと、知り合いじゃないの? 名前も知らないの!?」
三度目でついに彼女も我慢できなくなったらしく、まるでディストのように騒いでこちらを責めてきた。うるさくてかなわない。これ以上付き合いたくないので背を向け歩き出すが、彼女はまだしつこくついて来ていた。
「明後日グランコクマに帰るんだよ? ユニは」
「……」
そのユニという人物に、心当たりはあった。
しかし、聞いていない。何も聞いていない。名前も何もかも。興味がないのはその通りだけど、そんなものを知ったところで、自分に出来ることも何もないから。こんな自分が彼女にしてやれるのはせいぜい道案内くらいだろうし。それすらも先ほど拒んでしまったし。
「とにかく、ユニはあんたに謝ってたよ! なんか知らないけど」
ようやく追いかけるのを諦めたアニスは、背後でそう叫んでいた。彼女にはわからなくても――なんのことかはだいたいわかってしまう。
「そんなの別にいいのにさ」
ぽつんと呟いた言葉は、自分以外の誰にも聞かれることなく高い天井に吸い込まれていった。
結局何も出来ないんだから。目を伏せたら無意識にあの小さい背中が脳裏に浮かんできた。なぜだろう。今まで感じたことのない痛みが、胸に広がる。
誰かの心の中に自分の存在を感じることが、これほどまでに、苦しいなんて。
朝は弱いはずなのに、日が昇るとともに目が覚めてしまった。鳥のさえずりに誘われてカーテンを開けると、晴れ渡る空が眩しくて目を細める。神託の盾のみんなも、兵団らしく早起きして訓練でもしているのだろうか。
叔母さんに淹れてもらった温かい紅茶を飲みながら、教会への二度目の侵入について考えていた。
(……入れない……)
ユニは、神託の盾騎士団本部へ通じる通路を物陰からこそこそと見ていた。ちょうど昨日は見張りの兵が交替する瞬間だったのだろうか、誰もいなかったその入り口に、今日は物々しい雰囲気の兵士が仁王立ちしていた。昨日のユニの侵入がばれて警備を強化したのかもしれないから、うかつに顔を出すわけにもいかない。
(あれじゃ理由があっても入れてくれないだろうなあ)
全身を鋼鉄の鎧で覆い、息をしているのかわからないほどにぴたりと動かない兵士。それを倒してまで侵入する気はないし、ジェイドに習ったばかりの譜術がどこまで効くかもわからない。
くだらないお遊びはやめて、大人しく教会で預言でも詠んでもらえということだろうか。
でも、ただ彼らに会いたい、それだけなのに。どうしてこんな苦い思いをしなければならないのだろう。友達をつくることはこんなに難しいのだろうか?
「はあ……誰か……」
「こそこそ何してるのさ」
「ひっ!」
聞き覚えのある捻くれた声に、驚きと嬉しさで胸がざわめいた。ユニは勢いよく振り返って、少し目線をあげて、その目に彼を映した。いきなり背後から声をかけられるのはやっぱり慣れないのだけど。
「シンクっ!! あ……し、静かに……」
「うるさいのはアンタだけだよ」
「え、えへへ」
相変わらずの憎まれ口にも、ユニは微笑んだ。ジェイドのおかげで慣れているし、シンクなんて可愛いものだ。
そうして受け流しながらも、やはり彼の仮面が少し気になった。昨日は任務の一環で付けていたのだと思っていたのだが。彼は常に素顔を隠しているのだろうか。なぜ? 仮面がないからといってろくな感情表現は期待できないものの、一体、どんな事情があってこんなことをしているだろう。
(……でも訊かれたくないよね、そんなこと)
きっと彼なりの事情があるのだから、と詮索はやめることにする。それよりも大事なことは、またもいいタイミングで彼に会えたことなのだ。
「そうだ、シンク。少しお願いが……」
「また侵入したいって?」
「う、侵入じゃない……まぁ侵入だけど……」
先回りされて言葉を濁すユニを、シンクはゆっくりと見下ろした。見下ろすといってもあまり背の高さは変わらないのだけれど、変な威圧感みたいなものが漂っていたのだ。
「でも今日は別に用はないだろ?」
「けど、イオン様はいつでも来ていいって言ってたから」
「……ああそう、じゃあ勝手にしなよ」
「へ?」
シンクはなぜか吐き捨てるように言ってプイと顔を背けると、ユニを置いて歩き出した。
何が彼の勘に触ったのかよくわからないが、ここで逃がすわけには行かなかった。ユニは困惑しながら、慌てて彼の背を追った。
「シンク、ちょっと待ってよ」
「うるさい。せっかく僕が……」
不機嫌そうに言った言葉はほとんど聞き取れなかった。ユニが諦めて足を止めると、シンクはたちまち人の波に消えてしまった。
残されたユニは、行き交う人々の間を縫いながら、通路の端の方へ戻っていく。
(はあ、なに怒ってるんだろ、シンクは)
ただ、彼や、他の人に会いたいだけだったのに。
(……わたしの勝手な思い込みだったかなあ)
シンクなら、なんだかんだ言いながらも自分の力になってくれると勝手に信じていた。昨日出会ったばかりの人間の侵入の手助けなんて、やりたくもないのが普通なのに。
(シンクはわたしの……なんでもないのにね)
ひそかな好意が、裏返って苦しかった。
「あれー、昨日の。こんなトコでなにしてるのっ?」
ぼんやりするユニの隣に、いつの間にか女の子が座っていた。ツインテールの、例の騒がしい彼女だ。
「……!」
「しー! 隠れてるんでしょ?」
驚いて飛び退いたユニに、即座に人差し指を立てて彼女はにこりと笑った。数分前のユニなら喜んで物分かりのいい彼女に抱きついていただろう。しかしシンクのことで少し傷心していたユニは、もう神託の盾本部へ侵入する元気をなくしていた。
「……うん。さっきまでは隠れてた」
「ほえー? 何言ってるのー?」
両手を空にむけてさっぱりというポーズをとる彼女に、ユニは力なく微笑んだ。元気な人と話すと、結構体力をつかうのだ。無情にも、こんなに自分がダメージを受けていたのだとわかる。
「あ、そうだ。あなた名前なんて言うの?」
「わたし? ユニだよ」
「ふーん、ユニね。わたしはアニス! 覚えといてね」
「うん、ありがとう。アニス」
やっと聞けた彼女の名前を口にすると、アニスは華やかに笑った。そういえばシンクにはあれほど世話になっておきながら、まだ名乗ってもいなかった。
「ユニ、中に入りたいんじゃないの?」
「うん……今日はいいかな。また明日来るかも」
とはいえ、この地で過ごす時間はもう明日しか残されていなかった。しかしそれでも、今日はもう無理に入ろうという気が起きない。
シンクがいないのでは、もう、どうでもいい。
――というわけでもないのに。
「そっか。ところでユニって、何地区に住んでるのー?」
「地区……?」
彼女が言っているのはおそらくダアトの中での話だろう。ユニがこの街の人だと思い込んでいるのだ。そんな彼女に「違うよ、わたしはもう明後日には自分の国に帰らなきゃいけないんだよ」と告げるのは、少し寂しかった。
かつてグランコクマへの旅行者だったガイも、国に帰ることをユニに話した時はこんな気持ちだったのだろうか。いまだに鮮やかに残る記憶に、思わず目を伏せた。
(わかんないや。立場が同じだからって、同じふうには思わないかもしれないよね)
それでも、嘘を言って別れられるよりはずっとましだったと思えた。自分がガイからきちんと聞けて納得できたように。
「ごめんね、わたし、グランコクマから来たの」
「え……?」
「えー! 明後日には帰っちゃうの!? じゃあもう明日しか遊べないの!?」
いつ帰るの、と問い詰められたので正直に言うと、アニスは叫ぶようにユニの言葉を繰り返した。ユニは寂しさを感じながらも、彼女がこんなに驚いてくれたことが少し嬉しかった。
「ねえ、もうダアトには来ないの?」
「うーん、まだわかんない」
宮殿勤めだからお休みは不定期だし、また戦争への機運が高まれば旅行になんて行けないし。けれど、本当はまたみんなに会いたいと思っていた。
「あーあ残念。せっかく友達が出来たと思ったのにー」
アニスの言葉に、ユニの瞳が揺れた。胸の辺りが急に苦しくなって、熱くなった。ユニはずっと、誰かとこんなふうになりたいと望んでいた。また夢が叶ってしまいそうで、涙が出そうになる。
「ありがとう。明日、また遊びに来るね」
「うん! 絶対来て!」
ユニはアニスと指切りをした。彼女の明るい笑い声が今は救いだった。明日教会へ来ること、グランコクマには戻ってもまたダアトに来ることを約束して、ユニは手を離した。
教会の中へ駆けていくアニスの後ろ姿を、彼女が見えなくなるまでずっと目で追っていた。茶色のツインテールがぴょこぴょこと揺れる。昨日と同じだ。運命的にすれ違ったことも、踏んでしまった変なぬいぐるみのことも、彼女の元気な声も全部、忘れそうにないな、とユニは苦笑した。
「……ん?」
しかし、一度消えた人影がまた戻ってきた。ユニは眉を寄せて、まっすぐに近づいてくるそれをみつめた。全速力で戻ってきたアニスは、ユニの目の前で急停止し、ずい、とピンク色の紙袋を突き出した。思わずのけ反ったユニに、ふわりと甘い香りがふりかかる。
「わ、な、なに?」
「これ、わたしが焼いたお菓子なの。ほんとは人形修理してくれたお礼にディストに渡そうと思ってたんだけどね、ユニにあげるよ!」
「え、いいの?」
「いいよー。ディストにはいつでも会えるし」
何度も遭遇した甘い香りが、記憶を刺激する。
澱みなく、水が流れるように、全てを理解した。はじめてのダアトで、道に迷ったユニを案内してくれた、あの人の「誇り」が、この子なんだ。ユニはなんだか納得してしまい、思わずアニスをぎゅっと抱きしめた。
「うげ、苦しい」
「ありがとう、アニス!」
(こんなに優しくて明るい子なら、わたしだってこの子の友達であることを誇りに思うよ)
「じゃあまたね、アニス……あ!」
手を振って歩き出してから、ふと思い出した。そうだ、「彼」には、まだ何も言っていなかった。
「ごめん、ひとつ頼み事していい?」
「なになに? アニスちゃん、なんでも聞いてあげるよ」
「……シンクに……」
一体、何を伝えてもらおう? 思い返せば、まだなんにも伝えられていなかった。自分の名前と、グランコクマから来たこと、明後日にはもうダアトを発つこと……いや、そんなことじゃない。シンクにとって、いま一番大事なことって、なんだろう。
「なに? シンクに?」
「えと……ごめんって!」
「え?」
「ごめん、って言っといて」
思いついたことは、それだけだった。言いそびれたことはきっとこれだけだ。彼とわたしは、わたしとガイじゃないんだから。わたしがあの時知りたかったことを、彼も知りたいと思っているとは限らないから。
◇
「ごめん、だってよ」
「はぁ?」
食堂でアニスに捕まえられたシンクは、いきなりの彼女の言葉に疑問符を浮かべることしかできなかった。
「何の話?」
「ユニがね、あんたに言えって」
「ユニ?」
聞き覚えのない言葉を繰り返すと、アニスは怒ったように睨んできた。いきなり訳のわからないことを話されて、怒りたいのはこちらの方だというのに。
「あの茶色の髪の、グランコクマから来た子だよ」
「はぁ? グランコクマ?」
「ちょっと、知り合いじゃないの? 名前も知らないの!?」
三度目でついに彼女も我慢できなくなったらしく、まるでディストのように騒いでこちらを責めてきた。うるさくてかなわない。これ以上付き合いたくないので背を向け歩き出すが、彼女はまだしつこくついて来ていた。
「明後日グランコクマに帰るんだよ? ユニは」
「……」
そのユニという人物に、心当たりはあった。
しかし、聞いていない。何も聞いていない。名前も何もかも。興味がないのはその通りだけど、そんなものを知ったところで、自分に出来ることも何もないから。こんな自分が彼女にしてやれるのはせいぜい道案内くらいだろうし。それすらも先ほど拒んでしまったし。
「とにかく、ユニはあんたに謝ってたよ! なんか知らないけど」
ようやく追いかけるのを諦めたアニスは、背後でそう叫んでいた。彼女にはわからなくても――なんのことかはだいたいわかってしまう。
「そんなの別にいいのにさ」
ぽつんと呟いた言葉は、自分以外の誰にも聞かれることなく高い天井に吸い込まれていった。
結局何も出来ないんだから。目を伏せたら無意識にあの小さい背中が脳裏に浮かんできた。なぜだろう。今まで感じたことのない痛みが、胸に広がる。
誰かの心の中に自分の存在を感じることが、これほどまでに、苦しいなんて。