第1章(過去編)
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06 わが眼差しの行方は
「……はぁ」
もう何回これを繰り返しただろう。いい加減自分でもうんざりしているのだけど。出てくるのは溜め息ばかり。ベッドに寝転がりながら、ガイにもらった髪飾りを撫でる。彼と過ごした時間の証は、ちゃんとここにあるのに。
別れは、想像していたよりもずっと痛かった。
ガイと別れてから数日が経った。彼とのおしゃべりのために用意した二つの椅子は、もうあの庭では用済みになってしまった。
幸い、あの日外出していたことは宮殿の誰にも知られていない。おかげで外出禁止令もやっと解かれたが、あれから一度も、例の花畑にも行っていないし、宮殿の外に出てさえいない。どうでもいいのだ。長い間育ててきた自分の庭でさえも、花が散ろうが草が枯れようが、もう、なんにも興味がない。
(ガイラルディア……)
ユニの頭の中にいるのはたった一人だった。
「ユニちゃん、そこにいるわね?」
引きこもること数日。とうとう監督役のマールがやってきて、ユニの部屋のドアを叩いた。
「……はい」
隠れても仕方がないので、どんよりとした声で顔を出すと、呆れた様子でじっと見つめられる。
「動けないほど具合が悪いわけじゃないわよね? そうなら連絡くらいは寄越すものね?」
「ええ。すみません」
「私が何を言いたいか、わかるわよね?」
「はい、だいたいは」
「まったく……水やりすらしなくなるなんて、一体どうしたのかしら」
そう訊かれて、ユニは少し考えてから、目を逸らした。
理由はわかっている。でもそれを言えば、きっと、そんなのは誰もが通り過ぎるくだらなくて愛らしい悩みだと一蹴されるだろう。これ程までの、説明できない程の欠落だということは、ユニにしかわからない。
「……なんか全部どうでもよくなってしまって……」
その欠落の果てにこうなった。ようやく答えを口にすると、マールは眉を寄せた。
「何があったか知らないけれど、もう少しだけ休んでいいから気を取り直しなさい」
彼女は説教をするために来たのだと思っていたユニにとっては、意外な言葉だった。優しささえ、感じてしまった。
(心配してもらって、ホント、なにしてるんだろうわたしは……)
帰っていく彼女の背を見て、ユニは息を吐き出す。自分が情けなくて涙が出てきた。
けれど、どうしても取り戻すことができなかった。もう一度頑張ろうという気持ちも、誰かを好きになりたいという気持ちも、この街を愛そうという気持ちも。悲しみもなければ怒りもない。
彼がいなくなってから、心の底に穴があいて、全部が零れ落ちていく。今の自分は、からっぽだった。
起き上がったついでに部屋を出たユニは、あてもなくグランコクマの街へ向かった。物心ついたときからずっと住んでいる、見慣れた街。でも彼と出会うまでは知らなかった、こんなに退屈な景色だったなんて。
彼はどこにもいないのに、もう何時間も歩き続けてくたくたなのに、「まだ探していない場所がある」と思ってしまう。
ガイとのことは、誰にも知られていない。この街であの日々を知っているのは自分だけだった。自分が忘れたら、もう、誰にも思い出せない、幻、夢、一瞬の陽炎のようなものだ。それなのに、いまだに鮮明できらきらと記憶の中で光っている。
毎朝、目が覚めて最初に思い浮かぶのは彼のこと。それなのに、もう会えない。
こんな気持ちでずっと生きていくのだろうか、とユニは思う。欠落を抱えて、それを埋める方法もなく、ずっとこうして彷徨うのだろうか。
(毎日毎日、同じように庭に水をあげて、ガイに会えないかなーって考えるのかな。気分転換に街に出たって、同じ景色ばっかりだったら、いつかうんざりする。恋の話ができる友達もいないし、好きになれそうな人もいないし。それに、今のままじゃバチカルに行くお金も貯まらないし……)
疲れで頭がぼんやりとしていた。どれだけ歩いても、見えるのはやっぱり青と白の決まった景色だけ。
(……もう一生、好きな人に会えないかもしれない)
そう考えたらあまりの怖さに思考が停止した。ようやく足が止まって、ふと、橋の下を流れる水路に目をやった。覗き込むと、深い水の中に自分の顔が映っていた。
絶望してぐちゃぐちゃで、無様な姿だった。
そのとき、風が吹いて波が揺らめいた。自分の姿が、一瞬だけ掻き消える。
「水……きれい。この街のこの景色だけは、すきだなぁ」
水面が大きく揺れて音を立てた。水音が永遠に響き続けるこの街で、それに気付いた人は誰もいない。
視界は怖いくらいに真っ青だった。
この浮遊感は、水やりのときに感じていたものと似ている。冷たくて気持ちがいい。何もしなくても、勝手に流されていく。ただ息が苦しいだけで、他には何も……他には何もないのだ。
ぜんぶ融けていく、消えていく、痛みも、欠落も、心も、命も――
「げほっ!」
突然目の前が明るくなった。先程までの圧迫された感じとは違う、新鮮な空気にさらされて、ユニは思わず咳き込んだ。肺に入りこんだ水が痛い。こんなに苦しかったんだ、と唐突に理解する。
やっとの思いで咳を止め、目を擦って顔をあげると、目の前に眼鏡をかけた男の人がいた。彼の服も髪も、ユニと同じようにびしょ濡れだった。
「お前、何をしているんだ?」
男の人の怒ったような声が、耳にぴりぴりと響いた。どこかで聞いたことがある、よく知っている筈の響き。
(あれ、この人のこと、知ってる……?)
明るい金色の髪からは、水がぽたぽたと滴り落ちている。ユニは返事もせずに、眼鏡の奥の青い瞳を食い入るように覗き込んだ。
「……へい……か……?」
「ん、なんだ。オレのこと知ってたのか」
頭に思い浮かんだ文字を口からそのまま出すと、その人は快活に笑って見せた。笑った顔が、ユニの記憶の中の「陛下」と重なった。なぜかはわからないが、どうやら、目の前にいるこの人は「ピオニー陛下」のようだ。
「いや……陛下がなんで……あ、そっかこれ夢か」
「お、おい」
ぼんやりとその顔を見つめながら独り言を言うと、彼は「大丈夫か?」と心配そうに聞いてきた。しかしユニはそれには応えず、辺りをきょろきょろ見回す。
ここはまだグランコクマだった。ユニが落ちた水路を流れていった先の、何処か。ただ、目の前にありえない人物がいることが、これが非現実だと思い込ませる。
少し落ち着くと、やがて先程までのことも思い出せるようになった。だがそれは、それこそが夢であって欲しいと思うような現実だった。
「いやいや、夢っていうか、わたし、そうだ……流されて……死んだ? うそ……わたし、なんてこと……」
「おい――」
がたがたと震え始めたユニの肩を、その人は掴んだ。しかしユニは何も目に映さず、虚ろな視線を漂わせる。
「まだ、嫌だよ……もう一度……ガイに会いたい……」
ユニの意識はそこで途切れた。永遠のように聞こえていた水音も途絶えて、真っ暗な静寂がやってきた。
「……」
長いトンネルを抜けた感覚とともに、ユニは目を開けた。街とも空とも違う青と、再び聞こえ始めた水音。
(あれ? ここどこだろ、なんか見覚えが……)
意識が戻ってくると、自分がベッドの上に寝かされていることがわかった。身体がずっしりと重い。首をほとんど動かさずに目だけで景色を追っていると、青い壁のなかに金色が見えた。
「お、起きたか。身体は大丈夫か?」
「へ、陛下……」
彼を見てユニは「ああ、これはさっきの続きなんだ」と思った。いくらなんでも皇帝陛下の前で自分が横になっていて、声をかけられるなんて。そんなはずがない。
けれども彼はユニの近くに腰をおろして、そっと目線を合わせる。
「お前、なんで水路に身投げなんてしたんだ?」
「……なんででしょうね……」
ぼんやりと答えると、一層虚しさが増した。悲しいのかどうかもよくわからない。ただ、死んだ後にもその理由をいちいち説明するのは煩わしかった。
「そう言うな。目の前で国民に自殺される皇帝の気持ちを、お前、考えたことがあるか? ん?」
曇りのない明るい彼の瞳を見ていたら、なんだか羨ましくて恨めしく思えてきた。きっと彼は生きているのが楽しいはずだ。どうして? 皇帝だから? やりたいことができて好きな人に囲まれているからだろうか?
わたしとは大違いだ、と思ったら、胸の中がもやもやした。そうだ、自分の国の皇帝に直接文句を言える機会なんてめったにないし、どうせ死んでいるのなら、もう何も怖いものなんてないし。
そう思ったユニは勢いよくばっと起き上がると、不敬にも彼をびしっと指差した。
「あのですね、陛下。わたしがこうなったのは、陛下にも責任があると思うのです」
「ほう?」
これを待っていたかのような彼の余裕の態度に、ユニは少しむっとしたが、気を取り直して続けることにした。
「わたしは、今思えば実にくだらない理由で、ええ、ほとんど考えもせずに、水路に飛び込んでいました。けれどこれは昨日今日の思い付きではないんです。子供の頃からの不満に、耐えられなくなったのだと思います」
「その、不満というのは?」
ユニはぎゅ、と拳を握り締めた。今まで誰にも言ったことのない思いが、胸の奥からこみあげてきた。
「……はぁ」
もう何回これを繰り返しただろう。いい加減自分でもうんざりしているのだけど。出てくるのは溜め息ばかり。ベッドに寝転がりながら、ガイにもらった髪飾りを撫でる。彼と過ごした時間の証は、ちゃんとここにあるのに。
別れは、想像していたよりもずっと痛かった。
ガイと別れてから数日が経った。彼とのおしゃべりのために用意した二つの椅子は、もうあの庭では用済みになってしまった。
幸い、あの日外出していたことは宮殿の誰にも知られていない。おかげで外出禁止令もやっと解かれたが、あれから一度も、例の花畑にも行っていないし、宮殿の外に出てさえいない。どうでもいいのだ。長い間育ててきた自分の庭でさえも、花が散ろうが草が枯れようが、もう、なんにも興味がない。
(ガイラルディア……)
ユニの頭の中にいるのはたった一人だった。
「ユニちゃん、そこにいるわね?」
引きこもること数日。とうとう監督役のマールがやってきて、ユニの部屋のドアを叩いた。
「……はい」
隠れても仕方がないので、どんよりとした声で顔を出すと、呆れた様子でじっと見つめられる。
「動けないほど具合が悪いわけじゃないわよね? そうなら連絡くらいは寄越すものね?」
「ええ。すみません」
「私が何を言いたいか、わかるわよね?」
「はい、だいたいは」
「まったく……水やりすらしなくなるなんて、一体どうしたのかしら」
そう訊かれて、ユニは少し考えてから、目を逸らした。
理由はわかっている。でもそれを言えば、きっと、そんなのは誰もが通り過ぎるくだらなくて愛らしい悩みだと一蹴されるだろう。これ程までの、説明できない程の欠落だということは、ユニにしかわからない。
「……なんか全部どうでもよくなってしまって……」
その欠落の果てにこうなった。ようやく答えを口にすると、マールは眉を寄せた。
「何があったか知らないけれど、もう少しだけ休んでいいから気を取り直しなさい」
彼女は説教をするために来たのだと思っていたユニにとっては、意外な言葉だった。優しささえ、感じてしまった。
(心配してもらって、ホント、なにしてるんだろうわたしは……)
帰っていく彼女の背を見て、ユニは息を吐き出す。自分が情けなくて涙が出てきた。
けれど、どうしても取り戻すことができなかった。もう一度頑張ろうという気持ちも、誰かを好きになりたいという気持ちも、この街を愛そうという気持ちも。悲しみもなければ怒りもない。
彼がいなくなってから、心の底に穴があいて、全部が零れ落ちていく。今の自分は、からっぽだった。
起き上がったついでに部屋を出たユニは、あてもなくグランコクマの街へ向かった。物心ついたときからずっと住んでいる、見慣れた街。でも彼と出会うまでは知らなかった、こんなに退屈な景色だったなんて。
彼はどこにもいないのに、もう何時間も歩き続けてくたくたなのに、「まだ探していない場所がある」と思ってしまう。
ガイとのことは、誰にも知られていない。この街であの日々を知っているのは自分だけだった。自分が忘れたら、もう、誰にも思い出せない、幻、夢、一瞬の陽炎のようなものだ。それなのに、いまだに鮮明できらきらと記憶の中で光っている。
毎朝、目が覚めて最初に思い浮かぶのは彼のこと。それなのに、もう会えない。
こんな気持ちでずっと生きていくのだろうか、とユニは思う。欠落を抱えて、それを埋める方法もなく、ずっとこうして彷徨うのだろうか。
(毎日毎日、同じように庭に水をあげて、ガイに会えないかなーって考えるのかな。気分転換に街に出たって、同じ景色ばっかりだったら、いつかうんざりする。恋の話ができる友達もいないし、好きになれそうな人もいないし。それに、今のままじゃバチカルに行くお金も貯まらないし……)
疲れで頭がぼんやりとしていた。どれだけ歩いても、見えるのはやっぱり青と白の決まった景色だけ。
(……もう一生、好きな人に会えないかもしれない)
そう考えたらあまりの怖さに思考が停止した。ようやく足が止まって、ふと、橋の下を流れる水路に目をやった。覗き込むと、深い水の中に自分の顔が映っていた。
絶望してぐちゃぐちゃで、無様な姿だった。
そのとき、風が吹いて波が揺らめいた。自分の姿が、一瞬だけ掻き消える。
「水……きれい。この街のこの景色だけは、すきだなぁ」
水面が大きく揺れて音を立てた。水音が永遠に響き続けるこの街で、それに気付いた人は誰もいない。
視界は怖いくらいに真っ青だった。
この浮遊感は、水やりのときに感じていたものと似ている。冷たくて気持ちがいい。何もしなくても、勝手に流されていく。ただ息が苦しいだけで、他には何も……他には何もないのだ。
ぜんぶ融けていく、消えていく、痛みも、欠落も、心も、命も――
「げほっ!」
突然目の前が明るくなった。先程までの圧迫された感じとは違う、新鮮な空気にさらされて、ユニは思わず咳き込んだ。肺に入りこんだ水が痛い。こんなに苦しかったんだ、と唐突に理解する。
やっとの思いで咳を止め、目を擦って顔をあげると、目の前に眼鏡をかけた男の人がいた。彼の服も髪も、ユニと同じようにびしょ濡れだった。
「お前、何をしているんだ?」
男の人の怒ったような声が、耳にぴりぴりと響いた。どこかで聞いたことがある、よく知っている筈の響き。
(あれ、この人のこと、知ってる……?)
明るい金色の髪からは、水がぽたぽたと滴り落ちている。ユニは返事もせずに、眼鏡の奥の青い瞳を食い入るように覗き込んだ。
「……へい……か……?」
「ん、なんだ。オレのこと知ってたのか」
頭に思い浮かんだ文字を口からそのまま出すと、その人は快活に笑って見せた。笑った顔が、ユニの記憶の中の「陛下」と重なった。なぜかはわからないが、どうやら、目の前にいるこの人は「ピオニー陛下」のようだ。
「いや……陛下がなんで……あ、そっかこれ夢か」
「お、おい」
ぼんやりとその顔を見つめながら独り言を言うと、彼は「大丈夫か?」と心配そうに聞いてきた。しかしユニはそれには応えず、辺りをきょろきょろ見回す。
ここはまだグランコクマだった。ユニが落ちた水路を流れていった先の、何処か。ただ、目の前にありえない人物がいることが、これが非現実だと思い込ませる。
少し落ち着くと、やがて先程までのことも思い出せるようになった。だがそれは、それこそが夢であって欲しいと思うような現実だった。
「いやいや、夢っていうか、わたし、そうだ……流されて……死んだ? うそ……わたし、なんてこと……」
「おい――」
がたがたと震え始めたユニの肩を、その人は掴んだ。しかしユニは何も目に映さず、虚ろな視線を漂わせる。
「まだ、嫌だよ……もう一度……ガイに会いたい……」
ユニの意識はそこで途切れた。永遠のように聞こえていた水音も途絶えて、真っ暗な静寂がやってきた。
「……」
長いトンネルを抜けた感覚とともに、ユニは目を開けた。街とも空とも違う青と、再び聞こえ始めた水音。
(あれ? ここどこだろ、なんか見覚えが……)
意識が戻ってくると、自分がベッドの上に寝かされていることがわかった。身体がずっしりと重い。首をほとんど動かさずに目だけで景色を追っていると、青い壁のなかに金色が見えた。
「お、起きたか。身体は大丈夫か?」
「へ、陛下……」
彼を見てユニは「ああ、これはさっきの続きなんだ」と思った。いくらなんでも皇帝陛下の前で自分が横になっていて、声をかけられるなんて。そんなはずがない。
けれども彼はユニの近くに腰をおろして、そっと目線を合わせる。
「お前、なんで水路に身投げなんてしたんだ?」
「……なんででしょうね……」
ぼんやりと答えると、一層虚しさが増した。悲しいのかどうかもよくわからない。ただ、死んだ後にもその理由をいちいち説明するのは煩わしかった。
「そう言うな。目の前で国民に自殺される皇帝の気持ちを、お前、考えたことがあるか? ん?」
曇りのない明るい彼の瞳を見ていたら、なんだか羨ましくて恨めしく思えてきた。きっと彼は生きているのが楽しいはずだ。どうして? 皇帝だから? やりたいことができて好きな人に囲まれているからだろうか?
わたしとは大違いだ、と思ったら、胸の中がもやもやした。そうだ、自分の国の皇帝に直接文句を言える機会なんてめったにないし、どうせ死んでいるのなら、もう何も怖いものなんてないし。
そう思ったユニは勢いよくばっと起き上がると、不敬にも彼をびしっと指差した。
「あのですね、陛下。わたしがこうなったのは、陛下にも責任があると思うのです」
「ほう?」
これを待っていたかのような彼の余裕の態度に、ユニは少しむっとしたが、気を取り直して続けることにした。
「わたしは、今思えば実にくだらない理由で、ええ、ほとんど考えもせずに、水路に飛び込んでいました。けれどこれは昨日今日の思い付きではないんです。子供の頃からの不満に、耐えられなくなったのだと思います」
「その、不満というのは?」
ユニはぎゅ、と拳を握り締めた。今まで誰にも言ったことのない思いが、胸の奥からこみあげてきた。