学院トーナメントの開幕を明日に控え、
サージュは英気を養うべく自宅で本を読み耽る。
過去の文献に載っていた試合内容を探る限り、今年度の種目に自分が有利な分野が含まれる可能性は限りなく低く、今更悪足掻きをしたところで効果は薄いだろうと推測していた。
そんな少女の元に、突然の来訪者がやってくる。玄関の戸を叩く音が静まり返った部屋に響き渡り、聞き慣れた落ち着きのある声が聞こえてきた。
「
サージュ、居るか」
「はーい。今日は勝手に入ってこなかったね、アルハイゼン」
いつかの日に無言で寝室まで侵入していたことを揶揄しながら出迎えて、"恋人"である男を招き入れる。
二人で憩いの時を過ごす為ソファに座らせようと導くも、彼は眉根を寄せて、立ったまま首を振り申し出を固辞するのだった。
「もてなしは不要だ。残念だが今日はのんびりする為じゃなく、君を迎えに来たんだ」
「迎え? え、何だろ…悪いことしてないんだけど」
「大丈夫だ、呼び出してきたのは学院ではなくクラクサナリデビ様だからな」
予想だにしていなかった名を耳にして、少女の目が飛び出しかねない勢いで大きく見開かれる。
自分はあくまで一介の信徒という身分を保っていると信じている少女は、草神に呼び立てられる理由などある筈がないと、仔細を訊ねるべく男の肩を掴む。
「…アルハイゼン、説明して」
無理矢理に座らせて、男を見下ろす形で問い掛ける。鬼気迫る表情を前に嘘や誤魔化しは通用しないと、その目を真っ直ぐに見つめて彼は答えた。
「この前、君が学院トーナメントに参加すると表明しただろう。それを耳にした彼女が、君に頼みたいことがあるようだ」
「クラクサナリデビ様が私に頼み事? 断る理由はないけど、ならどうしてアルハイゼンを間に挟んだのかな…」
草神が望むこと自体については存外すんなりと受け入れつつ、何故自分だけでなく男を伴う必要があるのか疑問を呈する。
当の本人はそれとなく理由を察知しているらしく、肩を竦めて嘆息を零しては、厄介事を早急に終わらせようと立ち上がり少女を促すのだった。
「わざわざ間に俺を挟むということは、俺にも何かしらの用件があるんだろうな。まあいい、行けばわかる」
「それもそうだね。ちょっと待ってて、準備するから」
いくら草神からの要請とは言え、過度に萎縮してしまうのは本意ではないと、大きく伸びをして外出の支度を整えることを告げる少女。
家から一歩も出ないつもりでいた彼女の格好は普段よりもずっとラフなもので、男は見慣れない軽装に思わず視線が釘付けになってしまっていた。
「ん、どうかした?」
一挙一動を凝視され、少女が何事かと首を傾げる。邪念など一切疑っていない無垢な眼差しに、アルハイゼンは罪悪感からすぐさま目を逸らした。
「…いや、何でもない。家の外で待っているから、用意が整ったら声を掛けてくれ」
淡々とそれだけ告げて足早に去ってしまった背中を静かに見送って、ふと己の格好を省みるも、特に不審な点は見受けられない。
訝しみながら少女は外出の際における自分なりの正装を姿見の前で整えて、草神に会うに相応しいと確かめる。
その後、鞄に有用そうな荷物をこれでもかと詰め込んで、それを腰に提げようやく全ての準備が完了する。
意気揚々と玄関を出て鍵を閉めて"恋人"の姿を探すと、彼は家のすぐ近くにある古びた彫像を見つめて思慮に耽っていた。
「お待たせ、暇させてごめんね」
「問題ない。クラクサナリデビ様から"これ"の使い方を聞いて、そのことについて色々考えていた」
「使い方…?」
驚嘆を露わにする少女に頷いて、アルハイゼンは草神から授けられた知恵について語る。
「彼女によると、この"ワープポイント"は地脈の流れに繋がっていて、同じ彫像がある地点への瞬間的な移動…文字通りのワープを可能とするものらしい」
テイワット大陸の各地に全く同じものが点在するこの古式ゆかしい彫像は、人々にとっては待ち合わせ場所の目印だったり、運動する際のスタート地点だったりと、各々が好きに活用している馴染み深いものであった。
その彫像の本来の用途を知らされたことで覆った価値観に、
サージュは焦燥感から息を呑む。
傍らの探求者は、少女とは対照的に好奇心を隠しきれない笑みを浮かべて、新たに得た知見を己のものとする機会を待ち焦がれているようだった。
「神の目を持つものであれば、本来誰であっても使えると言っていたが…どうする
サージュ、試してみてもいいか?」
「う、うん。大丈夫…いいよ」
瞬間移動というある種の超常現象、未知の領域へ踏み込む恐怖に緊張し、不安を隠し切れない少女。
男は固く握った拳を開かせて、手を握っていればその不安も和らぐだろうと微笑みかける。
「心配なら手を繋ごう、逸れると色々面倒だからな」
「へっ? あ…ありがと。そうだね、万が一別々の場所に…なんてことになったら、草神様に会いに行くどころじゃなくなっちゃうもんね」
「…そういうことにしておこう。では、ラザンガーデンの中腹を目指すから…
サージュ、君もあの場所の光景を頭に思い浮かべてくれ」
ただ手と手を触れ合わせるだけのことにさえ強引に理由をでっち上げて頬を染める少女に、彼は哀歓が綯い交ぜになった複雑な想いを抱きながら、眼前の彫像が齎す碧の輝きに空いている方の手を伸ばす。
そして、目的地と定めたラザンガーデンの情景を思い起こす。草花の織り成す幻想的な景色の中佇む無骨なオブジェクトを想像の視界に捉えたその刹那、少女は自らの身に何が起こったのか認識する間もなく、思い描いた通りの場所へと辿り着いていた。
「!? 嘘…本当に一瞬でここまで来れちゃうんだ…」
懐を慌ただしく探り時計を取り出して、一切の時間経過がないことを確かめる
サージュ。
困惑と興奮が入り交じり声が上擦る少女の声を聞き付けたのか、或いは男の心を読んでいたのか。
二人の到着を待ち侘びていた草神が、喜びに満ちた笑みと共にラザンガーデンの坂を舞い降りた。
「どうやら、
私の見立ては間違いじゃなかったようね。教えたばかりの知識を早速使いこなすなんて、そう出来ることじゃないわ」
「クラクサナリデビ様」
社交辞令でしかない無意味な称賛は不要だと鋭い視線を送ると、彼女は咳払いして居住まいを正し、神としての尊厳を全面に出した真剣な眼差しで彼らに謝意を述べる。
「こほん。二人とも、今日は来てくれてありがとう。詳しいことは、いつものように私のお家で話しましょう」
端的に告げて、彼女は踵を返して坂を登って行く。数歩歩んだ後の花嵐に紛れ姿を消し、恐らくはスラサタンナ聖処まで戻ったのだろうと推測する。
幻想的な所作に目を奪われていた
サージュが、我に返るや否や、草神の口にした何気ない言葉に眉を下げて小さく嘆息を零してみせた。
「いつものように…かあ。何だか畏れ多いなぁ」
数ヶ月前の黄昏時に顔を合わせて以降、何かと彼女と縁がある自分は、他の一般人と比べれば確かにあの場所に足を踏み入れた機会は多いのかもしれない、そう少女は物思いに耽る。
ただそれでも、代理賢者として幾度も呼ばれた経験のあるアルハイゼンのように、頻繁に訪れているとは言い難い。
故に、スラサタンナ聖処を慣れ親しんだ場と認めるには、まだ気後れする気持ちが残ってしまっていた。
「そう気負うくらいなら、俺の分まで存分に彼女を敬ってくれ」
「ふふっ…ありがとう、元気づけてくれて」
冗談とも本心ともつかぬ無感情な声で発破をかけられ、
サージュは急速に緊張が解れていくのを感じる。
そんな談笑を交わしている内にラザンガーデンの長い坂を登り終え、少女達はスラサタンナ聖処の堅牢な扉を開く。
「いらっしゃい。早速で悪いけれど、本題に入らせてもらうわ」
招き入れた二人を自らの力で顕現させた草木のソファに座らせ、その眼前に高さを合わせたテーブルを作り出す。
それからどこからともなくティーセットを持ち出して湯を注ぎ、優雅な午後の茶会が開かれた。
「
サージュ、貴方には…今度のトーナメントで優勝して、あの冠を壊して欲しいの」
「クラクサナリデビ様、何故それを御自分で動くのではなく彼女に頼むのか…聞かせてもらっても?」
少女が反応するよりも先に、横から男が割って入る。口調は努めて平静を保ってこそいたが、微かに憤りを隠し切れていないその鋭い隼の如き眼光に、草神ナヒーダは彼が少女へ抱く想いを垣間見る。
「今年の学院祭は国中の皆が活気づいて、より良いものにしようと頑張ってる。それを
私が邪魔立てしてしまうのは、まるで子供達の劇に大の大人が一人だけ混ざるようなもので…そんなことをしたら興醒めしてしまうわ」
拗ねた子供のように、溜息混じりに笑う。人の上に立つ魔神としては尤もらしい言い分に、少女はやはり彼女がこの国を統治する太陽"マハークサナリ"であることを強く実感する。
その認識を確かめた上で、それでも
サージュにとって彼女は"
クラクサナリデビ"であるべきなのだと矛盾した気持ちが勝ってしまい、"
本当の太陽"について何も言えずにいる現状に胸が軋む。
「…冠を壊すのは、危険なものだから…ですか」
「ええ。 貴方達はこの前から熱心に調べていたようだから、既にあれの危険性はよく知っているでしょう?」
「でも…あの中にはマハ…」
言いかけて、喉が痞える。冠を砕けば、確かに老父の呪詛は払拭することが出来るだろう。
だが、自分の中に宿った
マハールッカデヴァータの記憶もまた、同じように失われてしまうのではないか。
そんな不安が過ぎりながらも、彼女に異を唱えることも出来ず、少女は敬愛する草神の願いに少しでも応えるべく折衷案を申し出るのだった。
「…すみません、少し取り乱しました。冠を私が壊すのではなく、ここに持ってくるという約束でも構わないのなら…最大限の努力を尽くすと誓います」
「それでもいいわ。確かに、大衆の目がある中であんな貴重な品を壊せなんて命令…自分の立場が心配になって当然よね」
「えっと…あはは、まあ…そういうことにしておいてください」
真意をわざと外しているとしか思えぬピントのズレた苦笑に、釣られて
サージュも口角を引き攣らせる。
少女のぎこちない笑みを以て彼女達の盟約は結ばれたと看做し、男は焦れた様子で自分がここに呼び出された理由について問い掛ける。
「それで草神様、俺にはどんな無茶を押し付けるつもりでしょうか」
「…もう、本当に意地の悪い言い方をするんだから。貴方に無理難題を頼んだことなんてないのに。ねぇ
サージュ?」
話は終わった筈だと油断していたところに突如無理筋な同意を求められ、思わず肩が跳ねる。
代理賢者を務めていた頃の彼がどれほど心労を抱えていたかを知る少女は、素直に肯定出来ず視線を逸らすしかなかった。
「そ、それは…」
「草神様、これ以上彼女を困らせないでください。そんな回りくどいことをせずとも、俺は貴女の頼みを断りませんよ」
耐えかねたアルハイゼンが再度声を上げ、堂々と本心を隠さず"恋人"を庇い立てる素振りを見せる。
ともすれば自分達の関係が知られてしまいかねない暴挙に、隣に座る少女は羞恥から頬が熱を帯びていく。
端から見ればその反応こそが動かぬ証拠となってしまうと気付き慌てて平静を装おうとするも、時既に遅しで。
「…」
意味深長に押し黙り、草神は二人をまじまじと見つめる。改めて観察してみれば、神の力を用いて心を読むまでもなく親密な関係である彼らを前に、自然と彼女の口元が緩む。
「ふふっ、可愛い"後輩"の為になら、面倒でも一肌脱いでくれるのね」
「俺はあくまで自分の為に動いているだけです」
堪え切れず腕を組んで、一刻も早く本題に戻れと言わんばかりの視線を向けるアルハイゼン。
他人に己の行動原理を勝手に推測され決めつけられることを、彼は何より疎ましく思っていた。
「…そうね。
私を助けるべく尽力してくれたのも、代理賢者を引き受けてくれたのも、全て貴方自身の為だったわね」
敢えて緩慢な動きでカップに手を伸ばし、草神は一呼吸置いて男の憤りを鎮めさせる。
毒気を抜く柔らかな笑みを湛え、"マハークサナリ"として本来持ち得る筈の力を使いこなせぬ今の自分は、一人では何も出来ない未熟な若草でしかないと語った。
「でも、だからこそ私は貴方に助力を願うの。今度の学院祭を
恙なく終える為には、貴方に露払いをしてもらう必要がある」
草神クラクサナリデビの願いを込めた真摯な眼差しを前に、男はそれでも口を閉ざし続ける。
訪れる沈黙に、見兼ねた
サージュが身動ぎしたその刹那、根負けしたように彼が小さく息を吐き、そして。
「俺は先程既に言った筈です。"回りくどいことをせずとも、貴女の頼みを断るつもりはない"と」
「…ええ、ありがとう。三十人団にも話を通しておくわ。具体的なことはまた明日以降、あちらの動きを見て決めましょう」
花が芽吹くように破顔して、ナヒーダは力強く頷き謝意を露わにする。それから改めて少女へ向き直り、勝利を希う。
「
サージュ。私がこんなことを言うのは判官贔屓になってしまうかもしれないけれど…頑張ってね」
「は…はいっ!」
勢いよく立ち上がって、脇を締めて両手で握り拳を作っては、学院トーナメントへの気合いを見せる少女。
しかし不敬にも草神を見下ろすことになってしまい、それに気付くや否や敬虔な信徒は即座に跪いて、聖処の床と一体化するかの如く低頭する。
「あ、すっ、すみませんクラクサナリデビ様…」
「いいのよ
サージュ、私は気にしてないわ。だから貴方もあまり意識しないで、顔を上げて」
「ぐっ、わ…わかりました」
渋々首肯して、少女は背筋を伸ばして立つ。区切りがいいと見定めたアルハイゼンが、彼女に合わせてソファに預けていた身を起こし、退出の意を示す。
「最後にひとつ、これだけは忘れないで欲しいのだけれど」
何も言わず背を向け今にもここを去ろうとする男と、後ろ髪を引かれながらそれに追従しようとする少女を呼び止める。
願いを託した身として、そして彼らの上に立つ神として。草神クラクサナリデビが、彼女達へと祈るように告げる。
「二人とも、無理はしないでちょうだい。特に
サージュ…貴方はいつも頑張り過ぎるきらいがあるから、少し心配だわ」
首だけを器用に振り向かせ、男が口角を上げて了承を示す。長い前髪に隠れてその瞳を見ることは叶わなかったが、きっと優しく笑んでいるのだろう声音に、草神は胸を撫で下ろした。
「…後でよく言い含めておきます」
真昼の陽射しが燦々と降り注ぐ外界に出て、
サージュは眩む視界に無意識に目を細めてしまう。
前回この場所を訪れた時と比べ、既に十分な休息を得て不調も成りを潜めたと信じていた彼女にとって、先刻の草神の言葉がプレッシャーとなって重くのしかかっていた。
「
サージュ。このまま徒歩で帰宅するか、もう一度ワープポイントを使うか…どうする?」
「自分の足で歩くよ。あれは確かに便利かもしれないけど、アーカーシャと同じで…頼りすぎてはいけないものだと思うから」
少女が憂いを抱え坂を下る最中、庭園の中腹に静かに佇む彫像を指して問うアルハイゼン。
迷うことなく彼女は首を振って遠慮する素振りを見せるも、尾を下げた子犬のような悲愴に満ちた声で残念がる"恋人"を前にして、あっさりと意志を覆すのだった。
「そうか。ワープすれば、浮いた時間を共に過ごせると思ったんだが」
「前言撤回、一緒に行こ」
「あぁ、折角だから君にもやり方を教えておこう。多用するつもりがなくとも、いざという時の為に覚えておいて損はない」
手解きを受け、見よう見真似で神の目に願いを込める。我が家の傍にひっそりと佇む馴染み深いあの彫像を強く思い浮かべると、眩い光が全身を駆け巡るような錯覚に陥る。
不安から強く握り締めた手が白んでいると気付くと共に、周囲の景色がガーデンのそれではなく、いつもの街外れの長閑な光景であると知る。
「上出来だ」
教えた知識を正しく会得した少女に満悦して、ようやく得た二人の時間を堪能すべく彼女の家に身を滑り込ませる。
サージュは嬉々として"恋人"を自室に招き入れて、労いと謝意の篭ったコーヒーを淹れ、彼に差し出す。
「ふぅ…失敗しなくて良かった。ありがとうアルハイゼン、お茶飲んだばかりでまだ喉乾いてないかもしれないけど、はい」
「感謝する。彼女の紅茶は甘味が強く、俺の口にあまり合わなかったからな」
手渡されたコーヒーを受け取り、男は柔らかな笑みを浮かべる。今は僅かな憩いでさえ貴重だと幸福を噛み締め、明日からの学院祭に思いを馳せる。
普段なら面倒でしかない催事が、今年は不思議と苦ではなく、この感覚の違いに彼自身も驚きを隠せずにいた。
だがそれも、全ては己が望んで掴んだ未来だからだろう。誰の為でもない、自分自身が得たいと願った結果なのだと。
そのひとつである"恋人"を視界に捉え、彼は臆することなく手を伸ばす。薄氷を包むようにそっと少女の身体を抱き寄せ、祈りを込めて目を伏せた。
Éblouissant