短編集
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とある昼下がり。職務を放棄して行方を晦ますべくラザンガーデンに身を隠していた書記官は、自らの脳裏に焼き付いて離れない強烈な衝撃を齎した情景について想いを馳せていた。
「…チッ」
胸中に渦巻く煩悶から、半ば無意識に舌打ちを零す。衝動的に憤懣を漏出すれど、逸る動悸は治まらず。
男が忘れたくても忘れられない痛烈な光景、それは彼が数日前、密かに心を寄せる少女と引き起こした"事故"。
大量の本を抱え前も見えずに歩いていた彼女とぶつかり、あろうことか唇を触れ合わせてしまったのだ。
その日は衆目も相俟って互いに何も言及することなく別れたが、日を追う毎に口に触れた感覚が熱を帯び、遂には先刻のように不意に思い起こしては苛立ちを募らせるまでに至っていた。
だからと言って直接その件について語る為に彼女と顔を合わせるには勇気が足りず、解決し難い喫緊の問題に頭を悩ませるばかりであった。
「あ、アルハイゼン! こんなところにいたんだ。キミに書類出したくて探してたんだよ」
静寂に包まれた涼亭にいる油断から遮音を怠っていた男の耳に、紙がはためく音と可憐な声が響く。
言うまでもなくそれは、想い人であるサージュによるもので。彼は焦燥を悟られまいと、努めて平静を保って呼び声に答える。
「…俺が不在の時は机に置くようにと伝えていた筈だが」
「行ったけど、もうとっくに山積みになってて…置き場なんてなかったんだもん。無くされちゃ困るから、いっそ直接渡した方が早いかなって」
「そうか、ならすぐに戻る必要があるな」
背を預けていた柱から離れ、自主的な休憩時間は終焉を迎える頃かと落胆を表し息を吐く。
しかし彼女と話すことで新たに浮かび上がってきた疑念を晴らさずにはいられず、踏み出した足を止め振り返る。
「だがその前に…ひとつ聞かせてくれ。どうして俺の居場所がわかったんだ?」
「勘」
迷いのない即答に、男の目が見開かれる。面倒な業務から逃れる為、常に入念な計画を練って定めている自らの移動経路が、"勘"などというそのたった一言で片付けられる程単純明快であるものかと、どこか憤りにも似た感情が沸々と滾っていた。
「…冗談だよ、そんな怖い顔しないで。キミの行動範囲と現在時刻からどこに居るかを推測して、考え得るいくつかの候補の内、最初の地点に来てみたら…見事当たりだった、ってだけだよ」
険悪な雰囲気を疎んで、慌てた様子で書類ごとヒラヒラと両手を振っては、先刻の返答を撤回し宥め賺す。
想定を大きく上回る理路整然とした解にアルハイゼンは感嘆を零しつつも、彼女に自分の居所を悟られているという気恥ずかしさを押し隠すべく軽口を叩くのだった。
「ほう。その才覚は、もっと他に活用するべき場所があるんじゃないか」
「ふーん? じゃあ、今度論文にでもしてみよっか。えっと、タイトルは"スメール教令院現書記官アルハイゼン氏の行動規則について"…」
「待て、そんな局所的かつ生産性もない、俺の権利を侵害するだけの研究が本当に受理されると思っているのか」
売り言葉に買い言葉。挑発を受け、徐にメモとペンを取り出して書き込み始めるサージュ。
そのようなプライバシーを脅かす研究が提出されてはたまったものではないと、男が強い語調で制止すると、彼女はその焦慮に噴き出して、最初からこの提唱が認められるとは思っていない旨を告げる。
「あははっ、まさか! 教令院がこんな研究すら通せちゃうようなつまらない場所だったら、私はとっくの昔に卒業してるよ。けど、本気でやったら…データを欲しがる人はきっと少なくないだろうね」
一瞬にして声音を豹変させ、意味深な面持ちで己を見つめる少女に、物言いたげな眼差しを返すアルハイゼン。
けれど少女は笑みを湛えたまま彼を捉えて離さず、痺れを切らした男は真意を問うべく声を上げる。
いつの間にやら彼女のペースに巻き込まれていたと認識するのは、既に逃れられなくなった後のことだった。
「…どういうことだ」
「考えてもみなよ。今だってまさに、本来居るべき場所である執務室を不在にしてて、困ってる人は沢山いる…なのに、その行方は誰もわからない」
男の動きを巻き戻すかのように東屋の柱に背を預け、少女は彼の行動予測を求める人間が多いと推察する理由を懇々と説く。
「それがもし研究によって瞭然となれば、キミを探したり、キミのかわりに応対したりする人の負担はかなり軽減される。ま、キミ自身の自由は無くなるも同然だけど」
少女の口から語られるのは、気まぐれな彼に翻弄される身としては尤もらしい、これ以上ないシンプルな道理。
そもそもが"執務室への滞在"も賃金を得る為の労働条件に含まれているであろうにも拘らず、それを無視してふらりと姿を消すことが許されてしまっていること自体が、傍から見れば異常でもあり。
「君の言い分は理解した。だが俺は、定時までに仕事を片付けなかったことはない。与えられた仕事を毎日恙無く終えている以上、俺が数時間程度執務室を離れることに何の問題がある?」
「あるよ。現に私は今日…キミが執務室に居なくて、すごく困った」
一見正しいようでいて、実際には口答えにしかなっていない反論に、少女は俯きがちに彼を睨む。
――否、潤んだ瞳を揺らがせ上目で見つめ、微かに震える声で己が内に秘める心情を吐露する。
「書類を提出するってのは言い訳で…ああいや、それ自体は嘘じゃないけど…その。ちゃ…ちゃんと話さなきゃ、いけないこと…あるでしょ。私、ドキドキしながら扉開けたのに…ッ」
手に握り締めていた書類で顔を覆い、火照る頬を無理矢理に隠そうと試みるサージュ。
だが、今日の風は悪戯心に満ちており、彼女が持つ紙をぱたぱたと靡かせては、隠したがっている表情の変容を詳らかにしてしまう。
驚愕のあまり少女の訴えを唖然と聞き入るしか出来なかった男は、彼女があの事故を忘れるべき忌まわしい記憶と定めずにいたことに鼓動が高鳴るのを感じる。
「…なかったことにしたとばかり思っていたが、そうではないんだな」
「そんなこと、出来るわけ…ない」
下唇を噛み、今も鮮明に残る感触を掻き消さんと勢い任せに首を振る。それから胸元をギュッと押さえ、激情を噴出させる。
「だって…初めてだったんだよ!? なのにあんな、あ…ぁぅ…」
言いながら件の情景を思い起こしてしまったのか、みるみる内に言葉を失い弱々しく呻きを漏らす。
初心な反応が愛しいと慈しみの念が胸に宿る一方、彼女を深く傷つけたという事実に直面し、男はどう繕うべきか逡巡する。
今にも泣き出して騒ぎ立てかねない悲憤を鎮めるには、やはり誠意を持って詫びる以外になく。
「不快な気持ちになったのなら、それについては謝ろう。悪かった」
「ッ…」
真摯な謝罪に、一度は顔を上げ驚いた表情を向けるも、奥歯を軋ませすぐに視線を逸らす少女。
不幸なアクシデントによってと言えど、無垢な少女の純情を奪った罪はこれ程までに重いものかと、男は潔く彼女の前から去ろうとして。
「待って」
腕を掴まれ、否が応でも立ち止まることを強要される。極度の緊張から伝わる震えに、彼女が相当の覚悟を持って引き留めたのだと知る。
「まだ…話、終わってない」
「…」
「そもそも、最初から私は…キミに謝って欲しかったんじゃない。あれ自体はただのハプニングだし、前が見えない状態で歩いていた私にも非がある」
アルハイゼンが己から逃げずに向き合う意思を見せたことを悟り、少女は掴んでいた手を離す。
そして触れていた掌を見つめ微笑し、それを胸元に戻す。高揚する想いを少しずつ音に変え、懸命に伝えようと喉を震わせる。
「けど、あの後からずっと…ふとした拍子にキミのこと考える度、心臓がはち切れそうになるの。だから…」
だから何だ――彼女がサージュではなく、顔も名前も曖昧な有象無象であれば、臆することなくそう告げていただろう。
しかし男の眼前に立つのは、紛れもなく彼が長年の恋煩いを拗らせている張本人である。
叶うことなら事故などではなく己の意思でその唇に触れたいと願う相手に、ここまで言わせておいて尚、沈黙を貫き続けるのは正しいのだろうか。
ずい、と身を乗り出して、彼女の途切れ途切れの言葉を遮り、最も簡単な解決方法を提示してみせる。
「なら、俺が責任を取るしかないな」
「え…?」
敢えて断定的な強い言い回しを用いて、互いの退路を断つ。東屋の柱を背に少女を追い込み、無防備な頬にゆっくりと手を伸ばす。
「ま、待っ…そんな、いきなりは心の準備が…!」
「そうか」
きつく目を閉じ、頭を抱え身を縮こまらせる。酷く怯えた様子を目の当たりにし、怖がらせる意図はなかったと男は後退る。
すっかり腰を抜かしてしまった少女に助力を申し出るべく跪くも、彼女は小さく首を振ってその善意を固辞する。
「立てるか?」
「ん。大丈夫…もう少し、このままでいさせて」
「わかった」
端的に了承を伝え立ち上がり、少女が平静を取り戻すまで傍で見守る姿勢を露わにする。
サージュは膝を抱き顎を載せて、彼がここまで自分に執着を見せるとは思っていなかったと感慨に耽っていた。
「あのさ、アルハイゼン。私…キミの反応があまりに予想外で…ちょっとびっくりしてるんだ。いつもの面倒なトラブルを避けるのと同じように、知らん顔して逃げるとばかり」
「…俺にとっても、今回の件に関しては…有耶無耶にしたまま終わらせる訳にはいかないものだったからな」
入り組んだ長い坂と大樹の幹に隔てられ、ここからではその全てを仰ぎ見ることの叶わない空を見上げ、ぽつりと零す。
「サージュ。君があの一件を思い出す度に動悸が増すように…俺自身にも、あれ以来…勘違いや気の迷いでは済まない心境の変化が起こった」
一世一代の決意表明。それを万が一にも邪魔立てする存在が現れることのないよう、周囲の気配に神経を研ぎ澄ます。
その警戒によって少女に背を向ける形になりつつも、飾り気のない本心を告白するアルハイゼン。
少女が動揺から身動ぎ、靴を地に擦らせる音さえもが彼の耳には鮮明に響き、脈打つ心臓は際限なく昂っていく。
「いや…少し語弊があるな。今の言い方だと、まるであのアクシデントが全ての元凶で、それ以前からの感情が無視されることになる」
知論派としての性分か、あるいは照れ隠し故のものか。言い訳がましい補足を倩と並べ立て、秘め続けるつもりでいた心情を洗い浚い吐き出してしまう。
突然の告白に理解が追い付かないサージュは、これまで想像もつかなかった甘言を聞かされ続けることに耐えられず、堪らず声を張り上げる。
「ねえアルハイゼン、キミのその口振り…もしかして、今回のことが起きるよりずっと前から、私のこと…」
「ああ、そうだが」
皆まで言わせずの、食い気味の肯定。振り返り様に彼が見せた心を射貫くような視線に、少女は気の抜けた声で狼狽し、無意識に翻弄していた非を詫びる。
「へ、ぁ…ほ…ホント、なんだ…ごめん、ずっと気付かなくて」
「どうして君が謝る? 直接口に出して伝えていない以上、わからなくて当然だ」
けれども男は自分が謝罪を受ける謂れはないと肩を竦め、静かに首を振り同じ目線に身を屈める。
不意を突いて間近に迫った端麗な顔を前にして、彼女の表情がわかりやすく羞恥に染まり、しどろもどろになりながらこれまでの交友関係を顧みるのだった。
「うう、いやさ…自分に向けられる感情って案外わかりやすい筈なのに、どうして今の今まで、キミから好意を持たれてる可能性を考えもしなかったんだろう…」
「それは恐らく、俺が徹底して隠し続けてきたからだ。恋心などといった余計な雑念は、健全な議論や真っ当な思考を妨げるだけでしかない」
「…まあ確かに、その意見も一理ある。けど…人を好きになるのは、そんなに悪いことじゃない…と思う」
蓋を開けてみればこの上なく明白な恋慕に気付けずにいた理由を、男はその感情が秘すべき悪しきものであると考えていたからだと告げる。
サージュは彼がそう捉えていること自体に何らおかしい点はないと認めつつ、心の奥底に宿る温かさまでをも否定されるべきではないと、朗らかに笑みを浮かべ、そして。
「私は…キミとだったら、どんな話をしていても楽しい。ううん、それだけじゃなくて…傍にいるだけで自然と笑顔になれるし、揶揄われるのも実はそんなに嫌じゃない」
堰を切ったように捲し立て、そう短くはない期間を共に過ごしてきた中での幸甚を綴る。
そうして積み上げていく内に、次第に彼女自身も把握していなかった本心が露わになり、困惑の色を見せ始めていた。
「あ、えっと、あれ…これじゃまるで、私もずっと前からキミのこと好きだったみたい…」
「みたいも何も、そうとしか聞こえないが。違うか?」
相思相愛を確信した自負からか、堂々と彼女にも己への恋情を認めさせようと破顔する。
芽生え始めたばかりの熱を恐れ、素直になれない少女は咄嗟に異を唱えようとして、憂いを帯びた瞳を直視出来ず顔を背ける。
「違っ…わ、ない…かも」
目を泳がせ、態とらしく曖昧な表現で誤魔化す。あくまで本人は無自覚の体を保つ心算らしく、声音には動揺が隠しきれていなかった。
「自己認識が曖昧なら、手っ取り早く確かめる術がひとつある」
「その手段って、まさか…」
「ああ。事故ではなく、互いに同意の上でもう一度試してみれば…君が俺をどう思っているかわかる。簡単だろ?」
アルハイゼンの齎した提案、それは正常な判断能力を有した状態での接吻の再演。
実際には両者共が極度の興奮の只中にあり、既にまともな思考は儘ならなくなっていたのだが、少女はそれに気付くことすらなく彼の案に同意を示す。
「ん…やっぱりそうだよね。ちょっと待って、準備するから。書類、持っててくれるかな」
長い間握り締め続けていた結果、一部分のみがくしゃくしゃになった提出用書類を押し付けて、いそいそと鞄を漁り始める。
五分に満たない程度の時間をかけてようやく、中からクリーム状の薬品らしき何かの詰まった容器を取り出してみせる。
「それは?」
「リップクリーム。今出したのはバブルオレンジの香りがするやつで、フォンテーヌでは年代問わず人気のアイテムなんだ」
見たことのない器と半固形の軟膏に程近い謎の物質を訝しむ男に詳細を説明し、話している内に唇の保湿を済ませる。
リップクリームを塗布する指が滑る度、平時でさえ煽情的な彼女の唇は更に艶めきを増していく。
普段はお転婆娘という表現が最も相応しい溌剌とした性格であるサージュの、意外な女性らしさを感じさせる一挙一動に、男は釘付けになっていた。
「…これでよし、と。どうかな、いい匂いする?」
香りの根源を指し、得意気に笑んで問い掛ける。しかし生まれも育ちもスメールであり、バブルオレンジの芳香など嗅いだこともない彼は、さも無関心かの如く白を切るのみで。
「さあな」
「もう、真面目に答える気ないでしょ」
苦笑交じりに嘆息し、この程度の色仕掛けでは動揺を見せる筈もないかと密かに落胆する少女。
尤も、その悲観は本人からしてみれば誤りで、アルハイゼン自身はこれでもかと理性を揺さぶられているのだが。
「まぁいいや。じゃあ、目閉じて」
能動的に行動を起こそうとする指示に、男は心の中で意表を突かれこそしたものの、今回は素直に彼女の積極性に身を委ねることにする。
言われた通りに視覚を遮断したことで、図らずも聴覚と嗅覚が平常時よりも鋭くなっていく。
リップクリームの仄かな甘味と酸味の混じった香りが鼻腔を擽り、彼の脳を直に刺激する。
更に、目を閉じる前より互いに距離が縮んでいることが伝わる衣擦れの音も鮮明で、ヘッドホンという堅牢な壁はとうに役目を果たしていなかった。
この状況では正常な思考など到底不可能だと自己嫌悪に陥りそうになる頃、不意に唇に柔らかな感覚が迫る。
「んっ…」
本当の意味での"恋"をまだ知らぬ少女らしい、触れるだけのキス。待ち焦がれた瞬間は刹那に終わり、けれど男の心に確かに多幸感を刻む。
「…ありがと、もう目開けていいよ。今ので…自分の中でキミをどう思ってるかわかったから」
告げられた許諾に従いゆっくりと視界を取り戻すと、そこには嬉しそうにはにかむ少女の姿があった。
どうやら正しく自らの想いを認識したようで、その笑みは一切の憂いなく晴れやかなものだった。
「私も、アルハイゼンのことが好き」