多忙な日々を乗り越え、ようやくの休日。
サージュは自身の"恋人"となった男へと手料理を振る舞うという約束を果たすべく、買い物に繰り出していた。
「えっと、お芋は家にあるから、まずお肉…それにチーズ、えぇ…イグサ? シティに売ってるかなぁ」
リクエストを尋ねた際に渡されたレシピに記された材料を確かめつつ、立ち寄るべき店の順路を考える。
しかしその中にモンドにしか自生していない特産物である花の記載を見つけ、少女は遠出を覚悟し嘆息を零す。
「うん? なんだ、よく見たらイグサは代用出来るんだ。でも代わりのものじゃ美味しさがなあ…」
レシピが載ったメモに但し書きされていた文面を見つけ、絶対に材料を揃えなければいけない訳ではないことに一度は安堵する。
しかし折角の機会に、完璧ではない食材を用いての料理を振る舞うという逃げ道を考えたくはなかった。
贔屓にしている花屋か、輸入品を取り扱う行商人。そのどちらかでならモンドの特産でも買うことが出来るのではないかと一縷の望みを賭けて、
サージュは歩みを進める。
「よしっ、まず最初にイグサを探そうっと」
意気揚々と歩き出し、トレジャーストリートへ向けて進み始める。点在する商店で野菜や草花を買った後、プスパカフェで小休憩を挟みつつ遅い朝食を摂るのが、彼女の休日の始まりであることが多かった。
「
サージュ」
唐突に名を呼ばれ、驚愕と共にその声の出所を探す
サージュ。全く予想だにしていなかった声に、彼女の中に焦燥が芽生える。
身体を一回転させた後、進行方向の真正面に、まるでずっとそこで待っていたかのように一人の男が立っていた。
「え…あ、アルハイゼン? 仕事は…」
今ここに居る筈がない存在に、どういうことか問い掛ける。今日は彼女の休日でこそあったが、アルハイゼンにとっては通常通りの勤務が入っている日である筈だと指摘すると、男は。
「休みにした」
「…」
これ以上なく端的に説明され、少女は喉を詰まらせる。それと同時に、罪悪感が彼女の心を侵食し始める。
彼が休暇を得たことでより長い時間を共に過ごせるようになったのは、
サージュにとって勿論喜ばしいことではあった。
だが、己の為だけに他の責務を放棄したのかと考えると、素直に嬉しさを露わにする気になれなかった。
「代理賢者として働かされることになった分、直近の書記官としての仕事の多くは別の人間に引き継いでいたからな。やることがないのに執務室で呆然としているくらいなら、君との時間に使った方が有意義だろう」
憂いに満ちた表情から彼女の懸念点を的確に見抜き、心配する必要はないと諭すアルハイゼン。
それでようやく少女は胸の閊えが取れ、安堵の息と共に次第に表情に笑みを取り戻していく。
「そっか、ならいいんだ」
「ああ。それで、その様子だとこれから買い物のようだな。俺も同行しよう」
当たり前のように隣に並び立って、男が少女へ自然な流れで同伴を申し出る。
サージュは頬を染めて頷き了承を示し、自分より少し歩幅の広い彼に歩調を合わせて歩き始める。
「ん、ありがと。あっでも、お金はちゃんと自分で払うからね。アルハイゼンはお財布出しちゃダメ」
今日のアルハイゼンは、彼女に同行することによって、材料の購入費用を負担する心積もりであった。
それを既に見越していたかのように釘を刺され、男は少女が珍しく一枚上手であったことに驚きを見せる。
「ふむ…本当にいいのか? 食事を作らせる以上、俺には必要経費を出す義務がある筈だ」
男が念を押して確かめるものの、彼女は頑として首を縦には振ろうとはしなかった。
「だって私がやりたくて始めたことだもん、アルハイゼンにお金出させるのは筋違いでしょ」
「わかった。そういうことなら、今回は君に従おう」
その確たる信念に基づいた視線に、押し問答を繰り返す時間が無駄だとそれ以上は何も言わず引き下がる。
元はと言えば自分が手料理を振る舞って欲しいと願ったのが先だという蟠りがない訳ではなかったが、この様子では
サージュを説得するのは骨が折れるだろうと、彼は諦念に息を吐く。
「心配そうな顔しないで、本当に大丈夫だから。恋人同士になったからって、そういう所で甘えるのは嫌なの」
どうやら憂慮を隠しきれていなかったらしく、少女が苦笑を零して宥め、自らの矜恃を語る。
「私は…あくまでキミと対等でいたいんだ。一方的に頼ってばかりじゃ、幻滅しちゃうでしょ?」
「…そうだな」
相槌を打ちつつも、本当に彼女に幻滅することなどあるだろうかと懐疑の念を抱くアルハイゼン。
短くはない歳月を共に過ごしてきた中で、既に彼女の醜態など幾度も見てきたというのに、今更何を以て幻滅するというのか。
いっその事そんな瞬間が来るなら見てみたいとさえ思いながら、彼は通行人とぶつかりそうになった少女の肩をそっと抱き寄せる。
「わっ! ごめ…いや、ありがとう…?」
非を詫びようとして、それより伝えるべきは感謝かと思い直して言葉を紡ぐも、どちらが正しいのか判断出来ず疑問符がついてしまう。
そんな純新無垢過ぎる彼女にもっと危機感を持って欲しいと願いを込めて、彼は少しだけ語気を強めて諫める。
「悪いと思う気持ちがあるのなら、もう少し周囲に注意を払った方がいい」
「そうだね…気を付けなきゃ」
意気消沈して俯き、自戒を込めて呟く
サージュ。幻滅させたくないとつい先刻口にしたばかりのタイミングでのこの醜態は、彼女が己に対する自信を失わせるには充分過ぎた。
しかしここで沈んだままでは、それこそ彼に顔向けが出来なくなってしまう。気持ちを切り替えるべく、少女は力強く首を振って雑念を取り払う。
「とりあえず、まずはそこの果物屋さんから見ようと思うの。おじさん昔は船乗りだったらしいから、もしかしたらイグサあるかも」
屋台の立ち並ぶ通りに見えた、屈強な男性が番をしている店舗を視線で示し、少女は歩みを進める。
男はそこから少し離れて追従し、同行者と気付かれぬ位置から彼女を見守る。どうやら元より贔屓の店だったらしく、店主との会話を弾ませていた。
暫くの間彼女は談笑し続け、その流れで目下の目的であるイグサについてを問う。
彼自身は専門外で取り扱いこそしていなかったが、行商の一人が持ち込んでいたのを見たと情報を引き出すことに成功する。
それから
サージュは感謝と共にザイトゥン桃を大量に購入し、それを抱え男の元へ舞い戻った。
「お待たせアルハイゼン、船着き場の近くに居る行商の人がイグサ売ってるって」
「そうか。それはいいことだが…ザイトゥン桃をそんなに買って食べ切れるのか?」
紙袋にぎっしりと詰められたザイトゥン桃を一瞥して、アルハイゼンがその量に驚嘆を漏らす。
しかし少女は元より自分一人で食べる為のものではないと首を振って、彼の問いを否定する。
「ううん、今日のお土産にと思って。後で持ち帰る分は別で包むから、ちゃんとカーヴェ先輩にも分けてあげてね」
屈託のない笑みを向け、自分だけでなく居候である青年にも分け与えるよう告げられてしまい、男は半ば逃げ道を失ってしまう。
「…仕方ないな」
口ではそう零しつつ、どちらかと言えばこれは最初から彼への贈り物として購入したものだろうと男は快諾する。
あらゆる芸術に対し興味と造詣の深い彼は食の好みも幅広く、採れたての果実を好いていることを
サージュは既に承知していた。
故に、この機を利用してかの青年に果物を分けることで、少しでも彼の苦悩を和らげられればと願っているのが垣間見えた。
「ん、よろしくね」
立場上、直接彼女がカーヴェに対し援助らしい援助を申し出ることこそなかったが、複雑な事情を抱える彼を案じているのは男の目にも明らかであった。
少女が自分以外の異性を気に掛けていることに嫉妬心を抱くべきなのだろうかと逡巡しつつ、どのような角度から見ても"情けない先輩"でしかない彼に対し警戒など必要などないだろう、とアルハイゼンは思考を放棄する。
「えーと。あれは稲妻から来た人だし…あっちに居る人かな」
男が思慮に耽る最中、教えられた行商人を探すべく船着き場の近辺をスロープの途中から見下ろす
サージュ。
行き交う人々の一人一人に目を向ける少女の真摯な眼差しが日光に照らされ輝き、彼は思わずその美しさに息を呑む。
そんな心情など露知らず、少女は目的の人物らしき影に吸い寄せられるかの如く足取りでスロープを下って行く。
逸れてしまわぬよう一定の距離を保ちつつ後を追い、その伸びやかな背を呆然と眺める。
出逢った頃の誰に対しても虚勢を張っていた彼女からは見違える程成長したその姿に、男は欣喜と微かな寂寞、相反する二つの想いを抱く。
「…教令院の内と外で、ここまで変わるとはな」
男はこの少女の変容を、彼女が学院で日々感じている閉塞感によるものと推測する。
そうした重圧の一切がない教令院外部での
サージュは、彼が思うよりもずっと自由だったのだと知る。
ならばやはり勉学から離れ、草神への妄執を消し去るよう仕向けることが最善なのではないか。そんな邪意が過ぎってしまう。
「アルハイゼン、どうかしたの?」
逡巡している合間にも彼女は買い物を着々と済ませていたらしく、先刻の桃と合わせて両腕一杯に荷物を抱えて男の顔色を窺っていた。
どうやら今回彼女が話し掛けた行商人は相当の手練だったのか、各地の多種多様な特産の草花を数多く取り扱っていたようだ。
料理に使うイグサ以外にも栞に使う為の花々を見境なく購入した痕跡を確かめ、彼は半ば呆れつつも手を伸ばす。
「何も。それより、また随分と買い込んだようだな。持つのを手伝おう」
「ありがと、あとはチーズと新鮮なお肉が買えれば材料は揃うから…どうする? 先にプスパカフェで少し休憩でもしようか」
野菜や花束と言った嵩張る荷物を潰さぬよう慎重に受け取りながら、アルハイゼンは彼女の提案についての是非を考え始める。
コーヒーの誘惑は確かに魅力的ではあった。だが、このままカフェで憩いを得るには荷物が多すぎると、彼女を諭すように首を振る。
「コーヒーを飲むこと自体には賛成したいが、一度君の家に戻ってこれらの荷物を置いてからの方が望ましいな。この大荷物では、身動きが取りにくい」
「うーん…それなら、豆だけ買っていく方がいいかもね。家に行って戻ってじゃ、二度手間になっちゃう。歩いてみるとわかるけど、意外と遠いからね」
「あぁ、そうしよう。俺が好きなブレンドは…」
街の中心地から自らの家までの距離を鑑み、往復するのは得策ではないと語る
サージュ。
ならば彼女の言う通り、カフェで休憩するのではなく、コーヒー豆を購入し彼女の家でそれを嗜むのが適切なのだろう。
代替案に同意を示して男は自らの愛飲を伝えようとするも、少女は不敵な笑みを浮かべてカフェの店内へ潜り込んでしまった。
「いつものでしょ、覚えてる」
頷く間もなく、彼女は行ってしまう。確かに、何度か彼女と共にコーヒーを飲んだこと自体はあった。それを記憶しているのなら、購入する品を間違えることはないだろう。
しかし何より、他でもない
サージュが自分のそうした些細な好みでさえ事細かに覚えてくれているという事実は、本来は他者との交流に興味を持たぬ彼にとっても喜ばしいことに変わりはなく。
「…」
改めて今日の目的を思い出し、頬に熱が宿る。初めは面倒から逃れる為に出任せを口にしたつもりだったが、次第に本心から彼女の手料理を楽しみにし始めていた自分に、アルハイゼンの中で何かが変わっていくのを感じる。
「アルハイゼン」
不意に名前を呼ばれたと思ったと同時に、至近距離から顔を覗き込まれ、驚きに思わず心臓が跳ねる。
どうやら彼女は、またヘッドホンの遮音機能のせいで自分の声が届いていないと思ったようだ。
「その袋…また余計なものを買ったのか?」
「これはおまけしてもらったの。新商品の試供だって」
コーヒー豆だけが入った袋にしては些か大きなそれを指し、先の行商相手と同じく目的になかったものも買い足したのかと問う。
しかし今回はそうではないと頬を膨らませ、
サージュは袋の封を開いて、新商品の試作だと言われ提供された揚げ菓子を見せる。
「ハニートゥルンバ。食べる?」
「いや、今は遠慮しておく」
「そっか。じゃあ家に帰ってからにしよ」
勧めも虚しく断られてしまい、渋々封を閉じ直す少女。尤も男が申し出を拒んだ理由は既に察しており、それほど気に留めてはいないようだった。
優しくも厳粛な祖母に育てられたアルハイゼンは、普段のいつ如何なる時でも本を読み始める不遜な態度とは裏腹に、意外にも買い食いの類をしない性分である。
規則正しい食事と己を律する精神、そこに毎日のトレーニングを欠かさぬ
克己心を備え持ち、今の体躯を造り上げた自負があるのだと知る彼女は、それ以上間食を強要することはなかった。
「お肉、お肉…あとチーズ、っと」
鼻歌とも呟きともつかぬ独り言を零しつつ、残りの食材を買う店を選定するべく街を見回す。
「うーん、いつものお店しかないか。ちょっと待ってて、買ってくるから」
若干浮かない表情を見せつつ、グランドバザールの入口手前にある馴染みの雑貨屋へ足を向ける
サージュ。
この老主人にも長年の暮らしの中で何度も世話になっているのだろうか、遠巻きから見守る中で微かに聞こえる会話の口調は明るく、時に厳しくもあった。
断るべきはしっかりと断ることの出来る確固たる信念を保つ様に、男は自身の同居人にもその一端でいいから見習って欲しいと思ってしまう。
「…はぁ、お待たせアルハイゼン。あのお爺さん、気を抜くとお子さんの愚痴を聞かされるから困るよ」
「随分馴れ馴れしいんだな。客にプライベートの愚痴を零すなど、商売人としてどうかと思うが」
「冒険者協会と提携してるから、よくお世話になって…その流れで雑談もするようになったの」
逃げるように戻ってきた少女を迎え、帰路を歩む二人。しかし彼女は遂に材料が揃ったことに歓喜するよりも、先の老主人の嘆きに辟易している様子だった。
「愚痴そのものが嫌なわけじゃないんだけど、それが働かないことに対してなのは…ちょっと耳が痛くて」
ぽつり、零れ落ちる悲愴。研究の難航は、彼女にとって果たすべき責務を放棄していると責められるに等しく。
少女が無意識下で自分と
件の放蕩息子を重ねてしまったことで抱いた自己嫌悪を払拭すべく、アルハイゼンは淡々と自らの想いを吐き出した。
「そう気に病む必要はない。今日の動向を見ていた限りでは、君は俺の想定よりもずっと自立出来ているように見えた」
「ん…ありがとう、元気づけてくれて」
「礼はいい、俺は本心を言ったまでだ」
その声音とは真逆の熱意に、驚嘆から目を見開いていた
サージュだったが、ゆっくりと彼の言葉を咀嚼し少しずつ自信を取り戻していく。
「…うん。好きな人が自分を認めてくれるのって、やっぱり嬉しいものだね」
感謝に笑みを浮かべて、少女は天穹を見上げる。広大で入り組んだ構造をしているスメールシティでの生活は、その穏やかな雰囲気に対してどこか慌ただしいものであった。
二人がようやく
サージュの家に着く頃には、既に太陽は高く登り昼の訪れを間近に控えていた。
家の鍵を開け、少女はアルハイゼンを自室へと招き入れる。自らの"恋人"となった彼との幸福な時間を過ごせるという、最上の喜びを胸に抱きながら。
Tranquillité