第1章(過去編)
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11 朝靄を抜けたら夕焼け
季節の色が変わり、ユニの背は少しだけ伸びて、譜術の腕前も上達した。ジェイドの皮肉にも前より耐えられるようになったし、忙しい生活にもようやく慣れてきた。
そんな日々の中で、またひとつ知らない花が咲く。
「そういえば、ユニはダアトに親戚の方がいらっしゃるようですね」
朝からピオニーの私室までわざわざユニに用事を言いつけに来たジェイドは、どこから聞いてきた情報なのか、唐突にそんなことを言った。
ユニは寝惚けと覚醒の入り混じった顔でジェイドを見返す。ピオニーも顔を上げた。
「へえ、そうなのか?」
「あ……そういえば確か叔母さんがいて……」
それは、生活の中で思い出すこともなく、記憶の奥底に沈んでいた。物心がつくかつかないかの間、両親がホド戦争で死んだ直後、ダアトの叔母さんのところに少しだけ住ませてもらっていた――ような気がする。その時のことは、もうほとんど覚えていなかった。
「どうせしばらく会っていないでしょう。ご挨拶にでも行ってきたらどうですか?」
お世話になったのは確かだろうが、あまり乗り気はしなかった。全然覚えていないし、今さら話すことも思いつかない。
「でも……」
「たまには顔を見せるのが礼儀ってもんだぞ」
「けど……」
「世界情勢もこのところ漸く落ち着いてきましたし」
この言葉で、ユニはハッとした。
以前ジェイドが遠征に出ていた頃は、いつ戦争が起きてもおかしくなかった。しかし最近、その緊張状態が緩和されてきているらしい。またいつ流れが変わるかもわからないから今がチャンスだ、と民間人の旅行者が増加傾向にあるのも聞いていた。
「い、いいんですか? ダアト、行っても……」
これは、とりあえず外の世界に出る理由になる。記憶にある範囲では、一度もグランコクマを出たことがない自分が。
叔母さんのこと、ダアトでの生活をまったく覚えていないということはこの際隠して、ジェイドの提案に乗るのもいいかもしれない。
「ああ、行って来いよ」
ピオニーが、ユニの肩をぽんと叩いた。ユニがグランコクマの外に憧れがあるのを、彼は知っている。
「わ、う、嬉しいです! ありがとうございます! で、ジェイド、いつ出発ですか!?」
「いえ、私は知りませんよ」
「え、一緒に行ってくれるんじゃないんですか」
「何をどう聞いたらそういうことになるのでしょうか。私も忙しいのですから、一人で行って下さいね」
ユニはてっきりジェイド同伴の旅だと思っていたが、彼はただ提案をしただけだった。いくら外に行きたいと言っても、いきなりの一人旅は少し不安だ。ジェイドに突き放されたユニは、おろおろしながら今度はピオニーを振り返る。
「なんだ、もういい歳なんだから一人で行けるだろ?」
「で、でも初めてだし……」
こんなに嬉しいのに、不安が拭えない。この街の外へ出て、一人で大丈夫だろうか、ダアトの街なんて覚えてないし、叔母さんの家まで辿り着けるかもわからない。
「グランコクマからダアト直通の船も出てる。よっぽどのことがなきゃ迷子にはならないぞ」
「は、はぁ……」
「旅券はとっておいてやるから、荷物の準備でもして来いよ」
「は、はい……では一旦失礼します……」
機嫌よく笑うピオニーとは対照的に、ユニは眉を下げながら部屋を出て行った。ジェイドはそんな光景を見て肩を竦める。
「本当に大丈夫でしょうか」
「なぁに、どうせ着いたら喜んで飛び回るんだろ」
そう言われればそんな気がしたのか、ジェイドは少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「ま、こうでもしなければユニは休もうとしませんからねぇ」
「……ほぉう」
めったにお目にかかれないジェイドの「気遣い」に、ピオニーはにやにやして目を細めるのだった。
「う、うう、ほんとにこの船でよかったのかな……ほんとにダアトに着くのかなぁ……」
初めての船旅なのに、ユニは船室のベッドでうなだれていた。ユニの知っている世界地図では、ダアトはかなり端にある。ゆらゆら揺れる床は居心地悪いし、窓の外の景色は変わらないし、とにかく不安で仕方がなかった。
しかし、なんといっても初めての旅。今日に備えて観光名所だけはしっかり調べてきたユニは、バッグから雑誌の切り抜きを取り出して、目の前にかざす。
(ダアトにはローレライ教の総本山があり、信仰者が毎日たくさん訪れている……と)
そこには、大きなステンドグラスから差し込む七色の光がとても美しい教会が載っていた。高い天井をみつめて、多くの人が祈りを捧げている。写真だけなのに、思わずうっとりとしてしまう。
「ダアトに着いたら、わたしもまずは教会に……」
これからその本物に会えると考えれば気持ちが高ぶらずにはいられなかった。切り抜きを放り出し、ベッドから這い出して、恐る恐る甲板に出てみる。自分の周りすべてが水平線だった。塩の匂いと頬にあたる風が気持ちいい。きらきらと光を反射する水面が、宝石みたいに輝く。船酔いにも意外と耐えられるようだし、船上での時間は思っていたよりも快適なものだった。
(つ、つ、着いたー!)
ふらふらと船を降りて地面に足をつけると、思わずユニは拳を握ってしまった。地図の上ではあんなに遠かったのに、案外あっという間に着いてしまうものだ。これならキムラスカにだってすぐに行けてしまうかも。
(すごい、わたし、今、全然知らない街にいる!)
目に映るものがすべて新しかった。まだ波の音が聞こえるけれど、グランコクマの水音は、ここにはない。知っている人が歩いている筈もなく、ピオニーもいなければジェイドもいない。とにかく、まったく知らない世界に来てしまったのだ。
(えっと……街はどっちだろう)
ここはまだダアトの港。ユニが行かなければならないのは、丘を越えた先の教会のある街だった。きょろきょろと辺りを見回すと、人の流れがなんとなく見えてきた。みんなが向かっているのがきっと街道で、ダアトの街はその先にあるに違いない。
(……とりあえず、無事に着いたし、なんとかなりそう)
今はどんなに大きな声で叫んだって届くはずのないピオニーやジェイドたちに、ユニはそっと想いを馳せる。ずっと夢見ていたことが今まさに叶っていた。一人でこの喜びを噛みしめるのが、もったいないくらいだった。
小高い丘を登ると、写真で見た景色と同じものが眼下に広がった。高い塔を中心に街が放射状に伸びている。ここには、一体どんな人が暮らしているのだろう。
思わずユニは駈け出した。一分一秒だって惜しい。この街でいろいろなことをみつけたいと思ったのだ。
(……ま、迷った……!)
しかし、気が付けば、右も左もわからない路地にユニはいた。せっかく住所を人に尋ねてまわり、なんとか道を教えてもらったというのに。
(やっぱダメだ……グランコクマに帰りたい……)
経験不足を理解せずに出発してしまったことを今更になって呪う。もっと、下調べとか準備とか、自分にできることはたくさんあったはずなのに。思い描いていたほど楽じゃなかった。
思わず溜息をつくと、突然頭の上から「あらあら」というおっとりした声と、微かな甘い香りが降ってきた。
「……え?」
ユニがそろりと振り返ると、そこには見るからに人がよさそうな婦人がひとり。
「若いのに溜息なんて、幸せが逃げていっちゃうわよ」
「……はあ、でもわたし迷子なので……」
自嘲気味に笑うと、女性は首を傾げた。
「迷子? どこから来たの? ダアトは初めて?」
優しい声色に、この人ならなんとかしてくれそうだと少しほっとする。
「えっと、親戚の家を探してるんです。シェフィールドっていうんですけど、知りませんか?」
「シェフィールドさん? えぇ、知っていますよ」
「ほんとですかっ。よかったぁ……」
ようやくユニは肩の力を抜いた。まだ運は残っていたらしい。ユリアの導きに感謝しつつ、ユニはこの婦人に案内を頼むことにした。
歩きながら話をすると、彼女にはユニよりも少し小さい娘がいることがわかった。幼いながらも教会の兵団に所属するその子のことを、誇りに思っているらしい。それを語る表情はとても優しくて、ああ、これが母親というものなんだな、とユニは思った。
「シェフィールドさんのお宅はこちらよ」
「あ、ありがとうございます、えーと」
「ふふ、パメラよ」
「はい、パメラさん! ありがとうございました」
やっぱり、来てよかった。まったく知らない自分に対して、こんなに優しくしてくれる人と出会えるなんて。
ゆっくりとした足取りで遠ざかっていくパメラを見送ってから、ユニは家の扉に向き直った。
(……でも、ダメだ。やっぱり覚えてない)
ここに来るまでの道のりも、この景色も、何一つぴんと来るものがなかった。このまま叔母さんに会ってしまっても大丈夫だろうか? 昔話をされても、誤魔化して笑うことしか出来ないかもしれない。
(そんなの……せっかく来たのに……)
どうすることも出来ないまま立ち尽くしていると、突然扉が開いた。ユニは顔に扉が当たる寸前で、慌てて後ろに飛び退いた。
「……?」
「す、すいません! 怪しい者ではないんですけど……!」
ばくばくと騒ぐ胸に軽く手をあてながら扉の向こうの人に目をやると、また、大きく心臓が脈打った。
「お、叔母さん!?」
「え……もしかして、ユニちゃんなの?」
彼女の顔を見たら、なぜか一気に記憶が戻ってきた。永い凍結から融けたように、思い出が溢れ出した。そして彼女の方もユニを覚えていてくれて、突然の訪問にとても驚いていた。
(すごい、わたしちゃんと覚えてたんだなぁ)
忘れていたはずなのに、不思議なほどはっきりと記憶が蘇ってきた。一体今までどこに隠されていたのか、ユニの頭の中に、たくさんのダアトの記憶が流れ込んできたのだ。
ぽかぽかと胸があたたかい。叔母さんに教えてもらった、教会を目指す道を行く足取りも軽い。
ユニは風で流れた髪を耳にかける。ここへ来る前にはあれほど心配していたのが嘘みたいだった。なんだかすべてうまく行っている。この先も、きっといいことばかりが起きるような気がしていた。
(うわー……ほんとに大きい)
遥か上空にあるような高い天井を見上げて、ユニは思った。外から眺めたときにも大きな建物だと思ったけれど、中に入ってみるとまた違う雰囲気に圧倒される。グランコクマにある出張版の教会の比ではなかった。
天井の下の広々とした空洞が、あらゆる音も悲しみも呑み込み、その静寂の中、信者が次から次へと入っては祈りを捧げていた。ユニも、せっかく来たのだからと、入口で突っ立っていた足を前に出そうとした時だった。
「……?」
茶色のツインテールが、ユニの目の高さを駆け抜けて行った。鼻をかすめた甘い香りは、どこかで嗅いだ気がしたけれどよく思い出せなかった。物凄い速さで人の群れをかき分けて、それは視界の右に消えていった。
(……変な子)
教会の中では、みんなゆっくりと一歩ずつ確かめるように歩いているのに。あの子だけがまるで早送りされているみたいに見えた。
ユニは首を傾げながら歩き出したが、靴の下に「むに」という妙な感触を覚え、また立ち止まってしまった。
「……ぬいぐるみ?」
それは、縫い目がむき出しのあまり可愛くないぬいぐるみだった。拾い上げると、甘い匂いが微かに揺れた。
(これ、きっと、あの子のだ)
咄嗟に、追いかけなければと思う。ユニはぬいぐるみをバッグに押し込んで、彼女が消えた方へ足を向けた。
女の子が消えていった道に入ると、ほとんど人がいなくなった。なんだか行ってはいけない方に来てしまった気がするが、この際気にせず進んでいく。知らない土地の、もっと知らない場所に、わくわくしていたのだ。
少し進むと、前方から白い法衣を纏った人がやってきた。この廊下に入ってから、実に、初めてすれ違う人だった。
「……」
「……」
ユニは頭を下げたが、その人は無言で、思いきりユニのことを見ていた。なんとも冷たい視線に、急に不安になる。
(……な、何にも言われなかったけど、やっぱり入っちゃいけない場所だったのかも……)
引き返したい衝動に駆られ後ろを振り返るが、同じような景色の続く回廊を、どう歩いて来たのかすでにわからなくなっていた。ユニは自分の情けなさを笑いたくなった。辺りを見回しても、もちろん誰もいない。
(どうしよう、また迷子になってる……)
「誰、アンタ」
「ひえっ!」
まったく気配を感じなかったのに突然背後から声が響いて、ユニは飛び上がった。覚悟を決めて振り返ると、そこには、仮面をつけた少年がいた。
(なんでよりによってこんな人が……)
その容貌に、またユニの不安が増幅する。兵士の兜とも違う、ただ顔をのっぺりと隠すだけの仮面に、肌がぞわぞわした。彼が一歩近付くたびにその緑色の髪が揺れて、ユニの鼓動は嫌でも速まった。
「ここで何してる?」
「いや、えっと、怪しい者ではないのですが……」
目を合わせないようにしても、彼の視線が痛いほど突き刺さるのがわかる。やっかいな人物にみつかってしまった、と直感する。
「なんの用だ?」
「ひ、人を探してるんです。どこか……人の集まる場所に連れて行ってもらえませんか……みつかれば、すぐに帰りますから」
「……へぇ」
少年はしばらくユニを眺めてから、どこか楽しそうに笑った。ユニはびくびくしながら彼の顔色を伺う。
「まるっきり戦えない訳じゃないみたいだけど、本部に侵入してどうこうしようってふうには見えないからまあいいか。特別だ、ついてきなよ」
彼が法衣を翻すのを見て、ユニはほっと安堵の溜息を漏らした。とりあえずは助かった。いや、案外あっさり助かった。あとは、行った先でツインテールの少女に会えれば、無事に帰れるはず。
(この人にぬいぐるみを届けてもらえばこれで終わったのかもしれないけど……まあ、いっか)
季節の色が変わり、ユニの背は少しだけ伸びて、譜術の腕前も上達した。ジェイドの皮肉にも前より耐えられるようになったし、忙しい生活にもようやく慣れてきた。
そんな日々の中で、またひとつ知らない花が咲く。
「そういえば、ユニはダアトに親戚の方がいらっしゃるようですね」
朝からピオニーの私室までわざわざユニに用事を言いつけに来たジェイドは、どこから聞いてきた情報なのか、唐突にそんなことを言った。
ユニは寝惚けと覚醒の入り混じった顔でジェイドを見返す。ピオニーも顔を上げた。
「へえ、そうなのか?」
「あ……そういえば確か叔母さんがいて……」
それは、生活の中で思い出すこともなく、記憶の奥底に沈んでいた。物心がつくかつかないかの間、両親がホド戦争で死んだ直後、ダアトの叔母さんのところに少しだけ住ませてもらっていた――ような気がする。その時のことは、もうほとんど覚えていなかった。
「どうせしばらく会っていないでしょう。ご挨拶にでも行ってきたらどうですか?」
お世話になったのは確かだろうが、あまり乗り気はしなかった。全然覚えていないし、今さら話すことも思いつかない。
「でも……」
「たまには顔を見せるのが礼儀ってもんだぞ」
「けど……」
「世界情勢もこのところ漸く落ち着いてきましたし」
この言葉で、ユニはハッとした。
以前ジェイドが遠征に出ていた頃は、いつ戦争が起きてもおかしくなかった。しかし最近、その緊張状態が緩和されてきているらしい。またいつ流れが変わるかもわからないから今がチャンスだ、と民間人の旅行者が増加傾向にあるのも聞いていた。
「い、いいんですか? ダアト、行っても……」
これは、とりあえず外の世界に出る理由になる。記憶にある範囲では、一度もグランコクマを出たことがない自分が。
叔母さんのこと、ダアトでの生活をまったく覚えていないということはこの際隠して、ジェイドの提案に乗るのもいいかもしれない。
「ああ、行って来いよ」
ピオニーが、ユニの肩をぽんと叩いた。ユニがグランコクマの外に憧れがあるのを、彼は知っている。
「わ、う、嬉しいです! ありがとうございます! で、ジェイド、いつ出発ですか!?」
「いえ、私は知りませんよ」
「え、一緒に行ってくれるんじゃないんですか」
「何をどう聞いたらそういうことになるのでしょうか。私も忙しいのですから、一人で行って下さいね」
ユニはてっきりジェイド同伴の旅だと思っていたが、彼はただ提案をしただけだった。いくら外に行きたいと言っても、いきなりの一人旅は少し不安だ。ジェイドに突き放されたユニは、おろおろしながら今度はピオニーを振り返る。
「なんだ、もういい歳なんだから一人で行けるだろ?」
「で、でも初めてだし……」
こんなに嬉しいのに、不安が拭えない。この街の外へ出て、一人で大丈夫だろうか、ダアトの街なんて覚えてないし、叔母さんの家まで辿り着けるかもわからない。
「グランコクマからダアト直通の船も出てる。よっぽどのことがなきゃ迷子にはならないぞ」
「は、はぁ……」
「旅券はとっておいてやるから、荷物の準備でもして来いよ」
「は、はい……では一旦失礼します……」
機嫌よく笑うピオニーとは対照的に、ユニは眉を下げながら部屋を出て行った。ジェイドはそんな光景を見て肩を竦める。
「本当に大丈夫でしょうか」
「なぁに、どうせ着いたら喜んで飛び回るんだろ」
そう言われればそんな気がしたのか、ジェイドは少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「ま、こうでもしなければユニは休もうとしませんからねぇ」
「……ほぉう」
めったにお目にかかれないジェイドの「気遣い」に、ピオニーはにやにやして目を細めるのだった。
「う、うう、ほんとにこの船でよかったのかな……ほんとにダアトに着くのかなぁ……」
初めての船旅なのに、ユニは船室のベッドでうなだれていた。ユニの知っている世界地図では、ダアトはかなり端にある。ゆらゆら揺れる床は居心地悪いし、窓の外の景色は変わらないし、とにかく不安で仕方がなかった。
しかし、なんといっても初めての旅。今日に備えて観光名所だけはしっかり調べてきたユニは、バッグから雑誌の切り抜きを取り出して、目の前にかざす。
(ダアトにはローレライ教の総本山があり、信仰者が毎日たくさん訪れている……と)
そこには、大きなステンドグラスから差し込む七色の光がとても美しい教会が載っていた。高い天井をみつめて、多くの人が祈りを捧げている。写真だけなのに、思わずうっとりとしてしまう。
「ダアトに着いたら、わたしもまずは教会に……」
これからその本物に会えると考えれば気持ちが高ぶらずにはいられなかった。切り抜きを放り出し、ベッドから這い出して、恐る恐る甲板に出てみる。自分の周りすべてが水平線だった。塩の匂いと頬にあたる風が気持ちいい。きらきらと光を反射する水面が、宝石みたいに輝く。船酔いにも意外と耐えられるようだし、船上での時間は思っていたよりも快適なものだった。
(つ、つ、着いたー!)
ふらふらと船を降りて地面に足をつけると、思わずユニは拳を握ってしまった。地図の上ではあんなに遠かったのに、案外あっという間に着いてしまうものだ。これならキムラスカにだってすぐに行けてしまうかも。
(すごい、わたし、今、全然知らない街にいる!)
目に映るものがすべて新しかった。まだ波の音が聞こえるけれど、グランコクマの水音は、ここにはない。知っている人が歩いている筈もなく、ピオニーもいなければジェイドもいない。とにかく、まったく知らない世界に来てしまったのだ。
(えっと……街はどっちだろう)
ここはまだダアトの港。ユニが行かなければならないのは、丘を越えた先の教会のある街だった。きょろきょろと辺りを見回すと、人の流れがなんとなく見えてきた。みんなが向かっているのがきっと街道で、ダアトの街はその先にあるに違いない。
(……とりあえず、無事に着いたし、なんとかなりそう)
今はどんなに大きな声で叫んだって届くはずのないピオニーやジェイドたちに、ユニはそっと想いを馳せる。ずっと夢見ていたことが今まさに叶っていた。一人でこの喜びを噛みしめるのが、もったいないくらいだった。
小高い丘を登ると、写真で見た景色と同じものが眼下に広がった。高い塔を中心に街が放射状に伸びている。ここには、一体どんな人が暮らしているのだろう。
思わずユニは駈け出した。一分一秒だって惜しい。この街でいろいろなことをみつけたいと思ったのだ。
(……ま、迷った……!)
しかし、気が付けば、右も左もわからない路地にユニはいた。せっかく住所を人に尋ねてまわり、なんとか道を教えてもらったというのに。
(やっぱダメだ……グランコクマに帰りたい……)
経験不足を理解せずに出発してしまったことを今更になって呪う。もっと、下調べとか準備とか、自分にできることはたくさんあったはずなのに。思い描いていたほど楽じゃなかった。
思わず溜息をつくと、突然頭の上から「あらあら」というおっとりした声と、微かな甘い香りが降ってきた。
「……え?」
ユニがそろりと振り返ると、そこには見るからに人がよさそうな婦人がひとり。
「若いのに溜息なんて、幸せが逃げていっちゃうわよ」
「……はあ、でもわたし迷子なので……」
自嘲気味に笑うと、女性は首を傾げた。
「迷子? どこから来たの? ダアトは初めて?」
優しい声色に、この人ならなんとかしてくれそうだと少しほっとする。
「えっと、親戚の家を探してるんです。シェフィールドっていうんですけど、知りませんか?」
「シェフィールドさん? えぇ、知っていますよ」
「ほんとですかっ。よかったぁ……」
ようやくユニは肩の力を抜いた。まだ運は残っていたらしい。ユリアの導きに感謝しつつ、ユニはこの婦人に案内を頼むことにした。
歩きながら話をすると、彼女にはユニよりも少し小さい娘がいることがわかった。幼いながらも教会の兵団に所属するその子のことを、誇りに思っているらしい。それを語る表情はとても優しくて、ああ、これが母親というものなんだな、とユニは思った。
「シェフィールドさんのお宅はこちらよ」
「あ、ありがとうございます、えーと」
「ふふ、パメラよ」
「はい、パメラさん! ありがとうございました」
やっぱり、来てよかった。まったく知らない自分に対して、こんなに優しくしてくれる人と出会えるなんて。
ゆっくりとした足取りで遠ざかっていくパメラを見送ってから、ユニは家の扉に向き直った。
(……でも、ダメだ。やっぱり覚えてない)
ここに来るまでの道のりも、この景色も、何一つぴんと来るものがなかった。このまま叔母さんに会ってしまっても大丈夫だろうか? 昔話をされても、誤魔化して笑うことしか出来ないかもしれない。
(そんなの……せっかく来たのに……)
どうすることも出来ないまま立ち尽くしていると、突然扉が開いた。ユニは顔に扉が当たる寸前で、慌てて後ろに飛び退いた。
「……?」
「す、すいません! 怪しい者ではないんですけど……!」
ばくばくと騒ぐ胸に軽く手をあてながら扉の向こうの人に目をやると、また、大きく心臓が脈打った。
「お、叔母さん!?」
「え……もしかして、ユニちゃんなの?」
彼女の顔を見たら、なぜか一気に記憶が戻ってきた。永い凍結から融けたように、思い出が溢れ出した。そして彼女の方もユニを覚えていてくれて、突然の訪問にとても驚いていた。
(すごい、わたしちゃんと覚えてたんだなぁ)
忘れていたはずなのに、不思議なほどはっきりと記憶が蘇ってきた。一体今までどこに隠されていたのか、ユニの頭の中に、たくさんのダアトの記憶が流れ込んできたのだ。
ぽかぽかと胸があたたかい。叔母さんに教えてもらった、教会を目指す道を行く足取りも軽い。
ユニは風で流れた髪を耳にかける。ここへ来る前にはあれほど心配していたのが嘘みたいだった。なんだかすべてうまく行っている。この先も、きっといいことばかりが起きるような気がしていた。
(うわー……ほんとに大きい)
遥か上空にあるような高い天井を見上げて、ユニは思った。外から眺めたときにも大きな建物だと思ったけれど、中に入ってみるとまた違う雰囲気に圧倒される。グランコクマにある出張版の教会の比ではなかった。
天井の下の広々とした空洞が、あらゆる音も悲しみも呑み込み、その静寂の中、信者が次から次へと入っては祈りを捧げていた。ユニも、せっかく来たのだからと、入口で突っ立っていた足を前に出そうとした時だった。
「……?」
茶色のツインテールが、ユニの目の高さを駆け抜けて行った。鼻をかすめた甘い香りは、どこかで嗅いだ気がしたけれどよく思い出せなかった。物凄い速さで人の群れをかき分けて、それは視界の右に消えていった。
(……変な子)
教会の中では、みんなゆっくりと一歩ずつ確かめるように歩いているのに。あの子だけがまるで早送りされているみたいに見えた。
ユニは首を傾げながら歩き出したが、靴の下に「むに」という妙な感触を覚え、また立ち止まってしまった。
「……ぬいぐるみ?」
それは、縫い目がむき出しのあまり可愛くないぬいぐるみだった。拾い上げると、甘い匂いが微かに揺れた。
(これ、きっと、あの子のだ)
咄嗟に、追いかけなければと思う。ユニはぬいぐるみをバッグに押し込んで、彼女が消えた方へ足を向けた。
女の子が消えていった道に入ると、ほとんど人がいなくなった。なんだか行ってはいけない方に来てしまった気がするが、この際気にせず進んでいく。知らない土地の、もっと知らない場所に、わくわくしていたのだ。
少し進むと、前方から白い法衣を纏った人がやってきた。この廊下に入ってから、実に、初めてすれ違う人だった。
「……」
「……」
ユニは頭を下げたが、その人は無言で、思いきりユニのことを見ていた。なんとも冷たい視線に、急に不安になる。
(……な、何にも言われなかったけど、やっぱり入っちゃいけない場所だったのかも……)
引き返したい衝動に駆られ後ろを振り返るが、同じような景色の続く回廊を、どう歩いて来たのかすでにわからなくなっていた。ユニは自分の情けなさを笑いたくなった。辺りを見回しても、もちろん誰もいない。
(どうしよう、また迷子になってる……)
「誰、アンタ」
「ひえっ!」
まったく気配を感じなかったのに突然背後から声が響いて、ユニは飛び上がった。覚悟を決めて振り返ると、そこには、仮面をつけた少年がいた。
(なんでよりによってこんな人が……)
その容貌に、またユニの不安が増幅する。兵士の兜とも違う、ただ顔をのっぺりと隠すだけの仮面に、肌がぞわぞわした。彼が一歩近付くたびにその緑色の髪が揺れて、ユニの鼓動は嫌でも速まった。
「ここで何してる?」
「いや、えっと、怪しい者ではないのですが……」
目を合わせないようにしても、彼の視線が痛いほど突き刺さるのがわかる。やっかいな人物にみつかってしまった、と直感する。
「なんの用だ?」
「ひ、人を探してるんです。どこか……人の集まる場所に連れて行ってもらえませんか……みつかれば、すぐに帰りますから」
「……へぇ」
少年はしばらくユニを眺めてから、どこか楽しそうに笑った。ユニはびくびくしながら彼の顔色を伺う。
「まるっきり戦えない訳じゃないみたいだけど、本部に侵入してどうこうしようってふうには見えないからまあいいか。特別だ、ついてきなよ」
彼が法衣を翻すのを見て、ユニはほっと安堵の溜息を漏らした。とりあえずは助かった。いや、案外あっさり助かった。あとは、行った先でツインテールの少女に会えれば、無事に帰れるはず。
(この人にぬいぐるみを届けてもらえばこれで終わったのかもしれないけど……まあ、いっか)