第1章(過去編)
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10 ミス・パーフェクト
両親はホド戦争で死んだらしい。
あの島は崩落したのでもう証拠はないが、二人とも、島とともに沈んでしまった。何人かがそう証言したようだ。彼らは、軍の中でも圧倒的に第七音素(セブンスフォニム)の扱いが上手かったという。治癒術も防御術も飛び抜けていて、凄惨な戦場にあっても、彼らの周りはいつもほぼ被害がなかったそうだ。
両親が眠っていると思い込んでいたお墓の中身は、実は空っぽだったとわかり、少し悲しかった。
「記録では、その頃すでに軍役を引退しているようですが、ホドを訪れていたのは確からしいですね」
なぜ軍との関わりを絶った両親が、よりによってあの時ホドにいたのだろうか。二人が戦争に巻き込まれる必要は、あったのだろうか。まだまだ知らないことが多すぎるが、生まれて初めて聞く話を、ユニは静かに反芻していた。
一通り喋ってもらった後でジェイドを見ると、それはもう鬼にも悪魔にも見えなかった。ユニにとって、初めて両親や戦争のことを話してくれた人。それが、戦争を一番近い場所で見てきた彼にとっては無数にある中の一つの出来事に過ぎないのだとしても――
「ありがとうございました。初めて聞くことばっかりで、とても……」
後をどう続けたらいいのかわからなくて、ユニは言葉を濁した。両親のことがわかって嬉しかった? 知らなかったのがバカみたいで悲しくて腹が立った? そんな簡単な気持ちじゃない。そのどれも違うような気がして声が出ない。
「そうですか。お役に立てて光栄です」
(……まあ、ジェイドにはそんなの興味ないか)
とくにユニの言葉を待つわけでもなく返事をされて、助かったのはその通りだが、なんとも言えない気持ちになった。気まずい静寂が訪れる。
「……」
「……ユニ」
「はい」
「先ほどの話はなかったことにしましょう」
「……え?」
なんのことかわからなくて聞き返す。ユニのぽかんとした顔から視線を逸らして、彼は溜息をついた。
「譜術を習いませんか、という話です」
「え! な、なんで……」
両親は治癒士だった。以前のユニならきっと断っていただろうが、このことを聞いてからは譜術を身に付けたいという気持ちをはっきりと抱いていた。それよりも、言い出したジェイドがなぜやめるというのだろう。
「わたし、頑張ります! ちゃんとやりますから!」
「……あなたは何も知らないで育つべきでした」
ユニはわけがわからなくて、なんだか不安な気持ちになった。ジェイドの眼鏡の奥を、覗くのが怖かった。
「確かに、ご両親のように第七音素を扱える才能はあるかもしれません。しかし、戦争で傷付くのは軍人だけで結構。民間人として育ったあなたが、この国の譜術を覚える必要はありませんよ」
「そんな……わたしだって、無関係じゃありません!」
確かにこれまでは、宮殿勤めをしているだけの非力な市民だった。両親が戦争で死んだことは知っていたが、仇討ちをしようとも思わなかった。
今だってそんな気はないけれど。ここまで話を聞いてしまった後で、どうしてやめるなんて言えようか。
「ジェイド、わたしに譜術を教えて下さい! 今更かもしれないけど、わたしは、両親と同じものを見たい……!」
「……近々、キムラスカと戦争が起こるでしょう」
ジェイドは視線をはずして、肩を竦めた。呆れているのか、それとももう諦めているのか。
「譜術を扱えるようになれば、あなたも戦場に駆り出されるかもしれません」
「構いません! 一緒に行きます!」
戦争に行きたいだなんて、一生言わないと思っていた。誰かを傷付けるなんて嫌だし、痛い思いをするのももっと嫌なのに。決して、行きたいわけじゃない。でも、自分はそこへ行って、両親が見た景色を見たいのだ。
「キムラスカが憎いとか、そういう気持ちは、まだよくわからないですけど……わたし、何かしないと、もう気が済みません」
「……間違いでしたねぇ、あなたにこんな話をしたのは」
「そうです。ジェイドが話したんですから。責任持って面倒見て下さい」
「……」
返事はなかったけれど、なんとなく承諾してくれたような気がする。きっと、今日のことだって預言には詠まれているんだ、とユニは思った。詠まれていてほしい。そうだったらきっと無意味じゃないから。
少しの沈黙の後で、ジェイドはユニに向き直って、仕方がないという表情で肩を竦めた。
「わかりました。知り合いにいい治癒士がいますから紹介して……」
「あ、あ、いや、だめです! わたしに治癒術は無理ですから! だから教わるならジェイドがいいです!」
ユニの一言でまたジェイドの視線が冷たくなった。見抜かれている、とたじたじになる。
「……第七音素、使えるのでしょう?」
「素質があるって言われたことはありますけど……血とかはちょっと……」
「はい?」
「……血とか傷とかそういうの苦手なんで……ああっ、ちょっと、待って下さいよー!」
ぼそっと呟くように言うと、ジェイドは即座に立ちあがって部屋を出て行こうとした。ユニがあわてて彼の服を引っ張ると、鬱陶しそうな視線が突き刺さった。気後れしながらも「血を見るのが苦手だから、そういうのにいちいち関わる治癒術は無理。だから普通の譜術の方がまし。なるべく近くで見なくて済む方がいい」とユニが言うと、彼は肩を竦めた。
「そんな子どもみたいなことを言う方を戦場に連れて行くわけにはいきませんし、私の譜術は攻撃用ですよ」
「でも、遠くからならよく見えないですよね……」
「はっきり言います。私の譜術は、人を傷付けるものですよ。あなたには無理です」
何気ないようなのに、妙にドキリとした。さらりと言ってのけるあたり、さすがにジェイドだなとユニは思う。
こんなにはっきりと「人を傷付けている」なんて、普通は口に出来ない。彼は強い。だけど、そうしないといられない弱さもきっとあるのだろう。ユニだって、好きで人を傷付ける術を覚えたいわけじゃない。でも、自分にはこれしかない。だからこそ、強くて脆いこの人の傍で学びたい、とこの瞬間に思ったのだ。
「違いますよ。マルクトは、ジェイドの譜術に守られているじゃないですか……」
そう言って顔を上げると、赤い瞳と視線がぶつかった。彼の表情は、もう暗くはなかった。
「……まあ、諦めるつもりはないようですし? いいでしょう。第七音素を使うもの以外でよろしければ、私が面倒を見て差し上げます」
「……あっ……ありがとうございます!」
無意識に、いまだに掴んだままだった彼の服をぎゅっと握る。これで、両親に一歩近づけた気がする。自分の人生を使ってやるべきことが、やっと見えてきた。
「ただし」
「は、はいっ」
嬉しくて顔を緩めたユニを見下ろして、ジェイドは眼鏡を押し上げる。部屋の灯りが逆光になっていて、妙に迫力があった。
「治癒術も少しは練習して下さい。あの方々の娘なのですから、きちんとやれば恐らく軍としても重宝……」
「だ、だから、血とか、ダメなんですって!」
一瞬にして顔を真っ青にしたユニに、彼は思いきり呆れたような視線を落とした。
「克服するという気はないのですか」
「……慣れればなんとか……慣れるなんて嫌ですけど」
「まあ、やるからには克服させますが。私は厳しいですよ、ユニ?」
「……うう、よ、よろしくお願いします……」
◇
「いやぁ、困ったことになりました」
「その割には楽しそうだな、お前」
大量の水が流れ落ちる滝を眺めながら、ジェイドは飄々として言った。隣には幼い頃からの腐れ縁、ピオニーがいる。いつもピオニーの傍にいるユニは、今はジェイドのおつかいで外出中だ。水音の他には、この二人の声だけが響いていた。
「いえいえ、まったく、本当に困ってますよ」
「……ホドのこと、話したのか?」
「世間に伝わっている内容だけです。……しかしユニが本当のことを知れば」
ジェイドはそこで言葉を切って、空をみつめた。そこには何もない。ただ、過去の消えない記憶が浮かんでいるような気がしていた。
「直接関係はないにせよ、恨まれそうですね」
「あれは恨み事には関心がないような感じだけどなぁ」
そうは言っても、ユニが真実を知るとなれば、当然あの研究のことも耳に入るはずだ。何か一つ過去をなかったことにしていい、と言われれば間違いなく挙げる、あの一連の出来事。
「出来れば知って欲しくありませんね。ああいう何も知らない子どもはとくに」
水の反射で青白く見えるジェイドの横顔を、ピオニーはぼんやりと見つめていた。ずっと傍観するしかなかった、しかし当事者以外の一番近くですべてを見てきた。その後悔も絶望も、贖罪も。
「……ああ。確かにあいつは知らない方がいいな。オレもそう思う」
◇
翌日から、ユニは地獄を見ることになる。
世話係と、ジェイドの奴隷と、譜術士見習いの三足のわらじを履かされたのだ。
ピオニーの部屋を掃除して、ジェイドの容赦ない譜術訓練をこなし、ピオニーの部屋をまた片付けて、ジェイドのわけのわからない難しい仕事を手伝い、ピオニーの部屋を片付けて、たまに治癒術の先生のところへ行き、たまにピオニーが散らかしたジェイドの部屋を片付け、ジェイドからおつかいを頼まれ、またピオニーの部屋を片付けて――
「あ、ユニ! 久しぶり……」
「ごめんフィル! いま忙しくて……」
「ユニ、この書類を少将のところへ届けて下さい」
「はい! フィル、ま、またね~……」
たまに会った友人ともゆっくり話す時間がないほど、ユニはグランコクマ中を走り回っていた。ほとんど転びそうになりながら大量の書類を抱いて駆けていくユニを見て、フィルはジェイドに向かって苦笑する。
「大佐、あんなに働かせてあの子大丈夫なんですか?」
「いいじゃないですか、楽しそうで」
「……はあ、確かにそうかもですね」
ジェイドの皮肉も、あながち間違いではないのかもしれない。いま、ユニの目には何もかもが宝石のようにキラキラと光って見えていた。目の前は新しいことだらけで、人の役に立つ実感があるし、譜術も毎日少しずつ上達している。楽しくて仕方ないのだ。それは傍から見ているフィルにもわかることだった。
「アスランさん! こちら、カーティス大佐からです」
「ご苦労様です。今仕事が一段落したところで、お茶を淹れようと思っていたんです。よかったら少し休んで行って下さい」
髪が乱れたまま執務室に入ってきたユニを見て、アスラン・フリングス少将は優しく微笑んで見せた。ユニがジェイドたちにこき使われているのは、すでに周知のことだった。
ユニは慌てて髪を撫でつけながら、笑顔を返した。アスランとは、ジェイドの仕事を手伝うようになってから知り合った。彼はピオニーとも親しかったので、友人になるまでに時間はかからなかった。
彼に会うと、年齢が近いせいか、なんとなくガイのことを思い出してしまう。それでもやっぱりあの時以上の胸の高鳴りは、未だにないのだけど。
「ユニさん、お茶、ここに置いておきますね」
「わあ、ほんと、ありがとうございます」
一息ついて、ユニはソファに深く座る。熱い湯気とともに立ち上る高貴な香りは、彼にぴったりだった。
「譜術の練習は順調ですか?」
「は、はは、まぁ……」
何気ない言葉なのだろうが、ついつい訓練中のジェイドの姿が脳裏に浮かんで、ユニは顔を強張らせた。出来れば思い出したくない光景だ。
「無理せず、頑張ってくださいね。ユニさんがいつか倒れるんじゃないかとみんな心配していますから」
「だ、大丈夫ですよ。意外とジェイドも、優しいですから……」
息も絶え絶えに言われて説得力はないだろうが、とりあえず全力で微笑んだ。しかし、優しい彼は、わずかに視線を落とす。
「でも私は、実を言うとユニさんにはあまり頑張って欲しくないのです」
「へ?」
返って来た言葉は少し意外なものだった。柔らかい午後の日差しとは裏腹に、彼の表情が少しだけ曇る。
「譜術士としての学を修めれば、戦争に行かなくてはならないですから」
「……ジェイドにも同じこと言われました」
苦笑いをするユニは、本物の戦争を知らない。こうして譜術の訓練をしているものの、知りたくもないのが本音だった。目の前にいる彼はまだ若い。でもきっとユニの想像もつかないことをたくさん知っているのだろう。その光も、闇も。
「出来れば平和な世の中がいいですね」
「はい。マルクトもキムラスカも、仲良く出来たらいいんですけどね」
そう言いながら、ユニは彼の腰に差された剣を無意識に見下ろした。アスランもその視線を追っていく。
「……軍人の私がこんなことを言うのは変でしたね」
「変じゃ……ありませんよ」
どこかへ消えてしまいそうな彼の表情を見ていたら、なぜだか泣きそうになった。
戻るのが少し遅くなったが、ジェイドは何も言わなかった。彼はたぶん気付いたのだ。自分でもよくわからないユニの心の変化を。
(……戦争が始まったら、みんなどうなるんだろう)
待っていてくれる人がいるのはいいことだし、自分はそちら側でいいと思っていた。どうせ何も出来ないんだから、と半ば諦めていたのかもしれない。でも今は、ただ彼らの帰りを待つだけなんて、きっと無理だ。
(わたしがみんなを守れたらいいのにな)
それだけ大切なものが、たくさんできてしまった。
両親はホド戦争で死んだらしい。
あの島は崩落したのでもう証拠はないが、二人とも、島とともに沈んでしまった。何人かがそう証言したようだ。彼らは、軍の中でも圧倒的に第七音素(セブンスフォニム)の扱いが上手かったという。治癒術も防御術も飛び抜けていて、凄惨な戦場にあっても、彼らの周りはいつもほぼ被害がなかったそうだ。
両親が眠っていると思い込んでいたお墓の中身は、実は空っぽだったとわかり、少し悲しかった。
「記録では、その頃すでに軍役を引退しているようですが、ホドを訪れていたのは確からしいですね」
なぜ軍との関わりを絶った両親が、よりによってあの時ホドにいたのだろうか。二人が戦争に巻き込まれる必要は、あったのだろうか。まだまだ知らないことが多すぎるが、生まれて初めて聞く話を、ユニは静かに反芻していた。
一通り喋ってもらった後でジェイドを見ると、それはもう鬼にも悪魔にも見えなかった。ユニにとって、初めて両親や戦争のことを話してくれた人。それが、戦争を一番近い場所で見てきた彼にとっては無数にある中の一つの出来事に過ぎないのだとしても――
「ありがとうございました。初めて聞くことばっかりで、とても……」
後をどう続けたらいいのかわからなくて、ユニは言葉を濁した。両親のことがわかって嬉しかった? 知らなかったのがバカみたいで悲しくて腹が立った? そんな簡単な気持ちじゃない。そのどれも違うような気がして声が出ない。
「そうですか。お役に立てて光栄です」
(……まあ、ジェイドにはそんなの興味ないか)
とくにユニの言葉を待つわけでもなく返事をされて、助かったのはその通りだが、なんとも言えない気持ちになった。気まずい静寂が訪れる。
「……」
「……ユニ」
「はい」
「先ほどの話はなかったことにしましょう」
「……え?」
なんのことかわからなくて聞き返す。ユニのぽかんとした顔から視線を逸らして、彼は溜息をついた。
「譜術を習いませんか、という話です」
「え! な、なんで……」
両親は治癒士だった。以前のユニならきっと断っていただろうが、このことを聞いてからは譜術を身に付けたいという気持ちをはっきりと抱いていた。それよりも、言い出したジェイドがなぜやめるというのだろう。
「わたし、頑張ります! ちゃんとやりますから!」
「……あなたは何も知らないで育つべきでした」
ユニはわけがわからなくて、なんだか不安な気持ちになった。ジェイドの眼鏡の奥を、覗くのが怖かった。
「確かに、ご両親のように第七音素を扱える才能はあるかもしれません。しかし、戦争で傷付くのは軍人だけで結構。民間人として育ったあなたが、この国の譜術を覚える必要はありませんよ」
「そんな……わたしだって、無関係じゃありません!」
確かにこれまでは、宮殿勤めをしているだけの非力な市民だった。両親が戦争で死んだことは知っていたが、仇討ちをしようとも思わなかった。
今だってそんな気はないけれど。ここまで話を聞いてしまった後で、どうしてやめるなんて言えようか。
「ジェイド、わたしに譜術を教えて下さい! 今更かもしれないけど、わたしは、両親と同じものを見たい……!」
「……近々、キムラスカと戦争が起こるでしょう」
ジェイドは視線をはずして、肩を竦めた。呆れているのか、それとももう諦めているのか。
「譜術を扱えるようになれば、あなたも戦場に駆り出されるかもしれません」
「構いません! 一緒に行きます!」
戦争に行きたいだなんて、一生言わないと思っていた。誰かを傷付けるなんて嫌だし、痛い思いをするのももっと嫌なのに。決して、行きたいわけじゃない。でも、自分はそこへ行って、両親が見た景色を見たいのだ。
「キムラスカが憎いとか、そういう気持ちは、まだよくわからないですけど……わたし、何かしないと、もう気が済みません」
「……間違いでしたねぇ、あなたにこんな話をしたのは」
「そうです。ジェイドが話したんですから。責任持って面倒見て下さい」
「……」
返事はなかったけれど、なんとなく承諾してくれたような気がする。きっと、今日のことだって預言には詠まれているんだ、とユニは思った。詠まれていてほしい。そうだったらきっと無意味じゃないから。
少しの沈黙の後で、ジェイドはユニに向き直って、仕方がないという表情で肩を竦めた。
「わかりました。知り合いにいい治癒士がいますから紹介して……」
「あ、あ、いや、だめです! わたしに治癒術は無理ですから! だから教わるならジェイドがいいです!」
ユニの一言でまたジェイドの視線が冷たくなった。見抜かれている、とたじたじになる。
「……第七音素、使えるのでしょう?」
「素質があるって言われたことはありますけど……血とかはちょっと……」
「はい?」
「……血とか傷とかそういうの苦手なんで……ああっ、ちょっと、待って下さいよー!」
ぼそっと呟くように言うと、ジェイドは即座に立ちあがって部屋を出て行こうとした。ユニがあわてて彼の服を引っ張ると、鬱陶しそうな視線が突き刺さった。気後れしながらも「血を見るのが苦手だから、そういうのにいちいち関わる治癒術は無理。だから普通の譜術の方がまし。なるべく近くで見なくて済む方がいい」とユニが言うと、彼は肩を竦めた。
「そんな子どもみたいなことを言う方を戦場に連れて行くわけにはいきませんし、私の譜術は攻撃用ですよ」
「でも、遠くからならよく見えないですよね……」
「はっきり言います。私の譜術は、人を傷付けるものですよ。あなたには無理です」
何気ないようなのに、妙にドキリとした。さらりと言ってのけるあたり、さすがにジェイドだなとユニは思う。
こんなにはっきりと「人を傷付けている」なんて、普通は口に出来ない。彼は強い。だけど、そうしないといられない弱さもきっとあるのだろう。ユニだって、好きで人を傷付ける術を覚えたいわけじゃない。でも、自分にはこれしかない。だからこそ、強くて脆いこの人の傍で学びたい、とこの瞬間に思ったのだ。
「違いますよ。マルクトは、ジェイドの譜術に守られているじゃないですか……」
そう言って顔を上げると、赤い瞳と視線がぶつかった。彼の表情は、もう暗くはなかった。
「……まあ、諦めるつもりはないようですし? いいでしょう。第七音素を使うもの以外でよろしければ、私が面倒を見て差し上げます」
「……あっ……ありがとうございます!」
無意識に、いまだに掴んだままだった彼の服をぎゅっと握る。これで、両親に一歩近づけた気がする。自分の人生を使ってやるべきことが、やっと見えてきた。
「ただし」
「は、はいっ」
嬉しくて顔を緩めたユニを見下ろして、ジェイドは眼鏡を押し上げる。部屋の灯りが逆光になっていて、妙に迫力があった。
「治癒術も少しは練習して下さい。あの方々の娘なのですから、きちんとやれば恐らく軍としても重宝……」
「だ、だから、血とか、ダメなんですって!」
一瞬にして顔を真っ青にしたユニに、彼は思いきり呆れたような視線を落とした。
「克服するという気はないのですか」
「……慣れればなんとか……慣れるなんて嫌ですけど」
「まあ、やるからには克服させますが。私は厳しいですよ、ユニ?」
「……うう、よ、よろしくお願いします……」
◇
「いやぁ、困ったことになりました」
「その割には楽しそうだな、お前」
大量の水が流れ落ちる滝を眺めながら、ジェイドは飄々として言った。隣には幼い頃からの腐れ縁、ピオニーがいる。いつもピオニーの傍にいるユニは、今はジェイドのおつかいで外出中だ。水音の他には、この二人の声だけが響いていた。
「いえいえ、まったく、本当に困ってますよ」
「……ホドのこと、話したのか?」
「世間に伝わっている内容だけです。……しかしユニが本当のことを知れば」
ジェイドはそこで言葉を切って、空をみつめた。そこには何もない。ただ、過去の消えない記憶が浮かんでいるような気がしていた。
「直接関係はないにせよ、恨まれそうですね」
「あれは恨み事には関心がないような感じだけどなぁ」
そうは言っても、ユニが真実を知るとなれば、当然あの研究のことも耳に入るはずだ。何か一つ過去をなかったことにしていい、と言われれば間違いなく挙げる、あの一連の出来事。
「出来れば知って欲しくありませんね。ああいう何も知らない子どもはとくに」
水の反射で青白く見えるジェイドの横顔を、ピオニーはぼんやりと見つめていた。ずっと傍観するしかなかった、しかし当事者以外の一番近くですべてを見てきた。その後悔も絶望も、贖罪も。
「……ああ。確かにあいつは知らない方がいいな。オレもそう思う」
◇
翌日から、ユニは地獄を見ることになる。
世話係と、ジェイドの奴隷と、譜術士見習いの三足のわらじを履かされたのだ。
ピオニーの部屋を掃除して、ジェイドの容赦ない譜術訓練をこなし、ピオニーの部屋をまた片付けて、ジェイドのわけのわからない難しい仕事を手伝い、ピオニーの部屋を片付けて、たまに治癒術の先生のところへ行き、たまにピオニーが散らかしたジェイドの部屋を片付け、ジェイドからおつかいを頼まれ、またピオニーの部屋を片付けて――
「あ、ユニ! 久しぶり……」
「ごめんフィル! いま忙しくて……」
「ユニ、この書類を少将のところへ届けて下さい」
「はい! フィル、ま、またね~……」
たまに会った友人ともゆっくり話す時間がないほど、ユニはグランコクマ中を走り回っていた。ほとんど転びそうになりながら大量の書類を抱いて駆けていくユニを見て、フィルはジェイドに向かって苦笑する。
「大佐、あんなに働かせてあの子大丈夫なんですか?」
「いいじゃないですか、楽しそうで」
「……はあ、確かにそうかもですね」
ジェイドの皮肉も、あながち間違いではないのかもしれない。いま、ユニの目には何もかもが宝石のようにキラキラと光って見えていた。目の前は新しいことだらけで、人の役に立つ実感があるし、譜術も毎日少しずつ上達している。楽しくて仕方ないのだ。それは傍から見ているフィルにもわかることだった。
「アスランさん! こちら、カーティス大佐からです」
「ご苦労様です。今仕事が一段落したところで、お茶を淹れようと思っていたんです。よかったら少し休んで行って下さい」
髪が乱れたまま執務室に入ってきたユニを見て、アスラン・フリングス少将は優しく微笑んで見せた。ユニがジェイドたちにこき使われているのは、すでに周知のことだった。
ユニは慌てて髪を撫でつけながら、笑顔を返した。アスランとは、ジェイドの仕事を手伝うようになってから知り合った。彼はピオニーとも親しかったので、友人になるまでに時間はかからなかった。
彼に会うと、年齢が近いせいか、なんとなくガイのことを思い出してしまう。それでもやっぱりあの時以上の胸の高鳴りは、未だにないのだけど。
「ユニさん、お茶、ここに置いておきますね」
「わあ、ほんと、ありがとうございます」
一息ついて、ユニはソファに深く座る。熱い湯気とともに立ち上る高貴な香りは、彼にぴったりだった。
「譜術の練習は順調ですか?」
「は、はは、まぁ……」
何気ない言葉なのだろうが、ついつい訓練中のジェイドの姿が脳裏に浮かんで、ユニは顔を強張らせた。出来れば思い出したくない光景だ。
「無理せず、頑張ってくださいね。ユニさんがいつか倒れるんじゃないかとみんな心配していますから」
「だ、大丈夫ですよ。意外とジェイドも、優しいですから……」
息も絶え絶えに言われて説得力はないだろうが、とりあえず全力で微笑んだ。しかし、優しい彼は、わずかに視線を落とす。
「でも私は、実を言うとユニさんにはあまり頑張って欲しくないのです」
「へ?」
返って来た言葉は少し意外なものだった。柔らかい午後の日差しとは裏腹に、彼の表情が少しだけ曇る。
「譜術士としての学を修めれば、戦争に行かなくてはならないですから」
「……ジェイドにも同じこと言われました」
苦笑いをするユニは、本物の戦争を知らない。こうして譜術の訓練をしているものの、知りたくもないのが本音だった。目の前にいる彼はまだ若い。でもきっとユニの想像もつかないことをたくさん知っているのだろう。その光も、闇も。
「出来れば平和な世の中がいいですね」
「はい。マルクトもキムラスカも、仲良く出来たらいいんですけどね」
そう言いながら、ユニは彼の腰に差された剣を無意識に見下ろした。アスランもその視線を追っていく。
「……軍人の私がこんなことを言うのは変でしたね」
「変じゃ……ありませんよ」
どこかへ消えてしまいそうな彼の表情を見ていたら、なぜだか泣きそうになった。
戻るのが少し遅くなったが、ジェイドは何も言わなかった。彼はたぶん気付いたのだ。自分でもよくわからないユニの心の変化を。
(……戦争が始まったら、みんなどうなるんだろう)
待っていてくれる人がいるのはいいことだし、自分はそちら側でいいと思っていた。どうせ何も出来ないんだから、と半ば諦めていたのかもしれない。でも今は、ただ彼らの帰りを待つだけなんて、きっと無理だ。
(わたしがみんなを守れたらいいのにな)
それだけ大切なものが、たくさんできてしまった。