短編集
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知恵の殿堂、いつものように己が本で築いた城へとやってきたサージュ。今日は意外なことに、その中に先客が鎮座していることに気付く。
「…あれ? アルハイゼンが先にここに来てるの珍しいね」
「ああ、君か。今日の会議はあまりにもつまらなくて、参加する意義を感じなかったからな」
さも当たり前と言わんばかりの態度で少女の蔵書に手を出してそれを読み耽っていた男が、城の主からの声に顔を上げ、自身がここに居る理由を述べる。
いつもの怠惰が彼をこの最上の隠れ場所に導いたのだと知った少女は納得の嘆息を零し、ごく自然にその隣へと座った。
「サボっちゃダメだよって、強くは言えないけど…程々にしておかないと、クビになっちゃうかもよ?」
自らの勉強道具を広げながら、少女は傍らで本を読み続け全く職務にやる気を見せない男を揶揄する。
すると彼は予想だにしていなかったことだと驚嘆を露わにし、職場に於ける自分の立場について改めて思慮を巡らせ始めた。
「ふむ…その発想はなかった」
「え、教令院って実はアルハイゼンが居ないと回らないくらい人手が足りてないの…?」
「優秀な人材が不足している、という意味では…君の言うことも、強ち間違いとは言い切れないかもしれない」
恐々と発せられた困惑の声に、アルハイゼンはその突拍子もない発想が存外当たらずとも遠からずである可能性が高いと頷いてみせる。
「知っての通り、俺は基本的に自分のやりたいようにやっている。それを咎める声も時折耳にするが、それでも俺のやり方が許されている以上、上の連中に俺を辞職させるだけの権力はないとも言える」
理路整然と答える表情は、見る者が見れば傲慢にも思えるのではないかと言う程度には得意満面で。
少女は自らが何気なく口にした懸念が現実となる未来が訪れることはそうないことを確かめつつ、彼の言葉に同意を示すのだった。
「まあ、そう言われればその通りかもね。なら良かった。アルハイゼンが万が一クビになっちゃったら、匿ってる私にも一端の責任があるのかな…って、不安になるところだったよ」
「確かにここは本の陰で姿を見られにくいし、身を隠すにはかなり適した場所ではあるな」
高々と積み上げられた本を見上げ、この地が逃げ込む場として最適とも言える条件が揃っているのだと鑑みる。
サージュによって他者からの好奇の眼差しや心無い罵倒から逃れ安寧を得る為に築かれたこの"城"は、同じく他人との交流を好まぬ男にとっても、いつしか安息の地と称するに相応しい場となっていた。
「だが、匿うという表現には些か語弊がある。この一帯を君が半ば強引に占拠しているというだけで、名目上はここは公共の場であり、現に今日の俺は君の来訪を待たずにこの場所で本を読んでいただろう」
だから君が責任を感じる必要はない――そう喉まで出そうになって、何故そんな躍起になってまで庇い立てる必要があるのかと寸でで押し留まる。
抱いてしまった不可解な感情の揺らぎを制御すべく、男は彼女から顔を背け手元の本に目を向ける。
しかし、今の彼が手に取っていた少女のコレクションのひとつは、あろうことか人間の感情が行動に及ぼす影響について記された、極めてタイムリーな話題を提供するものであった。
考えれば考える程、墓穴を掘る以外に出来ることのない現状に、火照る熱を冷ます意図も込め徐に立ち上がるも、少女は腕を掴み引き止めてくるのだった。
「ただ…もし君が迷惑だと言うのなら、俺は潔くこの場を離れるとしよう」
「待って、追い出したい訳じゃないの。むしろ、ほとぼりが冷めるまではここに居た方が安全だと思うよ」
あくまで提案という体裁ながらも、どこか寂寥を感じさせる"一人にしないでくれ"と願うかのような眼差しに、再びアルハイゼンの心臓がドクリと跳ねる。
庇護欲などという、これまで幾度となく否定してきた筈の感情が己の中にあったのかと、焦燥にも似た動悸が押し寄せつつも、渋々彼女に従い椅子に座り直す。
「この前引退したグランドキュレーターのおじい様、いるでしょう。私がこの知恵の殿堂でこれだけ沢山の本を積んで、長々と居座ってても怒られることがないのは…実はあのおじい様のお陰なの」
「うん? どういうことだ?」
目を細め、ヘッドホン越しでは傍に寄らないと聞こえない小さな声でサージュが微笑む。
全く以て与り知らぬその旧懐に、男が仔細を問うべく少女へと視線を向けると、彼女は照れ臭そうに頬を染めながらそっと瞳を閉じ、過去に受けた恩義を語る。
「んと…アルハイゼンならわかるかなと思うけど…入学したての子供の内は、何かとナメられて…普通に学生として生活するにも結構大変でしょ。だから…昔、おじい様には色々とお世話になったんだ」
少女の見せる朗らかな笑みに、彼からは"かつての友"と共に幾度となく叱責を受けていた男は、その真逆と言ってもいい対応に驚くばかりであった。
「…あのグランドキュレーターにか?」
「そうだよ。えっと…私、そんなに変なこと言ったかな」
「いや、君の発言に問題はないが…俺の認識とはかけ離れた人物像を語られたものだから、本当かどうか疑わしいと思ってしまった」
訝しげな目で念を押して確かめるアルハイゼンに、失言を吐いたかと自信を失くした少女が不安を口にする。
その憂いを宥めつつ、男は自分が彼女の言葉に疑念を抱くに至った理由を告げ、少年だった頃の懐かしい記憶を振り返り始める。
「サージュ、君はあいつが…カーヴェが、彼に"妙論派のやんちゃ坊主"と呼ばれていたことを知っているか」
己の半生を語る為には避けては通れない"先輩"の名を挙げ、彼の不名誉な渾名を少女が耳にしたことがあるかを問う。
男の予想通りと言うべきか、彼女はそのような蔑称は全くの初耳だと、困惑にも程近い反応を見せる。
「え、何それ知らない。今初めて聞いた。でも…凄く先輩らしいね。私はその呼び名、嫌いじゃないよ」
それから暫し思慮に耽り、そう呼ばれてしまうのも納得出来る、かの青年の苛烈な性格を思い起こす。
彼は紆余曲折を経てアルハイゼンと袂を分かつことになった後も、度々学術誌で"後輩"との熱い議論を交わしており、まさに"やんちゃ"という表現が最も適切な存在と言える。
けれども、どんなに否定されようとも絶対に自身の信条を曲げようとはしないその意志の強さは、少女にとって煌々と輝く太陽にも等しい、羨望の象徴でもあり。
「先輩みたいな人に…私もなれたらいいのになぁ」
願望を抑えきれず吐き出して、今は決して手の届かない遥か遠くに羽ばたいてしまった青年を想う。
風の噂で耳にする、彼の理想への果てなき道がどうか幸福に満ちたものであってほしいと祈りを込め微笑する少女へと、男はその淡い憧憬からなる破滅を起こさぬよう、やんわりと咎める。
「…あれは極めて特殊な例だ。間違っても真似しないように」
「はは、流石に先輩の生き方を真似するのは無理だよ。私は、誰にでも優しくするなんて…絶対にできないから」
乾いた笑みを浮かべ男の諫言を否定し、青年のような慈悲深い性格は持ち合わせていないと俯くサージュ。
過去に心無い者から与えられた苦しみ――まさにこの本の城を作るに至った切っ掛けが他人から身を護る為の自己防衛である彼女にとって、自らが進んで見知らぬ相手に手を差し伸べることなど不可能で。
「そうか。それならそれで、いいと思うよ」
少女のネガティブな思想をごく自然に認め、自罰的な感情を抱く必要などどこにもないと宥め賺す。
全くの慮外であった激励に驚いて何度も目を瞬かせ、彼女はその優しき言の葉をゆっくりと噛み締める。
「何だか変な感じ…まさかキミから、そんなシンプルな励ましがもらえるとは思わなかった」
「君はカーヴェではないし、勿論俺でもない。生まれ持った気質も育ってきた経緯も、何もかもが異なっている。君が他人に対し疑念や警戒心を抱くのは、君の境遇からすれば当然のことだ」
口早にそう告げ、男は深々と息を吐く。閉じられた瞳の奥では、彼女がこれまでに受けて来たであろう"外敵"からの艱難に対し、柄にもなく憤りを抑えきれずにいた。
「…ん。ありがとう、アルハイゼン。そう言ってもらえて…ちょっと気が楽になったよ」
純粋な善意からなる肯定を受けたことで多少なりとも溜飲が下がったらしく、少女は謝意を告げ微笑みかける。
その柔らかな声音に、己の言葉が確かに少女の糧になっていることを悟った彼は、いつになく饒舌に持論を語ってみせた。
「この閉じた競争社会に於いては、個人としての価値を確立出来ず、他者を蹴落とすことでしか存在意義を保てない愚昧な輩も数多くいる。そういう連中に気を揉むことがないよう、君も俺のように泰然としていられれば、それが一番いいんだがな」
「あぁでも、その手の雑音は今はだいぶ減ったかな…やっぱり、模擬の結果で黙らせるのが確実かつ手っ取り早いよね」
そう言って鞄の中から答案用紙を何枚か取り出し、サージュは誇らしげにそれらを男へと見せる。
彼は自身の予想に反して、少女が些細なミスもなく当然のように全て満点を取っている事実に、驚きを露わにしていた。
驚嘆の最たる理由、それは彼女の壊滅的なまでに判別しにくい文字が、正しく認識されていること。
いつの間にか悪筆が改善されたのかと期待を込めて解を見て、すぐにそうではないと気付き再び深い溜息を吐く。
「ほう? …君の字でも、取ろうと思えば満点が取れるんだな」
「だって書いてることは合ってるもん。採点する先生が、私の字が読めなかったからってだけで減点されるのは、ものすごく理不尽なことでしょ? だから毎回、採点ミスがないように確認しに行ってるんだ」
字の汚さを揶揄するアルハイゼンに、少女は腕を組んで不服を表し、憤懣から鼻を鳴らして反論を零す。
こうして話を聞く限りでは恐らく、彼女は字の件に関して以外に於いても、教職員達と何度となく闘争を繰り返してきたのだろう。
ある意味ではカーヴェ以上のやんちゃ振り、"お転婆娘"と称するのが相応しいのではないかとさえ思わせるその強引な解決方法に、男は思わず噴き出してしまった。
「…フッ」
滅多に表情筋を動かさない男の突然の笑みに、己の発言のいったい何が琴線に触れたのかと困惑する少女。
互いの性分を熟知し、それが決して嘲笑ではないと判断出来るからこそ、何故突如として笑ったか理解が及ばず、深まる謎に俯くばかりで。
「え…? ちょっと待って、今どこに笑う要素あったの…?」
「さっきの君は、あいつのようにはなれないと嘆いていたが…存外、近しい部分もあるなと感じただけだ。気を悪くしたのなら謝ろう」
「ああいや、怒ってないから別にいいよ。けど…私と先輩で、そんなに似てるところあるかなぁ」
破顔の意図を説くべく、彼女が羨望を抱くかの青年は、彼女自身が思う程かけ離れた存在でもないと伝えるも、どうやら完全に無自覚であるらしく。
非礼に対する宥免の為に一瞬だけ顔を上げたかと思いきや、すぐに元の角度に戻り、またも俯いて懊悩に歯噛みし始めてしまった。
愁いを帯びた瞳が見るに堪えなくなり、アルハイゼンは感じたままの想いを包み隠さず伝える。
「…自身の主張を通す為なら手段を選ばない辺りは、あいつそっくりだと思ったよ」
「ちょっ、それ褒めてないよね!? …はあ、まぁいいや。アルハイゼンがそう言うなら…私は信じる」
長所としては凡そ挙げられることのないであろう強情さを重ね合わせて二人が似ていると称する男に、サージュは声を荒らげる。
しかしここで彼を責めたところで詮無きこと、すぐに気を取り直して、深く息を吸い込み吐き出す。
それから胸元をキュっと握り締め、与えられた言葉をじっくりと噛み締める。憧れの先輩に少しでも近付けているのなら、それは幸福なことだと。
「カーヴェ先輩、今頃どうしてるのかな。元気にしてるといいな」
机に肘を着き、感慨に耽る少女。羨慕の奥に潜む想いに、ただの"先輩"に対してだけではない熱さを垣間見てしまった男の胸が、チクリと痛んだことなど、彼女は知る由もなく。
「さあな。あいつの動向など、俺の知ったことではない」
「あ…そう、だよね。ごめん」
情けない嫉妬心を剥き出しにした回答の放棄に、憤慨を悟った少女が迂闊だったと慌てて非を詫びる。
今にも泣き出してしまいそうな歪んだ笑みが見るに堪えず、男は彼女の憂苦を取り去る甘言を連ねる。
「あれだけ有名な男だ、何か問題を起こしていればこちらにも伝わってくるだろうから、それがないということは…息災ではあると見ていいんじゃないか」
そう必死に取り繕ってからふと我に返り、自分は一体何をやっているのだろうと頭を抱えたくなるアルハイゼン。
今どれだけ言葉を重ねたところで、彼女が"憧れのカーヴェ先輩"ではなく自分を見てくれることなど決してないのに。
完全にコントロール出来なくなった感情の乱れに、滑稽にも程があると密かに自嘲し、今度こそ席を立とうと彼女から背を向ける。
「アルハイゼン?」
至って手短に、これ以上なく簡潔に。溢れる嫉妬心を漏出させまいと気丈に振る舞って、彼は。
「仕事に戻る」
「わかった、頑張ってね。えっと…また明日」
いつもとは違う声音からなる感情の機微をそれとなく察知し、別れの挨拶を必要最低限に留める。
否、そう出来ずに再会の約束を口にする。何も考えず送り出してしまったが最後、この男は二度とここには現れないような気がして。
「…ああ。またな」
彼は驚いた表情で振り返り、サージュが言の葉に込めた祈りに気付き柔らかな笑みを浮かべる。
そして確かに頷いて、明日もまたこの地に羽を休めに来ると誓う。得られた安寧を、他の誰にも奪わせない為に。