満天の星が降り注ぐ夜、少女はその天穹に浮かぶ月を見つめる。風は凪ぎ、微かに聞こえるのは滝の流れる音と遠くで獣達が鳴く声だけだった。
「…」
憮然とした表情で空を見上げる少女の傍に、足音がひとつ。やがてその足音は止み、再び静寂が訪れる。
少女が足音の主の来訪に気付き微笑んで、彼はそれを見下ろす。そしてどちらともなく、二人を煌々と照らす満月へと目を向けた。
「来てくれてよかった、こんな遅くにごめんねアルハイゼン。立ったままで居るのも疲れるだろうし、座りなよ」
男の名を呼び、腰を下ろすよう促す
サージュ。視線は空に浮かぶ柔らかな輝きへと向けたまま、彼女は隣に座った男の手にそっと触れる。
宵の寒さからか、あるいは。少女の手は微かに震えていて、これから話すのが決して明るい話題ではないことを彼に周知させる。
触れた指先に力を込め、
サージュは徐に深く息を吸う。それから意を決して口を開いて、けれど声が出ずに喉が痞える。
ぎこちない所作にも男は苛立ちひとつ見せず星々を見上げ、ただ彼女が言葉を紡ぐのを待っていた。
「この前のこと…謝りたくて。キミの前であんなに取り乱して、迷惑だったよね。ごめん」
上目で一瞥し、すぐにその視線を逸らしてぽつりと零す。男の目を直に見て非を詫びるには少女にはまだ勇気が足りず、膝を抱え顔を埋めた。
「何故君が謝る? あれは俺が…」
困惑と共に、アルハイゼンは悔恨に眉を顰める。残像のように焼き付いて離れぬ薄明の光景を、彼は自らの罪だと胸を痛め続けていた。
しかし少女はその認識は誤りだと声を上げ、罪悪感を持つ必要などないと正すべく詰め寄る。
「違うよ、キミのせいじゃない! アルハイゼンは何も悪くない…私が真実を受け止めきれなかっただけ」
今にも泣きそうな瞳で、それでもどうにか笑みを浮かべようと少女は口角を無理矢理に引き上げる。
触れたら壊れてしまいそうな儚さに、男は何も言えず密かに奥歯を噛み締め目を背けるしかなかった。
その反応をいつもの彼の無骨な了承と捉え、
サージュは小さく息を吐いて姿勢を整える。
「今はもう大丈夫だよ。あの日、人目も憚らず泣いたお陰で吹っ切れたから」
「本当に…そうなのか?」
貼り付いた笑み。それは、スラサタンナ聖処で彼女が敬愛する草神へと見せた虚勢と寸分違わぬ表情で。
「…やっぱり、全部お見通しなんだね。敵わないなぁ」
押し隠そうとしていた真実を見透かされ、自嘲して少女は草原に背を預ける。
視界に広がる満天の穹を照らす月に手を伸ばし、届かぬその手に空の遠さを知る。
「神の目を得たのは草神様のお陰だ、って…ずっと心の支えにしてきたの、それは半分本当で…半分嘘。実際は、お母さんが死んだのを自分のせいにしたくなくて、この力は神様がくれたものだから制御出来なくても仕方がないんだって思う為の言い訳にしてた」
氷塊を掌の上で創り出し、寝転がったままそれを操り水辺へと投げる
サージュ。軌跡は弧を描いて、水底へ落ちた氷が水飛沫を上げる。
飛沫が煌めき、水面へと星の光のように降り注ぐ幻想的な光景を前にしつつも、アルハイゼンは勿論、少女自身もその情景に対し何の感情も抱いてはいなかった。
それよりも男の心を揺さぶるのは、彼女が何気なく告げた独白に込められた自戒。寝耳に水と称するのが最も相応しい、衝撃的な発言だった。
かつて彼女達を襲った凄惨な事件による一家離散の原因が、まさか本人にあったなどとは露ほども思っておらず、彼は驚愕の眼差しで
サージュを見つめる。
「だから草神様に見たくなかった現実を突き付けられたのがショックで…キミの前だってのにあんなに泣き喚いちゃった。私が神の目を…うん? どうしたの、アルハイゼン」
「いや…何でもない。続けてくれて構わない」
思考が纏まらず、男が少女へ続きを促す。少女はゆっくりと瞳を閉じてそれを首肯の代わりとし、胸元に手を宛てて再び言葉を紡ぐ。
「…私が神の目を発現させなければ、お母さんは死なずに済んだかもしれない。でも、あのまま炎に包まれていたら、私は助からなかったと思う。改めて草神様にああ言われて…色々と考えちゃった。どっちが良かったのかな、って」
「君は…その答えを俺に求めているのか」
「まさか。どっちに転んでも今は辛いだけだから、何も言わないでくれるのが一番いい」
恐る恐る問うたアルハイゼンに、腕で目を覆い隠して救済の甘言も正論による自己否定も不要だと断じる少女。
表情は見えず声だけが震えていることから、余程の懊悩が彼女を苛んでいることだけは辛うじて推し量ることが出来た。
ならどうしてそんな艱苦を自分の前で吐き出したのかと責め立てたくなる衝動を抑え、男はその先に続く言葉を待つべく押し黙る。
「あの日、私自身が"生きたい"と強く願ったからこそ…この神の目を授かったのに、その願いを反故にするような考えが浮かんでくるなんて、おかしな話だとは思ってるんだけど」
自虐的に笑んで、普段は腰に提げている自身の神の目を外し手元に携える。氷雪を彩る白きその宝玉の輝きを前にしながらも、
サージュの瞳は光を失っていた。
「もし君が死を願ったとしても…代わりに故人が生き返るなんてことは有り得ない」
語気を強め、諫めるように男は吐き捨てる。甘言を求めないと拒絶されてしまっている今、彼に言えるのはそれだけだった。
彼が珍しく感情を露わにしたことに驚いて目を丸めつつ、少女は慌てて体を起こして両手を振り希死念慮を否定する。
「ああ大丈夫、今は死にたいなんて思ってないよ。そんな怖い顔しないで」
「今は?」
眉間に幾重にも皺を寄せ、普段よりも更に何倍も低い声音で威圧的に尋ね返すアルハイゼン。
火に油を注ぐような言い回しをしてしまった迂闊さを悔やみつつ、少女は過去に刻まれた傷痕を敢えて抉る。
「ごめん…でも、流石に昔は少しあったよ。あの事故を知ってる人から心無い言葉を掛けられたこと、一度や二度じゃないから」
サージュの一家を襲った事件は、多数の元素が複雑に絡み合ったその特異性から、当時の新聞にも掲載されたスキャンダラスな事件である。
醜聞は人々の好奇の目を否応無く呼び寄せ、嘘も真実も綯い交ぜに噂となって伝播する。
教令院という閉じた世界の中で、彼女が自らの才能とは無関係に孤独を強いられる理由として、業火と氷牢の狂奏は充分過ぎるものだった。
「…そうか、それで人目を避けるようにいつもあんな奥まった場所に居たのだな」
少女が定位置としている知恵の殿堂の一角を指し、彼は確かにその場所が最も衆目から逃れやすい位置であるのを思い起こす。
喧騒を何より嫌う男が
人気のない静寂に包まれた場を探し求める中でようやく見つけた安らげる居場所が、彼女の隣だったことを。
「まあ、ある意味正解。他にも理由はあるけどね」
「ほう? どんな理由なんだ」
「え、それ…絶対に言わなきゃダメ?」
無言の首肯と期待に満ちた眼差しを以て、彼は困惑に口角を引き攣らせる
サージュを見つめる。
今となっては彼にとっても大切な場所となったあの定位置を少女が選んだ理由がどんな些細なものであれ、それを知りたいと願うのは必然でもあった。
「その…初めて知恵の殿堂に行った時、座れたのがあの場所だけだったから、っていう…あの、ごめん。ガッカリさせた…よね」
物言いたげな辛辣さを孕んだ視線が突き刺さるのを感じ、居た堪れなくなった少女が目を背けて苦笑を零す。
けれどもその声音にはそれまでの過去に心を縛られていた重苦しさによる悲愴は一切なく、アルハイゼンはどこか安堵したような気持ちを抱き破顔する。
「そうでもない。君らしいシンプルな理由で安心したよ」
「うぅ、なんか今更恥ずかしくなってきた…」
羞恥に染まった頬を手で覆い、自らの元素力を操り懸命に熱を冷ます
サージュ。
焦燥から動悸は激しさを増すばかりだったが、反比例するかのように急速に憂いが薄れていくのを感じる。
ようやく普段の明朗快活さを取り戻しつつある少女に、男が改まった様子で彼女の名を呼ぶ。
「
サージュ」
静寂を裂くその声と共に、一陣の風が吹く。若葉を彷彿とさせる男の跳ねた毛先が揺れ、平時は長い前髪によって隠されている左目が露になる。
普段は見ることの出来ない双眸による、いつになく真剣な眼差しに、少女の心臓がドクリと跳ねる。
「人の運命というものは、自身の性格によって決まる。君の過去がどれだけ悲惨で最悪なものだったとしても、
現在を生きる為にそれは必ずしも重要ではないんだ」
長い月日が経ち、遠い過去のものとなった事件は膨大な記録の海に溶け、その全容を知る者も僅かとなっていた。
過去そのものを消し去ることこそ不可能だが、彼女に向けられる視線は既に事件を要因とする憐憫や好奇の意を孕むことはなくなり、多くの者にとって今の彼女は熱心な草神信徒として映っている。
その変遷が意味する事実に目を向けさせるべく言葉を連ねるアルハイゼンへと、少女は眉を下げて微笑んでみせる。
「…うん」
表面上は素直に頷いて理解を示しつつも、
サージュの心の奥底には未だ
蟠りが残っていた。
いつだって正しい、否、正し過ぎる彼を前に、少女はその正論を受け入れきれない胸の内が軋む。
「月、綺麗だね」
ネガティブな感情を捨て去るべく、敢えて説かれた言葉への返答はせずに思ったままを口にする少女。
何の他意もなく語ったその感動を受け止めた男の瞳が一瞬だけ見開かれたのに気付き、不思議そうに首を傾げた。
「ん? 何か変なこと言ったかな、私」
静かに首を振り少女の不安を払拭し、男は動揺を悟られまいと思慮を巡らせる。
月を見てその美しさを賛美するという情景は、彼がかつて稲妻の古い文学小説で見た愛の告白そのものだった。
しかしそんな意図など全く持っていないであろう彼女へ向けてどう返すべきか悩みながら、アルハイゼンは万感の想いを告げる。
「…今ならきっと、その手も届くだろう」
何も知らずに微笑む無垢な少女を前に、今の彼に言えるのはそれが精一杯だった。
言葉に込めた想いの半分も伝わっていないだろうと諦観を抱きつつ彼女の顔色を窺うと、意外にも
サージュの視線は空に浮かぶ月ではなく、真っ直ぐに男へと向けられていた。
「本当に、この手を伸ばしても…いいの?」
少女の問い掛けに対し、彼の答えはすぐには出なかった。彼女がどこまで理解した上で問うているのか、その瞳からは判別しようがなく。
「それを決めるのは俺ではなく君自身だ」
端的にそれだけ告げ、彼女の選択がどうであれ受け入れる意志を示すアルハイゼン。
今ここで言葉巧みに
サージュの思考を都合よく誘導し、望む通りの大団円を描くのは容易いが、それは彼の本意ではない。
飽くまで彼女自身が己の意志で未来を掴むべきだと、そう信じていたからこそ、深く踏み込むことが出来なかった。
「…そっか」
チクリと針が刺さったような胸の痛みを抱きながら、それをひた隠しに少女は笑む。
伸ばした手を受け入れこそすれ、彼が自ら求めてはくれぬのだと知り、心臓が締め付けられる。
だが、それでも構わないと、彼女は徐に立ち上がっては深呼吸し、勢い付けて彼の名を呼ぶ。
「アルハイゼン」
今は遠い月を見据え、それから男へと向き直る。緊張に震える手を差し伸べて、その手を掴むことを
希う。
「私は…キミと一緒に生きていきたい。今はまだ並び立つには足りないかもしれないけど、キミを護るだけじゃなくて、支えられる私になり…」
「
サージュ」
抱いた熱情を吐き出す声を遮って、少女が伸ばした手を掴み、アルハイゼンは彼女を自らの元に引き寄せる。
屈強な肉体からなる腕力に少女の重心はいとも簡単に揺らぎ、バランスを崩した身体が男の胸元に雪崩込む。
力強い抱擁を受け、少女の鼓動が騒々しく喚き立てる。意を決して口にした想いに対する返答がこのような昂揚を齎すものとは想像もしていなかった彼女は、困惑と動揺によって一切の思考が吹き飛ばされてしまった。
「好きだ」
不意を突く告白。半ば混乱状態にある
サージュの耳にも確かに聞こえたその言葉は、彼女がこれまで堪え続けていた涙を溢れさせる引き金となる。
「…ん」
微動による小さな首肯。全身が熱を帯び、宵の風による冷気をも跳ね返す程に火照る。
頬を伝う涙を拭うべく少女が頭を上げて、その一瞬の隙を狙い澄ましたアルハイゼンが先んじてそれを指で掬い取った。
「ありがと、ごめんね…嬉しい筈なのに、涙が止まらないや」
感謝と謝罪を同時に告げて、泣きながら懸命に笑む
サージュ。表出する感情が制御出来ず、身体が強張る。
男は自らの表情を一切変えることなく、ただ零れる雫を拭い続ける。この涙は自分だけが独占出来る特別なものであると共に、受け止めなければならない罪でもあるのだと。
「構わない。涙を流すのは…それだけ君が俺に心を許している証なのだろう?」
「う…うん、多分。意識したことなかったけど…言われてみれば確かに、他の人の前では泣いたことないかも」
改めてそう指摘され、少女は自分でも気付いていなかった事実を知らされた羞恥で頬が更に紅く染まっていく。
一方で男は同居人の言葉が真実であったことに微かに複雑な気持ちが芽生え始め、雑念を振り払うべく再び彼女を強く抱き締めた。
「あの、アルハイゼン。ちょっと待って、それ以上力込められると骨が折れる…」
か細い声が腕の中で漏れ伝わり、無意識の内に必要以上に力んでしまっていたことを知る。
ゆっくりと力を緩め、しかし完全には抱擁を解かず、彼は物言いたげにこちらを睨む少女を見つめる。
「…ああ、すまない」
「そんなに強く抱き締めなくても、私はもう逃げたり拒んだりしないよ」
それまでの不満を露わにした表情が嘘のように破顔して、
サージュはもう一度男の胸に顔を埋める。
鼓動の音が確かに早まっているのを聴き、彼もまた自分と同じように緊張しているのだと多幸感を抱いていた。
だがそんな彼女の淡い悦びは、無粋な疑念によって脆くも崩れ去ってしまうのだった。
「本当にそう言い切れるのか?」
これまでの前科から少女の宣言を信じきれていない男が、顔を覗き込み念を押すように問い掛ける。
弱味を突かれ困窮した彼女の答えは、アルハイゼンの想定通りやはり歯切れの悪いもので。
「ほ、本当だよ…? そりゃあ、恥ずかしくはある、けど」
ひ弱な返事でこそあったものの、視線は上目でしっかりと彼の瞳を捉えており、その言葉に嘘偽りがないことを確かめる。
「ならいい」
満足した彼は少女の髪を優しく撫で、そのまま頭部ごと彼女を再び抱き締める。
月は輝き、その光を彩るように星々が煌めく。その情景はまるで、二人の未来を祝福しているかのようだった。
「えっと。あのね、アルハイゼン」
抱擁を緩めさせ、顔を上げて悪戯っぽく口角を歪める
サージュ。それからゆっくりと男の首に腕を絡め、甘えたような声で積年の想いを口にする。
「教令院に入ってから…私のことを有名な事件の子だっていう偏見なしで接してくれたのは、キミが初めてだったんだ。嬉しかったよ。私がキミを好きになったきっかけも、多分そこ」
歯を見せて満面の笑みを浮かべて、少女は感謝の気持ちを目一杯に示してみせる。
だがそんな少女とは対照的に、アルハイゼンの胸中には罪悪感が募る。彼女が信じた自分は偶像で、現実は彼もまた大衆と同じ邪心を持った内の一人だったのだと懺悔する。
「それについては、先入観そのものが全くなかったと言えば嘘になる。もし裏切られたと感じるのなら、俺を殴るなり詰るなり…好きにしてくれて構わない」
「ううん、大丈夫。寧ろ今日まで隠していてくれてよかった。キミのその優しさが…私への裏切りだとは思わないよ」
贖罪を求めるように頬を差し出す男に、それならばと
サージュは思う存分彼の肌へと手を伸ばし体温と感触を堪能する。
好き放題弄ばれつつも彼は自らの口を閉ざすつもりはなく、少しずつ背けていた顔を正面へ戻しながら続けた。
「尤も…君のような"特別"な人間を前にして、それらの邪魔な情報は不要だとすぐに考えを改めたが」
それまでの仕返しと言わんばかりに、今度はアルハイゼンが少女の頬に触れ、愛しそうに彼女を見つめる。
これまで教令院で過ごした日々の中で、
サージュはどれだけ難解な問いを投げられようとも、決して彼との議論を諦めなかった。
正し過ぎるが故に多くの者から対話を拒まれ、諦念に心が蝕まれていた男にとって、少女の直向きさがある種の救いとなっていた。
「…特別、かぁ」
アルハイゼンが時折口にするその言葉。彼が他人をそう評価することは極めて稀で、少女は己が確かに認められているのだと再認識し、胸の内が暖かくなる。
「ありがとう、アルハイゼン。私を認めてくれて」
想いを伝えるべく手を取って、指を絡める。天穹にて煌々と輝く星と月に見守られながら、彼女は決意を表明する。
その願いに応え、男は深い首肯を以て
サージュに寄り添う。今はまだ小さな煌めきでも、いつか必ず深淵をも照らす輝きに昇華すると信じて。
「でもまだまだ頑張らなきゃ。キミの隣に居続ける為には、今のままじゃ足りない。これからも迷惑掛けちゃうかもしれないけど…改めてよろしくお願いします」
Étoile