スメールシティで、学院トーナメントの総括と表彰式が行われている頃。評論員としての役目をニィロウに任せ、アルハイゼンは
サージュと共にアアル村へと赴いていた。
二人の目的は勿論言うまでもなく、サーチェンがこの地に遺したという研究結果についての資料。
彼の残酷な"実験"に魅入られ、研究を継ぐ者が現れてしまう前にそれを見つけ出すのが、此度の彼らの使命だった。
「…」
恟々とした様子で、少女が村の景色を見渡す。余所者への視線が突き刺さる感覚に、寒さとは対極にある炎天下にも拘らず身震いしてしまう。
母の故郷であるこの村に訪れたのは、先日の試合を除けば何年振りのことだろうと、彼女は不安に押し潰されそうな想いを抱いていた。
「どうした?」
「ううん、大丈夫。サーチェン氏の記録、どこにあるんだろうね…」
訝しむ男の声に小さく首を振って、
サージュは燦々と大地を照らす太陽を仰ぎ見る。
深呼吸した後、ゆっくりと視線を下ろした先に見えた馴染み深い人影とその所業に驚いて、隣に立つ男と顔を見合わせた。
「おや? 貴方達もこちらにいらしてたんですね」
二人に気付いた女性は徐に手を挙げて、まるで何事も無かったかのように微笑みかける。
しかし少女はこの村のガーディアンである彼女が"罰を与えた"ことで項垂れる若い男性を無視することは出来ず、恐る恐る何があったのかを訊ねるのだった。
「あの、キャンディスさん、その人は…?」
「彼はシワニさん。以前アルハイゼンさんに頼まれた件で捕まえたのが、この方です」
「つまり、そいつがクラクサナリデビ様が警戒していた不穏分子ということか。その件では世話になった」
以前にこの村を訪れた際にも単独行動ばかりで他者への配慮の念を持っているとは思えない書記官の男が、素直な謝意を述べたことに一瞬だけ驚く素振りを見せ、キャンディスは身柄を拘束している若者の動機について語る。
「…ええ。どうやら…父親であるサーチェン氏の財産の所有権は自分にあるべきだと考えた結果、今回の大会を機に彼の襲撃を企てたようで。事件を未然に防ぐことが出来て、本当に良かったです」
彼女が何気なく語った、この若者と今大会に於ける最重要人物の意外な縁。その些細な手掛かりを逃すまいと、男は"交渉"を持ち掛けた。
「サーチェンの息子? なら、彼の遺した研究の成果がどこにあるか知っている可能性が高いな。少し借りてもいいか」
「ええ、それは勿論。あ、でしたら逆に、私も彼女をお借りしてもいいでしょうか。少し話したいことがありまして」
アルハイゼンからの希求を快諾しつつ、アアル村の守護者は取ってつけたように、交換条件として彼の隣に立つ少女を指す。
問われた少女自身は、己にとっての師であるディシアとも深い関係にある彼女の申し出を断る理由はないと、一歩前へ出て力強く頷いた。
「よろしくお願いします、キャンディスさん」
「交渉成立だな。一時間後に、改めてここで落ち合おう」
「私達も行きましょう、
サージュ」
男はキャンディスから引き渡された若者を立ち上がらせ、陽の当たらない暗所へと連れて行く。
残った二人も互いに顔を見合わせ、どこか落ち着ける場所で話そうと歩みを進め、少女は一歩遅れ追従する。
「それで、話ってなんですか?」
客人を歓迎する為に最も適した場として彼女の家に招かれた
サージュが、出された紅茶を啜りながら努めて明るい声音で訊ねる。
しかし緊張から額には気温の高さからではない汗が滴り、心臓の音が今にも静かな室内に響き渡りそうになっていた。
「少し前…あなたが突然倒れたと聞きました。その後の学院祭では大事には至らなかったようでしたが、本当に心配していたんですよ」
「うっ、それは…その。ごめんなさい」
無茶を諫めるキャンディスの悲愴に満ちた眼差しに、少女は一切の反論が出来ず、ぽつりと謝罪を零すしかなく。
「ってちょっと待って、どうしてキャンディスさんがそのことを…?」
罪悪感から俯いて、その後すぐに顔を上げ、誰に話した訳でもない筈の自分の不調を何故知っているのかと疑念をぶつける。
すると彼女は、少女の同行者である男が、サーチェン襲撃に関する不審者の捜索及び捕縛の件で自分達と接触した際に、密かに少女の不調を嘆いていたことを白状するのだった。
「ディシアからあなたの近況を訊ねられた彼が、呆れたようにそう零していましたから」
「え、アルハイゼンが…」
驚嘆から困惑する少女に深々と溜息を吐いて首肯し、琥珀と紺碧、異なる二つの煌めきを持つ瞳が揺れ動く。
「誰かの為に努力することそのものを責めるつもりはありません。ですが、もう少しだけでも…自分を大事にしてください」
耳が痛くなるような小言に、居た堪れなさから思わず視線を逸らしてしまう
サージュ。
その反抗を逃さず捉えた彼女は、駄々を捏ねる子供を𠮟りつけるように一段低い声音で問い掛け、そして。
「お返事は?」
「は…はいっ!」
有無を言わせぬ威圧感にびくりと肩を跳ねさせ、慌ただしく了承を答えつつ完全に委縮する。
逆らおうと考えることさえ出来ない気迫は亡き母を思い起こさせ、少女は憧憬に胸が軋む。
「どうしてだろう、まるで…お母さんに怒られたみたい」
逸る動悸を鎮めながら、既視感の正体を見つけられずそう呟く。するとキャンディスは近似しているのは偶然ではないと、少女の想像だにしない縁を語った。
「昔、あなたがまだ小さい頃…あなたの母親に、子供の叱り方を教えてくれと頼まれたことがあったんです。それで似ていると感じたのでしょう」
「…!」
そう言って、キャンディスは在りし日の光景を脳裏に浮かべ、彼女と瓜二つな姿に成長した
サージュへと微笑みかける。
優しい、否、優し過ぎた母が愛する娘の為にと身に着けた厳しさの起源、それがこの村の護り手だった。
「不思議ですよね、私自身もまだ未熟な子供だったというのに…ですが彼女は、本当に真剣に私の話を聞いてくれていました」
突然のことに思考が追い付かず、少女は開いた口が塞がらないまま呆然と、彼女が語る母について思慮を巡らせる。
柔和さと剛胆さの両面を併せ持つ彼女の微笑みは亡き母の面影と重なり、夙に忘れていた温かさが少女の胸の内に蘇る。
「
サージュ、私はあなたの母親の代わりにはなれませんが…それでも、あなたを心配する気持ちは他の皆さんと同じ以上に持っているつもりです。辛いことがあるのなら話を聞きます、助けが要るのであれば力になります。だからどうか、一人で抱えようとしないでください」
「キャンディスさん…ありがとう、でも…大丈夫」
感謝だけを告げ、しかし今の自分が話せることはそれ程多くはないと、彼女を大切に想うが故の葛藤が過ぎる。
忘れてくれと願う"彼女"の声に抗い、人々に先代草神が存在した記憶を呼び覚ますべきか否か。少女自身がその答えを見つけることは出来そうもなく。
「えっと」
それでも心配させてしまった手前、何か言わなければと、必死に他の話題を探すべく脳を回転させる。
けれども咄嗟に思いつくことと言えば、学院祭の話題を除けばアルハイゼンのことぐらいで、少女は急速に頬が熱くなるのを感じる。
浮ついた気持ちを払拭するように力強く首を振って、邂逅した当初の彼女が引き連れていた若者の表情を思い起こす。
「そういえば…さっきの人、凄く怯えていたような気がするけど…何したんですかキャンディスさん」
「大したことはしていませんよ。ただ最初はとてもお行儀が悪かったもので、少しお灸を据えたんです。そうしたら、それまでが嘘のようにお利口になってくれて」
一切嗜虐心のない純粋な眼差しからなる強硬手段に末恐ろしさを感じ、背筋に寒気が走る
サージュ。
必要とあらば強引な手を用いることを厭わない逞しさを賛美すべきか否を唱えるべきか逡巡しつつ、彼女の言葉に耳を傾けた。
「ですが、私から見れば…彼もまた、被害者の一人です。父親であるサーチェン氏のことについて、私は詳しく覚えてはいませんが、一番身近にいる大切な存在を放り出してまで、世の中を変えようとするなんて…順番を
違えているとは思いませんか?」
老父が身命を賭して完成させた研究をいとも容易く否定するのは、彼女が学者ではないからか、あるいは。
冠の危険性を重視するあまり、サーチェン自身の行動についての視野が狭まってしまっていたことを自覚した少女は、曖昧な相槌を打つしかなく。
「…そう、かもしれませんね」
砂漠と雨林の隔たりをこの身で受け続けてきた少女にとって、彼の成そうとした理想自体は、否定出来ない崇高なものだと感じていた。
しかしその為にカーヴェの父を始めとした大勢の人間を巻き込んだこと、息子である
若者との関わりを根絶したことは、擁護しようのない愚の骨頂と言わざるを得ず。
彼と同じ因論派に籍を置き歴史に学びを得てきた者として、自分には何が出来るのか。改めて考える必要があると気付かされ、言葉を失ってしまう。
「さて、アルハイゼンさんとの約束の時間も迫っていますし…重たい話はこのくらいにしておきましょう。
サージュ、今度ディシアも一緒に…三人でショッピングにでも行きませんか?」
「ショッピング…ふふっ、いいですね。グランドバザールには馴染みのお店が沢山あるから、案内しますよ」
陰鬱な空気が流れたままの別離を嫌ってか、キャンディスが唐突に女子会の計画を持ち掛ける。
抱えている悩みを全て解決するには至らずとも、気分転換にはこれ以上なく適しているだろうと少女は快諾し、笑みを浮かべて頷いてみせた。
「ええ、是非お願いします」
それまで幾重にも寄せていた皺が解れ、
サージュの憂いが多少なりとも晴れたのを見て、彼女は笑みを返す。
「じゃあ、そろそろ行こうかと。お茶、ごちそうさまでした」
「
サージュ。今度の約束とは別に、またいつでもアアル村に来てくださいね。私達はいつでもあなたを歓迎しますよ」
時計の針が間もなく一周するのを確かめ、もてなしの謝意と共に退去の意を告げて少女はゆっくりと立ち上がる。
数刻だけ引き留めた彼女の言葉に込められた彼女なりの優しさに、一瞬だけ瞳が潤みそうになりながらも懸命に堪え、得られた幸甚を噛み締めた。
「…うん。ありがとう、キャンディスさん」
キャンディスの家を出た少女を、身を焦がしかねない程の輝きを放つ太陽が照らしつける。
それまで茶を飲んでいたばかりだというのも忘れて存分に水を浴びたいとさえ思わせる灼熱に、少女は半ば無意識に氷元素の力を放っていた。
「暑いな…この前の試合の時みたい」
肌の熱を冷まし、元いた場所へ戻りアルハイゼンを探す。丁度彼も用件を済ませて合流しにやって来たところだったらしく、向かい側から歩いてくる姿が見えた。
「待たせたな」
「ううん、私も今来たばかりだから気にしないで」
そうした儀礼的なやり取りの後、男は早々に踵を返し、少女に着いてくるよう目配せする。
少女はその視線の意図を素早く察知し頷いて、無言のまま早足で歩みを進める彼に追従する。
暫く歩いた先、男は木陰に置かれた木箱にどっかりと腰を下ろし、片膝を立てもう一方へと足を載せ腕を組む。
それから徐に
サージュの顔を見上げ、彼女にある意味で衝撃的な言葉を告げるのだった。
「サーチェンの研究に関して、俺が想定していたよりも彼の持つ情報は少なかったが…彼が幼少時代に体験したことについては、俺達にとってサーチェンの研究そのものよりも、遥かに価値がある話を聞くことが出来たと言えるだろう」
「…なんて言ってたの?」
「かつて彼は、一人きりで部屋に籠っている筈の父が"得体の知れぬ女性の声"と話しているのを耳にしたことがあるそうだ」
女性の声、そう聞いた少女の瞳孔が大きく見開かれる。そしてそれと同時に、微かな動悸が彼女を襲う。
「言うまでもなく、君が以前俺に打ち明けてくれた"彼女"のものだろう」
神妙な面持ちで首肯して少女の心拍の上昇も尤もだと認め、続く言葉を熟考すべく正面に向き直る。
少女が才識の冠に影響を受けたことで思い出した、世界から抹消された存在となった先代草神。
自分を含めた誰の記憶からも抜け落ちてしまった"彼女"について、男の持つ情報は依然として不足していた。
「…」
ふと、以前エルマイト旅団から回収した神の缶詰知識が収蔵する知識の"神"が誰を指すのかという疑念が過ぎる。
これまでであれば、それは唯一の草神であるクラクサナリデビのものだと迷う余地はなかった。
だが
サージュにより先代草神が過去に存在していたことを確信した今、その前提は覆されることとなってしまう。
更に言うならば、長らくスラサタンナ聖処に幽閉され外界から遮断されていた純粋無垢なあの若草から、触れた者を狂人に貶めるような情報が抽出され得るとはどうしても思えず、浮かび上がって来た矛盾に眉を顰める。
「
サージュ」
少女の名を呼び、その瞳を真っ直ぐに捉える。それから小さく息を吸って意を決し、長い間意図して避け続けてきた話題に触れる。
「どうしたの、急に改まって」
「君は…神の缶詰知識、という物の噂を聞いたことはあるか?」
「あるにはあるよ。でもただの比喩表現の一種だと思ってたな。けど、キミのその口振りからすると…普通の缶詰知識とは明確に別物っぽいね」
真摯な眼差しに応えるべく問い掛けに首肯して、少女は彼の表現の仕方から"物"の正体が自分の想定とは異なっていたことを悟る。
骨の髄までクラクサナリデビに依存していると言っても過言ではない彼女がそれを求めない理由はないだろうと半ば確信を持っていたアルハイゼンは、敢えて挑発的な口調で更なる問いを重ねた。
「そうだ。草神様が持つ智慧の結晶たる缶詰知識…君にとっては喉から手が出るほど欲しい代物だと思うが」
「…うーん。そうでもない、かな」
深々と息を吐いて、少しだけ悩んでから出した答えは、男の予想に反して意外にも否であった。
学者にとっては劇物にも等しい缶詰知識への恐怖にその身を抱き、自分には過ぎたものだと苦笑する。
「もし現物が目の前に現れたとしても、多分私は使えないと思う。普通の缶詰知識でさえ怖くて手が出なかったのに、今となっては誰のものかもわからない知識を頭の中に流し込むのは…ものすごく勇気が要るよね」
微かに肩を震わせ、眉を下げる少女。男は共に同じ疑問に到達していたことに幸甚を抱きつつ、
サージュの見解を確かめる。
「君はこの"神"が、クラクサナリデビ様を指すものではない可能性があると?」
「うん。マハールッカデヴァータ様の意識が才識の冠の中に眠っていたってことは、もしかしたら神の缶詰知識も同じように…クラクサナリデビ様じゃなくて"彼女"の記憶が詰められたものかもしれないなって」
現物をその目で見ていない筈の彼女の推測が、想定よりもずっと真理に近いことに内心驚くアルハイゼン。
なら今ここでそれを見せれば、想像による仮定は確信へと変わるのではないか。絶対的な信頼を胸に秘め、彼は隠し持っていた器を懐から取り出してみせた。
「アルハイゼン、それ…まさか」
「ああ、そのまさかだ」
草元素の象徴たる緑ではなく、まるで鮮血を吸ったかのような真紅に染まった缶詰知識。
緊張から生唾を呑み込んで、少女は初めて見る筈のそれが持つ既視感の正体に気付き、恐れていた想定が現実となったことに声を震わせた。
「じゃあ、間違いないね。前に倒れた時に見た夢の中で、それと同じ…真っ赤な缶詰知識が地面に転がってた」
「つまりこれは、先代草神の記憶が入った缶詰知識ということになるな」
唇をそっと食みつつ逸らせぬ瞳を閉じて、
サージュは彼の言葉を無言で肯定せざるを得なくなる。
「だとすれば、俺達では手に負えない代物である可能性が高い。これの危険性を確かめるには、旅人の助力を得るしかないようだ」
少女のこれ以上なく大きな嘆息を以て、男はこの件の追究については、理外の存在である旅人に協力を仰ぐ以外に方法はないという結論に至る。
平時に於いては未知に対する恐怖を殆ど持たぬ彼にとっても、自分が廃人と化してしまうリスクは相応に重く、正しく畏れを抱いているのが垣間見えた。
「…そう、だね。噂をすれば、って具合に丁度向こうから来てくれたし、これを機に…色々話したいな」
偶然か必然か。呼び寄せたかの如く姿を現した二つの影を見据え、少女は何から話すべきかを熟考し始めた。
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