短編集
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「痛ったぁ! あー…やらかしたなぁ。包帯とか今日持ってきてないよ」
空元気でそう独り言ちて、負傷した足に視線を向けすぐに逸らす。目で見るだけでも気が滅入るその怪我に、少女は己の失態を嘆く。
彼女が今居る場から動けなくなったきっかけ。それは、自身の命そのものにも等しい宝玉こと神の目を谷底に落としてしまったことから始まる。
茨に阻まれた道を強引に通り抜けようとして、尖った先端に運悪く引っ掛かった留め具が外れ、どこまでも転がり落ちていくそれを夢中で追い掛けた結果がこの絶体絶命の状況だった。
「アーカーシャは…ダメか。参ったな…」
スメールの民として常に身に着けている耳元のアーカーシャ端末を起動させようとするも、滑落の衝撃から一時的なエラーを起こしていることを知る。
一縷の望みを断たれた悲愴にその身を震わせ、彼女の思考は加速度的に悪い方へと進んでしまう。
「…このまま誰にも見つけてもらえなかったら、ここで死んじゃうのかな」
自己嫌悪による極まったマイナス思考からネガティブな想像が脳裏に過ぎり、不意に絶望が漏れ出す。
命を救われた筈の神の目を守る為に逆に窮地に陥ってしまった今の彼女にとって、死という恐怖は最も身近なものとなっていた。
「それは嫌だな…まだやり残したこと、沢山あるもん。死にたく…ないよ」
蒼白の輝きを放つ命の源たる宝玉を両の手で強く握り締め、生への渇望を口にするサージュ。
たとえ弱々しくとも、負の悪循環を引き起こす思考を遮る為には無理にでも声を上げ続けなければと、半ば無意識に彼女は歯を食い縛った。
「クラクサナリデビ様の為に何も出来てないし、読みかけの本もいっぱいある。栞は模写ばっかりで押し花は全然増やせてない、稲妻の狐もこの目で見てない。それに…」
思いつく限りのやり残したことを指折り数えながら呟いて、ふと浮かんだ顔に思わず口許を覆う。
それからゆっくりと生唾を喉を鳴らして飲み込んで、彼との別離を現実のものにさせまいと、痛む足首に力を込めた。
「アルハイゼンに何も言えないままお別れなんて、絶対ダメ…ッ!」
両手と負傷していない方の足、三点を支えにふらふらと立ち上がり、動かない側を引き摺って前に進む。
意地だけで身体を動かしたのは火事の怪我から復調した頃以来だと懐かしさを覚えつつ自嘲して、どうにか身体を休められそうな切株の元まで辿り着く。
「ここなら、足に負担掛からなさそう…よいしょ」
切株に腰を下ろし、痛みの和らぐ姿勢を模索する。心とリンクするかの如くどんよりとした曇り空を見上げ、誰かが通り様に助けてくれるのを祈るか、自然治癒に任せるかのどちらかしかないと溜息を吐いた。
「はあ…どうしよう。魔物の気配がないだけまだいいけど、人が通るような場所じゃないし」
激痛から気を逸らすように周囲を見渡して、即座に身の危険が訪れることはないと確かめる。
しかし裏を返せば騒音を起こして助けを呼ぶことも儘ならない完全な孤立無援ということでもあり、進退窮まった状況に途方に暮れるしかなかった。
「…」
何度目かの溜息を吐こうとして、徒に体力を消耗するだけだと気付き寸でで堪える。
生き延びる為の食料も水分もそう多くはない現状、少しでも身体を休め回復に努めるべきだと考え直したサージュは、立てた膝に額を乗せて目を閉じる。
微かな風の音が奏でる草木の揺らぎに耳を傾けていると、やがてどこからか土を踏む音が聞こえてくる。
意識を集中させて音の詳細を聞き分けて、それが獣ではなく人間の靴音であると確信した少女は、利き手の傍に密かに法具を発現させる。
弱った獣を狙う狩人や、今の自分のように負傷した愚者を獲物とする追い剥ぎの類であれば、容赦なく返り討ちにするつもりで法具に元素力を込め、そして。
「サージュ」
男は少女の警戒を解くべく努めて柔らかな口調で名を呼び、草花を掻き分けて姿を見せる。何を思うか知れぬ翡翠の瞳は、ただ静かに彼女を見据えていた。
「え、あ…アルハイゼン…? 嘘、夢でも見てるのかな私」
一方、少女は再会を願いこそすれど予想だにしていなかった相手の出現に困惑し、目の前の光景が都合のいい夢ではないかと頬をつねる。
そうして挙動不審な行動を取る少女に軽口を叩きつつ、アルハイゼンと呼ばれた男は逸る想いを抑えて傍へと歩み寄った。
「スメール人は夢を見ない、君はそんな常識さえ忘れたのか」
「まさか。それくらいビックリしたってことだよ」
「俺からすれば、どういう状況に陥ったらこんな大怪我をするかの方が驚きだが」
強がりから身を捩り隠し通そうとした傷を的確に見抜き、有無を言わさず彼女の足を引っ張り手当てを始める。
剥き出しになった擦過傷に惜しみなく消毒液を塗布され、少女から声にならない声が零れた。
「うぁッ…!」
「我慢しろ。生半可な応急処置は、逆に怪我の回復を妨げる」
玉のような汗を浮かべて呻くサージュを諌め、慣れた様子で包帯を巻いていく。
治療を受ける間、痛みから気を紛らせるべく少女は思慮に耽る。彼の所属は文字を司る知論派だが、何故専門外の筈の医学にも長けているのだろうかと。
そんなこと考えている内に、包帯を巻き終えた男が窮地から脱した安堵からか小さく息を吐く。
彼の手際の良さを呆然と眺めるしか出来なかった少女は慌てて謝意を告げるも、感謝も称賛も不要だと一蹴されてしまった。
「…ありがとう。すごいね、ビマリスタンでやってもらったみたい」
「礼はいい。どこぞの無謀な馬鹿の尻拭いで、こういった処置には慣れているだけだ」
一段と低くなった声音から、少女はそれが誰を指しているかを機敏に察知し、何も言えず押し黙る。
居た堪れなさから視線を逸らした一瞬の隙に軽々と抱き上げられ、焦燥から思わず悲鳴が漏れてしまった。
「って、ひゃあ…!?」
「騒ぐと傷に響く。大人しくしていろ」
眉を顰め、いつになく辛辣な口調で咎めるアルハイゼン。長い前髪に隠れ窺うことの出来ないその表情に、彼がどんな想いを秘めているかは読み取れず。
「ごめん。けど、急に抱えられたら…誰だって驚くでしょ」
「事前に言ったところで、君のような強情な人間は断るだろう。であれば、遠慮されるだけ時間の無駄だ」
「…」
一見尤もらしい、けれどあからさまに己の行動を決めつけた言い回しに、少女は微かな軋みを感じる。
歯車がどうにも噛み合わないと思うのは、彼が自分ではなく、かつて慕った"先輩"の影を見ているからだと気付いてしまい、悔恨と憤怒、そして嫉妬――言葉だけでは表しきれない複雑な感情が入り交じる。
「私は…自分がピンチの時に差し出された救いの手を拒むなんて、そんな馬鹿なことしない」
男の抱く幻想を打ち砕く意図を込め、思考を否定すべく苦み走った表情でそう吐き捨てる。
命を救われる奇跡の重さを誰よりもよく知るサージュにとって、かの先輩が持つ孤高は、美徳ではなく愚行にも等しく見えていた。
「なら、どうして」
不意に、男の足が止まる。最後まで言葉を紡ぐことすら儘ならず立ち尽くすのは、少女が深手を負ったことそのものへの憤懣か、あるいは。
「怪我したのは自分の不注意。だけど、そもそも危険を冒す必要があったのは、これを失くしたくなかったから」
もう二度と外れないよう厳重に腰に括り付けていた神の目にそっと触れ、少女はそちらへ視線を向けたまま呟く。
生を繋ぎ止め、歩むべき道を示してくれた宝玉を失うことは、彼女にとって死と同義であった。
その心情を誰よりもよく知るアルハイゼンは、少女の身を抱える指先に力を込め、秘める激情を覆い隠して納得だけを伝え、再び一歩を踏み出す。
「…そうか」
「キミが怒ってたのは、私が先輩みたいに自己犠牲で怪我をしたと思ったからでしょう。安心して、私にはあんなこと出来ない。今までもこれからも、自分のことで精一杯」
敢えて二人が思い浮かべる"先輩"カーヴェとは違うことを強調して自嘲し、乾いた笑みを見せる。
それから徐に彼の首に腕を回し、抱き締めるような形で身体を密着させ、ゆっくりと瞳を閉じる。
「でも、助けてくれたのがキミで良かった。偶然でも嬉しかったよ」
瞳の奥から溢れる涙を堪え、伝えられる限りの感謝と喜びを声に出す。それを皮切りに緊張の糸が切れてしまい、ずっしりと重みを預ける。
そんな今にも深い眠りに落ちてしまいそうな弱り切った彼女へと、アルハイゼンは衝撃的な告白を口にするのだった。
「偶然ではない。俺が君を見つけられたのは、君の元素力を辿ったからだ」
「そう…なの? アルハイゼン、そんなことも出来るんだ…」
明かされた未知の才に驚きつつも、それまでの疲弊からか甘えているようにも聞こえる芯のない声で尋ねるサージュ。
だが男は静々と首を振ってその驚嘆を否定し、その技能は自分だけが持つ特権などではないと語った。
「これは俺個人の能力ではなく、元素視覚という技術によるものだ。やり方さえ学べば、神の目が持つ力の扱いに不慣れな君でも簡単に出来る」
元素視覚。神の目を持つ人間、ないし元素力を操ることの出来る者が行使することの出来る特殊な暗視状態を指す。
平時では感知することの困難な、元素を含む物質とその痕跡を視覚情報として与えられる優れた技術である。
アルハイゼンが人気のない谷底に落ちた彼女を迅速に発見出来たのは、この技術の賜物と言っても過言ではなかった。
「すごいね…神の目って、その元素の力を引き出すだけじゃないんだ」
「ああ。君自身の元素力との付き合い方も含め、素論派の授業に参加することをおすすめするよ。実践経験は出来なくとも、理屈を学んでおくことで今後の役に立つ筈だ」
神から与えられた力を余すことなく使いこなす男に感嘆を零し、サージュは自分がいかに未熟かを痛感する。
微かな悲愴を伴う声の機微に気付いた男は、彼女はまだ途上の最中にいるだけだと、柄にもなく熱の籠った慰めを伝える。
「えっと、ありがとう?」
らしくない饒舌さに、思わず少女の頬に色が灯る。意図が掴めない激励に困惑し、語尾に疑問符がついてしまった。
「何故そう懐疑的になる」
「アルハイゼンが熱弁するの、珍しいなと思って。もしかして、まだ怒って…」
不安げに問う少女への返答として齎されたのは、小さな舌打ちとこれ以上ない程の大きな溜息。
威圧感に怯え肩を跳ねさせた彼女を宥めるべく、男は本心を隠し慎重に言葉を選びながら持論を説く。
「俺は最初から怒ってはいない。 …ただ、間違いを正さずにはいられなかっただけだ」
雲に覆われ今はその姿を見ることは出来ず、大まかな位置だけしかわからない太陽を見上げそう零す。
「君はまだ子供だからわからないだろうが、大人になるにつれ…人は自分の過ちを認められなくなっていく。そうして凝り固まった思考のせいで取り返しのつかないミスを起こすことがないよう、"先輩"からの助言だとでも思ってくれればいい」
冗談交じりに微笑を浮かべ巧妙に誤魔化して、それ以上は何も言わず急ぎ足で歩き始める。
それがかつての失態からの自嘲であることには気付くことなく、サージュは改めてこの知論派の先輩との関係を見つめ直す。
「…そっか。普段意識してなかったけど、アルハイゼンも私からすれば先輩…なんだよね」
「不満があるのか?」
「ううん、そんなことないよ。ただ私にとって"先輩"って言葉で思い出されるのは、どうしてもカーヴェ先輩が最初になるから…ちょっと不思議な感じ」
戸惑っているようにも見える少女に揶揄い半分で問い掛けて、慌てて否定する様を楽しむアルハイゼン。
入学してからの年月などという、覆しようのない些末な上下に彼女が一切執着していないことを密かに喜びつつ、これまで通り接するように求める。
「ならいい。俺自身は特にその呼称には固執していないから、今後も好きに呼んでくれ」
その希求を躱すように敢えて額面通りに受け取って、少女が身を起こし悪戯心に満ちた笑みを向ける。
「じゃあ、アルハイゼン先輩って呼んでもいいの?」
「!」
嬉々とした表情と輝く眼差しが眩しくて、心臓が跳ねる程の動揺を隠しきれず彼女から顔を背ける。
しかしここでその呼び方を拒むことは羞恥を暴露するも同然で、男は懸命に平静を装いどうにか肯定を口にする。
「…最初に好きに呼べと言ったのは俺だ。前言撤回するつもりはないよ」
今後永劫に"先輩"と呼ばれ続けるリスクには目を瞑り、意固地になって再び了承を告げる。
彼が実際には照れているのを見抜いたのかは定かではないが、サージュは肩を震わせて二度目はないと首を振ってみせた。
「ふふっ、冗談だよ。だってただでさえキミは名前が長いのに、そこに先輩ってつけたらもっと長くなっちゃう。呼びにくすぎるから今まで通りが一番いい」
鈴を鳴らすような笑みからなる当然の帰結に、情緒を乱され続けている男が眉を顰め密かに歯を食い縛る。
だが彼を狂わせた当の本人はそういった一般男児としての葛藤など露知らず、無邪気に同意を求める。
「アルハイゼンもそう思うでしょ?」
「人の名前に文句をつけるな」
求められた同調には一切の反応をせず、それまでの苛立ちを露わにするかの如く、彼女の何気ない侮辱を咎める。
言語と文字を司る知論派に属する身として、人が与えられた名を軽々しく扱うことに含むところがあるようだった。
「っ…ごめん、悪気はなかったんだけど」
「だとしたら尚更質が悪い。俺は然程気に留めないが、だからといって誰もが同じとは限らない。無自覚な言葉の暴力は、君自身の不利益にも繋がる。今後は控えた方がいい」
堰を切ったように早口で、けれど努めて淡々とした声音で捲し立てる。少女は叱責に俯いて、自戒を零す。
「ん、わかった…気をつける」
肩に顎を載せ、少女は消沈した様子で過ぎ行く景色を眺める。人に運ばれながらという新鮮さに目を細め、自然と笑みが溢れる。
そしてそこでようやく今の状況を思い出し、顔から火が出そうな程に全身が熱を帯びる。
適切な治療の甲斐あって足の痛みも忘れかけていた彼女は、非効率的なことを何より嫌うアルハイゼンが当たり前のように自分を抱えたまま帰路を目指していることに気付き、増幅する緊張に生唾を呑み込む。
「…あのさアルハイゼン。腕、疲れてこない? 大丈夫…?」
意を決して声を上げ、長時間の横抱きとその状態での歩行による疲労を慮るサージュ。
問われた男は今は平気だと答えつつ、全く休むことなくスメールシティまで歩き続けるのは不可能だと微笑する。
「まだそこまで問題はないが…流石にどこかで休憩する必要はあるだろうな」
「じゃ、じゃあさ…そこの木陰で降ろしてよ。痛むのは片足だけだし、肩さえ貸して貰えれば歩けるから」
次第に気恥ずかしさが勝り始めた少女が、適当な場所を指してそこからは自分の足で歩くと豪語してみせる。
しかし彼は一見真っ当にも思える提案にも頑なに首を縦には振らず、休息を挟むことなく強行し続ける。
「却下だ。無理をして後遺症が起きる危険は極力排除したい」
「でも…」
「心配は要らない。体力には自信があるし、もし腕が疲れても抱え方を変えればいいだけだ」
このままずっと抱えられたままでは居られないと伝えようとするも、その反発を悟ったアルハイゼンはそっと微笑んで、やんわりと彼女を遮る。
「…ッ、恥ずかしいから降りたいの!」
どこまで本気か知れぬ強情さに痺れを切らし、秘めていた羞恥心を叫んでは、無理矢理にでも逃れようと身を捩る。
こうなってしまえば最後、言って聞く従順な娘ではないことをよく知る彼は、手のひら返しですんなりと少女を下ろす。
「そうか。なら好きにするといい」
「ん」
ゆっくりと大地に降り地に足を着けた瞬間、立っていることすらやっとの激痛が襲い来る。
苦悶に顔を歪めるサージュの半身を支えつつ、男が改めて意志を問うと、彼女は間髪入れずに否を返した。
「それで、その調子で本当に歩けるのか?」
「無理」
「だろうな」
想定通りの反応だと頷いて、再び横抱きにしようと身を屈めると、少女は慌ててそれを制止して男の背中に手を伸ばす。
「ま、待って…今度はこっちがいい」
それまでのように抱えるのではなく、次は背負ってくれと、真っ赤に染まった頬で懇願する少女。
半目でこちらを見る瞳からは微かに涙が滲んでいるようにも見えて、余程屈辱的だったのだろうと悟った男はそれ以上揶揄うことなくすんなりと希求に応えた。
「わかった」
肩に腕を回させ、手際良くサージュを背負う。先刻と比べ体勢が変わったことで起きる不都合がないか問うと、彼女は安堵の息を零しながら問題ないと答えた。
「足の痛みは平気そうか?」
「なんとか。ありがとう、我儘聞いてくれて」
背中越しに謝意を告げ、緩やかに重みを預けていく。互いに顔が見えないこの状況は、少女の緊張を解くには充分過ぎる安堵を与えていた。
「アルハイゼンの背中、大っきいね。すごく…安心できる…」
そのまま彼女はすとんと眠りに落ちてしまい、背後から規則正しい寝息が聞こえてくる。
伝わる熱の温かさに慕情を抱くことなど知りもせず己に身を委ねる小さな身体に、男は深々と溜息を吐くしかなく。
「…はぁ」