周囲が学院祭に向けて活気付いている中、
サージュは我関せずと言わんばかりに一人呆然といつもの場所で佇んでいた。
しかし今の彼女にとっては、山積みになった書物も、手首を痛めて書き写した資料も、全てが無意味なものと化してしまっていた。
「…」
脳裏に浮かび上がるのは、"彼女"の記憶。確かに思い出した筈の
マハールッカデヴァータという名。
"彼女"の面影を求めて過去の記録をどれだけ漁っても、一切それについての記述を見つけることは出来なかった。
それはかつて、少女が敬愛するクラクサナリデビの尊さを覆い隠してしまう巨大な"太陽"であった。
魔神戦争に於いてその身を賭してスメールを護り抜き、新たな枝葉としてクラクサナリデビを遺し逝った先代。それが"彼女"であり、人々は皆"彼女"の輝きを忘れることが出来ずにいた、筈だった。
「…どこにもない」
けれども世界は、まるで"彼女"の存在など初めからなかったようにその一切を忘れてしまっている。
"彼女"が成した偉業も、遺した罪も、ただ一人の草神"マハークサナリ"のものとなり、人々の記憶も過去の記録も、あらゆる全てが書き換えられていた。
失われた"彼女"の威光を追い求めるがあまり、当代の草神であるクラクサナリデビを疎んじていた多くの民でさえ、今となってはその罪を覚えてすらいない。
この認識のズレについて、
サージュはその原因が何であるかまでは掴むことが出来ていなかった。
が、恐らくはアルハイゼンや異邦の旅人達が解決に導いた、先の災厄に何か大きなヒントが隠されていると推測していた。
尤もその事実に気付いたとて、自分以外には誰一人として覚えていない"彼女"の影を追うことなど不可能に近く、八方塞がりのまま立ち止まるしか出来ずにいた。
「でも、これが正しい姿…なの、かな」
かつては自らが敬愛するクラクサナリデビを肯定する為に、
マハールッカデヴァータを否定し、"彼女"の罪を追い求めることを自身の生きる糧としていた少女にとっての現状は、ある意味ではこの上なく喜ばしいものではあった。
しかしそれまでの自分が望んでいた未来は、果たして本当にこのようなものだったのだろうか。
"思い出した"ことで気付いてしまった矛盾に、
サージュは半ば放心状態で天井を見上げる。
「あ、これ…」
少女の目に映ったのは、以前自室で"恋人"のアルハイゼンと過ごした際に彼が見つけたメモ。
あの時は放棄してしまった、幼き日の自分が書き残した拙い字で記されていた言の葉の解読を再び試みる。
「マハー…えっと、ル…ッカ、デヴァータ様…より、クラクサナリデビ様、の方が…すごいのに、か。ぷっ…あはは、本当に…しょうもないこと書き残して…」
乾いた笑みを浮かべて自嘲しつつも、確かに残っていた"彼女"の痕跡を見つけた少女は、そっとそのメモを胸に抱いて大きく息を吸う。
「…って、ん? アルハイゼン、これを読んだのに、何も言わなかった…」
ふと浮かび上がった違和感に、
サージュは疑念を抱き訝しむ。あの日、彼は確かに
マハールッカデヴァータの名を目にした筈なのに、と。
とは言えども、"彼女"の存在が人々の記憶から失われてしまった今でも、その名を冠した"ルッカデヴァータダケ"というキノコの名までもが書き換えられた訳ではない。
アルハイゼンが読んだ際はそのキノコに関する記述と誤認し、本質には辿り着かなかっただけだろうと落胆と共に嘆息して。
「いや…読めなかっただけかな。私の字は古代文字より難解らしいし…はぁ」
「誰が何を読めなかったんだ?」
突如響いた声に、少女が僅かに肩を跳ねさせる。しかしすぐに平静を取り戻し、努めて笑みを浮かべ振り返った。
「ん? あぁ、アルハイゼン。何だか…ここで会うのも久しぶりだね」
「ふむ、確かに言われてみればそうかもしれないな」
ごく自然に隣に座りながら曖昧な同意を示して、少女が目を向けていた紙切れを一瞥する。
その形状と垣間見えた拙い字から、彼はすぐにそれが先日
サージュの家で過ごした際に見つけたものと気付く。
「この間のメモか。それを何度見返したところで、君の字は今も変わらず拙いままだ」
裏面に書かれた字がそう語っているだろう、と揶揄しようとして、彼女のいつになく真剣な眼差しを前に口を噤む。
「もう一回、改めて読んで」
「…わかった」
少女に固唾を呑んで見守られる中、彼はその小さなメモに書き記された言葉に改めて向き合う。
初めに目を通した際には気に留めることのなかった馴染みのない単語に、アルハイゼンは無意識に眉を顰めた。
「うん…? マハ…」
乱れた筆跡と記憶の混迷により眉間に寄った皺を解しながら、妙に引っ掛かるその名について男は声を上げる。
「ルッカデヴァータ、という名は…確かにどこかで聞いた覚えがある。だが、どこで聞いたか…どうにも記憶が曖昧だな」
緩く首を振って微かに焦りを見せる彼を前に、少女は自らのみが知る真実を明透に伝えるにはまだ尚早だと悟る。
核心を胸の内に秘め、今となっては唯一のものとなった"彼女"の痕跡である希少なキノコについて記載された図鑑の一頁を見せて、男の記憶に間違いはないと示す。
「多分…これのことだね。ルッカデヴァータダケって言って、昔は草神様にまつわる祭祀に使われていたらしいの」
「成程。 …だがそのようなキノコのことについて、自分で興味を持ったり調べたりした覚えはないな。君が騒いでいたのか、あるいは他の誰かか…」
しかし彼は尚も思考の海を漂い続けることを選び、自己懐疑に腕を組み指先を口元に当てる。
靄がかかったように思い出せない朧気な記憶の糸を手繰り、一筋の光明を探し求めて。
「…ありがとう、アルハイゼン」
真剣に悩み始めるアルハイゼンの姿に、思わず少女は謝意を口にせずにはいられなくなる。
たとえ彼自身が忘れてしまった名前を思い出すことが出来ずとも、思い出すことを試みようとしてくれただけで充分過ぎる程に嬉しいと少女は感じていた。
「何故感謝の言葉が出る? 俺は単に、この名を知った切っ掛けを思い出せないことが気に食わないだけだ」
「だって、そのくらい私の些細な話にも耳を傾けてくれているってことだもん。嬉しくもなるよ」
絶対の信頼からなる柔らかな笑みに、焦燥に駆られていた男の心が少しずつ絆されていく。
「君の言う些細な話とやらから、思いがけない発見に繋がる可能性もある。その機会を逃すのが惜しいと思うことは、そんなにおかしなことでもないだろう」
苦し紛れな弁明を吐き出して、それだけ自分が
サージュとの会話を楽しんでいることに気付く。
そしてこの幸喜は、"恋人"として彼女に心を許すようになるよりもずっと前からなのだと、男は思わず頬に熱が籠る。
「俺のことよりも、体調はもう大丈夫なのか」
照れ隠しから話題を転換させ、少女の顔色を窺う。彼が観察する限りではまだ全快とは言い難いものの、日常生活が苦でない程度には復調しているようだった。
「うん、今はなんともない…と思う」
「ならいい。流石にあの日は少し動揺したが…無事で何よりだ」
「…ごめんね、心配かけて。あ…そうだ」
胸元に手を当て、鼓動の音を確かめる。確かに鳴り響くこの心臓の音は、紛れもなく草神クラクサナリデビに救われてしまった証なのだと、少女は後ろめたさに奥歯を軋ませる。
更に自らが護りたい、助けたいと願う対象である筈のアルハイゼンも渦中に引き込まれていたという事実も、彼女にとってこれ以上ない苦しみであった。
サージュはあの夜は聞けず終いだった、自らの身に迫った危機と、草神の意味深な発言についてを改めて問い掛けなければと、意を決して彼へと向き直る。
「あの日のこと、聞かなくちゃって思ってたんだ。教えてアルハイゼン、あの時…クラクサナリデビ様が言ってたことの意味を」
こちらを真っ直ぐに見つめる双眸に、男は嘘や誤魔化しでは少女は納得しないであろうと嘆息を零す。
不用意にあの日の記憶を呼び覚ますことで再び彼女が危機に瀕するリスクを警戒しつつ、男は渋々真実を語るべく口を開く。
「悪夢に苛まれていた君は、こう呟いていた。何かが"悪くなるばかり"…と。クラクサナリデビ様が言っていたのはその言葉についてだ」
「…!」
脳裏に焼き付いて離れない耳障りなフレーズに、何故それをアルハイゼンが知っているのかと、少女は動揺を隠しきれなくなる。
忌々しい呪いにも似たその言葉が、夢の中でだけでなく、現実に自分が零していたものだと知り、焦燥に目が見開かれた。
「その様子だと、どうやら心当たりがあるようだな。
サージュ、君はこれを夢ではなく実際にどこかで聞いた覚えがあるんじゃないか?」
今度は
サージュが頭を抱え、混沌とする記憶を回顧する。しかしどれだけ反芻しようとも悪夢を見る以前のことは思い出せず、苦み走った表情で彼女は首を振った。
「わからない。でも…夢の中で聞いたのが初めてじゃないのだとしたら、ヴァフマナ学院の中しかありえないと思うけど」
「ふむ。確かにあの院内でなら、そのような絶望に満ちた発言が飛び交っていてもおかしくはない。だが…そのたった一言で、今の君があれだけの危機的状況に陥るようなストレスを感じるとも考えにくい」
思慮を巡らせる中で、山積みの本の陰に隠れそっと少女の頬に手を伸ばすアルハイゼン。
誰に対しても虚勢を張り、他者の視線に怯えていた過去の彼女ならば、確かにそうした呪詛に容易に心を蝕まれていた可能性は大いにあるだろう。
だが今の彼女は日々研鑽を重ね、自らの進むべき道を違えることなく着実に正しい道を歩んでいる。そう確信していた男にとって、此度の不調は全く理由の見つからない不可解なものであった。
「…ん。自分では全然実感ないけど、クラクサナリデビ様が助けてくれてなかったら…相当危なかったんだよね、私」
「ああ。君自身は勿論、街全体にまで被害が及びかねない程の暴走を引き起こしていた。今となっては一見何ともなさそうに見えるのが不思議なくらいだ」
「そうだったんだ…」
「もし仮にあれが、何らかの強大な力に影響を受けた結果なのだとしたら…一刻も早くその影響を齎した"何か"を見つけるべきだろうな」
"強大な力"という表現に、少女は俯き眉を下げる。彼が知り得ない唯一にして絶対の可能性、それこそが"彼女"の記憶であると気付いてしまい、真実を打ち明けるべきか逡巡する。
「!? …ぐ、ぅ…っ!」
"彼女"の名を口にしようとしたその刹那、激しい頭痛が少女を襲う。まるで世界に、その名を思い出させることを拒むかのように。
異変に気付いた男がすぐに声を上げ身を案じるが、
サージュは心配させまいと無理矢理に笑んで、それ以上何も言うことはなかった。
「どうした」
「だ、大丈夫…何でもないよ。ちょっと…眩暈がしただけ」
机に肘を着いて頭を支え、息を整える。また突然意識を失ってしまわないか不安が過ぎり、傍らに居るアルハイゼンの手を掴む。
「
サージュ?」
触れた手の冷たさに、男は思わず少女の顔を覗き込む。しかし尚も彼女は苦しみを悟らせようとはせず、慌ただしく手を引っ込めてしまった。
どうやら訝しむ声を嫌悪と捉えたらしく、その瞳は暗澹に包まれ、帳が落ちたように光が消え失せていた。
「ごめん、嫌だった…よね」
「…」
掠れた声でそう零し、視線を逸らそうとするのを遮って、アルハイゼンは少女の手を握り指を絡める。
「俺は君を拒んだつもりはない。そう聞こえたのだとしたら、それは誤解だ」
「ありがとう…」
揺らぐ瞳で、謝意を伝えるべく微笑む
サージュ。額には微かに汗が滲み、動悸が激しさを増していく。
けれど少女は、自らがこのような奇怪な状況に陥った原因の手掛かり足り得る情報を見つけたと、声を振り絞って。
「あのねアルハイゼン…さっきの頭痛の衝撃で思い出したんだけど、私…倒れたあの日に、ヴァフマナの学舎でクラクサナリデビ様が何かしてるのを見たんだ」
「クラクサナリデビ様が?」
「うん。それからもう一人、隣に誰かが居たような気もする」
少女から告げられた意外な名に、男は驚きの声を上げる。草神が教令院内を闊歩すること自体はそう珍しいことではなかったが、各学派の構内にまで潜り込んで何かをすることは稀だった。
「それがどんな人物かは思い出せそうか」
頭を指で突いて刺激して、どうにか記憶を蘇らせようと眉を顰めるも、草神の隣に立つ影は朧気で、少女は力無く首を振る。
芳しくない反応に彼は落胆しつつも、無理に思い出させようとする訳にも行かず、静かに頷くしかなかった。
「…そうか」
どちらからともなく沈黙し、二人の間が静寂に包まれる。この謎を解明する最も確実で手っ取り早い手段に、彼らは既に気付いていた。
だが、平時でさえ彼女との接触を避けたがる
サージュを、今の安定しない状態で無理矢理にスラサタンナ聖処まで連れ出すのは憚られ、男は押し黙るしかなくなる。
当の少女もその手段には気付いているらしく、困惑と畏怖からなる苦笑を浮かべて暗に否定を示していた。
「あ…もしかしたら賢者の誰か、じゃないかな」
ふと、
サージュは見落としていた可能性に気付く。それは最も現実的で、逆にその発想に至らなかった男は、彼女が何故そう考えたか仔細を問う。
「ふむ。どうしてそう思った?」
「もうすぐ学院祭でしょ。トーナメントの優勝賞品…才識の冠は、サーチェンっていう因論派の人が寄贈したものなんだ。あれが今度の試合の為にウチの院に戻ってきたから、その辺りの手続きで来ていた人がクラクサナリデビ様と一緒だったのかも」
「ほう。確実ではないが、その可能性は高そうだな。あの冠が、クラクサナリデビ様が気に掛ける程貴重なものだったとは予想外だが」
才識の冠について、これまでは面倒な催しのささやかな景品でしかないと高を括っていた彼だったが、草神が直々に取り扱う程の品と知り、俄然興味が湧いて来たようだ。
元々の所有者であるというサーチェンと同じ因論派に属する身としての少女が持つ知識を聞き出そうとするが、彼女は困った様子で目を伏せ、力になれないことを詫びる。
「
サージュ、君はあの冠…もしくは所有者について何か知っているか」
「正直あんまり。前のトーナメントって、確か四年前だよね。その頃はまだ学院に入ってそんなに経ってないから、学院祭どころじゃなかったし…ごめんね、役に立てなくて」
火事の一件もあって一般よりも遅れて入学した少女は、必然的に学院で過ごした日も年齢に対して短いものとなる。
基礎学科の履修もその分同年代より遅れ、学院の行事にかまけている暇はなかったのだろう。そう推測し、アルハイゼンは彼女の愁いを晴らすべく努めて優しい声を上げる。
「大丈夫だ、気にしなくていい」
少女を安堵させる言葉を掛ける傍らで、彼の中の才識の冠に対する興味は加速度的に増す一方となる。
その興味は決して、珍しいものとされる冠に対し、学者としての純粋な探究心を抱いたからだけではなかった。
サージュを蝕む艱苦が表出したタイミングも、男にとっては何の関連もない偶然とは思えなかった。
「冠とそのサーチェンという学者について、少し調べてみようと思う。君の不調の原因にも繋がるかもしれない」
「なら、私も一緒に…」
「君は自分の体調を直すことを優先させるべきだ。その顔色で無茶を通して、またクラクサナリデビ様に心配されたいのか?」
親から離れられぬ雛鳥のように己に追従しようとする少女を、敢えて非情な言葉を以て突き放す。
草神の名を出せば自分が必ず引き下がると知った上で的確にその名を告げた男に、彼女は声を荒げ抗う。
「嫌に決まってる。でも、自分のことも自分で解決出来ないようじゃ…私はキミの隣に居る資格なんてない」
その気迫に気圧され、思わず声を失うアルハイゼン。しかしすぐに少女の覚悟を尊重すべきだと考えを改め、共に行く為に手を差し伸べた。
「…わかった。だが、無理はするな」
Volonté