知恵の殿堂を出て、帰路に着く
サージュ。通りすがりに聞こえてくる他の学生の噂話に、彼女は新たな憂鬱が間近に迫っていることを知る。
「学院祭…もうそんな時期だったんだ」
教令院で過ごす学生が避けては通れない行事のひとつ、それが
件の学院祭であった。
しかも今年度に於ける学院祭は、例年通り開催される各学派毎の特性を活かした催し物を出す"学院フェス"と、学派の代表者を選出して優勝を競い合う"学院トーナメント"の両方が開かれる年である。
「はぁ、気が重いなぁ」
祭り事そのものは嫌いではない少女だが、その奇特な研究内容と荒波のような性格から、ヴァフマナ学院での彼女は決していい立場にはなく、必然的に学院毎の結束を重視する学院祭へのモチベーションは皆無に等しかった。
「えっ? あれは…クラクサナリデビ様?」
陰鬱さを抱えながら歩む少女は、因論派の構内にある筈のない姿と、その隣に立つ影が何かを前に話している様子を見つける。
その二つの人影を見た瞬間、彼女の脳裏に耳鳴りに程近いノイズが走る。その雑音に同期して視界が淀み、覚束ない足取りで本棚に身を預ける。
「ぐ、ぅ…!」
頭がかち割られるような激しい頭痛に身を屈め、嵐が過ぎ去るのをじっと耐え忍ぶ
サージュ。
しかしどれだけ時間が経っても痛みが引くことはなく、呪詛にも等しい嘆きだけが思考を支配し始めていた。
『…ては…くなる…』
どさり。音を立てて、少女がその場に倒れる。玉のように汗を浮かべ魘されており、傍に居た誰の声も耳に入っていないようだった。
―
「…クラクサナリデビ様。代理賢者を辞任した筈の俺を何故ここに」
人々が緩やかに眠りに就き始める頃合いを迎えたスメールシティ。一介の書記官に戻った一人の男が招かれるは、草神の住居とも呼べる場であるスラサタンナ聖処。
確かに彼はスメールを救った英雄の一人に数えられ、一度は代理でこそあれ賢者の位に就いた重要人物ではあるが、当の本人に治世の意思は皆無であった。
そんな敬虔さの欠片もない自分がどういう理由で呼び立てられたのか皆目見当が着かず、彼は自身を呼び寄せた草神本人へと臆面もなく問い掛ける。
「貴方の"後輩"が、今日の黄昏時に学院で倒れていたところを保護したの。少し…いえ、かなり特殊な状況だから、アルハイゼン…貴方にも共有しておくべきだと思って」
「
サージュが?」
食い気味に問うて、草神が頷く。それから彼女の御力で護られた少女の元に男を導いて、己が告げた"特殊な状況"について説き始めた。
「彼女、深い眠りの中に居るのは確かなのだけれど…その夢境に入ることが出来ないの。とても強固な檻に閉じ籠っているみたいに、外からの介入が全く出来ない状態にある」
苦悶の表情で眠り続ける
サージュを指して、彼女が全てを阻む"何か"があると草神は言う。
しかし直近で最も彼女と深く関わった存在に値する男から見て、
サージュ自身に纏わる事象に思い当たる節はなく。
寧ろ彼は、かつて囚われの身だった頃の草神との奇妙な類似性に糸口を見出そうとしていた。
「
私の置かれていた状況と似ている、とでも言いたげな目ね。でもあれは、五百年前の大賢者達の仕業よ。彼女の場合は…また別の要因によって阻まれていると言うべきかしらね」
男の心を読んだのか、あるいは。彼女は的確に推測を否定して、自身も思考を深めていく。
『…は悪く…』
突如、草神の耳に何処からともなく声が響く。不完全な再現によって掠れ正常に聞くことは出来ず、酷く断片的な言葉の欠片だけが彼女の脳裏に焼き付く。
そしてこれは、同じ場所に居ながらもアルハイゼンの耳には届いていないらしく、彼は草神へと訝しむ視線を向けていた。
「クラクサナリデビ様」
「っ…大丈夫よ、心配ないわ。けどあの声、どこかで…」
「声?」
ヘッドホンを外し、男は辺り一帯を探る。だが彼がどれだけ歩みを進めてもこの聖処の中に他者の姿はなく、必然的に声の主の居所も分からずじまいだった。
「周囲に人の気配はありませんが」
「ええ、それは勿論その通りなのだけれど…でも、確かに聞こえたの」
尚も諦めきれず逡巡する草神。
サージュが置かれている状況を知るには謎の声を追う以外にないと、彼女はそう思い至る。
まず手始めに、言語を操るプロである男に情報を共有し、何か手掛かりを得られないかと策を巡らせる。
「さっき断片的に聞こえたのは、何か"は悪く"…という部分だけ。だから恐らくは、この前後に続く言葉がある。そうよね、アルハイゼン?」
愛くるしい見た目からはかけ離れた有無を言わせぬ威圧に、男は微かな畏怖を抱き息を呑む。
しかしこの威圧感こそが、彼女が国を統べるに相応しい魔神たる所以なのだと己を納得させ、問いに対しての自身の思考を纏める。
「昏睡状態にある彼女の表情を見る限り、考えられるのは"悪く"なった何かへの悲観、或いは絶望…いや、"自分は悪くない"といった否定も有り得るのか」
考えうる可能性を独り言ちて、しかしそのどれもが決定的なものとは思えず嘆息を零す。
現時点で答えを明確にするには情報があまりにも少なすぎると、彼は静かに首を振った。
「いずれにせよ、そのたった四音では…どんな完璧に近い推測も、確定には繋がらないかと」
「…そうね、貴方の言う通りだわ。もう少しヒントがあれば違うのだけれど…」
諦念に俯き、二人はどちらからともなく少女に視線を向ける。草神の加護によってどうにか一命を取り留めているものの、今にも命の灯火が途絶えかねない緊迫した状況にあった。
「う…ぐ、あぁ…」
「
サージュ!」
声にならない呻きを上げ、
サージュが自らの元素力を暴走させる。草神の施した防壁の内側で、少女が持つ氷元素のエネルギーが漏出する。
男は我を忘れ彼女の元へ駆け寄ろうとして、荒れ狂う氷牢の余波に気圧されてしまう。
伸ばした手に無情にもこびり付いた氷雪の冷たさに、アルハイゼンの内に痛惜の念が押し寄せる。
「アルハイゼン」
自分の無力さを悔い密かに歯を食い縛る男へと、草神はそっとその名を呼び振り向かせる。
それから微かな笑みを浮かべて、どうにか彼を落ち着かせるべく優しき言の葉を紡ぐ。
「この子の身に何が起こっているのか、私もまだハッキリとはわからない。でも、彼女を助けたい想いは貴方と同じよ。だから一緒に考えましょう」
翡翠の中心で揺らぐ朱を見据える彼女の瞳は、民を想う慈愛に満ちて。異国の民の血を引く少女に対してもそれは変わらないのだと、男は安堵する。
その安堵も束の間、息も絶え絶えになった少女が何かを呟く。すかさず読唇を試みて、彼らは少女の零した言葉がどのようなものかを探る。
「…くな…か、り」
「"悪くなるばかり"? …となると、否定という可能性は潰えることになるな」
自身の導き出した推測が是でないと知るや否や、いとも簡単にそれを切り捨てて再び熟考を始めるアルハイゼン。
新たに紡がれた言葉によって少しずつ見えてきた全容に、彼は少女がそれを口にするのは不可解だと疑念を呈する。
「つまりこれは、彼女自身の言葉ではない…?」
「恐らくはそうよ。かの声は、彼女の意思に共鳴した訳ではなさそうね」
訝しむ男に、草神は静々と同意を示す。それから再び両手を翳し、彼女を蝕む"何か"を取り去ろうと力を込める。
「何にせよ、一刻も早く彼女を救わないと」
―
「ここは、どこ…?」
深い闇の中、
サージュは一人立ち尽くしていた。否、自分が己の足で立っているのか、それとも宙に浮いているのかさえ、彼女にはわからなかった。
唯一わかることは、自らの手の冷たさ。自身の持つ元素力が過剰に溢れ出しているのを感じ、何故力がコントロール出来ないのか焦燥に駆られる。
「…熱がある、訳じゃない…よね。ならどうして…」
額に手を宛て、体温の上昇が原因かと確かめる少女。しかしこの暴走はそのような普遍的な理由ではないらしく、得体の知れない恐怖が込み上げてくる。
「嫌な夢だな…早く覚めないかな」
『…が悪くなっ…いく』
突如として反響する声に、
サージュは警戒心を露わにして振り返る。光のない暗がりに、一人の老人の影を見つけ、彼女は歩み寄る。
「あなたは誰なの? 一体何が悪くなっていくっていうの?」
『…てが…くなるしかない…』
「やめ、て…私の人生は、何も…悪くなってなんかない…」
少女の問い掛けにも答えることなく呪いを吐き続ける老父に、軋む頭を抱えながら彼女は異を唱える。
決して順風満帆であるとは言えずとも、少しずつ吉方へ向かいつつある己の生き様に付け入る隙など与えさせないと、懸命に首を振って。
「やっと自分の気持ちに…正直になれたのに。まだ、これから…どんどん良くしていく途中、なのに…っ」
胸を押さえ、高鳴る鼓動を確かめる。想い人と心を通わせ、ようやく自身の活路を見出すことが出来たばかりなのにと彼女は歯を食い縛る。
凍える両手を握り締めて、力を込める。宿る冷気を鎮めるべく、内に眠る熱を沸々と湧き上がらせ、そして。
「あなたが誰だか知らないけど…私の幸せを邪魔しないで…!」
手を伸ばし、老父の肩を掴もうと吠える。けれども伸ばした腕は空虚をすり抜け、影は一瞬にして消え去る。
『全ては悪くなるばかりなのだ!』
「そんな…こと、な…う、ぐぅ…!」
老父の怒声に、
サージュの声が弱まる。再び襲い掛かる激しい頭痛に、立つことさえ出来なくなってしまう。
「…全部、私のせい…?」
ぽつりと零れた悲愴、それは決して口にしてはならない呪いの言葉にも等しい禁句で。
落涙と共に幻影が人の形を成し、彼女の愛する男によく似た、しかし彼ではない何かが眼前に現れる。
ノイズだらけの姿、鮮血を想起させる紅く染まった瞳が、彼女を蔑むように見下していた。
『その通りだ。君が居なければ、俺はあんな大それた計画を立て、神を救おうなどと驕ることもなかった』
「嘘、アルハイゼンは…そんなこと…言わな、い」
顔面を両手で覆い、幻が見せる残酷な投影を拒む。だがすぐに彼女の弱々しい否定を覆すように、背後から別の影が忍び寄る。
そっと肩に触れた幻影が、じわりじわりと重く伸し掛る。敬愛する草神を模したそれは、少女が望むものとは真逆の断定を囁く。
『いいえ、あなたのせいよ。ダメでしょう、ちゃんと
私のこと…"忘れて"くれなくちゃ』
拭い去れぬ違和感に、心臓の音が激しさを増していく。草神とは似て非なる"彼女"に、少女は目を見開いて振り返る。
「クラ、クサ…ナリデビ…さ、ま…いや、違…う…?」
抱いた疑念を吹き飛ばすかの如く、花嵐が吹き荒れる。風が凪いだ後、足元に転がるものを見つけ、
サージュは身を屈める。
落ちていたのは缶詰知識。本来の若草色ではなく真紅に染まったそれが放つ輝きは、彼女の学者としての好奇心と未知に対する恐怖を綯い交ぜにする。
恐る恐る手を伸ばそうとして、どこからともなく声が響く。しかし制止も虚しく少女の指先は缶詰知識に触れ、そして。
『来ないで!』
「え? …あ、ぐ…うぁぁっ!」
缶詰知識から濁流のように溢れ出した混沌が彼女を包み、その視界を朱に染め上げる。
鮮血が滲むが如く熱を帯びる掌を見つめ、力を込め堅氷を創り上げる。それを握り潰して砕き、散った破片が頬を掠め紅き血を滴らせる。
「思い、出した…ううん、どうして…こんなに大事な記憶を私は"忘れていた"んだろう」
流れる血を乱暴に拭い取って、少女は微笑む。真紅に満ちたその瞳には、世界に対する憎悪にも似た義憤が宿っていた。
「
マハールッカデヴァータ様。私だけは、あなたを忘れちゃいけなかったのに」
―
一方、スラサタンナ聖処にて。一切何の前触れもなく少女はその双眸を見開いて、ゆっくりと身体を起こす。
「あれ、ここは…」
朧気に見えた景色に違和感を覚えつつ、少しずつ頭を働かせる。すぐさま自分がこのような神聖な場に居ていい筈はないと気付き、重い身体を引き摺り立ち去ろうとするも、彼女の足は言うことを聞かなかった。
少女の覚束ない足取りを支えたのはアルハイゼン。肩を抱く手は微かに震え、心の底から安堵した様子で彼女を見ていた。
「大丈夫か」
「うん、平気…ってアルハイゼン? どうしてここに…」
至って自然に返事をしてから、その声の主に驚嘆を零す
サージュ。自分だけでなく、何故彼までもがこの場所にと疑問を呈する。
しかし少女の疑問に答えたのは彼ではなく、この聖処の主である草神クラクサナリデビだった。
「
私が呼んだのよ。学院で貴方が倒れているのを私が見つけたから、貴方の"先輩"に共有するのが最適だと思って」
深刻な表情で、彼女は告げる。それから少女の身に起こっていた危機について、刻々と語り始めた。
「自覚はないでしょうけれど、ついさっきまでの貴方はとても魘されていたのよ。私の力も及ばないような、深い眠りの中にいた…」
少女が半信半疑で男に目を向けると、草神の隣で一部始終を見ていた彼は苦み走った表情で頷く。
その身を案じる二人とは裏腹に、
サージュはどれだけ記憶を反芻しても何も思い出せず、一体自分のどこにそんな危険があったのかと疑念を抱いていた。
「そう、だったんですね。 …すみません、クラクサナリデビ様。あなたの御手を煩わせてしまう羽目になるなんて、信徒にあるまじき失態です」
生返事で頷いて、少女は粛々と非を詫びる。それから彼女の眼前に跪き、裁きを待つかの如く頭を下げた。
「いいえ、私は今回も何も出来なかったわ。私が出来たのは、ただ見守ることだけ…」
弱々しく首を振って、草神は己の力不足を嘆く。耐えかねた男が二人の間に割って入り、彼女達の視線をこちらに向けさせる。
「…クラクサナリデビ様。貴女の防護壁がなければ
サージュの力は更に暴走し、周囲一帯をも雪原に変えてしまいかねない危険を孕んでいました。それを未然に防いだのは、紛れもなく貴女の功績でしょう」
「ありがとう、アルハイゼン。機械生命体よりも自分の感情を表に出さない貴方に気を遣われてしまっては、流石に私も認めざるを得ないわね…」
態とらしく比喩を交えて、柄にもなく自らを慰めたアルハイゼンを揶揄し、草神はぎこちなく微笑む。
彼はその仏頂面を崩すことこそなかったが、彼女を見つめる視線は物言いたげな含みを持つものであった。
「何はともあれ、
サージュが無事に目を覚ましたのであれば、これ以上ここに留まる理由は俺達にはありません。ではこれで」
嘆息と共に、男は踵を返し立ち去ろうと足を踏み出す。慌てて追従しようとした
サージュ共々呼び止めて、草神はまだ憂慮が残っていることを告げる。
「待って。まだ全てが解決したわけじゃないわ。
サージュが口にしていた言葉について…私の方でも引き続き調査を進めるわ。だから貴方も、努々忘れないようにしてちょうだいね」
「…承知しました」
魔神らしい威圧の籠った懇願に、渋々といった態度を隠すことなく、しかし確かに了承の意を示すアルハイゼン。
そのまま振り向かずに彼はスラサタンナ聖処を去り、少女も慌てて草神へと頭を下げそれに続く。
外に出て二人になった好機にと、
サージュは改めて仔細を問うべく男に呼び掛ける。
「ねえアルハイゼン、さっきクラクサナリデビ様が言っていたのって…?」
「君が気にすることじゃない。それよりも、一刻も早く帰って休むべきだ」
一切振り返ることなく答えを躱して、彼はラザンガーデンの長い坂を下る。苛立ちに満ちた声音に、悲愴を抱いた少女の足が止まってしまう。
「どうして…何も教えてくれないの」
「今の君は、自分で思うよりも酷く疲弊している。そんな状態の相手に何を言っても無駄だからだ」
「無駄だなんて、そんな言い方…!」
震える拳を握り感情を爆発させ、しかしここでアルハイゼンと口論を続ける無意味さに少女はすぐさま首を振る。
それからラザンガーデンを象徴する
東屋の柱に身を預け、目を腕で覆い涙をひた隠す。
「ううん、やっぱりいい…なんでもない。キミの言う通り、疲れてるんだろうな…少しここで休んでいくね」
ズルズルと少しずつ自重を地に落とし、完全に腰を下ろす。膝を抱えて蹲って、彼女は手だけを"恋人"へと力無く振ってみせる。
男は何も言わず、否、何も言えず頷く。小さく就寝の挨拶だけを告げ、そのまま一人坂を下って行く。
「体力戻ったらすぐに帰るから、心配しないで。おやすみ、アルハイゼン」
「…ああ、おやすみ」
足音を頼りに、彼が完全に去るのを待つ
サージュ。独り幻想的な庭園の中心に残って、少女は彼に言えなかった、夢の中で聞いたとある言葉を反芻する。
「全ては、悪くなるばかり…」
Obscurité