「…」
読み終えた本を閉じ、アルハイゼンは小さく息を吐く。それを休憩の合図と解釈した同居人が、何も言わずに彼の元にコーヒーを差し出した。
男はカップを一瞥することなく受け取り、直前まで読み耽っていた本の内容について青年と共有する。
「カーヴェ。君は
刷り込み、という言葉を知っているか」
「鳥の雛が初めて見たものを親だと思うあれのことだろ。それがどうかしたか?」
カーヴェと呼ばれた青年は男の視界に入る位置に座って問いに答え、話題を途切れさせぬよう続きを促す。
「俺が今読んでいたのは、その現象が人間に作用するという可能性について書かれた本だ」
「ふぅん…ちょっと見せてくれ」
興味の湧いた青年が本を貸すよう手を出して、それを受け取りパラパラと斜め読みする。
カーヴェの読了を待って男は静かに俯き、自らが抱いた想いを零す。
「似ていると思わないか」
「何に」
「
サージュに、だ」
予想だにしていなかった少女の名に、青年の真紅の瞳が大きく見開かれる。
しかし彼の言う通り
サージュは誰よりも草神に妄執しており、その依存は親を求める雛鳥に酷似して見える。
青年は力強い首肯で同意を示して、彼女の敬虔さが半ば狂気さえ感じさせるものであると語る。
「…確かに近いかもしれない。彼女の草神に対する執着心は、実の親へのそれよりも大きなもののようだからな」
何せ、彼女は実父が膳立てした生論派の道を強引に蹴り飛ばし、草神の軌跡を追う為に因論派に入った程だ。
その苦難の道を選んでしまったことにより植え付けられた刻印の重みは、懊悩を間近で見てきた青年にとっては自分自身の痛みにも等しかった。
しかし眼前の男の考えは彼とは異なるらしく、俯いたまま視線だけを青年へと向ける。
「今の彼女を見て…君は本当にそう思うか?」
「どういうことだか分かるように言ってくれ。毎日のように苦心して論文と戦ってる彼女は、神の目を得たことで草神に固執するよう刷り込まれているように見える…そういう話じゃなかったのか」
憤りを隠さず、カーヴェが男に詰め寄る。今にも怒号を吼えかねない程に瞳は血走り、その身を震わせていた。
対照的に男は冷静さを保ち、少女を取り巻く環境は大きく変化し、内に秘める心情にも無視出来ない影響を及ぼしているのだと説く。
「今となっては、"かつての彼女は"そうだった…そう表現した方が適切だろう」
天蓋を仰ぎ見て、どこから話すべきか逡巡するアルハイゼン。
青年が声を荒らげるまでの僅かな時間の熟考の末、まずは彼もよく知るところである事実に基づく部分から広げていくことを決める。
「大賢者達が企てた"創神計画"と彼らの失脚による院内の混乱を目の当たりにして、彼女の中で根付いていた価値観が大きく揺らぐこととなったのは明白だ」
推論と言うには的確過ぎる指摘に、ぐうの音も出ない青年は押し黙るしかなくなる。
既に学院を卒業した自分でさえ、経費申請や雑務の面で混乱による被害を被っているのだから、在学生である
サージュなら尚更だと容易に想像がついてしまう。
「尤も、それ自体はそう珍しいことでもない。草神自身には興味さえなくとも、アーカーシャに依存して堕落していた多くの者達は…皆アーカーシャの停止を知らされたことで、学者としての道を断たれたとすら感じているようだからな」
草神の威光であり財産のひとつ、アーカーシャ。叡智の結晶とも呼べるその偉大な技術による進歩と発展は、この国の歴史を語る上でも切っては切れないものだった。
「あぁ、そういう人間なら僕も見かけた。確かにアーカーシャが使えないのは、
サージュにとっても大きな損失か…」
「それは違う。アーカーシャの有無に拘らず、
サージュは草神様に命を救われたという幻想があったからこそ、彼女へ妄執していたに過ぎない。現に、
サージュの動向にアーカーシャ自体はそれ程影響を及ぼしてはいない」
既に根源の機能が稼働停止し使えなくなってしまったアーカーシャ端末を手に取り、握り潰すように覆うアルハイゼン。
実際には一切力を込めずそっと包み込んでいただけなのだが、物理的な破壊を試みたようにしか見えなかった同居人の青年は密かに肝を冷やす。
それから冷や汗が引くと共に理性を取り戻した彼の中で、男の発言にひとつの違和感が芽生える。
疑念を晴らすべく包み隠さずそれを指摘すると、翡翠の中央に夕陽のような朱を湛える瞳が、微かに揺らいだように見えた。
「…ちょっと待ってくれ。草神様に救われた"幻想があった"ってのは、一体どういうことだ」
「言葉の通りだ。神の目は願いに応えた神が与えるものではなく、願った者の意志によって自然に生み出されるものだと…クラクサナリデビ様が言っていた」
「は? 草神様が自分で…?」
理解が追いつかない、と言わんばかりに青年が自身の表情筋を引き攣らせる。
開いた口が塞がらない彼の反応も当然のことだと捉え、男は自分がそうした重要な情報を得た経緯を語った。
「代理賢者としての仕事の一環で、俺は彼女に接触せざるを得ない機会が増えてな。スラサタンナ聖処に長らく閉じ込められ、殆ど人と対話していなかったせいか…我らが草神様はどうやら余程お喋りがお好きなようだ」
自国の神への嘲笑的な意図を込めた言葉に、カーヴェはそれを不敬だと詰る気にもなれなかった。
スメールの危機を救い、その後も代理賢者として擁立され何かと雑務を強いられている男の気苦労は、青年の目から見ても深刻なものであった。
面倒事を何より嫌っている彼を襲う多大なストレスによる負荷の中、自分だけでなく互いに特別な想いを抱く相手である
サージュの根幹をも揺るがす衝撃になど、どうして耐え得ることが出来ようか。
「君のその口振りからして…
サージュもそれを知ってしまったんだな」
避けようがない事故のようなものだったと言えど、彼らがその苦しみを抱く必要などどこにもなかったのにと、青年の心にも悔恨が生まれる。
慰めにもならない同情を秘めた瞳で見つめるカーヴェに対しては何も言えぬまま、男は客観的に見た事実だけを淡々と述べる。
「ああ。人ならざる存在…魔神による"善意の激励"は、彼女にとっては翼を手折られ、親鳥から突き放されるにも等しい悲痛だった」
冷め始めたコーヒーを一息に飲み干して、カップと共に読んでいた書物をテーブルに載せる。
それから、感受性豊かで
サージュと同じ反応を見せかねない青年には伝えることはせず、心の中で
マハークサナリが彼女へ贈った残酷で優しき言の葉を思い起こす。
『貴女が神の目を得たのは、紛れもなく貴女自身の"生きたい"という強い願いによるものよ。
私は何もしていない…いいえ、何も出来なかった。本当にごめんなさい』
『そんな、謝らないで下さい草神様…私は』
『でもね
サージュ。私があの時何も出来なかったからこそ…この輝きが貴女自身が築き上げてきたものだと証明出来るの。これからも、その輝きの大切さを忘れずにいてくれると嬉しいわ』
脳裏に焼き付いて離れなくなった、草神の慈愛に満ちた微笑みと少女が零した悲哀の涙が交差する瞬間。
否、
サージュは草神の前では涙を堪え、敬愛する彼女への感謝を込めて懸命に笑みを浮かべていた。
だがその真実の光景を覆す程に、スラサタンナ聖処を一歩出た後の彼女の慟哭がアルハイゼンの心の奥に突き刺さる。
「…俺達がアザールの"創神計画"を阻止し、クラクサナリデビ様を救ったこと自体が間違っていたとは思わない。だがその結果がこれでは…彼女にとって、あまりに残酷だとは思わないか」
空虚を掴んだ手を広げ、男は喪失の一端を担ってしまった罪を思い出す。あのとき彼女の手を握らず草神の誘いを絶っていれば、こんなことにはならなかったのに、と。
今の
サージュはまるで、親から見放され一人では飛び立つことも儘ならない雛鳥のようだと、傍観者にしかなれなかった彼は己の無力さを呪う。
「アルハイゼン…」
他人へ決して弱みを曝け出すことなどない筈の男の掠れた声音に、カーヴェの喉が痞える。
暗澹に自らの行く道を阻まれ退路を奪われることの辛さは、財産の全てを失い路頭に迷った青年にも覚えがあった。
だが、だからこそアルハイゼンがその絶望を焼き払う強い熱を持つことを彼はよく知っていた。
らしくない様を見せる男へ発破を掛けるべく、青年は大きく深呼吸して声を絞り出す。
「いや、僕はそうは思わないな。何故なら、彼女にはまだ救いがある」
割れた鏡の破片を想起させる鋭い視線による一瞥。物言いたげなその眼差しにも臆することなく、カーヴェは言葉を紡ぐのを諦めなかった。
「君だよ。君が草神様に代わってあの子の親鳥になればいい。親鳥が嫌なら番でも構わない、支える方法はいくらでもある筈だ」
大きく身を乗り出して、壇上に立った発表者の如く弁説で男を捲し立てる青年。
酒が入っているのかと疑いたくなるような強い口調に面食らった男は、暫くの間驚愕に目を丸めていた。
やがて思考が意識に追い付いたアルハイゼンは柄にもなく彼が自分を励ましているのだと知り、青年にそんな憂慮を抱かせていたことに罪悪感が芽生える。
だがそれを認めれば最後、お節介焼きの彼はどんな手を尽くしてでも
サージュと己を結びつけようとするだろう。
彼女と共に歩むと願った想いに偽りはないが、その本懐を遂げる資格が今の自分にあるとは思えず、男は。
「突然
熱り立って、何を言い出すかと思えば…そんなことをして、俺に何の利がある」
「まさか君、自分でわかってないのか…?」
矛盾しているようにしか見えぬ言動に、青年からの困惑の眼差しが突き刺さる。
ある意味で予想していた通りの反応を見せる彼に、アルハイゼンは安堵すら覚えていた。
「君は…
サージュのことを特別な存在だと、そう思っている筈だろう。でなきゃ僕にわざわざあんな頼み事なんてして来ない。なのにどうして、そんな…」
無論、復唱されるまでもなく正しい認識である。二人が草神との邂逅を迎える数日前、カーヴェの金銭的負担を軽減してやるという甘言で釣ってまで、
サージュの様子を見てくるよう依頼したのも、
偏に彼女を想うが故だった。
どうしようもなく愛しく、他の誰にもその心を傷付けられたくないと強く思うからこそ、草神によって植え付けられてしまった少女の絶望が悔恨となり男の胸の内を抉る。
「行動を起こす前の熟考は必須事項だ。君みたいに後先考えずに動いて失敗を招くのは俺の主義に反する」
「僕のことを詰って目の前の問題から逃げる気か、アルハイゼン。彼女は君を必要としてる。お互い大事に想ってるのに、今更何を躊躇うって言うんだ」
今にも胸倉を掴もうとしかねない近さで、青年が激昂する。 仔細を知らぬ彼の惻隠には同意出来ずに、男は静かに首を振った。
「…これは俺が招いた災厄だ。俺が彼女の元を離れれば、二度と起こらない」
「そんなわけないだろ、寧ろ離れればもっと悪くなる。今の彼女の状況が君の言う通りなら、今ここで君が去ったら…あの子はまた大事なものを喪うことになるんだぞ!」
零れ落ちた弱音を、カーヴェが全力でそれを遮り否定する。喪失を悼みを知る者として、二人の別離だけは何としてでも止めなければと、青年は吼える。
彼女にとってのアルハイゼンは、いつだって暗闇を照らす光なのだ。その光が翳ることなど、あってはならない。
そうでなければ、かつてその光に救われてしまった自分が報われない。屈折した想いを抱きながら、彼は拳を握り締める。
「僕なんかには簡単に手を伸ばした癖に、どうしてあの子に対してはそう臆病なんだ」
震える声音は、同情によるものだけでは決してなく。怒りと哀しみを綯い交ぜにして縋るように零す青年を、男は直視することが出来なかった。
「ッ…君と彼女では、置かれている状況が何もかも違う」
「じゃあどう違うのか説明してみろ。助けなんか要らない僕と、救われなきゃいけない
サージュっていうの以外でな」
「…そんな説明が必要な時点で話にならないな、君に相談を持ち掛けたこと自体が間違いだったようだ」
挑発に耐え兼ね衝動的に席を立って、対話を断ち切ろうと背を向けるアルハイゼン。
青年からしてみればこれで到底終われる筈もなく、躊躇なく肩を掴んで彼を引き留める。
「おいアルハイゼン! まだ話は終わってないだろ」
「聞こえなかったのか? ならもう一度言おう、話にならな…」
男の声を遮って、破裂音が響く。頬の熱さが脳へ伝わるまでに時間がかかり、青年が手を上げたのだと気付くのが遅れる。
痛みを感じる余裕はなかった。捲し立てるように、彼は遮音ヘッドホン越しでも耳を劈く程の怒声を持って男を詰ってくる。
「話にならないのはどっちだよ! 勝手に相談した癖に、勝手に自分一人で結論付けて殻に閉じ籠って…それじゃ何も解決しないじゃないか!」
拳を震わせて、二発目を構えるカーヴェ。次の一撃も受け入れるつもりで瞳を閉じる男だったが、彼の予想は大きく外れることとなる。
「別に…歯の浮くような台詞を並べ立てる必要はない、ただ傍にいてやるだけでも、彼女にとっては喜ばしいことだと思う。それくらいなら、今の君にだって…出来る筈だろ」
ゆっくりと目を開けて、男はそれまでの激情が嘘のように眉を下げる青年を見つめる。
「…まさか君にそんな初歩的なことを教えられるとはな。だがお陰でようやく頭が冴えてきたようだ、自分がどうすべきか理解出来た」
肩肘を張っていたことが馬鹿らしくなって、ソファに座り直しその身を預け楽な姿勢を取る。
更にリラックスしようとコーヒーを飲むべくカップを持ち上げて、とっくに飲み干していたことに気付く。
立っていたままの青年がもう一度何も言わず二杯目を注いで、ようやく彼らは膿を出し切れたようだった。
「君ねえ…素直にありがとうくらい言えないのかい」
「ああ、感謝する。コーヒーはやはり思考の一助に適しているな」
「って、そっちは今どうでもいいだろ。いつも言わない癖になんで今日に限って…」
敢えて的外れな方向を狙って、アルハイゼンは本心を覆い隠す。鏡面が正しく自らの持たぬ理想を映し出し、完全さを補完したことに彼は満足していた。
勿論、青年にはそんな意図はないだろう。互いに思想をぶつけ合い、その度に相反する存在だと何度も認識している相手だ。
だが、だからこそ"鏡"足り得るのだ。この真理に到達すれば、カーヴェ自身ももっと生き方を善く変えられるのに、などと思いながら、男は改めて気付かされた
サージュへの想いを噛み締める。
「彼女の涙は、何故こんなにも心を揺さぶるのだろうな」
「さあね。僕には涙なんて見せたことないからわからないな。いつも笑っている彼女が泣くところなんて、想像もつかない」
「…そうなのか?」
想定していなかった返答に、微かに声が上擦るアルハイゼン。その反応に、青年は数日前に
サージュと話した際の言葉を反芻し、冗談が真実になってしまったのかと頭を抱える。
「いくらなんでも鈍感が過ぎるぞ、君。涙を見せるなんて、よっぽど心を許した相手じゃなきゃあり得ないだろ」
「いや、大丈夫だ。彼女が俺を好いていることくらいはわかっている。だが、あの涙が…それ程までに特別なものだとは思わなかった」
何度目の当たりにして来たか知れぬあの姿が自分だけのものであったことに、男は哀歓の入り混じった複雑な想いを抱く。
独占欲を満たすには充分すぎるが、裏を返せばそれだけ何度も己が彼女に深い哀しみを与えているとも言える。
しかしカーヴェは彼の心中など全く察することなく、堂々とした表情で心理的にも物理的にも男の背を押すのだった。
「ならもうわかるだろう。その気持ちに応えなきゃいけない、って。さあ、行ってこい!」
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