五ェ門さん
人間壊れるきっかけというのは、人生のどこかに散らばっているのだと思う。
例えば呑み込みきれないものや避けられない理不尽が限界まで蓄積されたとき。ふつっとなにかが切れたら、自分がどう壊れてしまうのか分からなくて怖い。現につまらないごたごたが積み重なって心を潰そうとしている今、どうにか均衡を保っている自分を誉めたい気分だ。
悶々としながら廊下を歩いていると、後ろから引き止めるものがいた。
「…お主、大丈夫か?」
『五ェ門』
見慣れた顔が心配そうにこちらを見つめている。いつもは聞くとほっとする声も荒んだ心には効かないようで、ただ自分の心に憂いを生み出すだけだった。少し話がしたい、という彼に手を引かれながらちっとも変わらない心拍数に自嘲の笑みを浮かべる。一応彼とは恋仲であるのだが、最近仕事が忙しく会えていなかったものありどことなくうす暗い感情を抱いていた。それに自分が辛抱強く待っている間に女に騙されてたと聞いたらその感情が増幅するのも訳ない。買い出しついでに気分転換しようとするも気は晴れず、時には傘を持っていないのに雨に降られ、自分の心に暗雲をもたらすだけだった。そう考えると、自分を今苦しめているものの原因が目の前を歩く男のような気がしてくる。それが間違っていると分かっていながら、女の中の哀しみはすべてその男に対する怒りへと変わっていった。
後ろからの恨めしい視線など露知らず、五ェ門は自身の部屋まで女をひきつれると部屋の中央に座って対峙した。
正座のまま膝の上で拳を固めた女が五ェ門の表情を窺うように視線を投げる。しかし受け取り手は目を閉じ、同じく正座のまま腕を組んでいる。
音のない空間に耐えられなくなったのか、女が口を開いた。
『…話、あるんじゃないの』
「…あるのはそちらであろう」
自らの刺々しい言い方に少し胸を痛めつつ、不機嫌そうに女が問う。それに対して五ェ門は淡々と返した。
話があるのは此方?とんだ言い草だ。話があると言ってきたのは五ェ門の方なのに。
『話すことなんて無いわよ』
「そうか?そのようには見えぬが」
いくら飄々と返しても、どうやら五ェ門にはお見通しらしい。それがまた気にくわなかった。涼しい顔で、人の気も知らないで。変な意地が働いて、ますます自分から話すのが悔しくなる。
絶対に言うもんかと口を尖らせていると、とうとう痺れをきらしたのか大きくため息をついた五ェ門が目を開けた。
「お主ほどの頑固者は初めて見た」
『五ェ門に言われたくないわよ』
「…此方へこい」
『あっ、ちょっと!』
五ェ門の顔を見ないようそっぽを向いていたら思いきり引かれる腕。痛いじゃないか、なんて文句を言ってやりたいところだがそうもいかなかった。勢いよく飛び込んだ先にあったのは五ェ門の胸で、腕の中に収まったときにはもう遅かったのだ。とっ、とっ、と少しだけ早く脈に、心の底へ沈んでいた落ち着きを取り戻していく。五ェ門の名を呼び、顔をあげようとすると頭を胸元へ押しつけられた。
「っ、そのままでいろ」
慌てた声色。おそらく慣れないことをして赤面しているのだろう。頭上にある見えない彼の顔を想像しただけで口許が緩んだ。ああ、溜まっていたものが溶けていく。ぶつけようと思っていた不満も、今はほんの小さなものになって喉元からおりていった。胸に広がる暖かさと共にじわりと涙が滲んだ。
秒針の代わりに時を刻んでいく五ェ門の心音を聞いているだけで暖かい気持ちになれるなんて、昔の自分は知りもしないだろう。不安になるのも幸せになるのも、すべて五ェ門へ抱く感情のせいなのだ。
はらはらと涙が溢れていくのを感じる。それに気がついたのか、五ェ門が小さな驚嘆と共に肩を掴んで女の体を起こした。
「す、すまない、苦しかっただろうか」
『…馬鹿』
ぎょっとした顔の五ェ門に暴言を吐くと表情に焦燥を滲ませる。
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
『だって…!私、待ってたのに、五ェ門…女の人に現抜かしてたって、だから』
違う、そうではない。それだけのせいではないのだ、自分が泣いているのは。
言いたいことがあるのに纏まらず、しどろもどろになりながら嗚咽を漏らす女の手を五ェ門はそっと取った。
「それは…本当にすまなかった
だが、拙者が想っているのは…その、お、お主一人だ…!」
『う、ん…って、違う…そうじゃないの、私が言いたいのは』
寂しかった。辛かった。それでも五ェ門の優しさが嬉しかった。言いたいことは山ほどあるが、今は言葉になりそうにない。息を整えると、顔を赤くしながら弁明する五ェ門に抱きついた。そしてすべての気持ちを込めて言う。
『…大好き』
「!」
ちゃんと伝えるのは後にしよう。二人がゆっくり話し合う時間が、今は与えられているのだから。だから今はただ一言だけ、唯一素直に出てくる言葉だけを伝えるのだ。
『五ェ門、大好き』
「…拙者もだ」
私を包み込んでくれるのは
(優しく抱き締め返してくれる貴方は
私の心の拠り所)
例えば呑み込みきれないものや避けられない理不尽が限界まで蓄積されたとき。ふつっとなにかが切れたら、自分がどう壊れてしまうのか分からなくて怖い。現につまらないごたごたが積み重なって心を潰そうとしている今、どうにか均衡を保っている自分を誉めたい気分だ。
悶々としながら廊下を歩いていると、後ろから引き止めるものがいた。
「…お主、大丈夫か?」
『五ェ門』
見慣れた顔が心配そうにこちらを見つめている。いつもは聞くとほっとする声も荒んだ心には効かないようで、ただ自分の心に憂いを生み出すだけだった。少し話がしたい、という彼に手を引かれながらちっとも変わらない心拍数に自嘲の笑みを浮かべる。一応彼とは恋仲であるのだが、最近仕事が忙しく会えていなかったものありどことなくうす暗い感情を抱いていた。それに自分が辛抱強く待っている間に女に騙されてたと聞いたらその感情が増幅するのも訳ない。買い出しついでに気分転換しようとするも気は晴れず、時には傘を持っていないのに雨に降られ、自分の心に暗雲をもたらすだけだった。そう考えると、自分を今苦しめているものの原因が目の前を歩く男のような気がしてくる。それが間違っていると分かっていながら、女の中の哀しみはすべてその男に対する怒りへと変わっていった。
後ろからの恨めしい視線など露知らず、五ェ門は自身の部屋まで女をひきつれると部屋の中央に座って対峙した。
正座のまま膝の上で拳を固めた女が五ェ門の表情を窺うように視線を投げる。しかし受け取り手は目を閉じ、同じく正座のまま腕を組んでいる。
音のない空間に耐えられなくなったのか、女が口を開いた。
『…話、あるんじゃないの』
「…あるのはそちらであろう」
自らの刺々しい言い方に少し胸を痛めつつ、不機嫌そうに女が問う。それに対して五ェ門は淡々と返した。
話があるのは此方?とんだ言い草だ。話があると言ってきたのは五ェ門の方なのに。
『話すことなんて無いわよ』
「そうか?そのようには見えぬが」
いくら飄々と返しても、どうやら五ェ門にはお見通しらしい。それがまた気にくわなかった。涼しい顔で、人の気も知らないで。変な意地が働いて、ますます自分から話すのが悔しくなる。
絶対に言うもんかと口を尖らせていると、とうとう痺れをきらしたのか大きくため息をついた五ェ門が目を開けた。
「お主ほどの頑固者は初めて見た」
『五ェ門に言われたくないわよ』
「…此方へこい」
『あっ、ちょっと!』
五ェ門の顔を見ないようそっぽを向いていたら思いきり引かれる腕。痛いじゃないか、なんて文句を言ってやりたいところだがそうもいかなかった。勢いよく飛び込んだ先にあったのは五ェ門の胸で、腕の中に収まったときにはもう遅かったのだ。とっ、とっ、と少しだけ早く脈に、心の底へ沈んでいた落ち着きを取り戻していく。五ェ門の名を呼び、顔をあげようとすると頭を胸元へ押しつけられた。
「っ、そのままでいろ」
慌てた声色。おそらく慣れないことをして赤面しているのだろう。頭上にある見えない彼の顔を想像しただけで口許が緩んだ。ああ、溜まっていたものが溶けていく。ぶつけようと思っていた不満も、今はほんの小さなものになって喉元からおりていった。胸に広がる暖かさと共にじわりと涙が滲んだ。
秒針の代わりに時を刻んでいく五ェ門の心音を聞いているだけで暖かい気持ちになれるなんて、昔の自分は知りもしないだろう。不安になるのも幸せになるのも、すべて五ェ門へ抱く感情のせいなのだ。
はらはらと涙が溢れていくのを感じる。それに気がついたのか、五ェ門が小さな驚嘆と共に肩を掴んで女の体を起こした。
「す、すまない、苦しかっただろうか」
『…馬鹿』
ぎょっとした顔の五ェ門に暴言を吐くと表情に焦燥を滲ませる。
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
『だって…!私、待ってたのに、五ェ門…女の人に現抜かしてたって、だから』
違う、そうではない。それだけのせいではないのだ、自分が泣いているのは。
言いたいことがあるのに纏まらず、しどろもどろになりながら嗚咽を漏らす女の手を五ェ門はそっと取った。
「それは…本当にすまなかった
だが、拙者が想っているのは…その、お、お主一人だ…!」
『う、ん…って、違う…そうじゃないの、私が言いたいのは』
寂しかった。辛かった。それでも五ェ門の優しさが嬉しかった。言いたいことは山ほどあるが、今は言葉になりそうにない。息を整えると、顔を赤くしながら弁明する五ェ門に抱きついた。そしてすべての気持ちを込めて言う。
『…大好き』
「!」
ちゃんと伝えるのは後にしよう。二人がゆっくり話し合う時間が、今は与えられているのだから。だから今はただ一言だけ、唯一素直に出てくる言葉だけを伝えるのだ。
『五ェ門、大好き』
「…拙者もだ」
私を包み込んでくれるのは
(優しく抱き締め返してくれる貴方は
私の心の拠り所)
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