天穹から伝う一滴
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ヴァフマナ学院に休学届を提出し、晴れてディシアの弟子として見習いながらも正式にエルマイト旅団の傭兵となったサージュ。
持ち前の明るさと培ってきた知識を最大限に活かし八面六臂の活躍を見せていた彼女だったが、傭兵稼業に精を出し過ぎるあまり自宅へと帰る機会をなかなか作らぬまま砂漠に滞在し、はやひと月半が経過していた。
痺れを切らした団長に半ば強引に帰宅を命じられ、渋々スメールシティに帰って来たのが、まさに今この明け方。
戻る前に出していた手紙を頼りに家の前で待ち構える"恋人"に声を掛けようとして、先に彼の方から名を呼ばれることとなる。
「サージュ」
「ただいま、アルハイゼン! 出勤前なのにごめんね、わざわざありがとう」
久方振りの逢瀬、帰宅の挨拶を満面の笑みで告げ、少女はまだ太陽も登りきらぬ黎明に呼び立てた非を詫びる。
自らの意思で彼女を出迎える為にやって来た男は、宥免にゆっくりと首を振って、慌てる必要はないと優しく諭す。
「おかえり。心配しなくていい、今日は休暇を入れてある」
「え、そうなの?! そんな、サボりはダメだよ…!」
「事前に出した休暇申請が受理されている以上、サボりには該当しない。それに…」
職務を放棄してここにやって来たと知るや否や、サージュは驚いた様子で勤務態度の悪さを咎めるも、男は断固としてその諌言を受け入れようとはせず。
それどころか、完全に開き直って自身の正当性を主張し、彼女を言葉巧みに納得させてみせるのだった。
「君のことだ、さぞ向こうで多くの経験を積んできたんだろう。俺にとっては変わり映えのない仕事よりも、その土産話の方が余程興味深いからな」
直接的な寂寥を伝えることは決してしないものの、会えずにいた期間の長さ故に胸の内ではやはり不安を秘めていたのだと悟る少女。
ならば今日ばかりは存分に甘やかしてやるべきなのだろうと微笑して、自宅の施錠を解き"恋人"を招き入れることにする。
「…それもそうだね。わかった、じゃあ今日は二人でのんびりしよう。今、家の鍵開けるから」
ほんの少しだけ埃の匂いが漂っているようにも思える我が家、約四十五日ぶりの帰宅は少女の心に安堵を齎し、噛み殺しきれない欠伸を漏らしてしまう。
「ふぁ…ぅ」
「眠いのか?」
「ううん、大丈夫…」
そう言いつつも睡魔には抗えず何度も目を瞬かせ、帰還を遅らせてでも仮眠しておくべきだったかと省みる。
尤もそれは、朝以外にもアルハイゼンと過ごす時間を得られたことによる結果論でしかなく。
独断で予定を崩していた場合、彼は帰って来ない自分を呆然と待ち続けてしまうところだったのだと思い直して、少女は"恋人"に着席を促す。
「とりあえず座って。コーヒー淹れる、よ」
ふらり。唐突に立ち眩んで頭を支えるも、込み上げてきた気持ち悪さに動悸が増していく。
折角の逢瀬なのにと額に浮かぶ汗を乱雑に拭い平静を装おうとして、座るのは君の方だと言わんばかりに腕を引かれる。
「無理はしない方がいい。夜通し歩いて疲れているだろう」
「…ごめん」
力なく謝罪を口にして、連れられるがままにソファへと座すサージュ。指摘と問い掛けの通り、深夜に目が覚めて以後は無我夢中で帰路を駆けていたのを思い出し、我ながら初歩的な失態だと自嘲するしかなく。
「食事は?」
「歩きながらリンゴをかじったくらい…かな。街に近付くにつれて、早く会いたくなって」
呆れ眼で嘆息を吐いてそっと彼女の頭を撫で、アルハイゼンは淡々と状況改善の策を呟いて背を向ける。
会いたい気持ちで気が逸っていたと言われ嬉しいと思う反面、その喜びは決して漏出させてはならない――
あくまで愚行は愚行と学ばせるべきだと努めて冷静さを保ち動こうとして、はためいたマントの裾がいつの間にか掴まれていたことに気付く。
「なら、空腹も不調の要因のひとつだな。朝市で出来合いを買ってくるか、簡単なものを作る…いや、それよりも先に水分補給をすべきか」
「鞄の中に干し肉あるから…それ取って」
「これか」
少女は無言で頷き目的の代物を受け取り、包みを開いてそれをちまちまと齧り胃に食料を押し込む。
適切な栄養が摂れるとは言い難いその咀嚼を見守る傍らで、男は次の手を講じる為の思慮に耽る。
が、窮地は脱した以上慌てる必要はないのかもしれないと考えた瞬間、やはり彼女が喜ぶ選択を採るのが第一だろうかと柄にもなく献身の念が過る。
「サージュ、他には何が食べたい?」
意外な問いを齎されたことで干し肉を食む手が不意に止まり、覚束ない頭で熟考を始める少女。
しかし早朝ということもあり選択肢は限られて、これといった決め手に欠けるものしか思いつかず。
「…気を遣わなくて大丈夫だよ、ありがとう。美味しいもの食べるのは…もぐ、後でも出来るから」
静かに目を閉じて謝意を伝えて残飯処理を終え、包み紙を綺麗に折り畳んで屑籠へと放り込む。
一挙手一投足が緩慢な、自身の想定以上に消耗している情けなさを胸に秘め、彼女は掠れそうな声で希求を告げる。
「今はそれよりも…隣にいて欲しい、な」
「わかった」
ぎこちなさの隠しきれていない笑みを前に、アルハイゼンは承諾以外には何も言わずソファに腰を下ろす。
無茶を通した結果が招いたこの事態に対し、勿論言いたいことがない訳ではなかったが、今はただ彼女と過ごす一分一秒を大事にする方が優先だと、そっと肩を抱き寄せ体重を己に預けさせる。
「んと…横になってもいい?」
「確かにその方が楽になるかもしれないな。好きにしてくれ」
「えへへ、やった。じゃあ…遠慮なく」
首肯と共に膝を提供する意思を示すと、サージュは嬉々として寝転がり、真下から"恋人"の表情を見上げる。
ほんの僅かにではあれど、不安が拭いきれないでいる様子を垣間見て、せめて別の話題を挙げ気を紛らせようと口を開いた。
「砂漠の方には…私のお母さんを知ってる人が沢山居たよ。何度かお母さん本人と間違われちゃった」
頭上の鋭い瞳が見開かれ、緩やかに視線が降りてくる。目論見通りと判断した少女はにこやかに笑んで、防砂壁の向こう側での貴重な体験を語り始めた。
「私が娘だって知って良くしてくれる人も居れば…昔の恩を仇で返そうとする人も居た。あぁ勿論、ディシアさんや先輩達が止めてくれたから、心配はないんだけどね」
決していい思いだけではなかったにも拘らず、"母"を巡る多くの出来事について反芻するその表情はどこか晴れやかで。
男は静々と少女の話を聞き、離れている間にも着実に心身共に成長していっているのを感じる。
そう思えるのは、偏 に彼女を弟子として迎えてくれた獅子の背を追うという目標に一直線になれたが故なのだろうと、自然と笑みが零れ出ていた。
「良い師を得たな」
「本当にね。ディシアさんが私の師匠になってくれたのは、キミのお陰でもあると思う。だからありがとう」
慮外の言に、アルハイゼンの目が大きく見開かれる。まさか過去に彼女を教令院に引き込もうとして断られた件が関係しているのかと思いつつ惚けてみせると、少女はそれとは全く別の形で自分との関係を吐露していたと白状する。
「俺がか?」
「えっと…うん、実はそう。弟子入りしたいって話した時、その…誰の為に、って聞かれてさ…キミが好きで守りたい、そう答えたの。そしたら快諾してくれたから…」
羞恥に顔を赤らめ、己が熾鬣の獅子に師事しようとし、無事受け入れられるに至った際の秘話を語るサージュ。
それを耳にした男は、本来教えなくていい筈のことまで筒抜けになっている理由の全てが今の発言に詰まっていると察し、彼女のこの隠し事の出来ない一本気過ぎる性分は多少なりとも是正すべきではないかと考え始める。
「…ふむ。成程、それなら今までの諸々にも納得がいくな」
自分達の関係を公言した覚えもないのに妙に詳しく知っている――それが、男のディシアに対する印象だった。
ただ、彼は弟子である少女がどこまで暴露しているのかを確かめようとしたことはなく、彼女達との会話の中から断片的に推測するに留まっていた。
長らく謎に包まれていた疑問のひとつがようやく解消し、深々と息を吐くと、それを呆れと捉えたのか即座にしどろもどろな弁明が飛んできた。
「しっ、仕方なかったんだよ。話の流れで言わされたっていうか…ディシアさん、駆け引きも上手だから」
「ああ。それは俺も理解している。君はまだまだ彼女から学べることが多いようだ」
嘴のように尖る唇から発せられた他責思考に、その愚直さは傭兵として生きていくには甘過ぎると諌める意を込めてそう返す。
するとサージュはバツが悪そうに視線を逸らし、適切な反論をと思考を巡らせるも、咄嗟に出たのは子供じみた呪詛のみで。
「…いじわる」
言い負かされたことですっかり臍を曲げてしまい、少女は寝返りを打って"恋人"の腹部に顔を埋める。
辛辣な口振りに難色を示しこそすれ、どうあっても膝枕から離れる気はないらしく、腕を腰に回ししがみついては含み声で悲愴を零すのだった。
「水面下での探り合いとか、思ってもない賛辞の応酬とか…そういうのは教令院の中だけでいいよ」
どことなく恨みの籠った言い回しに、砂漠では砂漠なりの怨嗟が渦巻いていて、彼女は立場上どうあってもその苦しみから逃れることが出来ないのだと嫌でも実感する。
多くの善良な人々と交流を交わす内に久しく忘れていた人間の悪意、その一端に触れ再び少女が心を閉ざしてしまうことのないよう、アルハイゼンは。
「そう、だな」
月並みな同調だけを口にして、それ以上は何も言えず押し黙る。過失とは言えども彼女の心を傷つける一因となってしまった今、弁解の余地はないと言わざるを得なかった。
「…」
互いに沈黙したまま動かず微かな呼吸の音だけが響く中、静寂を嫌ったサージュが徐に身を起こす。
完全に気持ちを切り替えるとまでは行かずとも、懊悩に時間を割くだけ無駄だと既に熟知しているようで、その眼差しにはネガティブな感情は一切込められていなかった。
「そうだ、キミにお土産があるんだよ。ちょっと待ってて、今出すから」
気まずさを払拭するように歯を見せて笑んで、携帯食料を取り出した鞄の側面に備えられた収納ポケットから何かを探し始める。
男は一体どんな貴重品が出て来るのかと期待しつつその挙動を見守っていると、彼女は一枚の栞を差し出してきた。
「サージュ…これは?」
「悼霊花。砂漠でも北寄りの、ファラクケルトの園方面でしか咲かないものなんだけど…」
「ああいや、俺が聞きたかったのは花についてではなく」
栞の表面には、赤い花弁に身を包む、命を賭した英霊を悼むかの如く頭を垂れる花が挟まれていた。
元より彼女は各国の花々を押し花の栞にして集めていたが、何故それを自分にと、アルハイゼンは抱いた疑問を素直に伝える。
問われた少女はほんの僅かに愁いを帯びた瞳で微笑して、隠し持っていたもう一枚の全く同じ花が彩られた栞を見せた。
「その花はね、私にとって特別な思い入れのあるものなんだ。だからお揃いの栞を用意して、離れている間もキミと繋がっていられたらなと思って」
万感の想いを込めそう告げ、此度の別離で味わった寂寞を少しでも埋められるようにと考えて用意したプレゼントだと示す。
しかし話している内に段々と自信がなくなり、"恋人"への贈り物として不適切だったのではないかと不安げな様相を呈する。
「あ…もしかしてアルハイゼン、栞使わないタイプだっけ…?」
「基本的にはそうだが、全く使う必要を感じないものでもない。あれば便利だとは常々思っていたよ」
狼狽えるサージュの頭を撫で、感謝の意を惜しみなく向ける。実際のところは少女の懸念の通り彼はわざわざ栞を用いずともどこまで読んだかを記憶出来ている方だったが、最愛の相手が自分の為にと手ずから作り出した品を無下に扱う程愚かではなく。
「ふふっ、なら良かった。他にも好きな花があれば作ってあげる」
「いや、これ一枚でいい」
希少性にも価値を見出したくなったアルハイゼンは、静かに首を振って彼女の申し出を固辞する。
自作の栞に向けられた満足げな笑みを目にした少女は深入りせず頷いて、"特別"を共有出来る喜悦を噛み締めた。
「ん、そっか」
上向いた口角の微かな震えから、己が少なからず緊張していたのだと知り吃驚するサージュ。
今になって久しぶりに二人きりで過ごしているという事実を思い出し、頬に熱が宿っていく。
話したいことは他にもある筈なのに、弾けたシャボン玉のように思考が散逸しまともに言葉を紡ぐことも儘ならなくなり、落ち着かない様子で周囲を見回し始めた。
「あー…ぇと」
「どうした、サージュ」
「だっ、大丈夫…なんでもない」
唐突に名を呼ばれ、上擦った声で必死に誤魔化そうとするも、定まらない視線は如実に彼女の焦燥を表していて。
「相変わらず君は嘘が下手だな。ついさっきまで俺の膝上に居たというのに、今更何を慌てているんだ?」
「う…そ、それは」
言葉巧みに乙女心を弄ぶ"恋人"の不敵な笑みを直視出来ず、ぐうの音も出なくなった少女は堪らず目を伏せる。
ここで何も言い返せないから煽られるのだ、と頭では理解していても、言語の専門家たる口達者な男に敵う筈もなく。
「…はぁ」
深々と溜息を吐いて、乱されきって落ち着かない心境を場の空気と共にリセットさせようと試みる。
そして、全く異なる話題への転換先として思いついた問いを投げ掛けると、彼はそれすらも自身の武器とし少女の心を揺さぶってみせた。
「アルハイゼンの方は? 教令院の内部で、何か変わったこととかある?」
「ああ。将来を誓った女性が居ると明言したお陰で、賢者からの煩わしい見合い話の打診がようやくなくなったよ」
「っえ゙」
喉が潰れそうな勢いで驚愕を吐いて、少女は自分が居ない間にとんでもないことをしていた"恋人"の肩を掴む。
「ちょっと待って、そんなこと軽々しく言って大丈夫なの…?!」
「軽々しくではない。そもそも、近しい血縁者を差し向けて俺を御そうとすること自体が間違いだと、やつらには知ってもらう必要がある」
一方で当のアルハイゼンはと言うと、意外にも憤慨を隠さず肩に乗せられた手を取り、彼女の焦慮を否む。
どうやら余程その類の圧力が腹に据えかねていたらしく、手を握る力にもいつになく熱が込められていた。
「サージュ。君が頷いてさえくれるのなら、俺はいつでも君を…」
そのまま勢いに乗じて婚姻を申し込もうと言わんばかりに押し迫るも、少女はゆっくりと首を降ってそれを遮り男を宥める。
「ごめん、その先はまだ言わないで」
「…」
「気持ちはすごく嬉しいよ。でもね、今の私じゃ…教令院の人達も納得してくれないと思う」
つい数分前の慌てぶりとは打って変わって真っ直ぐに"恋人"の目を見つめ、二人の気持ちだけでは事は成り行かないのだと認めさせる。
そして自虐と共に苦笑を零して、ある意味では教令院の上層部が彼にとって家族のような立ち位置なのだと示す。
「学者としても、傭兵としても…まだ半端者で、一人前とは言い難い。そんな子供が、一度は賢者の位に立った人の伴侶になるなんて…もし私が外野の立場だったら、絶対認めたくないもん」
そう言って微笑む少女を見ても尚、男の表情は晴れず眉間には幾重にも皺が寄せられたままで。
この方面から彼を説き伏せるのは相当の労力が必要だと悟った少女は、早々に話題を切り上げ、大きく伸びをしてみせた。
「まあでも、いの一番に出て来るのがその話ってことは…大きな事件とかは無さそうでよかった。前に長いこと街から離れてた時は、やっと戻って来れたと思ったらあらゆる常識が覆ってて…それはもう驚いたからね」
「あんなことが立て続けに何度もあるようでは、教令院だけでなくスメールという国全体の秩序を見直さなければならなくなるだろう」
「ふふっ、そうだね。実際私自身も…ファデュイそのものだけじゃなくて、あいつらと手を組んでる汚い傭兵にも気をつけろって…熾光の猟獣の皆から口を酸っぱくして言われたし」
伸ばした腕を勢い良く下ろし、そのままそれを爪先まで届かせ凝った体を解し始めるサージュ。
砂漠で過ごす日々の習慣だった運動を始めたことで、伝えたかったことのひとつを思い起こした彼女は、得たばかりの知識を伝授すべくしたり顔で身を起こす。
「あ、そうだ。折角だから…アルハイゼンにも、そういう怪しい人達に共通する悪い手癖を教えてあげる」
「ほう? そんなものがあるとは初耳だな。是非とも聞かせてくれ」
アルハイゼンはまだ僅かに憤りを燻らせていたようだが、その笑みを見て調子を合わせ、興味津々といった様子で手を差し伸べる。
自分達が正式に結ばれるまでに乗り越えねばならない困難は数あれど、彼はどんなことがあろうとも決して諦めるつもりはなかった。
今はまだその時ではない――彼女がそう言うのであれば、己に出来るのはただ待ち続けることのみ。
待つのはもう慣れている。その忍耐が実を結びさえするのなら、どれだけ時間がかかろうとも構わない。
眠れなくとも朝が来るように、いつかは必ず望む通りの未来が訪れると本能で知る男は、柔らかな眼差しで"恋人"を見つめるのだった。
Réunir
持ち前の明るさと培ってきた知識を最大限に活かし八面六臂の活躍を見せていた彼女だったが、傭兵稼業に精を出し過ぎるあまり自宅へと帰る機会をなかなか作らぬまま砂漠に滞在し、はやひと月半が経過していた。
痺れを切らした団長に半ば強引に帰宅を命じられ、渋々スメールシティに帰って来たのが、まさに今この明け方。
戻る前に出していた手紙を頼りに家の前で待ち構える"恋人"に声を掛けようとして、先に彼の方から名を呼ばれることとなる。
「サージュ」
「ただいま、アルハイゼン! 出勤前なのにごめんね、わざわざありがとう」
久方振りの逢瀬、帰宅の挨拶を満面の笑みで告げ、少女はまだ太陽も登りきらぬ黎明に呼び立てた非を詫びる。
自らの意思で彼女を出迎える為にやって来た男は、宥免にゆっくりと首を振って、慌てる必要はないと優しく諭す。
「おかえり。心配しなくていい、今日は休暇を入れてある」
「え、そうなの?! そんな、サボりはダメだよ…!」
「事前に出した休暇申請が受理されている以上、サボりには該当しない。それに…」
職務を放棄してここにやって来たと知るや否や、サージュは驚いた様子で勤務態度の悪さを咎めるも、男は断固としてその諌言を受け入れようとはせず。
それどころか、完全に開き直って自身の正当性を主張し、彼女を言葉巧みに納得させてみせるのだった。
「君のことだ、さぞ向こうで多くの経験を積んできたんだろう。俺にとっては変わり映えのない仕事よりも、その土産話の方が余程興味深いからな」
直接的な寂寥を伝えることは決してしないものの、会えずにいた期間の長さ故に胸の内ではやはり不安を秘めていたのだと悟る少女。
ならば今日ばかりは存分に甘やかしてやるべきなのだろうと微笑して、自宅の施錠を解き"恋人"を招き入れることにする。
「…それもそうだね。わかった、じゃあ今日は二人でのんびりしよう。今、家の鍵開けるから」
ほんの少しだけ埃の匂いが漂っているようにも思える我が家、約四十五日ぶりの帰宅は少女の心に安堵を齎し、噛み殺しきれない欠伸を漏らしてしまう。
「ふぁ…ぅ」
「眠いのか?」
「ううん、大丈夫…」
そう言いつつも睡魔には抗えず何度も目を瞬かせ、帰還を遅らせてでも仮眠しておくべきだったかと省みる。
尤もそれは、朝以外にもアルハイゼンと過ごす時間を得られたことによる結果論でしかなく。
独断で予定を崩していた場合、彼は帰って来ない自分を呆然と待ち続けてしまうところだったのだと思い直して、少女は"恋人"に着席を促す。
「とりあえず座って。コーヒー淹れる、よ」
ふらり。唐突に立ち眩んで頭を支えるも、込み上げてきた気持ち悪さに動悸が増していく。
折角の逢瀬なのにと額に浮かぶ汗を乱雑に拭い平静を装おうとして、座るのは君の方だと言わんばかりに腕を引かれる。
「無理はしない方がいい。夜通し歩いて疲れているだろう」
「…ごめん」
力なく謝罪を口にして、連れられるがままにソファへと座すサージュ。指摘と問い掛けの通り、深夜に目が覚めて以後は無我夢中で帰路を駆けていたのを思い出し、我ながら初歩的な失態だと自嘲するしかなく。
「食事は?」
「歩きながらリンゴをかじったくらい…かな。街に近付くにつれて、早く会いたくなって」
呆れ眼で嘆息を吐いてそっと彼女の頭を撫で、アルハイゼンは淡々と状況改善の策を呟いて背を向ける。
会いたい気持ちで気が逸っていたと言われ嬉しいと思う反面、その喜びは決して漏出させてはならない――
あくまで愚行は愚行と学ばせるべきだと努めて冷静さを保ち動こうとして、はためいたマントの裾がいつの間にか掴まれていたことに気付く。
「なら、空腹も不調の要因のひとつだな。朝市で出来合いを買ってくるか、簡単なものを作る…いや、それよりも先に水分補給をすべきか」
「鞄の中に干し肉あるから…それ取って」
「これか」
少女は無言で頷き目的の代物を受け取り、包みを開いてそれをちまちまと齧り胃に食料を押し込む。
適切な栄養が摂れるとは言い難いその咀嚼を見守る傍らで、男は次の手を講じる為の思慮に耽る。
が、窮地は脱した以上慌てる必要はないのかもしれないと考えた瞬間、やはり彼女が喜ぶ選択を採るのが第一だろうかと柄にもなく献身の念が過る。
「サージュ、他には何が食べたい?」
意外な問いを齎されたことで干し肉を食む手が不意に止まり、覚束ない頭で熟考を始める少女。
しかし早朝ということもあり選択肢は限られて、これといった決め手に欠けるものしか思いつかず。
「…気を遣わなくて大丈夫だよ、ありがとう。美味しいもの食べるのは…もぐ、後でも出来るから」
静かに目を閉じて謝意を伝えて残飯処理を終え、包み紙を綺麗に折り畳んで屑籠へと放り込む。
一挙手一投足が緩慢な、自身の想定以上に消耗している情けなさを胸に秘め、彼女は掠れそうな声で希求を告げる。
「今はそれよりも…隣にいて欲しい、な」
「わかった」
ぎこちなさの隠しきれていない笑みを前に、アルハイゼンは承諾以外には何も言わずソファに腰を下ろす。
無茶を通した結果が招いたこの事態に対し、勿論言いたいことがない訳ではなかったが、今はただ彼女と過ごす一分一秒を大事にする方が優先だと、そっと肩を抱き寄せ体重を己に預けさせる。
「んと…横になってもいい?」
「確かにその方が楽になるかもしれないな。好きにしてくれ」
「えへへ、やった。じゃあ…遠慮なく」
首肯と共に膝を提供する意思を示すと、サージュは嬉々として寝転がり、真下から"恋人"の表情を見上げる。
ほんの僅かにではあれど、不安が拭いきれないでいる様子を垣間見て、せめて別の話題を挙げ気を紛らせようと口を開いた。
「砂漠の方には…私のお母さんを知ってる人が沢山居たよ。何度かお母さん本人と間違われちゃった」
頭上の鋭い瞳が見開かれ、緩やかに視線が降りてくる。目論見通りと判断した少女はにこやかに笑んで、防砂壁の向こう側での貴重な体験を語り始めた。
「私が娘だって知って良くしてくれる人も居れば…昔の恩を仇で返そうとする人も居た。あぁ勿論、ディシアさんや先輩達が止めてくれたから、心配はないんだけどね」
決していい思いだけではなかったにも拘らず、"母"を巡る多くの出来事について反芻するその表情はどこか晴れやかで。
男は静々と少女の話を聞き、離れている間にも着実に心身共に成長していっているのを感じる。
そう思えるのは、
「良い師を得たな」
「本当にね。ディシアさんが私の師匠になってくれたのは、キミのお陰でもあると思う。だからありがとう」
慮外の言に、アルハイゼンの目が大きく見開かれる。まさか過去に彼女を教令院に引き込もうとして断られた件が関係しているのかと思いつつ惚けてみせると、少女はそれとは全く別の形で自分との関係を吐露していたと白状する。
「俺がか?」
「えっと…うん、実はそう。弟子入りしたいって話した時、その…誰の為に、って聞かれてさ…キミが好きで守りたい、そう答えたの。そしたら快諾してくれたから…」
羞恥に顔を赤らめ、己が熾鬣の獅子に師事しようとし、無事受け入れられるに至った際の秘話を語るサージュ。
それを耳にした男は、本来教えなくていい筈のことまで筒抜けになっている理由の全てが今の発言に詰まっていると察し、彼女のこの隠し事の出来ない一本気過ぎる性分は多少なりとも是正すべきではないかと考え始める。
「…ふむ。成程、それなら今までの諸々にも納得がいくな」
自分達の関係を公言した覚えもないのに妙に詳しく知っている――それが、男のディシアに対する印象だった。
ただ、彼は弟子である少女がどこまで暴露しているのかを確かめようとしたことはなく、彼女達との会話の中から断片的に推測するに留まっていた。
長らく謎に包まれていた疑問のひとつがようやく解消し、深々と息を吐くと、それを呆れと捉えたのか即座にしどろもどろな弁明が飛んできた。
「しっ、仕方なかったんだよ。話の流れで言わされたっていうか…ディシアさん、駆け引きも上手だから」
「ああ。それは俺も理解している。君はまだまだ彼女から学べることが多いようだ」
嘴のように尖る唇から発せられた他責思考に、その愚直さは傭兵として生きていくには甘過ぎると諌める意を込めてそう返す。
するとサージュはバツが悪そうに視線を逸らし、適切な反論をと思考を巡らせるも、咄嗟に出たのは子供じみた呪詛のみで。
「…いじわる」
言い負かされたことですっかり臍を曲げてしまい、少女は寝返りを打って"恋人"の腹部に顔を埋める。
辛辣な口振りに難色を示しこそすれ、どうあっても膝枕から離れる気はないらしく、腕を腰に回ししがみついては含み声で悲愴を零すのだった。
「水面下での探り合いとか、思ってもない賛辞の応酬とか…そういうのは教令院の中だけでいいよ」
どことなく恨みの籠った言い回しに、砂漠では砂漠なりの怨嗟が渦巻いていて、彼女は立場上どうあってもその苦しみから逃れることが出来ないのだと嫌でも実感する。
多くの善良な人々と交流を交わす内に久しく忘れていた人間の悪意、その一端に触れ再び少女が心を閉ざしてしまうことのないよう、アルハイゼンは。
「そう、だな」
月並みな同調だけを口にして、それ以上は何も言えず押し黙る。過失とは言えども彼女の心を傷つける一因となってしまった今、弁解の余地はないと言わざるを得なかった。
「…」
互いに沈黙したまま動かず微かな呼吸の音だけが響く中、静寂を嫌ったサージュが徐に身を起こす。
完全に気持ちを切り替えるとまでは行かずとも、懊悩に時間を割くだけ無駄だと既に熟知しているようで、その眼差しにはネガティブな感情は一切込められていなかった。
「そうだ、キミにお土産があるんだよ。ちょっと待ってて、今出すから」
気まずさを払拭するように歯を見せて笑んで、携帯食料を取り出した鞄の側面に備えられた収納ポケットから何かを探し始める。
男は一体どんな貴重品が出て来るのかと期待しつつその挙動を見守っていると、彼女は一枚の栞を差し出してきた。
「サージュ…これは?」
「悼霊花。砂漠でも北寄りの、ファラクケルトの園方面でしか咲かないものなんだけど…」
「ああいや、俺が聞きたかったのは花についてではなく」
栞の表面には、赤い花弁に身を包む、命を賭した英霊を悼むかの如く頭を垂れる花が挟まれていた。
元より彼女は各国の花々を押し花の栞にして集めていたが、何故それを自分にと、アルハイゼンは抱いた疑問を素直に伝える。
問われた少女はほんの僅かに愁いを帯びた瞳で微笑して、隠し持っていたもう一枚の全く同じ花が彩られた栞を見せた。
「その花はね、私にとって特別な思い入れのあるものなんだ。だからお揃いの栞を用意して、離れている間もキミと繋がっていられたらなと思って」
万感の想いを込めそう告げ、此度の別離で味わった寂寞を少しでも埋められるようにと考えて用意したプレゼントだと示す。
しかし話している内に段々と自信がなくなり、"恋人"への贈り物として不適切だったのではないかと不安げな様相を呈する。
「あ…もしかしてアルハイゼン、栞使わないタイプだっけ…?」
「基本的にはそうだが、全く使う必要を感じないものでもない。あれば便利だとは常々思っていたよ」
狼狽えるサージュの頭を撫で、感謝の意を惜しみなく向ける。実際のところは少女の懸念の通り彼はわざわざ栞を用いずともどこまで読んだかを記憶出来ている方だったが、最愛の相手が自分の為にと手ずから作り出した品を無下に扱う程愚かではなく。
「ふふっ、なら良かった。他にも好きな花があれば作ってあげる」
「いや、これ一枚でいい」
希少性にも価値を見出したくなったアルハイゼンは、静かに首を振って彼女の申し出を固辞する。
自作の栞に向けられた満足げな笑みを目にした少女は深入りせず頷いて、"特別"を共有出来る喜悦を噛み締めた。
「ん、そっか」
上向いた口角の微かな震えから、己が少なからず緊張していたのだと知り吃驚するサージュ。
今になって久しぶりに二人きりで過ごしているという事実を思い出し、頬に熱が宿っていく。
話したいことは他にもある筈なのに、弾けたシャボン玉のように思考が散逸しまともに言葉を紡ぐことも儘ならなくなり、落ち着かない様子で周囲を見回し始めた。
「あー…ぇと」
「どうした、サージュ」
「だっ、大丈夫…なんでもない」
唐突に名を呼ばれ、上擦った声で必死に誤魔化そうとするも、定まらない視線は如実に彼女の焦燥を表していて。
「相変わらず君は嘘が下手だな。ついさっきまで俺の膝上に居たというのに、今更何を慌てているんだ?」
「う…そ、それは」
言葉巧みに乙女心を弄ぶ"恋人"の不敵な笑みを直視出来ず、ぐうの音も出なくなった少女は堪らず目を伏せる。
ここで何も言い返せないから煽られるのだ、と頭では理解していても、言語の専門家たる口達者な男に敵う筈もなく。
「…はぁ」
深々と溜息を吐いて、乱されきって落ち着かない心境を場の空気と共にリセットさせようと試みる。
そして、全く異なる話題への転換先として思いついた問いを投げ掛けると、彼はそれすらも自身の武器とし少女の心を揺さぶってみせた。
「アルハイゼンの方は? 教令院の内部で、何か変わったこととかある?」
「ああ。将来を誓った女性が居ると明言したお陰で、賢者からの煩わしい見合い話の打診がようやくなくなったよ」
「っえ゙」
喉が潰れそうな勢いで驚愕を吐いて、少女は自分が居ない間にとんでもないことをしていた"恋人"の肩を掴む。
「ちょっと待って、そんなこと軽々しく言って大丈夫なの…?!」
「軽々しくではない。そもそも、近しい血縁者を差し向けて俺を御そうとすること自体が間違いだと、やつらには知ってもらう必要がある」
一方で当のアルハイゼンはと言うと、意外にも憤慨を隠さず肩に乗せられた手を取り、彼女の焦慮を否む。
どうやら余程その類の圧力が腹に据えかねていたらしく、手を握る力にもいつになく熱が込められていた。
「サージュ。君が頷いてさえくれるのなら、俺はいつでも君を…」
そのまま勢いに乗じて婚姻を申し込もうと言わんばかりに押し迫るも、少女はゆっくりと首を降ってそれを遮り男を宥める。
「ごめん、その先はまだ言わないで」
「…」
「気持ちはすごく嬉しいよ。でもね、今の私じゃ…教令院の人達も納得してくれないと思う」
つい数分前の慌てぶりとは打って変わって真っ直ぐに"恋人"の目を見つめ、二人の気持ちだけでは事は成り行かないのだと認めさせる。
そして自虐と共に苦笑を零して、ある意味では教令院の上層部が彼にとって家族のような立ち位置なのだと示す。
「学者としても、傭兵としても…まだ半端者で、一人前とは言い難い。そんな子供が、一度は賢者の位に立った人の伴侶になるなんて…もし私が外野の立場だったら、絶対認めたくないもん」
そう言って微笑む少女を見ても尚、男の表情は晴れず眉間には幾重にも皺が寄せられたままで。
この方面から彼を説き伏せるのは相当の労力が必要だと悟った少女は、早々に話題を切り上げ、大きく伸びをしてみせた。
「まあでも、いの一番に出て来るのがその話ってことは…大きな事件とかは無さそうでよかった。前に長いこと街から離れてた時は、やっと戻って来れたと思ったらあらゆる常識が覆ってて…それはもう驚いたからね」
「あんなことが立て続けに何度もあるようでは、教令院だけでなくスメールという国全体の秩序を見直さなければならなくなるだろう」
「ふふっ、そうだね。実際私自身も…ファデュイそのものだけじゃなくて、あいつらと手を組んでる汚い傭兵にも気をつけろって…熾光の猟獣の皆から口を酸っぱくして言われたし」
伸ばした腕を勢い良く下ろし、そのままそれを爪先まで届かせ凝った体を解し始めるサージュ。
砂漠で過ごす日々の習慣だった運動を始めたことで、伝えたかったことのひとつを思い起こした彼女は、得たばかりの知識を伝授すべくしたり顔で身を起こす。
「あ、そうだ。折角だから…アルハイゼンにも、そういう怪しい人達に共通する悪い手癖を教えてあげる」
「ほう? そんなものがあるとは初耳だな。是非とも聞かせてくれ」
アルハイゼンはまだ僅かに憤りを燻らせていたようだが、その笑みを見て調子を合わせ、興味津々といった様子で手を差し伸べる。
自分達が正式に結ばれるまでに乗り越えねばならない困難は数あれど、彼はどんなことがあろうとも決して諦めるつもりはなかった。
今はまだその時ではない――彼女がそう言うのであれば、己に出来るのはただ待ち続けることのみ。
待つのはもう慣れている。その忍耐が実を結びさえするのなら、どれだけ時間がかかろうとも構わない。
眠れなくとも朝が来るように、いつかは必ず望む通りの未来が訪れると本能で知る男は、柔らかな眼差しで"恋人"を見つめるのだった。
Réunir
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