大賑わいのショッピングが終わった夕暮れ、少女は今回の件で大きな助けとなった友人に謝意を示すべく、二人でプスパカフェにやって来ていた。
「ごめんねニィロウ、あんな大人数になるなんて…疲れちゃったでしょ」
噴水によって涼しさの保たれた店内、看板猫のガタに手を振る彼女へ
サージュが非を詫びる。
けれど元より見知らぬ相手ともすぐに和気藹々と会話出来る性分である踊り子はその謝罪を否定し、此度の集まりが喜悦に満ちたものであったと笑んでみせた。
「ううん、すごく楽しかった。やっぱり
サージュと一緒だと、色んな人と話せて面白いなって思うよ」
「…ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」
自虐から謙遜しようとして、対等な友人からの評価を無下にする訳にはいかないと考えを改め首肯する。
そもそも教令院のプライドの高い学者達と異なり、彼女は噓や世辞でそんな賛美を口にすることなど有り得ないのだ。
それを受け入れないということは、彼女自身の想いをも拒絶すると同義であると言える。
学院祭の諸々を経て、すっかりネガティブな思考が先行してしまうようになっていた少女は、どうにかこの悪癖を払拭せねばと深い溜息を吐いてテーブルに着く。
「今日と…学院祭のときのお礼。だからニィロウ、好きなだけ食べて」
「えっ? そんな、気を遣わなくていいのに」
ニィロウの方へメニューを広げて先に見るよう促しつつ、少女はこの場は自分が持つと告げる。
彼女は慮外の申し出に驚き、慌ただしく両手を振ってその厚意を固辞しようとするも、氷元素の娘はその頑なな心を曲げることはなかった。
「お礼っていうか、より正確に言うなら…"お詫び"。迷惑かけた分をここでリセットしないと、私の気がすまないから」
「迷惑なんて思ってないよ! 私こそ、
サージュにはお礼しなくちゃって…」
「…そうじゃないんだ。ニィロウは覚えてないかもしれないけど、私の中で…ずっと後悔してることがあってさ」
マリンブルーの瞳を見つめ、少女が眉を下げて懺悔と共に彼女の手をそっと握り締める。
思い当たる節があったのか、ニィロウはすぐにハッとした表情で友人の憂いの種を当ててみせる。
「もしかして…学院祭の話をしている最中に、アルハイゼンさんがバザーに来た時のこと?」
無言で頷き、ズバイルシアターの大スターが呈した疑問に肯定の意を示す
サージュ。
嫉妬心を剥き出しにし、大切な友人に辛辣な態度を曝したあの日の悔恨を、少女は今も心の傷として胸を痛めていた。
「あの時のことも、
サージュは何も悪くないよ。好きな人が別の女の子と一緒だと、ヤキモチ焼いちゃうのは当然だもん」
「ごめん」
「私も、気が付かなくてごめんね」
ぽつりと零れた悲愴に首を振り、己にも非があると友を宥める傍らで、察しの悪さを自省するニィロウ。
ショッピングの最中、ディシアとレイラのコンビネーションによって明確な解を得られた今日に至るまで、彼女があの書記官と親しい間柄であることを考えすらしていなかった踊り子の娘は、二人がどのようにして交友を深めたのか、俄かに興味が湧いてきていた。
「それで…
サージュは、アルハイゼンさんのどこが好きなの?」
晴れ晴れとした笑みからなる問いに、質問攻めの予感を察知した少女は口角を引き攣らせる。
「…ニィロウ?」
「えへへっ」
名前を呼んで意思を再確認するも、恋に恋する年頃である乙女は笑みを絶やさぬままで。
友が答えるまで逃がさないと言わんばかりの表情に、言葉に出来ない重圧を感じた
サージュは、結局はこうなる運命なのかと諦念に嘆息を吐きながら渋々口を開く。
「はあ。どこが好き、って聞かれたら…多分"全部"って言うしかない、と思う」
意を決してそう告げたその瞬間、やってきた羞恥に頬は熱を帯び、表情筋が否応なしに緩み始める。
これまで少女は自分が"何故"彼に好意を抱いているか、を考えたことはあっても、"どの部分"が好ましいかなど、一度たりとも意識したことがなかった。
故に、咄嗟に導き出した答えがあまりにも稚拙に思え、視線が下へ下へと沈んで行ってしまう。
そんな複雑な乙女心も、聞いている側からしてみれば好奇の対象でしかなく、ニィロウは天然故の無意識から更なる攻め手を繰り出すのだった。
「すごい…
サージュ、本当にアルハイゼンさんのこと大好きなんだ」
「…うん」
他者からそう明け透けに自らの慕情を語られたことで、少女は顔を真っ赤に染め上げ、言葉少なに頷くしか出来なくなる。
口ではたったの一言で片付けられてしまうこの想いが、果たして正しい表現なのだろうか。
甘味を注文する間にも熟考を重ね、その上でやはり"恋人"に対し嫌悪するような点は見つけられなかった。
これが恋心による盲目故か、あるいは本当にアルハイゼンには心を許しているからなのか。
複雑に絡まりゆく感情に思考が纏まらず頭を抱えていると、対面からツンツンと腕をつつかれ、意識を引き戻される。
「それだけ好きなら…告白しないの?」
無垢な乙女から導き出された唐突な、否、彼女から見れば至って自然な問い掛けに、思わず肩が跳ねる。
「え、えっと」
自分達がとうの昔に想いを通じ合わせた後だ、とは言える筈もなく、わかりやすく狼狽える
サージュ。
尤も、嫉妬心によって彼女へ辛辣な態度を取ってしまった失態については、まさにその"恋人同士"という関係値の高さによる傲慢が根本の原因でもある。
これ以上不義理を重ね続けるのは、己を大切に想ってくれている友への裏切りにも等しいのではないか。ごくりと唾を呑み、少女は。
「…誰にも言わない?」
「もちろん。絶対秘密にする」
一抹の不安から念押しするように問い、それから隠れて聞き耳を立てている存在がないことを確かめる。
そうして警戒に警戒を重ねて決意を固め、更に大きく深呼吸をして、ニィロウへ顔を寄せるよう促す。
「実は…」
耳打ちして秘密を打ち明けると、睡蓮の乙女は叫びを抑えきれず、慌てて口許に手を押し当てる。
丸々と見開かれた目は信じられないと言いたげな驚きに満ちていて、ある種予想通りの反応だと少女は苦笑して肩を竦めてみせた。
「ええっ!? …あっ、ごめん
サージュ、びっくりして大きな声が出ちゃった」
「大丈夫、ニィロウからしたら驚くのも無理ないもんね」
「うん…私が見ていた限りでは、全然そんな風には見えなかったし…」
ドキドキと高鳴る鼓動を鎮めるべく息を吐いて、最も彼を至近距離で観察することが出来た学院祭での様子を思い起こす。
試合の進行に於いて一切の私情を挟むことなく、常に公平を保って選手と接していた様からは、全くそうとは思えず、本人から告げられていなければ到底信じられなかっただろうと瞳を閉じる。
「…でも、そう言われた後で色々思い返してみると、何となくわかる気がする」
そのままニィロウは旧懐を深め、長い間誰にも聞けないままだった疑問が遂に解決の兆しを見せたことに感嘆を零す。
「アルハイゼンさんって、私達と違って熱心なクラクサナリデビ様の信者って訳じゃないでしょ?」
「まあ…そうだね。興味の対象ではあるみたいだけど、ちゃんと敬ってくれてるかは怪しいかなあ…」
「だよね。だから、どうしてあんな無茶をしてまで草神様の救出作戦を決行したのかなって、ずっと考えてたんだけど…きっと、あなたの為だったんだね」
憧憬の籠った眼差しからなる温かな言葉に、
サージュが疑念に満ちた訝しげな呻きを上げる。
それもその筈、ファデュイと大賢者が結託して起こした国家転覆の危機が迫っていた時期、少女は自国を離れ父の元へ赴いていた。
更に言ってしまえば、そもそも当時の二人はただの友人同士でしかなく、自分自身も彼への好意を自覚してさえいなかったのだ。
故にあの利己主義の極みである男が自分の為に危険を冒すなど、言語道断だと言わざるを得なかった。
「えっ、嘘だぁ…それはないよ、だってその頃はまだ…」
付き合っていないのに。そう否定しようとして、それは先の警戒を無に帰す失言だと寸でで堪える。
その頃から彼が己に好意を持っていた、などと自惚れられる程ポジティブにはなれず、少女は疑念に眉を顰める。
「まだ?」
「ううん、なんでも。けど…どういうことだろう」
少女の"恋人"であるスメールの現書記官アルハイゼンは、元来より平穏を何よりも好む性分である。
その信条は彼が知論派の学生であった頃から変わらず、自分と出逢ったことで考えを改めた結果ではないことは熟知していた。
そして優秀な学者として、卒業後は書記官として、創神計画の騒動が起こる以前から既に賢者達からの信を得ており、巧みな話術を用いて上手く立ち回れば混乱の只中でも己の地位を維持することは容易だと推測出来る。
にも拘らず大賢者に抗い、自国の神を救うなどと決起したのは、旅人というイレギュラーによる好機がそうさせたのか、あるいは。
思考をフル回転させて懐疑に耽るものの、掴みどころのないかの男のその本心を暴くには至らず。
「…まあいいや。今度、直接本人に聞いてみる。真面目に答えてくれるかはわかんないけど」
腕を広げ伸びをして凝り固まった緊張を解し、この難問を解決する最善策を口にする。
その際に漏れ出た嘆きを耳にした踊り子は意外そうに声を上げ、自らの問いに答えなかったのは雑談を嫌悪してでのことではないのだと気付く。
「えっ…アルハイゼンさん、
サージュに対してもそんな感じなんだ…?」
「ん、そうだよ。もしかしてニィロウも、何かはぐらかされた?」
あっけらかんと頷き、彼女もまた質問を躱された経験があるのではないかと確かめる。
するとニィロウは困ったように眉を下げ、かの男が過去に皆の疑問を晴らす機会を棒に振った瞬間について語ってみせた。
「実はそうなの。えっと…草神様を助ける作戦で、お互い怪我しなくてよかったなと思って、どうやって身を守ったのか聞いてみようとしたんだけど、"その件について、直接俺に訊ねてきたのは君だけだ"としか言ってもらえなくて…」
自由奔放を絵に描いたような彼の返答に、少女の脳裏にその光景がありありと浮かんでくる。
常に飄々とした態度を保ち、人に本心を決して悟らせず、時にはそうして言葉巧みに欺くことさえ厭わない様に、含むところがないでもない
サージュだったが、今となってはそのミステリアスな一面さえも"好き"に含まれているのだと自覚し、再び頬が急速に熱さを増していく。
「はぁ…アルハイゼンらしいというか、何と言うか」
呆れたような素振りで氷元素のエネルギーを充満させた掌を押し当て、火照る顔を冷やす少女。
痘痕も
靨とはこのことかと密かに自嘲して、丁度よく運ばれてきた甘味に手を伸ばす。
「うわっ!?」
皿の上に積み重なったナツメヤシキャンディを掴もうとした瞬間、テーブルに看板猫が飛び乗って来る。
予想だにしない傍若無人ぶりに思わず驚いて立ち上がる少女だが、一方でこのカフェの常連でもあるダンサーの乙女は至って冷静に悪戯っ子を抱え、彼――もしくは彼女をテーブルから降ろすのだった。
「ガタ、駄目だよ。これはあなたが食べたらお腹を壊しちゃう」
「あ…ありがとうニィロウ。慣れてるね…」
焦燥冷めやらぬ
サージュは困惑と共に黒白ツートンカラーの愛らしい子猫を見送って、窮地を救ってくれた友へと謝意を告げる。
「ふふっ、ガタは自由気ままな子だから、よくあることなんだ。
サージュは動物は苦手?」
「全然! 寧ろ好きだよ。ううん、大好きって言ってもいいかも。元々は生論派に入って、垂れ耳の犬種についてを専攻にしようと思ってたくらいだし」
怪訝そうな反応からなる微かな寂寥の籠った問い掛けに、生来の動物愛を語る絶好の機会だと興奮し始める少女。
鼻を鳴らす駄獣の如き威勢に、麗らかな娘は若干引き気味になりながらも頷いて、彼女がシアターの愛玩犬と戯れていた記憶を呼び覚ます。
「そっか、それなら良かった。あ…言われてみれば、前にスヴァンと遊んでたっけ」
「えへへ…スヴァンも可愛いよねえ。お利口さんだし、いっぱい撫でさせてくれるし…」
「シアターの皆でお世話してるから、触られるのは慣れてるみたい。でも機嫌が悪い時は、頑張って我慢してるのがわかりやすいんだ」
綻んだ笑顔を見せる少女へ、愛らしい踊り子はスヴァンの辛抱強さを伝えるべく人差し指を口角の側へ運び、歯茎を剥き出しにする様を表現してみせた。
「こう…表情がね、いーってなるの」
「あー確かに、それは怒ってる時の顔だね。私も気をつけなきゃ…」
「…」
苦笑交じりの自戒を前にふと物思いに耽り、草神救出作戦の最中での印象深い光景を想起する。
一歩間違えれば参加した全員が反逆者として処罰されかねないあの重要な局面に於いて、作戦指揮を務めていた男が醸し出していた微かな義憤は、決して本来の性分からなるものではなかったのだと悟る。
「ん…ニィロウ、どうかした?」
「怒ってる顔、で思い出したんだけど…あの時のアルハイゼンさんは、何かに対してずっと怒っていたような気がして、少しだけ怖い印象があったの」
当時のニィロウは、その威圧感が彼の持ち前の体躯や無愛想な態度に起因するものだと捉えていた。
が、国内の情勢が安定していくにつれ、次第にそうではないと考えを改めるようになり、彼への印象が目まぐるしく変化していったことを思い出して笑みを零す。
「でも、その後にクラクサナリデビ様のところで会った時は…疲れ? うーん、ちょっと違うような…」
「あの頃だと特に、代理賢者としての仕事が大変だったみたいだからね。目に見えるくらい疲れが出てても、おかしくはないよ」
「…そうだね。きっとそうだと思う。それで…学院トーナメントでは、そういう怖い感じは完全になくなってて、すごく優しい目をしてた。やっぱり、
サージュが居たからなのかな?」
一寸の曇りもない、己の推測に確信を持っているとしか思えぬ視線に、少女は怯えた猫の如く肩を跳ねさせ、友人の観察眼そのものを否定する。
「き、気のせいじゃない? あのアルハイゼンに限って、そんな…うぅ」
「もう、恥ずかしがらなくていいのに。好きな人が頑張ってる姿をそばで見られて、嬉しくない筈ないよ」
照れ隠しから目を逸らして弱々しい声を漏らす友へ、乙女は両の手で拳を握り締め、前のめりでそう告げる。
自分では全く思いつきそうにないポジティブな考えに、根負けした少女は力無く俯いてそれを認め、乾く喉を癒すべくカップを呷った。
「はぁ。わかった、じゃあそういうことにしとく…」
喉を通る苦味によって冷静さを取り戻しつつも、これが大スターの自信かと気圧される
サージュ。
眩し過ぎる輝きに言葉を失い、黙々と菓子を咀嚼する以外に出来ることはなくなっていた。
「そういえば…アルハイゼンさんは、甘いもの好きなの?」
「あんまり好んで食べる方じゃないかな。前にハニートゥルンバを一緒に食べたけど、甘過ぎるって文句言われた」
ほんの少しだけ誇張して、大袈裟に肩を竦めて少女は問いに首を振る。するとニィロウは何処からともなく一枚のメモを取り出し、少女の手にそれを握らせた。
「だったら、この糖分控えめのレシピを見ながら、手作りのお菓子を食べさせてあげるのはどう?」
「うーん…」
サージュはメモを受け取りこそしたものの、果たして彼が本当に喜ぶだろうかと、提案に対して懐疑的な表情でレシピを眺める。
これまで多くの人々から愛され、その恩を全身で受け止めてきた稀代の踊り子は、その温かな心こそが成功の秘訣だと晴れやかに笑んで、喜悦に満ちた眼差しを向けるのだった。
「大丈夫、愛情っていう隠し味があれば、きっと喜んでくれるはずだから!」
Secrète