短編集
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「~♪」
両手一杯に花束を抱えた少女が、上機嫌に鼻歌を歌い街を往く。珍しい姿が気に掛かった書記官の男が、自然に彼女の隣に並び立ち声をかける。
「随分楽しそうだな、サージュ」
「あっアルハイゼン。そうなの、もうすぐ花神誕日だから楽しみで」
サージュは別段驚くでもなく彼の言葉に答え、そのまま自身の次なる目的地である青果店に歩みを進める。
彼女にとってアルハイゼンの行動はいつの日も突拍子もないもので、何も言わずとも彼がついてくることに既に慣れてしまっていた。
花神誕日。普段はマハールッカデヴァータの威光を忘れられぬ者達により軽視されているクラクサナリデビを祝うことが許され得る貴重な機会であり、少女にとっては己の誕生日よりも大切な日であった。
「そうか」
言葉少なに答え、彼はグランドバザールが俄かに活気づくこの時期が再び近付いていたことに時の流れを実感する。
現在のスメールに於いて、クラクサナリデビを信仰する人間は極めて稀であり、大衆の殆どは亡きマハールッカデヴァータに今も心を囚われたままだった。
故に彼女の死を裏付ける存在である若草を祝うなどという、呪いの日にも等しい花神誕祭は、いつしか教令院の後ろ盾を失い、年々その規模を縮小せざるを得なくなっていた。
しかしそれでも、敬虔な信徒が一人も居なくなったわけではない。サージュのように当代を信仰する民達の結束によって花神誕祭は現在でも細々と続けられており、今年もグランドバザールでは密かに祭の準備が進められているのだった。
「アルハイゼンは…今年の花神誕祭も家に籠って過ごすの?」
買ったばかりの果実を頬張りながら、今年こそは共に過ごせないかと一縷の望みをかけて男へと問い掛ける。
しかし彼は去年と全く同じ仕草で首を振り、祭など自分には無縁と言わんばかりに淡々と応えるのだった。
「恐らくは。例年通りと言えば例年通りだろう」
「そっか。まあ、そうだよね」
予想通りの反応に苦笑して、少女は視線を自らの抱える花束に落とす。この遣り取り自体が毎年のこととは言え、やはりどこか寂寞の想いを抱いてしまうことに変わりはなく、彼女の表情が見る見る曇っていく。
「いや待て、今年は例年とは明確に違う部分があったな」
少女の悲愴を知ってか知らずか。男は前言を撤回し、先程よりもずっと大きな溜め息を零す。
どういうことかとサージュがその表情を見上げると、彼は露骨に不機嫌そうな様子で去年までと異なる点について語るべく重い口を開いた。
「これまでであれば、俺がいつどこで何をしていても文句を言う奴はいなかった。だが今はあいつが…カーヴェが居るせいでそうもいかない」
「確かに先輩が口煩い可能性はあるかもね。けどどうだろ、無理強いしてまでアルハイゼンみたいな消極的な人を外に連れ出すかな?」
かつて袂を分かった筈が、予期せぬ再会を経て彼の家に居候することになった青年、カーヴェ。
明らかなデメリットとして挙げられたその名に、サージュは納得しつつも男の言い分に懐疑的な姿勢を見せる。
すると彼は青年の懐事情を理由に挙げ、特別な日だからこそ高値の嗜好品を集るのに最適なのだと語った。
「あいつならやりかねないな。花神誕祭を口実に、俺にあいつが普段買えないような高い酒を買わせようとしてくるのを考えると、今から億劫で仕方がない」
「うわ、確かにすごく先輩っぽい。絶対言ってくると思う。うーん…それは嫌だなあ…」
アルハイゼンの立てたそのネガティブな予測は、元より男にとっていい印象のない花神誕祭を、更に悪しきものにしてしまいかねない。
それだけは何としても阻止せねばと思った刹那、サージュの口から自身も思いもよらぬ提案が零れていた。
「じゃあ、私と一緒にどこか静かなところで過ごそう。カーヴェ先輩から逃げるの、付き合うよ」
愛の告白と紛うかのような衝撃的な誘いに、彼は思わず動揺し驚愕の眼差しを向ける。
「…それは、どういう意味だ?」
「えと、あぁ…嫌ならいいの、ごめん。気にしないで」
発言の真意を見抜けず訝しむアルハイゼンに、その視線を否定と受け取った彼女が慌ただしく謝罪を口にする。
しかしそれは誤りだと訂正して、男は自身の見解を述べる。誰よりもクラクサナリデビを愛していると言っても過言ではない彼女が出した意外な提案は、堅牢な彼の心を揺さぶるには充分過ぎる程驚きに満ちていた。
「少し驚いただけだ、君の提案を拒むつもりはない。ただ、君が花神誕祭より俺を優先しようとするなどとは…正直思ってもみなかった」
了承を示すと共に破顔してみせ、男は喜びを露わにする。いつになく柔らかな表情が眩しくて、サージュは羞恥に染まった頬を花束で覆い隠す。
「べ、別に…変な意味はないよ。先輩のせいでキミが花神誕祭を今より嫌いになったら哀しいなって、そう思っただけで…」
しどろもどろになって弁明を口にする少女。声音は弱々しく、普段の明朗快活さは微塵もなくなっていた。
消沈する彼女を慰める意を込めて、彼は長い間言えずに胸の内で燻っていた想いを吐き出す。
「サージュ。今より、という前提が既に間違っている。俺は喧騒が嫌いなだけで、花神誕祭そのものを嫌悪したり否定したりするつもりは一切ない」
彼が持つ教令院の書記官という地位からは凡そ有り得ないと思っていた予想だにしない肯定に、少女は動悸が増すのを感じる。
「そう…なの?」
「あぁ。歴史的観点から見ても、花神誕祭というものは本来もっと大々的に行われるべき重要な祭の筈なんだ」
その言葉が真実であるかを確かめるべく恐る恐る問い掛けると、アルハイゼンは深く頷いて持論を説く。
微かに憤りを感じさせる声に、サージュの中で彼に抱いていた印象が変化していく。
「だが、大賢者達が先代に固執するあまり、人々の記憶からクラクサナリデビの存在さえをも忘れさせてしまいかねない今のこの国は、酷く歪で…醜いものになっている。君もそうは思わないか」
静々と頷き、彼女は他の地域に於いて俗世の七執政がどれだけ重要な存在であるかを反芻し、正しく彼らを敬うことが許される憧憬に胸が痛む。
自らの専攻にも通ずる魔神信仰の差異について考える度、彼女は現在のスメールが若き草神を認めない風潮にある現状を愁いでいた。
「…うん。今のモンドに風神様がいなくとも、風神様への信仰はずっと根強く残ってるし、岩神様と雷神様…それから氷神様は表立って自国を統治してる」
璃月、稲妻、スネージナヤ。それら三国は統治者がそれぞれの国を象徴する魔神であることが明確な地域だと言える。
現世に君臨する神が存在しないとされるモンドでさえ、西風教会を中心とした信仰者の集う地があると外からでも容易く知れる程である以上、信心深い民が数多く暮らしていることは明白だった。
「勉強不足で炎神様についてだけは知らないけど、人間が神より上に立って治めてるのは…スメールだけじゃないかな」
俯くサージュの心情を敢えて意に介さずに、男は唯一言及のなかった水の国についてを問う。
彼女の表情は一瞬だけ今よりも更に曇り、すぐにそれを苦笑へと変えて水神が君臨する地の方角を見つめる。
「フォンテーヌはどうなんだ?」
「…ちょっと複雑。でも少なくとも、クラクサナリデビ様のようにここまで蔑ろにはされてないよ」
「だろうな」
多くは語らず、口を噤む。これ以上の議論は得策ではないと悟り、彼は首肯を最後に話題の転換を試みた。
「サージュ、君の持つその花は…花神誕祭に向けての準備に使うのか?」
「そんなところ。いつも通り、ささやかなお祝いしか出来ないだろうから…私からはこれだけで足りちゃうんだ」
"これだけ"と称しつつも、その花束は少女の短くはない腕でも抱えるのがやっとの量であり、彼女がクラクサナリデビを想う気持ちがそれだけ大きいのだと改めて知る。
そして男にとって何より重要だったのは、同じ想いを持つのがサージュだけではないという事実。
マハールッカデヴァータを妄信する教令院の思想に隷属するばかりが正しいのではないのだと、彼は自身が持つ賢者達への疑念を確たるものへと変容させていく。
「そうか。何か他に必要なものはあるか」
「いや、あ…ありがとう、大丈夫だよ。寧ろキミは、立場上あんまり介入しない方がいいと思う。賢者の人達を始め…教令院には花神誕祭を快く思わない人も多いでしょ。だから…」
「一理ある。が…それを理由に俺が"そうしたい"と思ったことをしないのは主義に反する」
彼が持つ書記官という身分によって起こりかねない軋轢を危惧する少女の言葉を遮って、男は叛骨心を露わにする。
「表立って何かをすることは出来ずとも、君と祭を楽しむくらいは構わないだろう?」
「まあ多分平気だと思う…って、え?」
生返事で答えてから改めてアルハイゼンの言葉を脳内で反芻し、驚嘆に肩を跳ねさせる少女。
あまりにも自然に持ち掛けられたその誘いに、サージュの思考は困惑で染まり、またも頬が赤らんでいく。
「アルハイゼン、熱でもあるんじゃ…」
鏡を突き出したくなるような真紅の頬からなる素っ頓狂な発想に、男は首を傾げて彼女の驚きに満ちた顔を見つめる。
「俺が祭りごとに顔を出すのがそんなに不思議か?」
「そりゃもう。学院祭の存在すら意識してたことないのに、クラクサナリデビ様のことをお祝いする花神誕祭に興味を示すなんて…今日の今日まで想像もしてなかったよ」
喜びを露わにしつつもどこか不安の拭えぬ少女が、馴染み深いもう一つの祭に対する彼のスタンスを思い起こしては、花神誕祭に対しそれとは真逆の肯定的な心情を見せることに改めて驚きを告げる。
すると男は煩忙の苦痛を思い出したのか、苦みばしった表情で学院祭への怨嗟を吐き出すのだった。
「学院祭など、毎年準備が面倒で仕方がないだけで何も楽しくない。在学中ですらそう思っていたのに、余計な仕事を増やされるのをどう喜べと言うんだ」
「ごめん、私が悪かった。ありがとうね花神誕祭は嫌いにならないでくれて」
棒読み同然で全く心の籠っていない謝罪と感謝を伝えて、サージュは苛立ちを隠すことなく見せる彼が愛しくて噴き出してしまう。
「ふふっ」
緩む口角を隠すように顔を花弁の中に紛れさせて、密かに満面の笑みを浮かべる。
最初に彼を誘った動機こそカーヴェから逃れる為とネガティブなものだったものの、思いもよらぬ幸福に彼女の胸の内が暖かくなる。
「でもまあ…学院祭と違って、アルハイゼンが何かしなきゃいけないわけじゃないから大丈夫だよ。寧ろ、何もしないで私達の楽しみに目を瞑ってくれるのがベストかな」
「ああ、それについては安心してくれ。君達クラクサナリデビ信徒にとって大事な日を邪魔立てするような面倒を起こす気はこれっぽっちもない」
「ん、ありがと。そう言ってくれるだけでも私達は嬉しいよ」
クラクサナリデビを信仰する者を代表して、自分達を認めてくれる姿勢に感謝を述べるサージュ。
しかし彼女は無理矢理に祭を禁じられないだけで喜ばしいことなのだと頭では理解しつつも、内に秘める野望を隠し切れずに語るのだった。
「…でも、いつかはもっと大規模に、もっと盛大にクラクサナリデビ様をお祝いしたいなって思うの。今のスメールでは難しいかもしれないけど…いつかきっと」
花束を一層強く抱き、悲壮な決意を吐き出す。因論派として学び、テイワットの歴史を熟知しスメールの現状を憂いでいる彼女だからこその願いを前に、アルハイゼンは自らの無力さを感じ、胸の奥に棘が刺さったような痛みを覚える。
「まあ、そんなの無理だって…わかってはいるんだけどね。奇跡でも起きない限り、私一人じゃ何も変えられな…」
「サージュ」
悲愴から歩みを止めてしまった少女に合わせ男もまた立ち止まり、曇りのない瞳で彼女を見つめる。
抱えている花束の中に表情を覆い隠そうとするのを遮るべくそれを奪い、彼は真摯な眼差しを向け告げた。
「俺が花神誕祭に対して持っていた悪しき印象を払拭出来たのは、間違いなく君の影響によるものだ。それは誇っていい」
突然の肯定を信じ切れず呆然としたまま固まり続けるサージュに、男は更なる言及を重ねる。
「少なくとも、君の努力が実った結果がここにある。何も変えられない、などと…絶望の泥沼に自ら足を踏み入れる必要などないんだ」
「…ごめん。いや…ありがとう」
自責からの謝罪をどうにか感謝へと昇華させて、少女がぎこちない笑みを見せる。
それを見た男は、満足した様子で花束を片腕で担ぎ上げては、彼女を待たずにグランドバザールの方へ向かっていく。
「わかればいい」
「あ…待って、置いていかないで! あとお花もうちょっと大事に扱って!」
背後から何やら喚きながら自分を追う少女を一瞥し、彼女に悟られぬよう密かに微笑むアルハイゼン。
つい先刻まで今にも泣き出してしまいそうな悲哀を見せていたかと思えば、そんなことは綺麗さっぱり忘れたかのように憤慨している。
そうして目まぐるしく変わっていくサージュの一挙一動がどうしようもなく愛しく思えて、いつまでも見ていたいと願ってしまう。
何気ない日常の中で少女が見せる笑み、愁い、憤り。彼にとってそれは欠かすことの出来ない彩りとなり、少女の為にならどんなことも、とさえ過ぎる程に心を埋め尽くす。
「サージュ、この花は多少粗雑に扱った程度で散る程弱くはない」
これ以上怒らせぬようにと、担いでいた花束を渋々腕の中に収め、その花弁が唯の一つも散ることなく咲き誇っているのを確かめる。
その姿はまるで頑強な心を持つサージュそのもののようだと憧憬を抱いて、彼女も花に負けじとその才を芽吹かせることが出来る日が訪れて欲しいと祈る。
「そうじゃなくて! クラクサナリデビ様に捧げるものなんだから乱暴にしないでってこと!」
「誤解だ。俺は乱暴に扱ったつもりはないし、そもそも君がそれを俺に指摘出来るような丁重な扱いをしていたようには見えないが」
有無を言わさず花束を取り返して愛しそうに抱き、男のその扱いの悪さに頬を膨らませる少女。
ことクラクサナリデビに関しては非常に繊細な一面を持つ彼女に、敢えてそれを気にしていないかのように振る舞い堅苦しさを払拭する。
「わっ…私はいいの! 私が買ったお花だから、そんなことでクラクサナリデビ様は怒らないもん」
子供の駄々にも等しい稚拙な反証だったが、それ故に彼女が草神を本心から信じているのだと窺い知れ、男は微かに神への嫉妬心が芽生える。
「俺には彼女への信心が足りないと?」
「だってアルハイゼン、クラクサナリデビ"様"って言わないじゃない」
少女の貫くような視線から齎された指摘に、何の他意もなく口にしていた呼称ひとつ取っても、彼女にとっては大切なものなのだと気付くアルハイゼン。
だが、たとえサージュが何と言おうとも、取って付けたような上辺の恭しさで誤魔化すことは出来ないのだと、彼は自身の信条を語る。
「恐らくそれは、考え方の差によるものだろう。俺は国を束ねるのはその国の象徴たる魔神であるべきだという主張こそ持っているが、だからと言って彼女の全てを妄信し、過度に崇めるのも得策ではないと思っている」
「そっか。 …アルハイゼンらしいね」
何事に対しても熟考を重ね、常に物事を俯瞰して見ることの出来る彼だからこそ持ち得る視点に、少女は納得し首肯する。
けれどそのある種残酷な観点によって、男と自分との間には深い溝があることも同時に知ってしまう。
「でも、私は諦めないよ。さっき私がキミの認識を変えられたって言ってくれたからには…今年の花神誕祭で、アルハイゼンが今よりもクラクサナリデビ様を好きになってくれるように頑張る」
男の眼を真っ直ぐに見据え、願いを込めて誓う。サージュの瞳に映る義憤に満ちた炎の揺らぎを前に、彼は期待から鼓動を昂らせて応えた。
「ああ。楽しみにしているよ」