概要+短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
まだ陽も昇らないような暗がりの中、少女の身につけていたアーカーシャ端末を通して悲痛な叫びが静寂に響き渡る。
通話の相手は彼女の数少ない友人の一人、カーヴェ。立場上は先輩にあたり、彼女も一応の敬称を付けて呼びこそしているものの、その関係には上下の境などなく。
「サージュ、大変だ! 助けてくれ!」
「んうぅ…カーヴェ先輩…なに?」
寝ぼけ眼で応答し、青年の慌てた声を聞くサージュ。眠りを妨げられた苛立ちの籠った問い掛けにも構わず、彼は自らの焦燥を伝える。
「アルハイゼンが風邪を引いたんだ!」
突拍子もない宣告に、少女が取った行動は沈黙。あのアルハイゼンが病に臥せる姿など、彼女には想像もつかなかった。
起床から間もないこともあり理解が追いつかない彼女に焦れたカーヴェが、更なる叫びを上げる。
「本当なんだ、嘘じゃない! とにかく早く来てくれないか、僕一人では心細いんだよ」
「はぁ、それは大変そうで。 …って、は?」
雑にも程がある適当な相槌で誤魔化そうとして、思考がようやく巡ってきた少女は事の重大さに気付く。
「アルハイゼンが…風邪?」
「あぁ、病気とは無縁そうなあいつが、だ」
「待っててカーヴェ先輩、すぐ行くから!」
通話を切断し、目にも止まらぬ速さで布団から出て身支度を整えるサージュ。連絡を寄越したカーヴェ以上に、彼女の胸中は不安と恐怖で一杯だった。
かけがえのない友人の一人であり、更にそれ以上の想いを抱く相手の一大事に、逸る気持ちを抑えることは困難だった。
いつだったか蔵書を借り受ける際に訪ねたアルハイゼンの住居への道程を、息が切れるのも構わず自らの持てる全速力で駆ける。
「アルハイゼン!」
鍵の掛かっていない扉を叩きつけるように開き、家主を探す。彼の居場所は当然ながら寝室で、その姿は一瞥しただけでは見えず、彼女は騒音と共に自身を呼び出した青年の元へ駆け寄る。
「先輩、アルハイゼンは大丈夫なの?」
「あぁサージュ! さっきからずっとこんな調子なんだ」
先輩の姿を見るや否や、サージュは男の容態について問い掛ける。その語気は強く、悲愴を覆い隠すべく虚勢を張っているのが彼にはよくわかった。
慌てるばかりで仔細を理解していないカーヴェは自分が説明するより見た方が早いと彼女を案内し、少女は導かれた先で布団に籠る男へ声を掛けた。
「アルハイゼン、調子はどう…?」
「煩い…放っておいてくれ」
頭まで被った布団の中から、拒絶の意志を露わにするアルハイゼン。愛用のヘッドホンはカーヴェが外したのか就寝時は着けないのか枕元に置かれており、ダイレクトに伝わる喧騒を苦痛に感じているのが見え隠れしていた。
来て早々帰れと言わんばかりの無情な宣告を口にする彼だが、素直に引き下がるサージュではなく、強引に頭を引きずり出して額に手を宛てる。
予想通りと言うべきか、伝わる温度は焼け焦げてしまいそうな程に熱く、魘される男の苦しみを想起し彼女自身も胸が痛んだ。
「そうはいかないよ。わ、すごい熱…カーヴェ先輩、氷作るから待って」
解熱の為の氷を用意しようと立ち上がろうとする少女を、布団から伸びた腕が引き留める。
「…必要、ない。君の手が充分冷えていた、それで…いい」
「えっ? んと…」
熱に浮かされながらも少女を求めるアルハイゼンに、娘は羞恥混じりに困惑と不安の表情を浮かべる。
助け舟を求めてカーヴェの方へ向くと、彼は事情を察したらしく留まるよう提言し、彼女が座る為の椅子を寝台に寄せる。
それから材料を取りに、カーヴェはヒラヒラと手を振りながら寝室を出て行った。
「病人の頼みだ、聞いてやってくれ。冷やす為に使えそうなものは僕が準備して来る」
カーヴェが扉を閉め、二人きりの空間に残される。手を額に載せ続けるしか出来ず手持ち無沙汰になった少女に、病のせいかいつも以上に辛辣な彼が吐いた言葉は。
「暑い」
「ごっ、ごめん。手の甲なら少しマシかな」
「…ああ」
苦言に従いサージュが手を返すと、歪んだ眉間が僅かに和らぎ、寝息も柔らかなものへと変わっていく。
垣間見えた首筋から滴る汗に、彼女は自分のハンカチを手に取るが、布団を引っ被る彼の返事は芳しくないものだった。
「汗すごいね…身体拭こうか」
「断…る、出ると余計寒気が増す」
駄々を捏ねる子供のような声に、少女は八方塞がりの現状を密かに胸中で憂う。
自分がもっと積極的であれば強引に布団を剥がして汗を拭えたかもしれないが、嫌がることでも強制する勇気を今の彼女は持ち合わせていなかった。
「じゃ、じゃあ何か食べる? スープくらいなら作れ…」
気を紛らわせようと、食欲の有無を問う。料理に自信があるわけではなかったが、助けになれればという一心で少女は藁にも縋る想いで尋ねる。
しかし願いは虚しく、最後まで言葉を紡がせてすら貰えず否定されてしまう。
それは弱味を見られ苦悩に苛む彼なりの強がりだったが、彼女にはアルハイゼンの真意を知る術はなく、消沈し俯くしかなくなる。
「何も要らない。こんなもの…寝れさえすれば治る」
「…わかった」
そっと額から手を離し、自らも去ろうと腰を上げる。自分がここに居ては眠りの妨げにしかならないと、そう思い込んで。
「サージュ。何処へ行く?」
だが、虚ろな瞳でサージュを見つめる男の弱々しい声は、彼女がこのまま立ち去るのを許さなかった。
「私が居たら落ち着かないと思って。うるさくしてたのは事実だし…」
「あれは…頭の中でカーヴェの声と混在していたせいだ。君に言ったものじゃ…ない。すまない」
開口一番に告げられた非難の言葉は、騒ぎ立てていた隣人へのものだと非を詫びるアルハイゼン。
混濁した意識の中では、どちらがどちらかなど判別出来なかったのも無理はない。が、少女はそれで自分を呼んだ彼が一人悪者扱いされるのも嫌だと首を振る。
「謝らないで、私にも非があるから」
「…あいつを庇うのか」
「そりゃね。キミを心配する気持ちは同じだもん」
カーヴェが居なければアルハイゼンのピンチに駆けつけられなかったのだと擁護しつつ、その先輩の帰還の遅さに違和感を抱く。
そんな彼女の不安を杞憂に変えるが如く、彼は扉越しにか細い声を上げる。どうやら両手が塞がり、扉を自分で開けられないようだ。
「サージュ、戻ったぞ!」
内側から扉を開けてやり、大荷物で戻って来たカーヴェを迎え入れる。氷枕を作るには些か大仰すぎる準備に、少女は頭を抱えたくなる気持ちを抑え感謝の意を示す。
「えーと…ありがとう、カーヴェ先輩」
「ああ! 最後の仕上げは任せた」
満面の笑みで、カーヴェは水の入った袋をサージュへと手渡す。
彼女の持つ神の目が宿す元素は氷、この力の恩恵により温暖な気候にあるスメールに於いても容易く氷を作り出すことが出来る。
普段は草神を敬愛しすぎるがあまり自らが持つ力を嘆く少女も、今日ばかりは氷元素の使い手であることに喜びを感じていた。
水枕へ氷元素を吹き込み、凍結反応を発生させる。それはシンプルながらも完璧な氷枕の完成を意味していた。
「これでよし。アルハイゼン、枕こっちに変えるから頭上げて」
少女が枕を取り替えるべく、男の頭を支えようと手を出す。だが、彼はその僅かな動きすら苦痛だったのか単に横着したのか、頭を枕から浮かせるのではなく身体ごと布団に沈み込むことで回避する。
「…そう来るかあ。まいいや、はい」
過程はどうあれ枕を取り替えることに成功し、アルハイゼンがサージュの合図と共にスッと頭を戻す。
妙にスムーズなその所作に、横から見ていたカーヴェが青年の奇行に耐えかねて噴き出していた。
「何だかキノコ叩きのキノコみたいだな」
「誰が…キノコだ…」
青年は不当な表現にすかさず反論するが、その口調には覇気がなく、相応に衰弱しているのが見て取れた。
「サージュ。改めて…助かった」
少女の面持ちは今にも涙が零れそうに陰鬱で、見えない雫を拭うようにアルハイゼンが頬に触れる。
病人に慰められるのは偲びないと、サージュはその手を取って彼を安心させるべく懸命に微笑む。
「キミの為なら、このくらいなんてことないよ」
「おい、僕には何もなしかい?」
「…あの程度の功績で、俺に感謝の言葉を求めるのか、カーヴェ。寧ろ今の状況なら…俺が君から感謝されるべきだと、そうは思わないのか」
二人の世界に入られては困ると口を挟むカーヴェに、氷枕の冷たさを受け僅かに普段の調子を取り戻した男は彼らにとってとんでもない言葉を投げる。
物事の機微に鈍感で謀略などとは無縁な少女でなければすぐにでも察知してしまいそうな事実にアルハイゼンが触れずにいることに、金髪の青年はようやく気付いたようだった。
「ああ…っ。確かにそれはその通りだ。すまないアルハイゼン、病床に臥しながらも僕を気遣ってくれていたんだな」
「え、何…? どういうこ…」
彼らの話していることが全く理解出来ない少女が、狼狽した様子で二人を交互に見つめる。
しかしアルハイゼンは発熱からか顔を顰め答えてくれず、青ざめている本人もこれ以上詮索されるのは危険だと、手を引いて無理矢理に部屋から彼女を追い出してしまう。
「君は知らなくていいことだ、サージュ! さあ、彼の為に食事でも作ろうじゃないか」
「ちょっ…カーヴェ先輩?」
「ゆっくり休んでくれアルハイゼン。また後で」
説明する間もなく強引に引き離され、キッチンに連れられたサージュがそうした張本人へと直談判するが、彼の目的はそこにはなく。
「さっき食欲ないって本人が…」
「あれは口実だよ。これ以上アルハイゼンと話していると、どんなことを吐かれるかわかったもんじゃない」
家主とは対称的な金糸の髪を持つ青年が抱える秘密。それは、彼もこの家に暮らす一人だという事実。
ルームシェアと言えば聞こえはいいが、その関係は決して対等なものではなく、アルハイゼンの生活に彼が一部を間借りしているような形であった。
当然その歪な上下関係に先輩であるはずのカーヴェが負い目を感じないはずもなく、教令院に居る知人友人に知られることを恐れていた。
にも拘らず今日は喫緊の問題に直面した結果、それら一切を気にかけることなくサージュを呼んでしまい、彼は先輩としての威厳が地に落ちる不安が膨れ上がっていた。
「何だか今日の先輩、いつもより変だね」
挙動不審な先輩に、思わず本音が漏れる。しかしその指摘は疑いようもなくれっきとした事実で、その表現を頭ごなしに否定するわけにはいかず。
「それは否定できない…って、普段から僕がおかしいみたいな言い方はしないでくれ」
「いや、事実いつでも変な人だからなぁ」
「なっ…!」
病人が隣室で寝ているのも忘れ、激昂に叫びを上げそうになるカーヴェ。震える拳を見た少女が口元に指を立て制止して、ようやく彼は苛立ちを鎮める。
アルハイゼンも自分も教令院でも稀有なレベルの奇人であることは身に染みてわかってはいたカーヴェだが、やはり真正面から指摘されるとそのダメージは大きいようだ。
尤も、それを口にしたのが彼らと同等以上に変人とされるサージュだから、という条件は加味すべきとも言えるかもしれない。
スメールの多くの民にとってクラクサナリデビは存在意義さえ疑問視されており、そんな神を狂信する彼女が奇異の目で見られない筈もなく。
「…まあいい、とにかくこれでアルハイゼンの方は一件落着だろう」
進んで墓穴を掘りに行ったとしか思えぬ言い回しがもたらす違和感を逃さず、少女はニコリと微笑む。
邪念の一切ないその無垢な笑みに、彼は大きく嘆息を零す。このままでは、自分の秘密が暴かれるのも時間の問題だと諦めに近い感情を抱き始めていた。
「うん。じゃ、もう一方の問題について話そっか」
「どうしても逃げさせてはくれないんだな…」
用もなくキッチンで立ち話するよりは、とカーヴェは再び場所を変えるべく今度は彼女をリビングへと招く。
「それで、カーヴェ先輩」
リビングに誂えられたソファの中心に座り、少女が前のめりで首を傾げ、先輩と呼んだ青年を見つめる。
全てを見透かしているかのような眼差しに、彼はどう言繕うのが正解だろうかと頭を悩ませる。だがそんな苦悩など完全に無視して、サージュの笑みは的確に心臓を貫いた。
「どうしてアルハイゼンの容態が悪くなったことに直ぐ気付いたの?」
「うっ…そ、それは…そう! たまたまだ。偶然用があってあいつを訪ねたら…」
偶然を装う、という単純明快な弁明。それは状況を知らぬままのサージュになら通用したかもしれないが、ある程度平静を取り戻している彼女は更なる追及を重ねる。
「なら、妙に沢山持って来た看病道具はどこから? もしあの量を常日頃持ち歩いてるとしたら、先輩はアルハイゼンより筋肉質になってそうだよね」
氷枕を用意した際に持ち込んだ大量の荷物を思い起こし、それらをどこから持ち出したか尋ねる。
明らかに必要ないように見える物資も、確かにいくつかあるには有った。が、殆どは病人に使うに相応しいものばかりであり、あれが全て彼が持ち歩いていた荷物とは少女には到底思えなかった。
「…僕も脱いだらそこそこあるぞ」
「や、興味無いです。セクハラやめてください」
「あのなぁ…!」
突き放す意図を含んだ、敢えての敬語。誤魔化しにもならない冗談が後から気恥ずかしくなった彼の声は拳と共に震え、自分も布団に篭もりたいと感じていた。
「大マハマトラ並の冗談はともかく。ここに住んでるのを隠しているつもりなら意味ないよ、先輩」
「君も知ってたのか」
幾重にも残酷な宣告による諦念から、遂に弁解することを止めそう零すカーヴェ。
項垂れる青年を一瞥し、少女は彼の状況が想定している通りだと確信していた訳では無いと語る。
「今日まで確証はなかったけど、多分そうかなって。酔った先輩を毎回アルハイゼンが連れて行くなんて不自然すぎだしさ」
友人間で酒を酌み交わした際、最初に酔うのは決まってカーヴェだった。彼は人一倍酒に弱いのに、人一倍酒を飲む。
そんな青年を人情味の欠片も持ち合わせていない筈のアルハイゼンが介抱するなど、サージュにとっては、否、誰が見ても違和感しかない姿だった。
「…返す言葉もない」
「まあ、私は感謝こそすれ、文句を言う権利はないから。そもそも別に隠すことでもないと思うけど」
青年が共に暮らしていたからこそ、彼の窮地にいち早く気が付けたのだと、彼女は二人のルームシェアに関してはかなり肯定的な素振りを見せる。
そんな少女の考えを真っ向から否定する声が、彼らの想像もしない位置から響く。寝室から出てきたアルハイゼンが、壁に凭れながらこちらを恨めしそうに見ていた。
「サージュ。こいつが隠したいのは、俺の家に住んでいることそのものではなく…俺に頭を下げなければいけない立場にあること、だ」
「アルハイゼン!? まだ起きたらダメだ、さぁ、戻った戻った」
余計なことを、と喉まで出そうになりながら、カーヴェは表面上は病人を慮り自室への帰還を促すよう手で払う。
しかし男はルームメイトが自分を追い返そうとする仕草になど目もくれず、身を案じて駆け寄ったサージュに水分と同意を求める。
「…水分を補給したくなったんだ。布団の上で万が一水を零したら、眠るどころではない…だろう?」
「一理ある…けど、アルハイゼンの布団が濡れてもカーヴェ先輩のベッドに移ればいいんじゃ」
「ただでさえ高熱に苦しんでいる中で…そんな拷問を受けるくらいなら、俺は床で寝る」
少女の提案を断固拒否し、鉛のように重い身体をソファまで引きずり雪崩込む。ほんの僅かな距離しか移動していないにも拘らず吐息は荒く、まだ熱が下がる見込みさえない醜態を露呈する。
アルハイゼンからの非道な罵倒にも反論ひとつすることなく、カーヴェは棚からグラスを持ち出して水を注ぎ、彼の口元に宛てがう。
青年もたとえ病人相手でも自分のベッドを明け渡すつもりはなく、また彼の猛反発も当然のことだと共感していた。故に反応する必要さえなかったのだ。
そのやり取りを横で眺めるしか出来ずにいたサージュは、彼らが互いに言葉を交わさずとも意思疎通が出来ている様に微かに嫉妬の炎が宿り、彼らの阿吽の呼吸を遮るように声を上げる。
「アルハイゼン、起きたついでに食べて。薬を飲むのにお腹に何も入ってないと良くないから」
「薬がある…のか」
「え、ないの」
家主の衝撃的な発言による困惑から、サージュは直ぐ様同居人の方を向く。民への医療の保障が万全なスメールシティに於いて、薬を常備する家はあまり多くないことを、両親が共にシティ出身ではない彼女は知らなかった。
あって当然のはずの物がない不備を責める視線に耐え兼ね、カーヴェは重い腰を上げる。
後で彼女と常識を擦り合わせる必要があるとは思いながらも、使い走りそのものを拒むことは無かった。
「…わかったよ、行けばいいんだろう行けば」
「ありがとう先輩。その間にアルハイゼンのご飯準備するから」
後輩の為に奔走するのを厭わない心優しい先輩に感謝と罪悪感を綯い交ぜにした表情を見せつつ、彼を見送り自分も義務を果たすべく立ち上がる。
「何が食べたい? …って言うより何なら作れる、か」
起きたままで身体を冷やさぬようアルハイゼンの肩に上着や布団を重ね簀巻きのようにしながら、彼女は問う。
しかし熱に浮かされ正常な発想を困難にしている彼の答えは、少女にとってはあまりにも素っ気ないものだった。
「籠に…確か林檎がある。それで充分だ」
「オッケー、剥いてあげる。ナイフとお皿の場所だけ教えて」
何かを邪推したくなるほど簡単なリクエストに多少の落胆を抱くも、それが彼の望みならばと快諾するサージュ。
それから教わった通りの戸棚から果物ナイフと小皿を取り出してアルハイゼンの隣に戻り、意気揚々と林檎の皮を剥き始める。
「本当にこれだけでいいの?」
「そう、だ。 …いや、この程度しか食べられそうにない、と言った方が正しいか」
「…ごめん」
今にも消え入りそうな声で告げる彼の容態は、少女の想像よりも深刻なもので。
半端にしか皮を剥き終えていない林檎を握ったまま、彼女は自分の不甲斐なさを呪う。
「謝る必要はない」
力不足を悔やむ少女に、アルハイゼンはそれを否定すべくゆっくりと首を振る。
彼女が駆け付けなければ、騒がしい同居人が横で独り狼狽えるだけに終始し、心身へのダメージは計り知れなかっただろう。
「君は医者ではないし、他人の看病をする機会も…そう多くなかったのだろう。どこぞの馬鹿より、不測の事態に対して…適切な措置が出来ている方だ」
「はは…ありがと。病人様に慰められてたら世話ないね」
敢えてカーヴェを極端に貶めることで、少女の自己嫌悪を取り払おうと試みるアルハイゼン。
思惑通り彼女は噴き出して笑い、空元気で頷いて再び林檎の皮を剥き始める。皮が全て剥がれた林檎を一口大に切り、皿に適当に盛り付けた。
「出来た。ちょっと不格好かもだけど、味が変な訳じゃなし許して」
小皿をアルハイゼンの眼前に差し出し、食すよう促す。サージュが雑に羽織らせた防寒布達からようやく片腕を出すことが出来た彼は、他に比べ妙に大きく切られてしまった一欠片を摘んで口に放り込んだ。
歯応えのある食感を伝える軽快な音が、静寂に包まれたリビングに響く。無言で林檎を頬張る彼の仏頂面は栗鼠のような愛嬌があり、少女は笑みを堪えるのに必死だった。
「サージュ、君はいいのか」
「ん? あぁ大丈夫、後でちゃんと食べるから。アルハイゼンは自分の風邪を治すことだけに集中して」
「…そうか。悪かった」
見ているだけで手をつけようとしない少女を訝しむが、彼女はただでさえ多くない食事を奪うつもりなど毛頭なく、慌てて両手を振る。
その流れで早く治せと咎められてしまい罪悪感が生まれたアルハイゼンは、珍しくも素直に謝罪の言葉を零す。
「はぁ…僕にもその優しさの半分でいいから分けてくれ」
シティ随一の医療機関ビマリスタンから薬を処方してもらうことに成功し戻って来たカーヴェが、帰還早々に嘆息してテーブルに紙袋を載せる。
二人の会話をどこから聞いていたかは定かでは無いが、彼の落ち込み様から察するにどうやら自分が不当に虐げられた瞬間は耳にしてしまっているようで、その表情には不満が隠しきれていなかった。
「おかえりカーヴェ先輩、薬ありがとう」
「ああ。サージュはちゃんとお礼が言えて偉いな」
我関せずと言わんばかりに林檎を咀嚼し続けるアルハイゼンを慮外に置き、自分を労う後輩へ笑みを向ける。
「…そうだな、君も見習え」
「言い過ぎだよ。カーヴェ先輩にもちゃんと感謝して」
「サージュの言う通りだ、僕だって何もしていないわけじゃないんだぞ」
カーヴェは自身の成果である薬の包みを指して、自分もサージュと同じように労われて然るべきだと喚く。
威厳を誇示する仕草があまりに子供じみていて、高熱に苦しむ男はどう返すべきか二重の意味で頭を抱える。
「…」
火照る身体が自らの不調を思い出させ、彼は視界が眩むのを感じる。一瞬だが聴覚すら奪われた感覚に陥り、二人が遠のいてゆく。
男が眉を顰めると同時に隣に居た少女が身を支え、微かに氷元素を付着させることで発熱を抑えた。
そのついでというわけではないが、サージュはこの機に乗じてアルハイゼンに薬を飲ませる。
身体を包む程よい冷気と喉から流れ込む癒しの水に、少しずつ歪んでいた世界が元に戻る感覚を味わう。
「アルハイゼン! 大丈夫か?」
「大丈夫じゃない、と言いたい所だが…薬のお陰か少しマシになった」
深く息を吐いて、開放感に口元が緩むアルハイゼン。言いようのない倦怠は完全に消え去り、多少身体が熱を帯びて暑い、程度の認識まで快復していた。
実際には薬が効き始めるまでにはまだ時間がかかる筈であったが、彼の中で"薬を飲んだ"という事実が本当に体調を快方へと導いているようだ。
「…カーヴェ、紛れもなく君の功績だ。それは認めよう。感謝する」
頭を下げる代わりに瞳を閉じ、敬意を示す。ようやくカーヴェに対して謝辞を述べた男に、本人よりも先にサージュが驚き声を上げる。
「良かったね先輩!」
「あ…あぁ。普段から悪態ばかりのせいで、何だか…実感が沸かないな」
しかし言われた張本人はストレートな謝意に面食らっており、その反応は非常に鈍いものだった。
呆然とする彼を見て、少女はアルハイゼンが何も言わないことに違和感を覚える。
いつものようにここぞとばかりに謝意を帳消しにするような追撃をして来ないことに疑問を抱き彼の顔を窺うと、どうやら目を閉じた際にそのまま睡魔に呑まれてしまったらしく、安らかな寝息を立てていた。
「…寝ちゃったみたい」
「ってつまり、僕が運ぶやつだよな…はあ。本当にどこまでも勝手なやつだ」
「まあまあ。私も手伝うから」
最後の最後に出来上がってしまった重労働に肩を落とすカーヴェを宥め、完全に眠ってしまい起きる気配のない男の身体を持ち上げるのを補佐するサージュ。
アルハイゼンを運ぶ最中、青年もまた少女へと改めて感謝の意を口にする。その横顔は先輩らしさの欠片もない小動物の面影は消え失せており、凛と澄んだ頼もしさだけが残っていた。
「今日は色々と助かったよ、サージュ」
「こちらこそ。私も最初は不安で一杯だったから、カーヴェ先輩が横で慌ててくれて逆に落ち着けたよ」
規則正しい寝息を響かせる男をベッドに寝かせ、これでもかと布団を重ねる。その上で常温に戻りつつあった氷枕を再び冷やし、快適な睡眠の為の作戦をいくつも施す。
一件落着に帰り支度をし始めるサージュを引き留め、彼は保留になっていた自らの境遇に関する話題を掘り返す。
「それで…僕の秘密についてだが、教令院の人には言わないでくれるか?」
「口止め料」
手を広げ、モラを要求する素振りを見せる。懐から出した財布を震える手で広げようとするカーヴェに罪悪感が勝った彼女は、慌てて前言を撤回する。
「…冗談だってば。そんな泣きそうな顔しないでよ先輩」
「今のは君が悪い、冗談でも肝が冷えたぞ…」
「ごめんごめん、まさかそこまでとは思わなくて」
普段友人達には情けない姿ばかり見せてこそいるものの、彼は優れた芸術家として名を馳せており、貧困とは縁遠いと思っていたサージュ。
しかし、この程度のじゃれ合いすら本気に捉えて畏れる様子から、少女は彼が相当に困窮しているのだと知る。
「でも安心して。そもそも言いふらす相手いないから、私」
「ははっ…それもそうだったな」
極端なクラクサナリデビ信仰ゆえに少女への他者からの視線は冷たいものであることが多く、それをよく知る内の一人であるカーヴェは同意に苦笑を零す。
「…じゃ、そういうことで。そろそろ行くね。何かあったらまた呼んでくれればすぐ戻るよ」
「心配は要らないさ、あとは任せてくれ」
改めて別れを告げ、アルハイゼンの家を後にするサージュ。既にここへ来た時のような不安はなく、自分を見送るカーヴェの表情がとても頼もしく思えた。
随分と時間が経ったような気がしていたが、元々発端が早朝だったせいか、まだ陽は昇っていく最中。眩しい陽射しを浴びながら、彼女は朝食さえこれからだと思い出す。
「落ち着いたらお腹空いたな…何食べよっかな」
―
慌ただしい朝を終えた後は普段通りの一日を過ごした少女。寝て起きての翌朝、今度は非常識にはならない程度には日が昇った頃、またもアーカーシャ端末が響く。
「はい。あれ、アルハイゼン? もう体調は良くなったんだ」
「あぁ…俺はな。その節は迷惑を掛けた」
「いいのいいの、困った時はお互い様だよ」
「それで本題なんだが」
社交辞令にも似たやり取りの後、アルハイゼンは昨日の同居人への恩義など忘れ去ったかのような非道な願いを申し出るのだった。
「今度はカーヴェが風邪を引いた。落ち着くまで避難させてくれ」
通話の相手は彼女の数少ない友人の一人、カーヴェ。立場上は先輩にあたり、彼女も一応の敬称を付けて呼びこそしているものの、その関係には上下の境などなく。
「サージュ、大変だ! 助けてくれ!」
「んうぅ…カーヴェ先輩…なに?」
寝ぼけ眼で応答し、青年の慌てた声を聞くサージュ。眠りを妨げられた苛立ちの籠った問い掛けにも構わず、彼は自らの焦燥を伝える。
「アルハイゼンが風邪を引いたんだ!」
突拍子もない宣告に、少女が取った行動は沈黙。あのアルハイゼンが病に臥せる姿など、彼女には想像もつかなかった。
起床から間もないこともあり理解が追いつかない彼女に焦れたカーヴェが、更なる叫びを上げる。
「本当なんだ、嘘じゃない! とにかく早く来てくれないか、僕一人では心細いんだよ」
「はぁ、それは大変そうで。 …って、は?」
雑にも程がある適当な相槌で誤魔化そうとして、思考がようやく巡ってきた少女は事の重大さに気付く。
「アルハイゼンが…風邪?」
「あぁ、病気とは無縁そうなあいつが、だ」
「待っててカーヴェ先輩、すぐ行くから!」
通話を切断し、目にも止まらぬ速さで布団から出て身支度を整えるサージュ。連絡を寄越したカーヴェ以上に、彼女の胸中は不安と恐怖で一杯だった。
かけがえのない友人の一人であり、更にそれ以上の想いを抱く相手の一大事に、逸る気持ちを抑えることは困難だった。
いつだったか蔵書を借り受ける際に訪ねたアルハイゼンの住居への道程を、息が切れるのも構わず自らの持てる全速力で駆ける。
「アルハイゼン!」
鍵の掛かっていない扉を叩きつけるように開き、家主を探す。彼の居場所は当然ながら寝室で、その姿は一瞥しただけでは見えず、彼女は騒音と共に自身を呼び出した青年の元へ駆け寄る。
「先輩、アルハイゼンは大丈夫なの?」
「あぁサージュ! さっきからずっとこんな調子なんだ」
先輩の姿を見るや否や、サージュは男の容態について問い掛ける。その語気は強く、悲愴を覆い隠すべく虚勢を張っているのが彼にはよくわかった。
慌てるばかりで仔細を理解していないカーヴェは自分が説明するより見た方が早いと彼女を案内し、少女は導かれた先で布団に籠る男へ声を掛けた。
「アルハイゼン、調子はどう…?」
「煩い…放っておいてくれ」
頭まで被った布団の中から、拒絶の意志を露わにするアルハイゼン。愛用のヘッドホンはカーヴェが外したのか就寝時は着けないのか枕元に置かれており、ダイレクトに伝わる喧騒を苦痛に感じているのが見え隠れしていた。
来て早々帰れと言わんばかりの無情な宣告を口にする彼だが、素直に引き下がるサージュではなく、強引に頭を引きずり出して額に手を宛てる。
予想通りと言うべきか、伝わる温度は焼け焦げてしまいそうな程に熱く、魘される男の苦しみを想起し彼女自身も胸が痛んだ。
「そうはいかないよ。わ、すごい熱…カーヴェ先輩、氷作るから待って」
解熱の為の氷を用意しようと立ち上がろうとする少女を、布団から伸びた腕が引き留める。
「…必要、ない。君の手が充分冷えていた、それで…いい」
「えっ? んと…」
熱に浮かされながらも少女を求めるアルハイゼンに、娘は羞恥混じりに困惑と不安の表情を浮かべる。
助け舟を求めてカーヴェの方へ向くと、彼は事情を察したらしく留まるよう提言し、彼女が座る為の椅子を寝台に寄せる。
それから材料を取りに、カーヴェはヒラヒラと手を振りながら寝室を出て行った。
「病人の頼みだ、聞いてやってくれ。冷やす為に使えそうなものは僕が準備して来る」
カーヴェが扉を閉め、二人きりの空間に残される。手を額に載せ続けるしか出来ず手持ち無沙汰になった少女に、病のせいかいつも以上に辛辣な彼が吐いた言葉は。
「暑い」
「ごっ、ごめん。手の甲なら少しマシかな」
「…ああ」
苦言に従いサージュが手を返すと、歪んだ眉間が僅かに和らぎ、寝息も柔らかなものへと変わっていく。
垣間見えた首筋から滴る汗に、彼女は自分のハンカチを手に取るが、布団を引っ被る彼の返事は芳しくないものだった。
「汗すごいね…身体拭こうか」
「断…る、出ると余計寒気が増す」
駄々を捏ねる子供のような声に、少女は八方塞がりの現状を密かに胸中で憂う。
自分がもっと積極的であれば強引に布団を剥がして汗を拭えたかもしれないが、嫌がることでも強制する勇気を今の彼女は持ち合わせていなかった。
「じゃ、じゃあ何か食べる? スープくらいなら作れ…」
気を紛らわせようと、食欲の有無を問う。料理に自信があるわけではなかったが、助けになれればという一心で少女は藁にも縋る想いで尋ねる。
しかし願いは虚しく、最後まで言葉を紡がせてすら貰えず否定されてしまう。
それは弱味を見られ苦悩に苛む彼なりの強がりだったが、彼女にはアルハイゼンの真意を知る術はなく、消沈し俯くしかなくなる。
「何も要らない。こんなもの…寝れさえすれば治る」
「…わかった」
そっと額から手を離し、自らも去ろうと腰を上げる。自分がここに居ては眠りの妨げにしかならないと、そう思い込んで。
「サージュ。何処へ行く?」
だが、虚ろな瞳でサージュを見つめる男の弱々しい声は、彼女がこのまま立ち去るのを許さなかった。
「私が居たら落ち着かないと思って。うるさくしてたのは事実だし…」
「あれは…頭の中でカーヴェの声と混在していたせいだ。君に言ったものじゃ…ない。すまない」
開口一番に告げられた非難の言葉は、騒ぎ立てていた隣人へのものだと非を詫びるアルハイゼン。
混濁した意識の中では、どちらがどちらかなど判別出来なかったのも無理はない。が、少女はそれで自分を呼んだ彼が一人悪者扱いされるのも嫌だと首を振る。
「謝らないで、私にも非があるから」
「…あいつを庇うのか」
「そりゃね。キミを心配する気持ちは同じだもん」
カーヴェが居なければアルハイゼンのピンチに駆けつけられなかったのだと擁護しつつ、その先輩の帰還の遅さに違和感を抱く。
そんな彼女の不安を杞憂に変えるが如く、彼は扉越しにか細い声を上げる。どうやら両手が塞がり、扉を自分で開けられないようだ。
「サージュ、戻ったぞ!」
内側から扉を開けてやり、大荷物で戻って来たカーヴェを迎え入れる。氷枕を作るには些か大仰すぎる準備に、少女は頭を抱えたくなる気持ちを抑え感謝の意を示す。
「えーと…ありがとう、カーヴェ先輩」
「ああ! 最後の仕上げは任せた」
満面の笑みで、カーヴェは水の入った袋をサージュへと手渡す。
彼女の持つ神の目が宿す元素は氷、この力の恩恵により温暖な気候にあるスメールに於いても容易く氷を作り出すことが出来る。
普段は草神を敬愛しすぎるがあまり自らが持つ力を嘆く少女も、今日ばかりは氷元素の使い手であることに喜びを感じていた。
水枕へ氷元素を吹き込み、凍結反応を発生させる。それはシンプルながらも完璧な氷枕の完成を意味していた。
「これでよし。アルハイゼン、枕こっちに変えるから頭上げて」
少女が枕を取り替えるべく、男の頭を支えようと手を出す。だが、彼はその僅かな動きすら苦痛だったのか単に横着したのか、頭を枕から浮かせるのではなく身体ごと布団に沈み込むことで回避する。
「…そう来るかあ。まいいや、はい」
過程はどうあれ枕を取り替えることに成功し、アルハイゼンがサージュの合図と共にスッと頭を戻す。
妙にスムーズなその所作に、横から見ていたカーヴェが青年の奇行に耐えかねて噴き出していた。
「何だかキノコ叩きのキノコみたいだな」
「誰が…キノコだ…」
青年は不当な表現にすかさず反論するが、その口調には覇気がなく、相応に衰弱しているのが見て取れた。
「サージュ。改めて…助かった」
少女の面持ちは今にも涙が零れそうに陰鬱で、見えない雫を拭うようにアルハイゼンが頬に触れる。
病人に慰められるのは偲びないと、サージュはその手を取って彼を安心させるべく懸命に微笑む。
「キミの為なら、このくらいなんてことないよ」
「おい、僕には何もなしかい?」
「…あの程度の功績で、俺に感謝の言葉を求めるのか、カーヴェ。寧ろ今の状況なら…俺が君から感謝されるべきだと、そうは思わないのか」
二人の世界に入られては困ると口を挟むカーヴェに、氷枕の冷たさを受け僅かに普段の調子を取り戻した男は彼らにとってとんでもない言葉を投げる。
物事の機微に鈍感で謀略などとは無縁な少女でなければすぐにでも察知してしまいそうな事実にアルハイゼンが触れずにいることに、金髪の青年はようやく気付いたようだった。
「ああ…っ。確かにそれはその通りだ。すまないアルハイゼン、病床に臥しながらも僕を気遣ってくれていたんだな」
「え、何…? どういうこ…」
彼らの話していることが全く理解出来ない少女が、狼狽した様子で二人を交互に見つめる。
しかしアルハイゼンは発熱からか顔を顰め答えてくれず、青ざめている本人もこれ以上詮索されるのは危険だと、手を引いて無理矢理に部屋から彼女を追い出してしまう。
「君は知らなくていいことだ、サージュ! さあ、彼の為に食事でも作ろうじゃないか」
「ちょっ…カーヴェ先輩?」
「ゆっくり休んでくれアルハイゼン。また後で」
説明する間もなく強引に引き離され、キッチンに連れられたサージュがそうした張本人へと直談判するが、彼の目的はそこにはなく。
「さっき食欲ないって本人が…」
「あれは口実だよ。これ以上アルハイゼンと話していると、どんなことを吐かれるかわかったもんじゃない」
家主とは対称的な金糸の髪を持つ青年が抱える秘密。それは、彼もこの家に暮らす一人だという事実。
ルームシェアと言えば聞こえはいいが、その関係は決して対等なものではなく、アルハイゼンの生活に彼が一部を間借りしているような形であった。
当然その歪な上下関係に先輩であるはずのカーヴェが負い目を感じないはずもなく、教令院に居る知人友人に知られることを恐れていた。
にも拘らず今日は喫緊の問題に直面した結果、それら一切を気にかけることなくサージュを呼んでしまい、彼は先輩としての威厳が地に落ちる不安が膨れ上がっていた。
「何だか今日の先輩、いつもより変だね」
挙動不審な先輩に、思わず本音が漏れる。しかしその指摘は疑いようもなくれっきとした事実で、その表現を頭ごなしに否定するわけにはいかず。
「それは否定できない…って、普段から僕がおかしいみたいな言い方はしないでくれ」
「いや、事実いつでも変な人だからなぁ」
「なっ…!」
病人が隣室で寝ているのも忘れ、激昂に叫びを上げそうになるカーヴェ。震える拳を見た少女が口元に指を立て制止して、ようやく彼は苛立ちを鎮める。
アルハイゼンも自分も教令院でも稀有なレベルの奇人であることは身に染みてわかってはいたカーヴェだが、やはり真正面から指摘されるとそのダメージは大きいようだ。
尤も、それを口にしたのが彼らと同等以上に変人とされるサージュだから、という条件は加味すべきとも言えるかもしれない。
スメールの多くの民にとってクラクサナリデビは存在意義さえ疑問視されており、そんな神を狂信する彼女が奇異の目で見られない筈もなく。
「…まあいい、とにかくこれでアルハイゼンの方は一件落着だろう」
進んで墓穴を掘りに行ったとしか思えぬ言い回しがもたらす違和感を逃さず、少女はニコリと微笑む。
邪念の一切ないその無垢な笑みに、彼は大きく嘆息を零す。このままでは、自分の秘密が暴かれるのも時間の問題だと諦めに近い感情を抱き始めていた。
「うん。じゃ、もう一方の問題について話そっか」
「どうしても逃げさせてはくれないんだな…」
用もなくキッチンで立ち話するよりは、とカーヴェは再び場所を変えるべく今度は彼女をリビングへと招く。
「それで、カーヴェ先輩」
リビングに誂えられたソファの中心に座り、少女が前のめりで首を傾げ、先輩と呼んだ青年を見つめる。
全てを見透かしているかのような眼差しに、彼はどう言繕うのが正解だろうかと頭を悩ませる。だがそんな苦悩など完全に無視して、サージュの笑みは的確に心臓を貫いた。
「どうしてアルハイゼンの容態が悪くなったことに直ぐ気付いたの?」
「うっ…そ、それは…そう! たまたまだ。偶然用があってあいつを訪ねたら…」
偶然を装う、という単純明快な弁明。それは状況を知らぬままのサージュになら通用したかもしれないが、ある程度平静を取り戻している彼女は更なる追及を重ねる。
「なら、妙に沢山持って来た看病道具はどこから? もしあの量を常日頃持ち歩いてるとしたら、先輩はアルハイゼンより筋肉質になってそうだよね」
氷枕を用意した際に持ち込んだ大量の荷物を思い起こし、それらをどこから持ち出したか尋ねる。
明らかに必要ないように見える物資も、確かにいくつかあるには有った。が、殆どは病人に使うに相応しいものばかりであり、あれが全て彼が持ち歩いていた荷物とは少女には到底思えなかった。
「…僕も脱いだらそこそこあるぞ」
「や、興味無いです。セクハラやめてください」
「あのなぁ…!」
突き放す意図を含んだ、敢えての敬語。誤魔化しにもならない冗談が後から気恥ずかしくなった彼の声は拳と共に震え、自分も布団に篭もりたいと感じていた。
「大マハマトラ並の冗談はともかく。ここに住んでるのを隠しているつもりなら意味ないよ、先輩」
「君も知ってたのか」
幾重にも残酷な宣告による諦念から、遂に弁解することを止めそう零すカーヴェ。
項垂れる青年を一瞥し、少女は彼の状況が想定している通りだと確信していた訳では無いと語る。
「今日まで確証はなかったけど、多分そうかなって。酔った先輩を毎回アルハイゼンが連れて行くなんて不自然すぎだしさ」
友人間で酒を酌み交わした際、最初に酔うのは決まってカーヴェだった。彼は人一倍酒に弱いのに、人一倍酒を飲む。
そんな青年を人情味の欠片も持ち合わせていない筈のアルハイゼンが介抱するなど、サージュにとっては、否、誰が見ても違和感しかない姿だった。
「…返す言葉もない」
「まあ、私は感謝こそすれ、文句を言う権利はないから。そもそも別に隠すことでもないと思うけど」
青年が共に暮らしていたからこそ、彼の窮地にいち早く気が付けたのだと、彼女は二人のルームシェアに関してはかなり肯定的な素振りを見せる。
そんな少女の考えを真っ向から否定する声が、彼らの想像もしない位置から響く。寝室から出てきたアルハイゼンが、壁に凭れながらこちらを恨めしそうに見ていた。
「サージュ。こいつが隠したいのは、俺の家に住んでいることそのものではなく…俺に頭を下げなければいけない立場にあること、だ」
「アルハイゼン!? まだ起きたらダメだ、さぁ、戻った戻った」
余計なことを、と喉まで出そうになりながら、カーヴェは表面上は病人を慮り自室への帰還を促すよう手で払う。
しかし男はルームメイトが自分を追い返そうとする仕草になど目もくれず、身を案じて駆け寄ったサージュに水分と同意を求める。
「…水分を補給したくなったんだ。布団の上で万が一水を零したら、眠るどころではない…だろう?」
「一理ある…けど、アルハイゼンの布団が濡れてもカーヴェ先輩のベッドに移ればいいんじゃ」
「ただでさえ高熱に苦しんでいる中で…そんな拷問を受けるくらいなら、俺は床で寝る」
少女の提案を断固拒否し、鉛のように重い身体をソファまで引きずり雪崩込む。ほんの僅かな距離しか移動していないにも拘らず吐息は荒く、まだ熱が下がる見込みさえない醜態を露呈する。
アルハイゼンからの非道な罵倒にも反論ひとつすることなく、カーヴェは棚からグラスを持ち出して水を注ぎ、彼の口元に宛てがう。
青年もたとえ病人相手でも自分のベッドを明け渡すつもりはなく、また彼の猛反発も当然のことだと共感していた。故に反応する必要さえなかったのだ。
そのやり取りを横で眺めるしか出来ずにいたサージュは、彼らが互いに言葉を交わさずとも意思疎通が出来ている様に微かに嫉妬の炎が宿り、彼らの阿吽の呼吸を遮るように声を上げる。
「アルハイゼン、起きたついでに食べて。薬を飲むのにお腹に何も入ってないと良くないから」
「薬がある…のか」
「え、ないの」
家主の衝撃的な発言による困惑から、サージュは直ぐ様同居人の方を向く。民への医療の保障が万全なスメールシティに於いて、薬を常備する家はあまり多くないことを、両親が共にシティ出身ではない彼女は知らなかった。
あって当然のはずの物がない不備を責める視線に耐え兼ね、カーヴェは重い腰を上げる。
後で彼女と常識を擦り合わせる必要があるとは思いながらも、使い走りそのものを拒むことは無かった。
「…わかったよ、行けばいいんだろう行けば」
「ありがとう先輩。その間にアルハイゼンのご飯準備するから」
後輩の為に奔走するのを厭わない心優しい先輩に感謝と罪悪感を綯い交ぜにした表情を見せつつ、彼を見送り自分も義務を果たすべく立ち上がる。
「何が食べたい? …って言うより何なら作れる、か」
起きたままで身体を冷やさぬようアルハイゼンの肩に上着や布団を重ね簀巻きのようにしながら、彼女は問う。
しかし熱に浮かされ正常な発想を困難にしている彼の答えは、少女にとってはあまりにも素っ気ないものだった。
「籠に…確か林檎がある。それで充分だ」
「オッケー、剥いてあげる。ナイフとお皿の場所だけ教えて」
何かを邪推したくなるほど簡単なリクエストに多少の落胆を抱くも、それが彼の望みならばと快諾するサージュ。
それから教わった通りの戸棚から果物ナイフと小皿を取り出してアルハイゼンの隣に戻り、意気揚々と林檎の皮を剥き始める。
「本当にこれだけでいいの?」
「そう、だ。 …いや、この程度しか食べられそうにない、と言った方が正しいか」
「…ごめん」
今にも消え入りそうな声で告げる彼の容態は、少女の想像よりも深刻なもので。
半端にしか皮を剥き終えていない林檎を握ったまま、彼女は自分の不甲斐なさを呪う。
「謝る必要はない」
力不足を悔やむ少女に、アルハイゼンはそれを否定すべくゆっくりと首を振る。
彼女が駆け付けなければ、騒がしい同居人が横で独り狼狽えるだけに終始し、心身へのダメージは計り知れなかっただろう。
「君は医者ではないし、他人の看病をする機会も…そう多くなかったのだろう。どこぞの馬鹿より、不測の事態に対して…適切な措置が出来ている方だ」
「はは…ありがと。病人様に慰められてたら世話ないね」
敢えてカーヴェを極端に貶めることで、少女の自己嫌悪を取り払おうと試みるアルハイゼン。
思惑通り彼女は噴き出して笑い、空元気で頷いて再び林檎の皮を剥き始める。皮が全て剥がれた林檎を一口大に切り、皿に適当に盛り付けた。
「出来た。ちょっと不格好かもだけど、味が変な訳じゃなし許して」
小皿をアルハイゼンの眼前に差し出し、食すよう促す。サージュが雑に羽織らせた防寒布達からようやく片腕を出すことが出来た彼は、他に比べ妙に大きく切られてしまった一欠片を摘んで口に放り込んだ。
歯応えのある食感を伝える軽快な音が、静寂に包まれたリビングに響く。無言で林檎を頬張る彼の仏頂面は栗鼠のような愛嬌があり、少女は笑みを堪えるのに必死だった。
「サージュ、君はいいのか」
「ん? あぁ大丈夫、後でちゃんと食べるから。アルハイゼンは自分の風邪を治すことだけに集中して」
「…そうか。悪かった」
見ているだけで手をつけようとしない少女を訝しむが、彼女はただでさえ多くない食事を奪うつもりなど毛頭なく、慌てて両手を振る。
その流れで早く治せと咎められてしまい罪悪感が生まれたアルハイゼンは、珍しくも素直に謝罪の言葉を零す。
「はぁ…僕にもその優しさの半分でいいから分けてくれ」
シティ随一の医療機関ビマリスタンから薬を処方してもらうことに成功し戻って来たカーヴェが、帰還早々に嘆息してテーブルに紙袋を載せる。
二人の会話をどこから聞いていたかは定かでは無いが、彼の落ち込み様から察するにどうやら自分が不当に虐げられた瞬間は耳にしてしまっているようで、その表情には不満が隠しきれていなかった。
「おかえりカーヴェ先輩、薬ありがとう」
「ああ。サージュはちゃんとお礼が言えて偉いな」
我関せずと言わんばかりに林檎を咀嚼し続けるアルハイゼンを慮外に置き、自分を労う後輩へ笑みを向ける。
「…そうだな、君も見習え」
「言い過ぎだよ。カーヴェ先輩にもちゃんと感謝して」
「サージュの言う通りだ、僕だって何もしていないわけじゃないんだぞ」
カーヴェは自身の成果である薬の包みを指して、自分もサージュと同じように労われて然るべきだと喚く。
威厳を誇示する仕草があまりに子供じみていて、高熱に苦しむ男はどう返すべきか二重の意味で頭を抱える。
「…」
火照る身体が自らの不調を思い出させ、彼は視界が眩むのを感じる。一瞬だが聴覚すら奪われた感覚に陥り、二人が遠のいてゆく。
男が眉を顰めると同時に隣に居た少女が身を支え、微かに氷元素を付着させることで発熱を抑えた。
そのついでというわけではないが、サージュはこの機に乗じてアルハイゼンに薬を飲ませる。
身体を包む程よい冷気と喉から流れ込む癒しの水に、少しずつ歪んでいた世界が元に戻る感覚を味わう。
「アルハイゼン! 大丈夫か?」
「大丈夫じゃない、と言いたい所だが…薬のお陰か少しマシになった」
深く息を吐いて、開放感に口元が緩むアルハイゼン。言いようのない倦怠は完全に消え去り、多少身体が熱を帯びて暑い、程度の認識まで快復していた。
実際には薬が効き始めるまでにはまだ時間がかかる筈であったが、彼の中で"薬を飲んだ"という事実が本当に体調を快方へと導いているようだ。
「…カーヴェ、紛れもなく君の功績だ。それは認めよう。感謝する」
頭を下げる代わりに瞳を閉じ、敬意を示す。ようやくカーヴェに対して謝辞を述べた男に、本人よりも先にサージュが驚き声を上げる。
「良かったね先輩!」
「あ…あぁ。普段から悪態ばかりのせいで、何だか…実感が沸かないな」
しかし言われた張本人はストレートな謝意に面食らっており、その反応は非常に鈍いものだった。
呆然とする彼を見て、少女はアルハイゼンが何も言わないことに違和感を覚える。
いつものようにここぞとばかりに謝意を帳消しにするような追撃をして来ないことに疑問を抱き彼の顔を窺うと、どうやら目を閉じた際にそのまま睡魔に呑まれてしまったらしく、安らかな寝息を立てていた。
「…寝ちゃったみたい」
「ってつまり、僕が運ぶやつだよな…はあ。本当にどこまでも勝手なやつだ」
「まあまあ。私も手伝うから」
最後の最後に出来上がってしまった重労働に肩を落とすカーヴェを宥め、完全に眠ってしまい起きる気配のない男の身体を持ち上げるのを補佐するサージュ。
アルハイゼンを運ぶ最中、青年もまた少女へと改めて感謝の意を口にする。その横顔は先輩らしさの欠片もない小動物の面影は消え失せており、凛と澄んだ頼もしさだけが残っていた。
「今日は色々と助かったよ、サージュ」
「こちらこそ。私も最初は不安で一杯だったから、カーヴェ先輩が横で慌ててくれて逆に落ち着けたよ」
規則正しい寝息を響かせる男をベッドに寝かせ、これでもかと布団を重ねる。その上で常温に戻りつつあった氷枕を再び冷やし、快適な睡眠の為の作戦をいくつも施す。
一件落着に帰り支度をし始めるサージュを引き留め、彼は保留になっていた自らの境遇に関する話題を掘り返す。
「それで…僕の秘密についてだが、教令院の人には言わないでくれるか?」
「口止め料」
手を広げ、モラを要求する素振りを見せる。懐から出した財布を震える手で広げようとするカーヴェに罪悪感が勝った彼女は、慌てて前言を撤回する。
「…冗談だってば。そんな泣きそうな顔しないでよ先輩」
「今のは君が悪い、冗談でも肝が冷えたぞ…」
「ごめんごめん、まさかそこまでとは思わなくて」
普段友人達には情けない姿ばかり見せてこそいるものの、彼は優れた芸術家として名を馳せており、貧困とは縁遠いと思っていたサージュ。
しかし、この程度のじゃれ合いすら本気に捉えて畏れる様子から、少女は彼が相当に困窮しているのだと知る。
「でも安心して。そもそも言いふらす相手いないから、私」
「ははっ…それもそうだったな」
極端なクラクサナリデビ信仰ゆえに少女への他者からの視線は冷たいものであることが多く、それをよく知る内の一人であるカーヴェは同意に苦笑を零す。
「…じゃ、そういうことで。そろそろ行くね。何かあったらまた呼んでくれればすぐ戻るよ」
「心配は要らないさ、あとは任せてくれ」
改めて別れを告げ、アルハイゼンの家を後にするサージュ。既にここへ来た時のような不安はなく、自分を見送るカーヴェの表情がとても頼もしく思えた。
随分と時間が経ったような気がしていたが、元々発端が早朝だったせいか、まだ陽は昇っていく最中。眩しい陽射しを浴びながら、彼女は朝食さえこれからだと思い出す。
「落ち着いたらお腹空いたな…何食べよっかな」
―
慌ただしい朝を終えた後は普段通りの一日を過ごした少女。寝て起きての翌朝、今度は非常識にはならない程度には日が昇った頃、またもアーカーシャ端末が響く。
「はい。あれ、アルハイゼン? もう体調は良くなったんだ」
「あぁ…俺はな。その節は迷惑を掛けた」
「いいのいいの、困った時はお互い様だよ」
「それで本題なんだが」
社交辞令にも似たやり取りの後、アルハイゼンは昨日の同居人への恩義など忘れ去ったかのような非道な願いを申し出るのだった。
「今度はカーヴェが風邪を引いた。落ち着くまで避難させてくれ」
6/47ページ