「水とコーヒー、どっちにする? 暑かったから水分取った方がいいよ」
少女が一人買って来た荷物を整理しながら、客人だからと先にソファに座らせたアルハイゼンへと問う。
男の表情に疲労は全く見えなかったが、それなりに長い距離を歩いたことによる発汗を考慮するならば、カフェインよりも先に水分補給をすべきだと彼女は考えていた。
「コーヒー。水分は果物からでも十分賄える」
「了解、お湯沸かすね。先に食べて待ってて」
苦味と共に果実を所望する彼に承諾し、家で蓄えていたいくつかの果物と、先刻の買い物で得たザイトゥン桃を皿に盛り付けて差し出す。
それからキッチンへと戻り、コーヒーを淹れる為の湯を沸かし、温度の上昇を待つ間に豆を挽き始める。
「んー。どのくらいの挽き目がいいんだろう」
彼が好む豆に適した粒度を確かめるべく、付属しているの説明書きを探し、それによく目を通す少女。
どんなに優れた豆を選んでも、ここで最適な粗さを見極められず失敗してしまっては本末転倒になる。
普段はカフェで挽きたてを嗜むばかりで、手ずから粉砕機を扱うことには不慣れである彼女は、緊張に冷や汗を垂らしつつハンドルに力を込める。
「よい…しょっと」
少女がキッチンにて懸命にハンドルを回す最中、独り手持ち無沙汰になったアルハイゼンは自らが持ち歩く本を読もうと鞄に手を掛ける。
しかし出掛ける際に精査していなかったその中身は、既に読み終わってしまったものしか入っておらず、折角ならばと彼はキッチンに赴き、
サージュの蔵書を読む許可を乞う。
「
サージュ、君の本をいくつか借りてもいいか」
「いいよ。好きに取って」
二つ返事で了承して男を見送って、暫くしてから彼女は秘すべき書物があったことを思い出す。
「…あ! 待って、棚の上のは…!」
慌ててリビングに駆け戻り、彼が読んでいる本を確かめる。少女の制止も虚しく、男は彼女が隠したいと願ったその本を手に取っていた。
「どうかしたか」
「いや…あのやり取りをした後で、それ読まれるの…ちょっと恥ずかしいなって」
サージュが指すのは、煌々と月が満ち星々が瞬く幻想的な光景が印象深い、あの夜の告白。
彼が口にした引喩は正に、今彼自身が手に持っている稲妻の古小説に記されていたものだった。
「そうか? 俺は寧ろ、君があの時…俺の言葉を正しく理解した上で応えたのだと知れて、大いに満足しているよ」
頬を真っ赤に染め羞恥を露わにする少女とは対照的に、アルハイゼンは不敵に口角を上げて破顔してみせる。
「今日までずっと…恐らくその通りだろうとは思っていても、それを裏付ける確証はなかったからな」
「ごめん、ちゃんと話すべきだったね。最初に月が綺麗だと言った時は、何の他意もなかったんだけど…キミが返した言葉を聞いて、すぐに気付いた」
愛を伝えるには遠回し過ぎる告白と、それを受けた上でのやはり遠回しな返答。そのどちらも、両者共に言葉の裏に隠された意図を把握していなければ成立し得ない表現である。
にも拘らず、二人は示し合わせたわけでもない完全な偶然によって互いの想いを通じ合わせた。
ある種の奇跡のようだったとさえ思っていた
サージュがそれを伝えると、男はそれが必然だったと語る。
「と言うか、アルハイゼンがあんなロマンチックなフレーズを分かってくれた方がびっくりだよ。小説なんて読まないと思い込んでたから」
「小説は書き手による癖が強く出る分、珍しい文法を見つけやすい。確かに一部には荒唐無稽な表現や支離滅裂な文章もあるが、案外役に立つことも多いんだ」
「なるほどね…それで知ってたんだね。流石アルハイゼン」
的確な説明を受けたことで合点が行ったと頷いて、少女は彼の底無しの探求心に感嘆を零す。
その強欲さは自分も見習うべきだと胸に刻み、作業の続きをとキッチンへ戻っていく。
「ゆっくりしてて。他の本は読みたかったら好きに取っていいから」
「あぁ、そうさせてもらう」
首肯と共に男は少女を見送り、彼女の所有する書物のどれから読もうかと逡巡する。
個人で書籍を所有することが禁じられていた時期があったなどとは信じられない程の大量の蔵書を抱える少女の本棚は、彼にとって宝の山にも等しかった。
勿論これらは全て、真実を覆い隠そうとするアーカーシャには頼れぬ彼女があらゆる手段を用いてかき集めた、言わば叡智の結晶のようなものである。
それだけ研究に対し心血を注いでいる少女が卒業課題を達成出来ない最大の要因が、"共同研究者の不足"という彼女自身の努力とは無関係なものであることは、彼女の懊悩を最も近くで見てきたアルハイゼンが世の不条理を実感するには充分過ぎる事象だった。
「…ん?」
歴史書の中に、密かに紛れていた一枚のメモを見つける。古代文字かと見紛うような拙いその字を読み解くと、そこには在りし日の少女が書いたらしき悲愴が残されていた。
「待ってアルハイゼン、何それ」
「何と言われても、どう説明したものか。昔の君が書いたもののようだが」
コーヒーを淹れ戻ってきた
サージュが、開口一番に不審なメモを読む男へと制止を告げる。
そのメモは彼女の記憶には全く残っていないものだったらしく、恥ずべき記録を見られたのではないかと焦燥を露わにしていた。
「え、全然覚えてない…というか読めない。今よりずっと汚いね、私の字」
メモを受け取り解読を試みるも、書かれた言葉が何かすら把握出来ないと少女は過去の己の字を一笑に付す。
しかし字の汚さは今でもそう変わらないと考えている男は、彼女の微笑には同意しかねると嘆息を吐く。
「…これと比べて、あれが改善されたと言えるレベルなのか」
「ちょっと待って、アルハイゼンが想像してるのってこの前の日記のでしょ。あれは寝ながら書いたから拙いんであって、今はもっとまともな字を書けるようになったよ」
子供が親に反抗心を見せるかの如く、
サージュはメモの裏面に今の"まともな字"を書き殴って意気揚々とそれを見せる。
「俺にはどれも同じに見えるが」
悠々とコーヒーを啜りながら、少女の懸命な主張を無情にも切り捨てるアルハイゼン。
長年見てきた彼女の字は書記官の肥えた目でなくとも非常に稚拙にしか見えず、彼は思ったままを口にする。
「そもそも、君の筆跡からは字を丁寧に書くという意思が全く感じられない」
「丁、寧…?」
まるで今この瞬間に初めて聞いた単語だとでも言わんばかりに、目を丸くして少女は惚ける。
その反応に対する男の心象は相応に悪く、物言いたげな視線が彼女に突き刺さる。
「…うう、悪かったって。綺麗に書こうと意識してないのは認める。けどしょうがないんだよ、頭で考えたことを早く書き出さなきゃって思うと、手が追いつかないんだもん」
非を認め意気消沈した
サージュが、字の汚さは自身の思考と書写の速度差にあると語る。
だが、書記官として何万、何億の文字を書き続けてきた中で身につけた最適な技法を熟知している彼にとっては、それは唯の言い訳でしかなかった。
「その主張に沿うなら、本の内容を書き写す際には何も考える必要がない分、字が汚くなることもない筈だが…どうなんだ?」
「し、知らないっ」
的確に彼女の弱味を射抜く男の不敵な笑み。全て知った上で問うている彼の底意地の悪さに、少女は完全に臍を曲げてしまった。
頬を膨らませて、顔を背ける
サージュ。謝罪の言葉を待つ素振りをしつつチラチラと視線を向けるも、彼が素直に非を認める筈もなく。
「…はぁ。いいよ、私なんてどうせ字が汚くて頭も悪い落ちこぼれですよーだ」
「勝手に誇張しないでもらえるか。俺はそこまでの罵倒を口にした覚えなどない」
「うそうそ、冗談だって…」
気を惹かせる為に大袈裟に拗ねてみせると、男は嘆息と共に怒りを声に乗せ少女に迫る。
すぐ弁明に両手を振って苦笑を浮かべる
サージュだったが、彼の瞳は本心から憤りを露わにしていた。
「
サージュ」
平時よりも更に低い声音で、諫めるように少女の名を呼ぶ。そこでようやく彼女は自らに向けられた苛立ちの意味を悟り俯く。
「あぅ…ごめん、冗談でも言わないようにする」
「そうしてくれ。言葉というものは…元よりそれだけ重みのあるものなんだ。今は何気なく言ったつもりの自虐でも、繰り返せば繰り返すだけ…君自身の心を蝕んでいくことになる」
淡々と語りつつ、男は徐に
サージュがプスパカフェで譲り受けた揚げ菓子を取り出しては、彼女の口にそれを捻じ込む。
それが彼なりの不器用な慰めなのかは定かではなかったが、口内に広がる甘みに絆された少女は顔を綻ばせる。
「…ん。おいしい」
満足げに咀嚼する姿を見て男も興味が湧いたらしく、同じように自らの口にそれを放り込む。
見た目と香りで覚悟していたつもりだったが、想像していたよりも遥かに強い甘さが彼の舌に襲いかかってきた。
「随分甘いな…」
「甘すぎると感じるようなら、コーヒーに浸して食べるといいって。はい」
「助かる」
カフェで提供される新メニューの商売戦略として正し過ぎる策謀に忠実に従い、少女は揚げ菓子を浸す為の杯を増やす。
それからついでと言わんばかりにそれぞれのカップにも追加でコーヒーを注ぎ足して、団欒に微笑を浮かべる。
先刻の文字にまつわる話題での小競り合いにおける哀嘆は既に消え失せ、普段通りの活発さを取り戻していた。
そうして穏やかな雰囲気に揺蕩う最中、ふと
サージュは今日の予定が狂ってはいまいか気になり、上目で男へ問い掛ける。
「そういえば…お菓子食べてから聞くのも変だけど、お肉料理は夕食でいいんだよね?」
「あぁ。元よりそのつもりだ」
確認に対する同意を得て、少女が力強く頷く。共に居られる刻の長さに喜びを噛み締めて、頬が紅く染まっていく。
「わかった。じゃあ陽が傾く頃に準備し始めるから、それまでのんびりしよっか…ふぁ、あ…」
そう言って、彼女は小さく欠伸を零す。緊張により夜の眠りが浅かったのも勿論、買い物による疲労も多少なりとも彼女にとっては負荷となり積もっていたようで。
静々と本を読むアルハイゼンの肩にそっと頭を乗せ、彼に凭れ掛かるようにして目を閉じる。
「
サージュ、眠るのならこっちにしてくれ」
「…ぅん?」
微睡むのも束の間、本を読むのに腕を動かせないことを疎んだ男が、少女の頭を自らの膝元に誘導し固定する。
「え、や…待って、これは流石に恥ずかしいよ…!」
どこからどう見ても膝枕される形になってしまい、少女は羞恥に全身が熱を帯びていく。
眠気など完全に吹き飛び、起き上がろうと身を捩って男の顔を見上げるも、彼は素知らぬ顔で本を読み続けるばかり。
無言で暫くの間凝視し続けて、ようやくその視線に含むところがあると気付いたらしい男は呆れた様子で、彼女を膝に導いた理由を告げる。
「肩に寄り掛かられていては本が読みにくいだろう」
「それは…その通りなんだ、けど」
彼の言い分を認めつつもどうにか反発しようとして、けれど逸る鼓動が否を唱える声を遮る。
このまま時が止まればいいとさえ願う無垢な心と、一刻も早く離れて高鳴る鳴動を抑えたいと喚く心。
相反する二つの想いに挟まれた彼女は、せめて今の状況を意識せず済むようにときつく目を閉じる。
だが無心で心を鎮めていく内に、再び睡魔が忍び寄って来る。その誘惑に抗えず意識が途絶えるのに、そう時間はかからなかった。
「…」
一方、彼女の苦悶など気にも留めず本を読んでいたアルハイゼンは、読み終えたそれをどうすべきか逡巡することとなる。
少女を退けて席を立つのが最も正しいと思えども、この温もりを手放すには名残惜しさが勝る。
愛しい"恋人"の無防備な寝顔を前にして、彼女が心から己に気を許していることに喜悦を抱く。
「ん、ぅ…」
サージュの髪に触れたその刹那、小さな呻きが漏れ出す。それから彼女はすぐに意識を取り戻し、不覚を詫びる。
「はっ!? ごめん、本当に寝ちゃってた…足痺れてない、大丈夫?」
「問題ない。それより丁度良かった、目が覚めたのなら一旦頭を退けてくれると助かる。本を取り替えようと思っていたところなんだ」
「うん、というより起きる…このまま膝に寝転がってたら動けなくなっちゃう」
重くなりつつあった身体を起こし、ゆっくりと伸びをする。慣れない姿勢と緊張で凝り固まっていた筋肉を少しずつ解して、深く息を吐く。
そう長い時間眠っていた訳ではない筈だと思いつつも、少女は昂る鼓動に焦燥が止まらず逃げるようにキッチンへ駈け込んで行く。
「ちょっと早いけど、ご飯作るね。お昼少なかったからかな…お腹空いちゃった」
買い込んだ食材を取り出して並べ、今日の本懐を遂げるべく作業に取り組み始める。
彼の所望した料理である"お肉ツミツミ"を作る為、
サージュは譲り受けたレシピを舐めるように読む。
「…っと、まずはお芋か」
レシピを確認しつつ、先日のコレイの指摘通り野菜類から調理に取り掛かることにする。
と言っても今使うのは、焼く必要がある芋のみ。付け合わせに用いるイグサや肉の下に敷く為の葉物は、萎びてしまわぬよう後回しにせざるを得なかった。
黙々とジャガイモの皮を剥き、食べやすく且つ肉との間に挟みやすい手頃な大きさに切っていく。
切った芋を油で揚げ、待つ合間にチーズを薄くスライスする。カリカリに揚がった芋のフライの油分を念入りに落として、冷めないよう皿に蓋をする。
「お肉は…あんまり薄いと食べ応えないよね、うん」
それから新鮮な獣肉を厚切りにして下味を施し、強火で一気に焼く。表面に焦げ色がつく一歩手前で料理鍋から下ろし、広げた葉の上に乗せ事前に用意していたフライとチーズを挟んでいく。
アクセントとしてイグサの実やトマトと言った付け合わせを盛り、見た目も香りも"恋人"に振る舞うに相応しいメインディッシュの完成を迎える。
「…よし! 完成…!」
「ほう? 見た目はなかなか悪くなさそうな出来だな」
「あっ、アルハイゼン。味もたぶん大丈夫なはず、何度もレシピ読んだから」
馨しい匂いに釣られてか、アルハイゼンがキッチンの入口から顔を覗かせる。
期待に満ちた声で感嘆を口にするのを聞き、少女は自分の力作を崩さないよう慎重に持ち上げてリビングへと運ぶ。
その後は二人で
細々とした副菜や飲料を揃え、準備が少しずつ整っていく。
全ての支度を終えた
サージュが食卓に着く頃には、結果としてこの上なく夕食に適切な時間となっていた。
「ふぅ…お待たせ。ごめんね…自分一人だとこんなに色々用意しないから遅くなっちゃって」
「大丈夫だ、ありがとう
サージュ。さて、冷めない内に早く食べるとしよう」
労いと感謝を込めてそう告げて、既に自身の食べやすい大きさに切っていた肉を食むアルハイゼン。
表情にこそ出してはいないが、どうやら手料理を口にする瞬間を今か今かと心待ちにしていたようだった。
「ど…どうかな。ちゃんと美味しい?」
無言で咀嚼する男に恐る恐る問い掛け、評価を待つ。緊張から生唾を呑んで、彼女は自分が食事を摂るのも忘れそうになる。
「悪くないな」
端的にそう評して、しかし彼は手を止めることなく一心に
サージュの作った料理を食べ続ける。
その絶妙に本心を読み取れぬ反応に困惑しつつも、貶されないだけで及第点なのだろうと彼女は安堵の息を深々と吐く。
「そう、よかったぁ。多少なりとも満足してくれたなら、私も嬉しいよ」
微かに愁いの見える笑みに、アルハイゼンは食事の手を止めて彼女の瞳をまじまじと見つめる。
「…言い方が悪かったようだな。少し訂正する」
どういうことかと目を見開いた少女に、彼は緩やかに瞳を閉じて、胸の内に宿る暖かさを露わに破顔する。
つい先刻自分自身で口にした教戒を思い起こしながら、彼女へ伝えたいと思った気持ちをストレートに吐き出す。
「想定よりも遥かに美味だと思ったよ。また作ってくれるか?」
Délicieux