「…うぅ、緊張してきた」
ラザンガーデンの中腹、古びた彫像ことワープポイントの傍。スラサタンナ聖処での謁見を控えた少女が、ドクドクと早鐘を打つ心臓を押さえながら呟く。
「何も悪いことはしていないだろう。平常心で行けばいい」
太々しい態度で、草神信徒の彼女には全く役立ちそうもない助言を告げるアルハイゼン。
今日の彼らは、今回の学院トーナメントに於ける総括を報告するべく召集を受けていたのだった。
「けど、結局クラクサナリデビ様のお願いは直接叶えられなかったし…それに」
そこで口籠り、
サージュは唇を噛み締める。想起するのは、かつて存在していたことをハッキリと思い出した"先代"について。
学院祭と直接の関連はない以上、この件に関してどこまで彼女に情報を共有すべきか、少女は夜も眠れず考え込んでしまう程であった。
「そちらについては、会話の状況を見て決めるとしよう。あくまで今日の俺達は、学院祭と才識の冠に纏わる一連の結果を報告する為に出向いたのだからな」
「うん…そうだね」
男の宥め賺すような声音からなる進言に頷き、聖処の扉に手を伸ばす。指先が触れたその瞬間、彼女達は"内側"へと招かれる。
「いらっしゃい。待っていたわ」
草花のソファとティーセット。以前顔を合わせた際と変わらぬ様式で、草神クラクサナリデビは自らの呼び出した二人を出迎える。
前回と大きく異なるのは、三者がその状況に至るまで。煩わしさを嫌った草神はその力を行使しあらゆるセッティングを済ませ、堅苦しい遣り取りの一切を排し歓迎の言葉を告げた。
「まず初めに、これだけは言っておかないとね…二人共、本当にお疲れ様」
「いっ、いえ! そんな…」
草神直々の労いに、
サージュが畏れ多いと慌ただしく両手を振る。一方で男は相変わらずのマイペースさを保ち、振る舞われた紅茶を堪能していた。
「冠を破壊したのはカーヴェ先輩で、私は…何も」
「そうね…目に見える"結果"としては、何もしていないと言うべきなのかもしれないわね。けれどそこに至る"過程"で、あなたは確かに彼をアシストしていたでしょう?」
少女の卑下にも近い謙遜を一旦は受容しつつも、その悲愴を認めない慈悲深い草神は彼女がこの学院トーナメントに於ける妙論派の優勝には必要不可欠な存在となっていたことを指摘する。
横で静々と二人の会話を聞いていたアルハイゼンは、青年を優勝へと導いたことが意図してのものだったと既に見抜いているのではないかと、草神へと訝しむ視線を向ける。
「…」
四葉を象っているかのような特徴的な瞳からは感情の機微を読み解くことは出来ず、男は探りを入れる意を込め重い口を開く。
「最終ラウンドでの一幕については、ただの偶然でしかないと思われますが。セノと彼女の競り合いの余波で、巻き込まれたカーヴェがたまたま吹き飛ばされ、たまたま冠を掴むことが出来ただけかと」
司会席で見守るしか出来なかった立場からそう口早に告げて、真実を知る当事者を一瞥する。
彼の視線を感じた少女は、すぐにその意図を察知すると共に大きく頷いて、思わぬ横槍のせいで一歩及ばず優勝を逃したのだと大袈裟に笑んでみせた。
「そっ、そうなんです。あそこで先輩が乱入して来なければ、私が優勝間違いなしだったのにな…あはは」
草神からは巧妙に目を背け、微かに声を上擦らせて落胆する少女。相変わらず嘘や誤魔化しが下手だと"恋人"は密かに呆れ返りつつ、こちらを窺う魔神の瞳を捉える。
幸いにも彼女は
サージュのそうした細やかな癖に全く気付いていないのか、存外すんなりと少女の言葉を信じるのだった。
「勝負にアクシデントは付き物だもの、それは仕方のないことよ。でも、正直なところ驚いているの。まさかあなたがセノと互角に張り合えるとは思っていなかったから、あのシーンは見ていて結構肝が冷えたのよ?」
「それはきっと、ディシアさんに鍛えてもらったお陰です。まあ、あと十秒も持たないくらいにはギリギリでしたけど…」
草神の目には、あくまでこの氷牢の少女は守るべき民の一人でしかなく、信頼する大マハマトラとの鍔迫り合いで一歩も引くことなく戦えるとは予想だにしていない衝撃であった。
彼女がその件についての驚きを正直に伝えると、娘は灼熱の獅子からの教えがあったからだと微笑む。
「そう、ディシアが…ふふっ。
サージュ、あなたってば本当に…
私の予想を上回るのが得意なのね」
つられて笑みを浮かべ、感慨深げにそう呟く。国と己を救った英雄の一人に数えられる強大な獅子に師事しているのであれば、学院トーナメントの最終戦で少女が見せた強さも納得だと、草神は人の子が持つ絆に対し、敬意にも似た憧憬を抱いていた。
「予想を上回ったといえば、優勝した彼…カーヴェと言ったかしら。彼の選択も、驚きに満ちたものだったわ。普通の人には決して出来ない、彼なりの理想…私はあの選択を尊重したいと思っているの」
「…ならそれは、俺達ではなく賢者にでも言ってください。サーチェンの資産を彼がどう扱うかについての話をするのは、担当の賢者の役目ですから」
苛烈な輝きへの羨望からクラクサナリデビが続け様に思い起こしたのは、今大会の優勝者であるカーヴェの選択について。
莫大な富という誘惑に惑わされることなく人々の幸福を願う姿勢を見て、慈愛に満ちた草神は彼に傾倒する兆しを見せていた。
話が大きく脱線する予感を機敏に察知した男が釘を刺してようやく、彼女は居住まいを正し話題を本筋に戻す。
「ごめんなさいアルハイゼン、あなたの言う通りね。
私達には、私達がしなければならない話があるわ」
カップの中に入っていた紅茶を一気に、しかし優雅な動作で飲み干して、ティーポットから二杯目を新しく注ぐ。
それから正面に座る二人のカップにもそれぞれ注ぎ足して、この対話の段階が次に進んだことを示す。
「あっ、ありがとうございます」
「いいのよ。好きなだけ飲んでちょうだい。 …それで、結果としては私の望んだ通り、才識の冠を破壊することには成功した。でも…本当にこれで良かったのかは、少しだけ疑問が残るところではあるの」
謝意を告げる少女へ慈母のような笑みを見せ、すぐに表情を切迫したものへと変貌させる。
この学院祭期間内に起こった多くの出来事について、国を統べる知恵の神として、色々と思うところがあるようだった。
「クラクサナリデビ様」
意を決して口を開き、トーナメントの後に開かれた祝宴で仲間達が語っていた想いを伝える。
皆の晴れ晴れとした表情が目に焼き付いている
サージュには、草神の憂いを認めることは出来なかった。
「…私にとっては、学院祭での経験はこれ以上なく有意義なものでした。勿論、私だけじゃなく…他の皆にとっても。だから、これでよかったんです」
「そう…他でもないあなたが言うのなら、
私はその言葉を信じるわ」
少女からの声を真摯に受け止め、クラクサナリデビはその愛らしい瞳をゆっくりと閉じて頷く。
しかしその瞳の奥には、彼女達が学院祭を終えた後に見えた赤黒い靄の景色が鮮明に浮かんできてしまっていた。
「でも、キングデシェレトの眠る地であなた達が使おうとした"あれ"については…流石に看過出来ないと言わざるを得ないわね。ノイズだらけであの後あなた達がどうなったのかまでは追えなかったけれど…アルハイゼン、どうして今まであれの存在を隠していたの?」
先刻の動作の巻き戻しのように緩やかな動きで目を開き、男をその双眸で真っ直ぐに見つめる。
彼女が敢えて名を挙げずに遠回りな指示語で指したその物の正体、それは神の缶詰知識のことだった。
扱いをひとつ間違えれば廃人となりかねない禁忌を秘めた危険物を、何故手元に抱えたままでいたのかと、痛烈な想いを秘めて問う。
けれど彼は眼差しに込められた魔神の威圧にも一切物怖じせず、淡々と反論を述べて抗う。
「神の缶詰知識に限らず、缶詰知識の扱いについては…俺が代理賢者に就任している内には何も決まらなかったと記憶していますが。隠していた、という表現には語弊があるかと」
「だとしても、あなた程の智慧を持つ者があの禍々しさに気付かない筈はないでしょう。もしかして、私には言えない理由があったのかしら?」
「…」
男が面倒を嫌うことをよく知る草神の推測は、当たらずとも遠からず。真理を掠める一言に、アルハイゼンの喉が痞える。
果てなき知識を追い求める者として、まだ解明していない謎を易々と手放すには惜しく、迂闊にあの危険因子について触れ探究の糧を奪われる訳にはいかない、そう思っていたのは紛れもなく事実である。
そしてそう考えるに至る意志の影には、"恋人"となった少女への一助や草神"マハークサナリ"自体への疑念といった様々な要素が複雑に絡み合っていたこともまた、彼が言葉を喉奥で押し留めるしかない一因で。
「クラクサナリデビ様。アルハイゼンがあの缶詰知識を持ち続けていたのは、アルハイゼンの意志じゃなくて…私がそう頼んだからです」
沈黙を突き破るべく名を呼び、少女は傍らの"恋人"を護るように手を伸ばしては、全てが自分の責であったと告げる。
実際には真っ赤な嘘であるにも拘らず、視線を逸らすことなく草神へと向ける様に、男は
サージュの覚悟を垣間見た。
「この国を統べる"草神"が、後にも先にもクラクサナリデビ様ただ一人だけであるという、今の因論派に於ける大前提が…私にはどうしても受け入れられなかった」
眉を寄せ、少女は自身が抱いた挫折の発端について語る。ある一時を境に砂上の楼閣の如く崩れ去った研究の成果は、本当に何の価値もないのか。諦めきれずにいた彼女の悲愴は、留まることを知らず溢れ出す。
「魔神戦争を経る前のクラクサナリデビ様のことについては…何度確かめても、辻褄が合わない部分があるんです。それで、先代様が存在していたという可能性を探す為にあれを…」
「…そこまででいいわ。ごめんなさい
サージュ…一旦、考えさせてちょうだい」
己の絶対的な肯定者だと信じていた少女の突然の裏切りにも等しい言葉を遮り、"ナヒーダ"は思慮に耽る。
これまで想像したことすらなかった、先代草神という未知の可能性。けれども考えれば考える程、それは自らの持つ情報の欠けたピースを埋めるにはこの上なく適している存在であると言える。
魔神戦争を経て記憶と権能が失われ、そのせいで五百年の空白を生み出してしまったという認識そのものが、もしも誤りであったのだとしたら――
誰よりも自分を敬愛し、この国の歴史を紐解く為に尽くしてくれている少女だからこそ辿り着いた境地。
それは、己が遙か昔から草神であることを疑ったことのない彼女にとっても、全く以てあり得ないと断じることの出来ない興味深い議題となっていた。
「晴天の霹靂、というのは…こういう気持ちのことを指すのね。これまでふとした瞬間に何度か感じていた不思議な空虚…その理由の一端が、ようやくわかった気がするわ」
ごくり。音を立てて紅茶を飲み干して、空になったカップをそっとテーブルに置く。
焦燥を鎮めるべく深く息を吸ってゆっくりと吐き、彼女は柔らかな笑みを湛え少女へと語りかける。
「実は…あなた達が霊廟で災厄に見舞われた夜…私も、とても印象深い夢を見たの。その夢の中での私は"月"で、どれだけ手を伸ばしても届かない"太陽"を仰ぎ見るしか出来なかった。もしかしたら、
サージュ…あなたの言う先代、それがまさにその"太陽"なのかもしれない」
「信じて…くれるんですか?」
「ええ。だって、全く根拠のない話ではないもの。あなたがその人生を賭して学んだ結果だけでなく、私自身にも拭いきれない違和感が確かにある以上…私にはあなたの出した答えを否定することは出来ないわ」
少女の困惑にも程近い驚嘆に、"
クラクサナリデビ"は自らの胸元に手を宛てて優しい甘言を囁く。
尤も、少女に才識の冠に関する願いを受け入れてもらった草神としての立場から言えることはそこまでで、一国の統治者としての彼女には、本来会話することさえ稀な一介の学生をこれ以上甘やかす権限はなく。
「とはいえ、私の口添えを以て今の学説をひっくり返すというのは…流石に道理が通らないでしょうね。それは、拳同士で語り合うボクシングの試合に散弾銃を持ち出すような横紙破りだわ」
「あはは…確かに、クラクサナリデビ様の仰る通りですね…」
一瞬だけ垣間見えた卒業への糸口がすぐに断たれ、草神特有の比喩表現に愛想笑いするしかなくなる
サージュ。
頼りにするつもりは毛頭なかったと言えども、見えた光明が再び翳ることへの寂寥は隠し切れず、彼女は眉を下げる。
「そう落ち込むことはない。君の仮説を他でもない彼女自身が認めたという事実は、今後君にとって大きな自信となるだろう」
二人の間に割って入る程でもないと感じ無言で彼女達のやり取りを見守っていた男が、少女を慰めるべく口を開く。
だが、そういったごく自然な優しさが、今の彼女のささくれ立った心には苦しいものであった。
草神へと顔を向けたままの首肯の後に齎された感謝の言葉には、いつもの彼女らしい活気は見えなかった。
「…うん。ありがとう、アルハイゼン」
それでも少女は自らが発端となる重苦しい沈黙を嫌い、小さく息を吐いてすぐに平静を取り戻す。
「クラクサナリデビ様、最後にもう一杯だけお茶を頂けますか?」
「ええ、勿論。アルハイゼンも飲むかしら?」
「遠慮しておきます。俺のカップにはまだたっぷり残っているので」
すっかり冷めてしまっているであろう紅茶を見せ、草神の申し出を固辞するアルハイゼン。
彼には甘すぎるその味を隣に座る少女が嬉々として掠め取り、冷たさを気にも留めず飲み干すのだった。
「
サージュ?」
「緊張して、喉乾いちゃってたから。アイスティーも、それはそれで美味しいしさ」
わざわざ横から奪い取る程かと驚愕する男に、少女は掌に氷元素の力を込めつつ微笑する。
どうやら気まずさを払拭する道化を演じる為に、温くなった紅茶を急速に冷やして飲んだらしく、その蛮行に気付き呆れた様子の草神が嘆息を零す。
「…はぁ。ついこの間、溢れ出した力を暴走させていたことを忘れたのかしら、
サージュ?」
「うぐっ、す…すみません」
教員に叱責を受けた悪童のように、
サージュは咄嗟に肩を竦めて慌てふためきながら謝罪を告げる。
強張る身体に過度な緊張を与えてしまったと悟った草神は彼女を宥め賺す笑みを浮かべ、決して諫言で消沈させようととしていた訳ではないことを示す。
「ふふ、今のは私の言い方が悪かったわ。そんなに萎縮しなくても大丈夫よ。あなたの体内に秘められた元素力は、他の人と比べても特に多いから…少し使い過ぎるくらいが、寧ろ丁度いいのでしょうね」
自らの内に宿る元素量が人よりも多いという指摘、それは、神の目を発現させた瞬間に引き起こした凄惨な光景を思えば、改めて言われるまでもなく明白なのことで。
不意に古傷に触れられたことで夙に忘れていた母への憧憬を思い出してしまった少女は、曖昧に頷くことしか出来なかった。
「そう…ですね」
努めて笑みを保とうと口角を歪める少女の健気な姿に、同じソファに座らされている男が徐に手を差し伸べる。
「
サージュ。時計を見せてくれるか」
「あっ、そろそろ時間? …だね、つい話しすぎちゃった」
アルハイゼンが見える位置へと時計盤を傾けつつ自身も時刻を確かめ、そろそろこの茶会を終えねばならぬ時が迫っていることを悟る少女。
ようやく解放される喜びから男はすかさず立ち上がり、いつ渡すか機を失っていたままだった一冊の本を腰の鞄から取り出す。
それをテーブルの上に載せるや否や、彼はいつもと変わらぬ無愛想さで少女の手を引き、有無を言わさぬ態度でスラサタンナ聖処の長い道程を進む。
「サーチェンが遺した資料はここに。それでは」
「あ、ちょっ?! すみませんクラクサナリデビ様、今日はこれで…!」
「もう、相変わらずなんだから。でもまあいいわ、それでこそ"書記官"アルハイゼンだものね」
得難い地位には一切の興味を示さず、任期を終え即座に代理賢者を辞した彼を揶揄し、次第に小さくなっていくふたつの背を見守る。
身の丈以上を望まぬその慎ましさは、己が"
マハークサナリ"だと虚勢を張り続けてきた"
自分"も見習うべきなのだろうと苦笑して、ソファにそっと身を横たえた。
D'être