梵天ニ咲ク
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ありふれた日々の連続。
どこにでもいる「その他大勢」の一人としてカウントされる程度の存在。流れるままに生き、くだらない時間経過を愛想笑いでやり過ごすだけの無色な日常。
「おつかれさまでしたぁ」
にこにこと貼り付けていた笑顔を退勤と同時に職場に置き去りにした莉乃は、一分でも早く帰宅しようとスニーカーで駅に向かう。何の変哲もない、いつも通りの時間。定時の十八時。同僚たちに紛れて会社を出て、慣れ合いを避けるように黙々と歩く。
平日の木曜日。あと一日頑張れば、週末が待っている。予定が何もなくても、それを楽しみに日々を乗り切るという感覚は別に莉乃だけが持っているものでもないだろう。
「はぁ」
特別な意味のないタメ息が零れ落ちる。
商業ビルが立ち並ぶ都会のど真ん中、複合ビルの三階で働きはじめて半年。仕事内容は雑貨を取り扱う通信販売の梱包と発送。派遣社員として更新されるかどうか、明日の面談で明らかになる。
不景気な世の中。
一応、愛想よく真面目に働いてきたつもりだが、気まぐれな上司の判断でクビがいつ切られるか定かではない。
「……はぁ」
今度は携帯の画面を見て、明らかに苦悶のため息を吐き出した。
俗にいう毒親は、まだ働ける年齢にも関わらず無職でいる。そのうえ一人暮らしをする一人娘に仕送りを要求してくるのだから情けない。
「今度はいくら?」
我ながら馬鹿な娘だと思う。
中学三年生の夏、親は離婚し、父方に残されたあとは地獄だった。給料の全部をギャンブルに突っ込んだ挙句、負ければ酒を飲んで暴力をふるう。しまいには仕事をクビになり、わずかな退職金でギャンブルに通う。そんな父を心の中で軽蔑していたら、当然のごとく莉乃は生活費のためにアルバイトにいそしむ日々となっていた。もちろん高校には行けず、給料日に金を巻き上げられ、家賃滞納、ライフライン遮断も幾度となく経験した。
ただ、勝った時だけはすこぶる機嫌がよかったのが救いだった。支払いに必要な金をもらい、なんとか生きながらえることが出来たから。
心の中で見捨てていった母を恨んだが、すぐに何も思わなくなった。
もともとネグレクトで、大事にしてもらった記憶はない。
「おい」としか声をかけられたことがなく、食事は賞味期限の切れた菓子パンだけの日もあった。夫がああでは精神が保てなかったのかもしれない。
どうせ助けてくれる人なんていない。一人で生きていかなければ。周囲のキラキラした青春を送る同年代の少年少女を横目に掛け持ちで働き続け、十八歳になるころには、近くの小さなカラオケバーで夜のバイトも始めた。
「……はぁ」
大人になるというのはありがたい。
夜逃げのように家を出た二十歳の誕生日。
寮付きという言葉に釣られてキャバクラでなんとか生活を立て直し、念願の携帯を契約して三年。ようやく派遣社員として働き始めることが出来た。
キャバクラはまだ続けているが、もう年齢も二十三歳。寮ではなくきちんと一人暮らしを初めてみたい。夢は平凡。人々が「普通」という底辺じゃない生活を送ること。
明日の契約更新が決まれば、三ヶ月は「普通」の社会人生活を味わえる。
そしてこのまま運よく行けば、底辺人生からの脱却に希望の光が見える気がした。
「……はぁ」
駅に向かうまでの徒歩五分圏内の距離で四回目のため息。
今日は休みだが、明日はこの流れで店に顔を出さなくてはならない。
別に働くのはキライじゃない。思うことはたったひとつ。
「いつまでこんな生活続くんだろう」
二十三歳という若さで希望の光は見えなくなっていた。
理由は簡単。父はギャンブルで抱えた借金返済を一人娘に押し付けているから。
どこから入手したのか、携帯に連絡が来たのはつい四ヶ月ほど前のことだった。
「頼む、莉乃。今日中に十万、渡さないと殺される」
家を飛び出てからたった三年で、記憶のなかよりも老いぼれた父。
最初、待ち合わせ場所に現れたその男を莉乃はすぐに父だと認識できなかった。周囲に怯えて体を小さくし、指をこすり合わせて懇願する様子は、人間らしかったときの面影も欠片もない。
見捨てられないのは、単純に血のつながりだと認識している。呪いと言い換えてもいいかもしれない。今はこんな最低最悪の生物でも、二十歳まで一緒に暮らしていた人だったのだから。
「返さなくていいから、もう連絡してこないで」
莉乃は十万が入った封筒を差し出して、光のない瞳でそれを映す。
「あ、ああ。助かる、本当にありがとう…ありがとう…っ」
「連絡先も消してほしい」
「わかってる、わかってる。ちゃんと、消す」
ぼろぼろと涙をこぼす父を哀れだと思い、同時にこれで最後だと去っていく背中に「さようなら」を告げた。もう二度と会うことはない。はずだった。
自分が甘かったと知ったのは、その翌週。
性懲りもなく連絡をしてきた父に金を無心される日々が始まった。
『莉乃、頼む。助けてくれ』
仕事終わりに携帯の画面に浮かぶ短いメッセージ。今回が通算二十回目。働いては巻き上げられてきた習慣から抜け出せないのは莉乃も同じ。感覚は麻痺どころか死んでいる。ただ、あのときは貯金をくずしてどうにかなったものの、毎回毎回お金があるわけではない。
キャバクラの前払い制度を利用して渡し続けたとしても、こんなことではいつまでたっても夜の世界から足を洗えない。
普通の生活を送りたい。それがこんなにも難しい。
『今度はいくら?』
『十万』
『一昨日にも渡したよね?』
『……頼む』
頼む。その言葉に弱い。
必要とされている、存在意義を感じさせてくれる言葉に縛られている。
この世にいていいのだと、自分がいなくてはダメな人がいるのだと、思い込むことで希死念慮を追い払う。
それでも沸き立つ不快感。
『どうせギャンブルでしょ』
そうメッセージを作成して、消した。
機嫌を損ねると暴力を振るわれ続けた十代の呪縛がこんなところでまで発動されるのかと思うと泣けてくる。
自虐の息で心を染めて、駅まであと少しというところで莉乃は違和感に震えた。
「……っ…」
つけられている。かも、しれない。
最近は治安が悪い。都心部でも女性一人で歩くのは警戒心を持つようにと推奨されている。特に『梵天』という暗躍勢力が世間を何かと騒がせてくれているおかげで、防犯ブザー、催涙スプレーはもはや必需品。
こんなときに気分を落とさせないでくれと、内心で罵倒しながら莉乃は駅の方向ではなく、普段通らない道を曲がった。
「…っ…どうしよう」
気のせいであってほしいと願ったのもむなしく、足音は同じ歩幅でついてくる。走れば走り、歩けば歩く。いっこうに縮まりはしないが、離れもしない。
怖すぎて後ろを振り返ることも出来ない。
なんとか巻いて、逃げ切れやしないものかと焦った思考回路は、道を曲がり、道を曲がり、道を曲がり続け、ついに莉乃を見知らぬ路地裏に誘い込んでいた。
「あ…ぅ…」
行き止まり。
袋小路と呼ぶにぴったりの断崖絶壁がそびえたつ。コンクリートのビルが三方を囲む薄暗い場所。
「マズい」と思って引き返そうとした矢先、莉乃は振り返ったその反動でつけてきたストーカーとぶつかった。
「きゃっ」
どさっと尻餅をついたのは莉乃ひとりで、ぶつかった相手は衝撃を何とも思わないのか仁王立ちでそこに影を落としている。
「あーあ、残念だったなぁ」
語尾を裏声に変えて見下ろしてくるのは、スーツを着た長髪の男。
暗くて顔はよく見えない。年齢が「若そう」ということしか、わからない。
「よーし、よしよし。もう逃げんなよ、そのままそこを動くんじゃねぇ」
動いたらスクラップだと続けて聞こえてくる言葉に、体が固まったように動けない。
それは普段見るはずのない黒い無機質の物体を見たからか、平然と銃口を一般人に向ける男の眼圧に息を奪われたからか、停止した思考では理由を見つけられるはずもない。
「身分証だせ」
「……え?」
「さっさとしろ」
銃口をむけたまましゃがんで、手を差し出してくる男の声があまりにも冷たくて、莉乃は慌ててカバンの中を漁る。震えて指がいうことを聞かなかったが、それでもなんとか男の機嫌を損ねないうちに、莉乃は保険証を差し出した。
「……莉乃。間違いねぇな」
そういうと男はスーツのポケットから携帯を取り出して指を滑らせる。
「ひっ」
莉乃が息を呑んだのはいうまでもない。
暗い暗い路地裏で歪に光る携帯の明かりに浮かび上がったのは、数分前にメッセージを返した人物によく似た面影を残している初老男性の悲惨な写真だった。
「こいつ、誰だかわかるか?」
「…っ…おと、ぅ…さん」
「はっはー、ビンゴぉ」
何がそんなに嬉しく、楽しいのかが理解できない。
携帯を逆に向けた反射で男の唇に見慣れないひし形の傷を見たが、それよりもオヤツのように口に放り込んだ錠剤の異物にくぎ付けになる。
あきらかに異常で、あきらかに異質。
莉乃は本能から足を奮い立たせ、唯一の出口である袋小路の入り口に向かって地面を蹴った。
「ッ!?」
なぜか足元を散った火花に、焦げた匂いが風に紛れて、発砲されたのだと気づく。
「おいおいおいおい、俺は逃げんなっつったよな?」
「…ぅ…ぁ」
「この俺様直々に迎えに来てやったんだ。感謝しながらついてこい」
ついてこいと言いながら、捕まれた腕を引きずっていく男に絶望しか感じない。
突然訪れた非日常に気を失った神経は、莉乃の足をもつれさせ、もはや逃亡の兆しは微塵も与えられなかった。