サージュが学院トーナメントへの参加を表明してから、数日が経ったとある日中のこと。
課題に必要だったキングデシェレトに関連する遺跡調査から帰ってきた彼女は、トーナメントの参加申請が滞りなく受理されたことに安堵していた。
「よかった。まあでも、他に出る人なんて居なかったんだろうな。名が知れてる先輩達は皆、長期の調査で出払ってるって聞くし…」
少女の属する因論派そのものは、六大学派の中でそこそこ隆盛な方であり、近年の知論派のように生徒数が極端に少ないというわけではない。
だが学問の傾向からか学院トーナメントに興味関心を持っている人員はそう多くなく、殆どが前回の
サージュと同じく他の誰かが出ることを望む者ばかりであった。
故に今回の彼女はある意味では好奇の目で見られる対象となってしまい、入学して間もない頃以来、何年振りかの他者からの視線に居心地の悪さを感じていた。
「…やっぱり帰ろうかな」
知恵の殿堂までの道程を歩む最中でも、すれ違い様に振り返ってはこちらを見る眼差しが酷く不愉快で、いつもの場所に向かう足取りは次第に重くなってしまう。
踵を返し今日は家に帰ろうとして、しかし遺跡調査の報告書を書かねばならないことを思い出す。
報告書の為には参考文献や先行研究の資料を探す必要がある以上、人々の目線から逃げることは許されないのだと、鬱屈とした気持ちを抱えながらも少女は歩みを進める。
「はあ」
最奥の定位置、人の殆ど居ない彼女だけの空間とも呼べるそこに辿り着き、深い溜息を零す。
調査に出掛ける前に積み重ねていた、"彼女"に関連する書籍を除けて、今日必要な本を手前に持ち出そうと試みる。
だがすぐに、自分の専門ではないキングデシェレトについての文献が、手の届く範囲では想像以上に少なかったことに気付く。
着いて早々席を立たざるを得なくなった煩わしさにモチベーションがみるみる落ちてしまい、呆然とペンを見つめる。
「…そういえば、私以外の出場者って誰なんだろ。この前顔合わせた時、アルハイゼンに聞けば良かったな」
眼前の課題から逃げるように、対戦相手となる各学派の選手が誰であるかが気になり始める。
試合の内容次第では直接刃を交える可能性さえあると考えると、気心知れた相手の方が全力で戦えるなどと思いながらふと視線を正面に戻すと、そこには一人の少女が立っていた。
「お前も学院トーナメントに参加するようじゃな、
サージュ」
否、少女の見た目を保ち続けたまま遺跡に百年間閉じ込められていた、かつての妙論派の権威、もとい現在は知論派に籍を置くファルザン"先輩"が笑みを浮かべて佇んでいた。
「ファルザン先輩、こんにちは。私"も"ってことは、先輩は知論派代表として出るということですね?」
「勿論じゃとも! 知論派の生徒を増やすにはまたとない機会じゃからのう。何としても優勝して、ハルヴァタット学院の地位を取り戻さねば」
居住まいを正して仰々しく会釈して、彼女を隣の席に導く
サージュ。百年の時を越えて現世に舞い戻ったファルザンは、少女にとって生き字引にも等しく、暇を見ては彼女に歴史を学んでいた。
彼女は目を掛けている因論派の少女が己の所属を違うことなく認識していることに満悦の表情を向け着席し、自身が学院トーナメントに参加する目的を語る。
「お前はどうしてまた? 因論派はこういった催事にはあまり興味がないと思っておったが、案外そうでもないということかの…」
その流れから必然的に
サージュの参加理由に話題は発展し、ファルザンは少女が同門の者からの視線を甘んじて受け入れてまで試合に臨む理由がわからず疑念を呈する。
問われた少女は"冠に呪われているかもしれないから調べたい"などとは口が裂けても言えないと一瞬だけ狼狽しつつも、先日友人のニィロウと交わした約束を思い起こし、それを理由として伝えるのだった。
「私は…えっと」
「なんじゃ、人に言えぬような理由なのか?」
「あぁ、いや…ニィロウと約束したんです。彼女、今度のトーナメントで司会をしてくれるらしいんですけど、学院に知り合いは多くないし…私が居たら心強いって」
口篭もったのを後ろめたさと捉えたファルザンが訝しむ声を上げて、少女はそうではないと否定する。
ニィロウの為という以外に付け加えた理由の苦しみを身に染みて知る彼女は、すぐに眼差しを柔らかいものへと変化させ、しみじみと頷いてみせた。
「それと単純に…学問を究めるにはお金がかかるじゃないですか。サーチェン氏の財産があれば、経費申請なんてしなくても実費で好きに学べるしで一石二鳥ですから」
「ふむ、それなら納得出来る。ワシが優勝したい理由のひとつも同じじゃ」
時代によって六大学派の隆盛は大きく異なり、現代のスメールに於いての主流は生論派というのが学者達の共通認識となっている。
少女の"恋人"アルハイゼンがかつて在籍し、ファルザンが今所属している知論派は現在最も人員が少ない学院で、まともな研究にさえ費用を渋られる程の危機に陥っていた。
人々が生活する上で否が応にもついて回る金銭面の問題に関して二人は共に苦悩を抱えており、互いに顔を見合わせては嘆息を零すしかなかった。
「教令院の愚か者共は、その辺りの苦労を何もわかっとらんからの。これについては百年前から全く変わり映えしておらん。この先の時代、クラクサナリデビ様がどれだけ民に慈悲を与えてくれるか…正直期待半分不安半分といったところじゃな」
過去と現在のどちらも知る彼女の観点から見た、未来への希望を静々と聞き入って、
サージュは今まさに話題に挙げられた、敬愛する草神へと想いを馳せる。
長きに亘る幽閉からようやく解放され、失脚した大賢者達に代わり教令院の実権を握りこそしたものの、まだ教令院側は本人の意向を完全には反映出来てはいなかった。
彼女が心から民を想い懸命に働いてくれていることをその身を以て知る少女は、ファルザンのある意味で突き放した評価に密かに胸を痛めていた。
「して、今日は随分と珍しい本が手前に来ておるの。常日頃からクラクサナリデビ様のことしか喋らんお前が、キングデシェレトについて調べておるなど…明日は雪でも降るのか?」
ふと眼前に広がる書物達の傾向を見たファルザンが、普段の少女が手に取ることなどないであろう分野で固められていることに驚嘆を露にする。
「やだなぁ先輩、私だって専門外の勉強くらいしますよ。キングデシェレト文明は特に草神様との関係も深いですし、何より…」
両手を見つめ、己に流れる血潮が砂漠の民のものであることを示す。実際にはフォンテーヌ出身の父の血も流れてはいる筈なのだが、自身の認識は骨の髄までスメールの生まれで、母から受け継いだ砂漠の民としての証を誇りに思っていた。
ファルザンは、普段の少女の殊勝な態度からその事実をすっかり忘失していたと言わんばかりに目を見開いて、それから破顔して力強く頷く。
「…そうじゃったな。知識を求める心に本来貴賤はない。しかしお前はよく、あの防砂壁の隔たりを越えて来れたな?」
「ああ、それについては元々、私の父が学者でしたから。機械ばかりのフォンテーヌから逃げ出して、鳥類を中心に動物の研究の為にこっちに来て…で、エルマイト旅団の母と各地の調査をしていく内に恋心が芽生えて…って」
砂漠の民としては目の上の瘤にあたる存在である、森林地帯との境に位置する巨大な防砂壁を指す彼女。
少女は己の出自について語る際に避けて通ることの出来ない対象である父に関して、抱く憤懣に口角が引き攣りそうになりながらも、努めて平静を保って彼女へと説明責任を果たす。
するとファルザンは表情を外見上の年齢相応の嬉々としたものへと変え、少女の両親を手放しで称賛するのだった。
「ほう? 国を越えての大恋愛か! お前の両親も中々やるのう!」
"大恋愛"と評され、少女は思わず開いた口が塞がらなくなる。自分が誰かに自分の父母について語る機会自体が稀有ではあったが、大抵の場合それを聞いた者の反応は著しく乏しいものであった。
故に肯定的なリアクションが来るとは露程も思っておらず、逆に
サージュ自身がどう受け止めるべきか困惑してしまっていた。
「…そんなこと、初めて言われましたよ。先輩には驚かされてばっかりだな」
「昔は国ひとつ移動するにも大変じゃったからな。今よりも道が整備されておらず、旅商人向けの魔物を避ける薬剤の研究もまだ試作段階だったハズじゃ。故に、何も後ろめたいことも無いのにわざわざ国を出る者など、そう多くはなかった」
毛先の跳ねた長い前髪を指に絡めて、ファルザンは当時の記憶を反芻し懐かしむように語る。
彼女が遺跡に閉じ込められていた百年の間に、他国間の移動に関する利便性は飛躍的に上昇したのだと察し、少女は先人の礎がやはり偉大なものだと痛感する。
だが彼女の思考は更に一歩先を行っており、少女の両親に抱いた印象が正しくはない可能性を示唆してみせた。
「尤も…先のはワシの古い記憶に基づいた感想であって、現代ではそう珍しいことでもないかもしれんがの」
苦笑を零し、彼女は自らが遺跡に籠っていた時間の長さを改めて鑑みる。百年という刻は、人々の暮らしが良くも悪くも大きく変化していくには十分過ぎる重みがあった。
そのたった二割程度しか人生を生きていない少女は、あくまで自身の経験と観測に基づいた感想を述べて、少なくとも今は良い兆しを見せていると微笑んだ。
「確かに、特に最近は稲妻の鎖国令も解けたお陰なのか、クラクサナリデビ様が姿を見せるようになったからなのか…少し前と比べても、街が活気づいたように感じます」
「うむ。良いことじゃ。ワシは特段愛国心がある方ではないが、それでもこの国が栄えていてくれる方がいいと、ごく自然に思っておる。草神様を敬愛するお前なら尚のことじゃろ」
満悦を露わに肯いて、今のスメールという国がようやっと正しい形を取り戻しつつあることを歓喜するファルザン。
彼女が遺跡に囚われる前は、少女が口にした"少し前"のような教令院の圧政ではなかったにしろ、草神がスラサタンナ聖処に軟禁されていたことには変わりなく、そこから解放され自由を得た草神の威光を遂にこの目に出来た感慨も
一入だった。
しかし眼前の少女と比べ、そう草神に対して敬意や親愛の念を強く持っているわけではないごく普通の学者として、彼女は"後輩"の顔を立てて同意を求める。
だが今の"
マハークサナリ"の存在は
マハールッカデヴァータの屍の上に成り立つ幻であると知ってしまっているが故に、"先輩"の無垢な感情を手放しで肯定することの出来ない
サージュが見せた反応は、決して良いものではなく。
「そう、ですね」
眉根を寄せて笑む儚げな表情に、"かつての少女"は眼前の娘が胸の内に秘める哀嘆を機敏に察知する。
後輩が愁いを抱くのであればその悪しき腫瘍を取り払ってやりたいと思えども、何の根拠もない気休めで彼女を慰めるのは無意味だと、深く踏み込むことは出来なかった。
「…」
二人の間に沈黙が訪れ、自分が原因だと悟った
サージュは気まずさを嫌い話題の転換を試みる。
「そういえば、ファルザン先輩は他の学院から誰が出るか、何か知ってますか?」
訊ねたのは、学院祭における所謂"ライバル"について。自分達以外の四学派からの出場者を事前に知ることで、対策を練ることが出来はしないかと少女は考えていた。
けれども偉大な先達の答えは確実性に欠けたものしかなく、まずは首を振って望む答えが与えられないことを告げる。
それから自分の知る情報を開示して、妙論派からの参加者が二人のよく知るあの"希望の星"と称される青年である可能性が高いと語った。
「いや、ワシも全員は知らん。じゃがこの前、カーヴェが学院祭の実行委員と話している姿を見かけたのう。その時の様子からすると恐らく、あの小僧も出場するに違いない」
「カーヴェ先輩が…!?」
青年の名を聞くや否や、少女は乱暴に椅子から立ち上がり、駆け出していってしまう。
突風のような慌ただしさに一度は引き止めるも、急く少女が聞き入れる筈もなく、ファルザンは一人取り残されることとなる。
「ありがとうございます先輩、用事を思い出したのでこれで…失礼しますっ!」
「こら、待たんか! …行ってしもうた。まったく、あの忙しなさはいったい誰に似たのやら」
後先考えずに知恵の殿堂を飛び出した
サージュは、院の出入口にある噴水の傍で我に返りその足を緩める。
「はぁ…はぁ」
無我夢中、全速力で走った疲弊がまだ十全とは言えぬ身に襲い掛かり、両膝に手をついて肩で息をする。
浅慮に自虐の笑みを浮かべながら、彼女は独り言ちる。いくらルームメイトの彼らが確執を抱えているとはいえ、学院トーナメントで司会を務めるアルハイゼンが参加者についての情報を持たない筈がないだろうと、深い溜息を零す。
「アルハイゼンに急いで伝えなきゃって、はぁ、思ったけど…司会者なんだから、流石に知ってるか…」
急な運動に早まる鼓動を抑えるべく胸元に手を当てて、ゆっくりと意識を落ち着かせる。
「それに、カーヴェ先輩の意志を私が無理矢理曲げるのも違うよね。先輩に冠を取られたくないなら、正々堂々勝負した上で、私が勝てばいいだけだし」
父の背を追う青年の身が確かに心配ではあったが、だからと言って彼を辞退させる権利は、
家主の男にもただの後輩の一人でしかない自分にもなく。
ならば全ては試合にて決めるしかない。そう確信した少女は、必ず優勝してみせると拳を握り決意を胸に抱く。
それから改めて己の現状を振り返って、手付かずの課題は勿論、一切何も持たずにここまで走って来てしまったのだと気付く。
「…ってか、一心不乱に飛び出して来たせいで荷物置いてきちゃった…取りに戻らなきゃ」
幼子でもそう成し得ない失態に微かに頬を染めつつ、踵を軸にくるりと身体を半回転させ、来た道を引き返す。
奇行に周囲の視線が突き刺さるが、既に決意を固めた
サージュの眼中にはなかった。
軽やかなステップでいつもの場所に舞い戻って、少女の荷物が残っているせいかまだ留まっていたファルザンへ向け、意気揚々と拳を突きつけるのだった。
「ファルザン先輩、荷物見ててくれてありがとうございます。でもそれはそれとして、私…負けませんから」
「なんじゃ、戻って早々宣戦布告とは…まあよい、可愛い後輩に世間の厳しさを教えるいい機会じゃ。その心意気やよし、受けて立とうではないか!」
Amélioration