教令院での一日が終わり、陽がすっかり傾いた頃。少女は積もる話があるからと、カーヴェをプスパカフェに呼び立てていた。
「あれ、私の方が後だったんだ…ごめん先輩、お待たせ」
「大丈夫だよ、僕もついさっき来たばかりさ。それで…話ってなんだい」
先に到着していた青年をテラス席に見つけ、非を詫びつつ同じテーブルに座り、愛飲しているコーヒーと以前食べて好感の高かった"元"新商品を注文する
サージュ。
彼もまた同じようにコーヒーと甘味を頼んで、多忙なこの少女がわざわざ自分とたった二人で密談をしようなどと企てた理由を問い掛けるのだった。
「…先輩、どうして知ってたの」
意図的に言葉を省いた弱々しい声による詰問に、この生意気だが憎めない愛らしさを持つ後輩がそれだけ羞恥を抱いていることを悟る。
口を尖らせ、上目で睨みつけるような仕草から、下手な誤魔化しで言い逃れすることは不可能だと瞬時に察知し、彼は順序立てて説明し始める。
「元々、遅かれ早かれそうなるだろうとは思っていたよ。前に知恵の殿堂で、あいつが君を気に掛けていた話をしたこと…君も覚えているだろ」
客足の少なさからか、そう時間を掛けずに運ばれて来たコーヒーを早速一口啜り、懐かしい記憶を反芻する。
具体的な日数は既に忘却してしまったが、今思えば奇妙な状況だったなどと密かに感慨に耽っていた。
同意を求められた少女は無言で首肯して自身の頼んだハニートゥルンバを咀嚼し、引き続き青年の言葉に耳を傾ける。
「あの超がつく個人主義のあいつが、そもそも他人を気にすること自体が滅多にあることじゃない。そんな中で、よりにもよってこの僕に頼み事をしてきたんだぞ。これで何もないと思う方が無理がある」
「…ふふっ、そう聞くと確かにその通りだね」
次第に気が大きくなっているのか、声まで力強さを増しつつある彼に相槌を打って、
サージュがやんわりと声量を落とすよう求めるジェスチャーを見せる。
年下の娘から咎められたことで消沈した青年は肩を落として謝罪を告げ、そのすぐ後、関係を進める為の一歩を踏み出せずにいた男を送り出した夜について、どう説明したものかと逡巡する。
その感情の揺らぎを知ってか知らずか。彼女は皆まで言わせることなく笑んで、今度はコーヒーにこれでもかと角砂糖を落とす。
「ああ、すまない…少し熱くなり過ぎた」
「大丈夫。でもありがとう、先輩。今のでだいたい分かった。その後すぐだもん、そりゃ察するよね」
少女は照れ隠しにマドラーをくるくると回して、緩みきった頬がみるみるうちに桃色に染まっていく。
誤解を解くとまでは行かずとも、やはり真実を知らせるべきだと感じたカーヴェは、彼女の言葉には同意せず首を振る。
「…いや。実を言うともうひとつ…決定的な証拠があるんだ。
サージュ、君は鳥の雛が生まれて初めて見た対象を親だと勘違いする現象のことを知っているか?」
「刷り込み、ってやつでしょ。私のお父さん、鳥類学専攻だから…多少はわかるよ」
唐突に振られた問い掛けにすかさず頷き、その知識の由来が自らの父にあることを明かす少女。
彼女達父娘の専門が異なることは薄らと知りつつも、詳細を知らなかった青年は初めて知った意外な事実に思わず驚きそうになる。
しかし今は話を脱線させている場合ではないと気を取り直し、努めて平静を保って続く言葉を紡ぐ。
「なら話が早いな。ある時あいつが、その事象が人に作用する可能性について纏めた本を読んでいて、その感想を僕にも求めてきた。そこで一悶着あってさ。半ば無理矢理締め出して、君に会いに行かせた」
想起するのは勿論、あの夜の出来事。いつになく気を落としていた男に発破をかけた時の記憶は、青年にとって今も鮮明に思い出せるものであった。
「…そう、だったんだ」
少女とアルハイゼンが想いを通じ合わせた、煌々と輝く満月と満天の星が瞬く中での逢瀬。そこに青年が一枚噛んでいたことに、彼女は驚きを隠せなかった。
「これは今だから言えることだが…多分あいつは、自分の放った言葉によって、君の心を動かすのを恐れていたんだと思う」
「私の…心」
胸元に手を宛てぎゅっと押さえ、最も印象深く刻まれた部分をゆっくりと復唱する少女。
知論派に属する身として、かつて"友"を深く傷つけた身として。そしてまさに薄明の中で彼女を深い絶望の底に貶める引き金となってしまった立場として。
誰よりも言葉の重みを知る彼だからこその恐怖に、
サージュは堪え切れず抱腹し始める。
「あははっ!」
一頻り笑った後。少女が深々と息を吐いて、自らの"恋人"が秘めていた愁いを吹き飛ばす。
「確かに、アルハイゼンらしい迷い方だね。私が前のカーヴェ先輩の時みたいに、離れていっちゃうかもしれないって思ったってことでしょ? そんなこと、あるわけないのにな」
「…」
晴れやかな笑みからなる紛うことなき
惚気に、青年は口角が引き攣り喉を詰まらせる。
そういった甘ったるい愛情表現は自分ではなく本人にやってくれ――そう呆れ顔で頭を抱えていると、その視線に気付いた彼女は急激に青褪め、とんでもない失言をしていたことに気付く。
「ご、ごめん先輩…」
わかりやすく意気消沈して、上気した表情をコーヒーカップでひた隠しにする
サージュ。
青年は彼女には何の慰めにもならない気休めを吐いて愛想笑いを浮かべ、学生時代の彼と最も長く同じ時を過ごした身からの結論を零す。
「いやいい…大丈夫だよ、好きにしてくれ。そうやって堂々と自分の気持ちを言える子の方が、あいつには合ってるだろうからね」
「ねぇねぇ先輩。それは、元"友達"としての評価? それとも、今の"ルームメイト"としての…」
深い嘆息に、少女は付け入る隙を見つけたと言わんばかりに身を乗り出し、青年がそう思うに至った所以を問う。
好奇心に満ちた眼差しは、既に先刻までの醜態を忘れ去ったとしか思えぬ程輝いていた。
「別にそんなのはどっちでもいい、今は僕とあいつじゃなくて、君達二人のことだろ!」
嬉々とした声を遮り、強引に話を本筋に戻す。劣勢を悟った彼女の態とらしい脱線に、カーヴェは嫌な既視感を抱かずにはいられなかった。
「全く。自分が不利になると、途端にそうやって話を逸らすところ…本当にあいつそっくりだ」
一方で、そう告げられた当の本人は慮外の言葉に目を丸々と見開き、喜ぶべきか憤慨すべきか頭を悩ませる。
そもそも少女の知るアルハイゼンは、 常に相手の一手先を読む巧みな話術で圧倒し、他者に弱みを見せることなどないのだ。
そういった想像もつかない一面を類似性として示されたところで、実感が伴う筈もなく。
「え、待って…私が居ないところで、二人でどんな話してるの…?」
眉間に皺を寄せ、"恋人"が言い淀む様を懸命に想像してみるも、靄がかかったように朧気で。
考えるだけ無駄だと早々に諦め、
サージュは気持ちを切り替えるべくテーブルの上の甘味に手を伸ばす。
「…そうだ、甘いもので思い出したんだけど。カーヴェ先輩、ザイトゥン桃ちゃんと食べた?」
「ん? ああ、前にアルハイゼンが袋一杯に持って帰ってきたやつか。あいつからは"慈悲深い後輩に感謝するんだな"としか言われなかったけど…君からのプレゼントだったのか」
甘さに満ちた揚げ菓子から連想し、少女が以前にこの先輩へと贈った果実について問い掛ける。
すると彼はそもそもその贈り主を正しく認識していなかったらしく、驚いた様子でこちらを見つめ、それからゆっくりと破顔する。
「美味しかったよ。改めてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。でもアルハイゼン…なんでそんな紛らわしい言い方して渡したんだろう」
にこやかに笑みを返して、けれど敢えて言葉を濁した"恋人"の真意が読めず困惑する少女。
その疑念を晴らす為と紛うかの如き絶妙なタイミングで、二人がいる卓の隣から淡々とした男の声が聞こえてくる。
「この場合に於ける"後輩"とは、個人を指す言葉ではない。君以外にもう一人、該当者が存在する」
言うまでもなくそれは、青年達の間で何度も話題になっている彼――アルハイゼンのもので。
「お仕事お疲れ様、アルハイゼン。つまり、自分がそのもう一人の"慈悲深い後輩"だって言いたいんだよね」
予想だにしていない家主の襲来に驚愕し狼狽する青年を余所に、少女は特に驚くこともなく会話を続ける。
彼女と同じく"慈悲深い後輩"だと自称する男は、
サージュが己の言葉を正しく理解出来ていることに喜悦の表情を露わにして、自らの中にあった選択肢を開示し始めた。
「…ああ。君からあの桃を受け取った俺がその後どうするかは、俺の自由だったからな。極端なことを言えば、カーヴェには一切渡さず俺一人であれを処理することも出来た」
「でも、そうしないで予定通り僕に寄越してきたのは…他でもない彼女の頼みだったからなんだろ?」
ようやく平静を取り戻したカーヴェが、この気難しい性分の家主が素直に他者からの願いを聞き入れるなどという奇跡を実現させた理由をしたり顔で指摘する。
「そういうことにしておいてくれて構わない。尤も、あれだけ大量のザイトゥン桃を秘密裏に処分するのも、それはそれで面倒だとは思うが」
アルハイゼンは同居人の推測をすんなりと受容はするものの、決してその通りだと肯定することはなく、本心を巧妙に覆い隠してしまう。
この言葉巧みな話題の転換こそが、まさに青年の言っていた通りの反応なのだろうか。"恋人"の意外な一面を見た少女の中に、不思議な感覚が沸き起こる。
「…」
「
サージュ、どうした?」
「ん? あぁ、えっと…ちょっとぼんやりしちゃってた。コーヒー、甘くし過ぎたな…って」
柔らかな口調で訊ねる声に、青年との会話の中で過剰に砂糖を入れてしまったコーヒーカップを傾け、苦笑を交えて失態を晒す。
現れたのがつい先刻で、彼女のコーヒーがそうなるに至った事情を知らぬ男は、
サージュらしからぬミスだと訝しげな視線を向け、自らの口許に指を宛てる。
「ふむ」
「言っておくが、僕のせいじゃないぞ。
サージュが自分で自分の首を絞めただけだ」
疑いの目を振り払うようにテーブル肘を着いて、堂々とした態度で自分には責はないと断言する青年。
彼の言い分が本当かどうかを確かめるべく男は続け様に少女に向き直り、真っ直ぐに見つめる。
鋭い隼の眼光に当てられたことで彼女は再び頬に熱を宿しながらも、しっかりとその翡翠の中に朱を秘める目を見て答えるのだった。
「ま…まあ、大体合ってるよ。流れでつい、言わなくていいことまで言っちゃって、それで…その。恥ずかしく、なってきて」
話している内に羞恥が勝ってしまい、次第に笑みを保てなくなり、言葉が途切れ途切れになっていく。
掠れる声にそれ以上の追求は野暮だと察した男は、ふっと笑んで更に彼女を揶揄ってみせる。
「…そうか。その"言わなくていいこと"については、後でこいつから聞くとして…」
「待って先輩、絶対言っちゃダメだからね!?」
「わかったわかった、秘密にしておくから…それ以上は近寄らないでくれ」
焦燥に駆られ我を忘れて青年に顔を密着させ凄み、
サージュは強引にでも口を塞ごうと画策する。
青年は両手で少女を遮り宥めて鎮めさせ、突き刺さる眼差しが相当な重圧を放っていることを示す。
顎で指されたその先では、無言で腕を組み己にとって邪魔者でしかない居候を睨みつける"恋人"の姿があった。
「ん? アルハイゼン…まさか妬いてくれてるの?」
「嫉妬はしていないが、許容出来る状態だとも言い難いな」
組んだ腕を崩さないまま、仏頂面でそう答える。しかし声音には隠し切れない憤怒が籠っており、逆鱗に触れぬ前にと青年が慌ただしく立ち上がる。
「離れればいいんだろ離れれば、ほら…僕がそっちに移ればこれで丸く収まる筈だ」
食べ終えた甘味の皿は置いたまま、カーヴェは飲みかけのコーヒーカップだけを持って家主の正面へと席を移す。
一見これ以上なく平和的な解決策に思えたが、たった一点だけ無視出来ない問題があった。
「…私もそっちに行く」
そう言って少女は自らの座する椅子を引き摺り、二人の円卓に身を近付けて強引に相席する。
見ず知らずの客同士が座る前提なのだろう、ある程度の距離を保って配置されたそれぞれのテーブルは遠く離れた位置にあるように見え、一人残されたことで抱く疎外感は彼女にとって相当なものとなっていた。
「でも、アルハイゼンが酒場じゃなくてこっちに来るの、珍しいよね。コーヒー飲むだけなら家でいいってなりそうなのに」
席を移ったことで邪魔になった皿を片付けてもらうと共に追加のコーヒーを注文し、少女が感嘆を零す。
「元々はそうするつもりだったんだが、通りを歩いている最中にこの店から騒がしい声が聞こえてきたからな」
出来たてを注いでもらったコーヒーを堪能しながら、アルハイゼンは彼女の声に答える。
その中でカフェへの来店理由として挙げられた"騒がしい声"という批難に、少女は己ではなく青年が原因だろうと責任転嫁し始めるのだった。
「騒がしい…あぁ、先輩が声張り上げてた時のことかな」
「いや、君が一人で大笑いし始めた方だろ? こいつが来たのが、その少し後なんだから」
確かに騒々しくしてしまった覚えはあれど、タイミングが異なる筈だと彼は自らの責を否定し、男の指す声の主が
サージュであると冷静に指摘する。
「うっ…それはそうか。疑ってごめん、カーヴェ先輩」
手痛い指摘にその通りだと感じた少女がしおらしい態度で非を詫び、意気消沈して肩を落とす。
尤も、実際に男が遭遇した"騒がしい声"は二人が想定したどちらでもなく、その後の嬉々として青年を問い詰める少女とそれに反発する彼のやり取りのことなのだが。
「…」
少女が大笑いする程の珍事という断片的な情報に、自分が居ない間に二人が一体どんな会話をしていたのか、急激に興味が沸き始めるアルハイゼン。
しかし敢えて自分を同席させなかった彼女達のプライベートに干渉する権利はないと、カップを呷り席を立とうとして。
「待てよアルハイゼン、まさかこの状況から一人で帰るなんて言うつもりか?」
「君達二人の話に、俺が口を挟む資格はないだろう」
「あるよ。だって私と先輩の話じゃなくて、キミにも関係あることだもん」
苛立ちに満ちた声でそう告げ上目で睨み、家主の突飛な行動を咎めるように語気を強める。
真紅の瞳に込められた感情は義憤と挑発が入り混じり、男を逃すまいとギラギラとした輝きを放っていた。
そんな彼にも臆することなく、最も正しいであろう反論を告げて背を向けたところに、今度は"恋人"が腕を掴み引き止める。
「誰にも話してない筈の私とキミのことを、どうしてカーヴェ先輩が知ってたのかを聞く為に…こっちのカフェまで先輩を呼び出したの」
再びの着席を促し、
サージュは緊張から声を上擦らせつつ意を決して事の真相を語る。
想像していたよりもずっと取るに足らないことで悶々としていたらしい彼女を前に、男の口角が自然と緩んでいく。
「なんだ、そのことか。それに関しては、少し前…こいつがしつこく嗅ぎ回っていたから、手間を減らす為に俺の方で然るべき措置を施したまでだ」
「まあ、僕も色々と証拠があったからそこまで驚かずに済んだものの…もし突然聞かされていたら、その衝撃は計り知れないものだっただろうね」
そう言って感慨深げに笑い合う男達に、何も知らずにいた少女は頬を真っ赤に染め押し黙る。
不自然な程静かな彼女に違和感を覚えたカーヴェがその表情を窺うと、絶対にこちらを見るなと言わんばかりに顔を背けていた。
「
サージュ?」
「…今更だけど、なんか…物凄く恥ずかしくなってきた」
少しずつ首の向きを正面に戻しながら、この奇怪な状況を作り出した根本の原因たる男に視線を向ける。
だが彼はその眼差しを気にも留めず、どころか楽しんですらいるような雰囲気を醸し出していて。
「恥じるようなことじゃない、堂々としていればいい」
「それが出来たら苦労しないんだってば…はぁ、木の
洞があったら潜りたいくらい」
"恋人"からの全く役に立たない助言に深々と嘆息を零し、穴に入って身を隠したいと肩を竦める
サージュ。
自分達の関係性を完全に把握しているのはこの先輩ただ一人と言えど、他の友人や恩人に周知されるのも時間の問題だろうと、羞恥による重圧が増していくのを感じる。
「でも…正直僕は安心したよ。極まった利己主義の君が、手放しなくないと思うくらい大切な相手が出来るなんて…奇跡みたいなものだ」
「うん? カーヴェ、君はどうやら大きな勘違いをしているようだな」
感心半分、呆れ半分の眼差しで告げる青年に、アルハイゼンは驚いた様子で首を傾げる。
柔らかな笑みを湛えて齎した彼の優しき言の葉は、少女を更に紅潮させる甘さに満ちたものだった。
「俺が
サージュを選んだのではなく、彼女が俺と共に生きることを望んでくれた。俺はそれに応えただけだよ」
Sucré