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閑散期では決してないものの、平時よりかは比較的人の少ない静かなグランドバザールにて。
恋人と共に買い物や劇場の飼い犬との戯れを堪能していたサージュの元に、一人の少女が歩み寄る。
「こんにちは、今日はアルハイゼンさんと一緒に来てたんだね」
可憐な呼び掛け、それはこのバザールの名物でもあるズバイルシアターが誇る踊り子、ニィロウからのもので。
友人の声に気付いた少女は犬に合わせて落としていた腰をさっと上げ、嬉々とした様子でそれに応えた。
「ニィロウ! シアターの皆も元気そうで何より」
「ふふ、今日からちょうど新しい公演に向けて練習を始めたんだ。みんなやる気満々で頑張ってるの」
「え、ほんと? すごい、今度はどんな感じのストーリー?」
華やかな歓談、少女達の傍らに立つアルハイゼンは何を言うでもなくそのやり取りを見守る。
どうやら彼女が語る話を聞く限りでは、座長シェイクズバイルの次回作は有名な小説を舞台化したものであるようだ。
ニィロウの友人兼ファンであることはもちろん、その原典となる書籍の愛好家たるサージュは、願ってもない組み合わせに既に興奮を隠し切れていなかった。
「サージュ、これ…あげるね。もし良かったら一か月後、二人で見に来てくれたら嬉しいな」
友からの期待に満ちた眼差しを見たニィロウが差し出してきたのは、初公演のチケット二組。
サージュはそれを目にした瞬間、花が綻んだような笑みを浮かべるも、そこに記された日付に消沈して力なく首を振る。
「わっ! …あ、でもこの日は他に外せない用があるんだ…ごめん」
「そうだな。だからそのチケットは別の者に譲るといい」
両手を合わせ非を詫びる少女へ、それまで沈黙を保っていたアルハイゼンが言葉を重ねる。
至極残念だという口調でこそあれ、全く悲しそうでもなんでもない様は、まるで何かを隠しているかのようで。
ニィロウは公演の初日には二人の間でもっと大事なイベントがあるのだと察知し、その疑問を確かめるべくそっと耳打ちした。
「…もしかして、アルハイゼンさんと遠出デートとか?」
ほんの出来心からの問い、サージュは耳を真っ赤に染め上げて分かりやすく狼狽え始める。
「や、そっ、その、それは…! 遠出と言っても、キャラバン宿駅までだし…」
あわあわと両手を小さく、しかし目にも留まらぬ速さで振り、言う必要のない詳細までをもうっかり吐露する。
零れ落ちた羞恥に対し隣の恋人は何故だかしたり顔で、彼らが揃ってその日を心待ちにしているらしいことが窺い知れた。
「キャラバン宿駅かあ…楽しそうだね。うん、良いと思うな」
元よりこの二人は息ぴったりの相思相愛を体現した関係を長らく続けていたが、あと一歩のところで互いに踏み込むことが出来ず、つかず離れずを保っていた。
紆余曲折を経て名実ともに恋人となるまでの間の苦悩を知る身として、ニィロウはこうして彼女が骨の髄まで愛されている現状を自分のことのように喜んでおり、見ているだけでも自然と笑みが溢れてくるのだった。
とは言え揶揄いも程々にと、にこやかに頷いて、幸せに満ちた友人達へ祝福の意を示す。
それを受けたサージュは含羞んで感謝を伝え、談笑が終わりを告げる合図でもある座長の接近を目で指した。
「ん…ありがと。初日は無理だけど、別の日に絶対見るから! 練習、頑張って」
またねと手を振り合って、人気者を見送る少女。緊張が解け深い息を吐くと、横からアルハイゼンが手を繋いできた。
「ひゃっ?!」
「随分な驚きようだな。何か不満があるならすぐにでも放すが」
「な、ないよ! ある訳ない、けど…人が居るとこで急に来たから…もぅ」
唐突なスキンシップ、普段なら絶対にしてこない挙動に赤面する彼女を余所に、男はシアターで行われる稽古の様子を覗きに来たらしい客が増えていると示す。
この人の波を潜り抜けてトレジャーストリートに向かうとなると、確かに逸 れないよう手を繋ぐのは合理的ではあるだろう。
そう頭では理解しつつも、恥ずかしがり屋のサージュにとって、恋人と指を絡めるという行為は市井の人々に自分達の仲を誇示するにも等しく。
「…」
少女は火照る熱をどうにか鎮めんと脳内で素数を数え、恋人同士が手を繋ぐのは至って自然なことだと言い聞かせる。
けれども結ばれるまでが長かった分、抱いていた照れと自己肯定感の低さによる不安が今もまだ尾を引いており、嬉しさよりもむず痒さの方が上回ってしまう。
「サージュ。名残惜しいのはわかるが、そろそろ行くとしよう」
「あぁ、ごめん…大丈夫だよ」
訝しげな呼名にぎこちなく笑んで、アルハイゼンの速度に追いつけるように歩幅を広げる。
エスコートには程遠いマイペースな足取りは、逆説的に何があってもこの手を離すつもりはないという意志の表れでもあった。
それでも少女は、愛しい恋人の背を見つめるばかりではなく隣に並び立ちたいと願いを込め、絡める指先の力を強める。
「やっぱ待って、アルハイゼン歩くの速い…」
グランドバザールの扉を潜り、木漏れ日の煌めく屋外へ出た頃。サージュが堪えかねて懇願を吐く。
微かに息が乱れ、心臓の音が高鳴っているのを感じる。それが緊張からなのか、単純な運動によるものか、彼女には既にわからなくなっていた。
「ああ、すまない。少し休むか…む?」
顧慮に対し、目を閉じて無言の首肯を返す。息を整えるので精一杯だったこともあり、傍らで吃驚を見せる男とその視線の先に映る姿に気付かず、鈴のような声からなる忠言に思わず肩が跳ねる。
「アルハイゼン。いくらサージュが相手でも、身勝手なペースで歩いていたらいつか嫌われてしまうかもしれないわよ」
「く、クラクサナリデビ様!?」
少女が瞼を開いたそこに立っていたのは、このスメールという国を治める魔神ことマハークサナリ。
人々からは前述のように"クラクサナリデビ様"と親しみを込めて呼ばれる、一見しただけでは愛らしい姿をしたただの幼子だが、これでも知恵を司るれっきとした俗世の七執政の一人である。
一般と比べても特に信心深い娘と、彼女から見て一応は部下となる己を、立場に託 けて弄ぶ様に眉を顰め、アルハイゼンは苦言を呈した。
「彼女が俺を嫌うなど、万に一つもあり得ない話です。寧ろそのような野次を飛ばす貴女の方が、信徒に失望されかねない愚行を犯していると認識すべきかと」
売り言葉に買い言葉。たとえ自国の神であっても"ただの生態系の一環"と捉え、信仰心を全くと言っていい程持たない彼は、聞く人が聞けば青褪めるような辛辣な言葉を容赦なく浴びせる。
まさにその青褪める側の立場であるサージュは、あまりにも棘のある音吐に気を失いそうになりながら、無礼極まりない発言を慎むよう口を塞ごうとするも、片手は固く握られたまま動かせず、もう一方の手はそっと払われてしまった。
「ちょ、アルハイゼン、草神様になんてこと…!」
「君が草神様に対しどんなに強い信仰心を持っていようとも、それを理由に自身の心境を言い控えるのは美徳足り得ない。不快感を抱いたのなら、正直にそう伝えるべきだ」
「いいのよサージュ。アルハイゼンの言う通り、私 が悪かったわ」
魔神を見下ろす隼の眼光は、番を護る為にならどんなことでも――そんな強靭な意志を秘めていて。
心を読むまでもなく見て取れる絶対的な思慕に、人の愛の強さを知った草神はその激情の果てを確かめたいと、更に男を焚き付ける。
「もしかして、私に大好きな子を取られると思っているのかしら、アルハイゼン?」
「…ふん」
挑戦的な問い掛けに対し男は肘を立てるのみで、すぐには答えなかった。否、答える気がそもそもなかった。
草神ナヒーダはそのリアクションを"気になるのであれば心を読めばいい"と暗に告げているのだと認識し、指先で写真機を模したポーズを取り、そして。
「成程、それがあなたの答えね。なら遠慮なく試させてもらうわ」
魔神の権能を用いて垣間見たアルハイゼンの脳内思考は、想像を絶する饒舌さであった。
その自信の表れを裏付ける細やかな独白は、つい先刻何気なく口にした喩えを悔いる程。
更に言うならば、少女にとっては明確に畏怖すべき対象となる"草神"に歯向かったことさえ、揶揄いに対する意趣返しというだけで、本心から怒りを抱いていた訳ではないらしい。
どころか、サージュの焦燥を増幅させ反応を楽しみたいが為に敢えてそのような言い回しをした側面が強く、草神はまんまと策略に嵌められたと感嘆を零す外なく。
その上で、それら内に秘めるどの感情よりも強くナヒーダを驚かせたのは、かの男はそうした己の思惑を一切表に出さずにいること。
黙っている限りはあくまで泰然と振る舞い、傍らで一触即発の空気に怯える恋人の手を握るのみ。
末恐ろしい頭脳の持ち主が敵でなくて良かったと安堵する反面、ここまで難解ともなるとパートナーの気苦労は察するに余りあると、彼女は徐に信徒の娘を見遣る。
「えっと…?」
「サージュ。彼はあなたを本当に大事に想っているのね。とても素敵なことだわ」
何か粗相をしたかと困ったように眉を下げる少女へ向け、クラクサナリデビが心からの賛辞を贈る。
学術資産の共有のみを目的に、愛を育むことなく婚姻を結ぶ家庭も少なくなかったこの草の国で、生涯を懸けてただ一人を愛すると誓う男の愚直さに、彼女は胸の内が温かくなる想いを抱いていた。
「…ぅ、アリガトウ…ゴザイ、マス」
感極まって片言になるサージュ。恥じらいと共に喜悦が滲み出している一挙手一投足には、隣に立つ恋人も大層ご満悦のようで。
「では、俺達はこれから向かうところがあるので」
「し、失礼しますっ」
深々と頭を下げる少女とは対照的に、こちらを一瞥もせず歩き出していくアルハイゼン。
けれどもその足取りは遭遇時よりもずっと緩やかで、彼なりに恋人を慮っているのだと察せられた。
―
「はあ…寿命が五年は縮んだ気がする…」
「生物の一生涯に於ける心拍回数の話か? あれは人間には適用されない法則だと聞くが」
街を行く草神クラクサナリデビの元を去り、サージュの暮らす家がある居住区に着いた二人。
少女は力無く項垂れ肩を落とし、不意の邂逅によって加速したままの鼓動を鎮めようとそう零す。
が、横からすかさず学術的研究に基づいた反論が飛んで来て、その理論武装に閉口せざるを得なくなる。
「それに、幸福である人間の方がそうでない者と比べて十年以上寿命が伸びるという検証結果も出ている」
まさに自分がいい見本だ、とでも言わんばかりの笑みに、彼女は苦悩とは無縁の生活を送る恋人が心底羨ましいと悪態を吐く。
「…だとすればキミは、きっと五十年後も書記官やってるってことになりそうだね」
「そうだな。その頃には孫どころか曾孫がいてもおかしくないだろう」
「へぁ、ひひひ、ひ孫…!?」
予想だにしない返しに、まさか本気でそこまで生き永らえるつもりなのかと後退りする少女。
まだ決まってもいない展望をさも当然のように語るふてぶてしさは、彼女の脈拍を更に速めていく。
「ふむ。想定よりも随分と否定的な反応だな」
「だ、だって…結婚もしてないのに、孫とか子供とか…気が早いっていうか…」
もじもじと身を捩らせ尻すぼみに羞恥を告げて、サージュは握り締めた手を撫で擦 る。
己とは全く異なる硬さのある雄々しい触り心地、いつかは彼と肌を重ね子を成す契りを交わすのだろうと想起してはいても、それが現実となるという実感はまだなく、口調には焦慮が見え隠れしていた。
「俺は君の首肯さえ受ければ、いつでも婚姻届を出す準備は出来ているが」
「アルハイゼンッ!」
階段飛ばしの展望に悲喜交々、少女は悲鳴にも似た叫び声で人を弄んでばかりの恋人の名を呼ぶ。
だが男の耳は優れた防音機能を持つヘッドホンに塞がれており、激昂も何のその、飄々とした態度でにんまりと笑む。
「冗談だ。流石の俺でも、君の筆跡は真似出来ない」
肩を竦めるアルハイゼンに、それはそうだと頭を抱える少女。何せ彼女は仮にも学者という身分でありながら自他共に認める"超"のつく悪筆で、常人には解読することさえ困難な程だったからだ。
「…そもそもその前に、大事な書類なんだから偽造なんて絶対ダメでしょ…はあ」
冷静、というよりかは諦め。驚かされることの連続で既に疲れ切っているサージュは、これまでと比べ幾分か落ち着いた口調で恋人を諌める。
とは言え相手は目的を果たす為には手段を選ばない男。必要とあらばきっと完璧に己の拙い字をも再現してみせるのではないか。そんな本来有り得ない妄想も、絶対にないとは言い切れず。
「勿論そうだ。だからもし君の返事を待たずに婚姻届を提出せざるを得ない状況となった場合、その時は別件を装って何が何でも君自身にサインを書いてもらう」
「うわ、まさかの事前申告!? 怖いよアルハイゼン、目が本気にしか見えな…」
迫真の眼差しに加え無言の圧力、どうやら今度は冗談ではないらしいと察した少女が慌てて非を認め謝罪を告ぐ。
そしてその上で、こちらにも言い分があるのだと、絡めた指に力を込めて真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
「っ…悪かった、茶化してごめん。けど、私に黙って籍を入れるのはやめてね」
「何故?」
「なんでって、そりゃ…もぅ、言わせないでよ」
腑に落ちないと言わんばかりのとぼけ顔、きっとこれも自分を翻弄する為の悪ふざけなのだろうと解釈し、サージュは不貞腐れつつ正直に想いの丈を伝える。
「キミがどんなプロポーズをしてくれるか、これでも毎日楽しみにしてるんだから…さ」
照れくさそうに口を尖らせての上目遣いでそう零して、言い終えるや否やすぐに視線を逸らす。
その破壊力はアルハイゼンの想定を大きく上回る愛らしさに満ちていて、彼は今すぐにでも恋人を抱き締めたい衝動を懸命に抑え頷いた。
「…そうか。なら、その期待に応えられるよう最善を尽くすと誓おう」
代わりに手の甲へそっと口付けを落とし、揺さぶりを掛けようと試みるも、彼女は嬉しそうに笑うのみで。
「えへへ、ありがと」
「ようやく耐性がついたか」
「まあね…今日は皆して私のこと揶揄ってくるから、流石に慣れてき…た…」
嘆息混じりの呆れ顔でそう笑うサージュの隙を突いて、男は恋人の腰を軽々と抱き上げる。
気を抜いた一瞬の内に、どういう訳か胸元にすっぽり収められてしまった少女は、一体何が起こったのか理解が追い付かず。
「ぅわぁっ?!」
「慣れたんじゃなかったのか?」
額に玉のような汗を浮かべ困惑の色を見せる彼女へと、アルハイゼンが挑発的な笑みを向ける。
その声音はまるで悪戯好きの子供のような無邪気さを孕んでいて、見慣れぬ一面に頬が熱を帯びていく。
そして、己がこの情愛を真に受け入れられるまでには、まだ時間を要するのだろうと顔を覆い隠す。
「…その顔はずるい」
「狡い? ふむ、そう来たか」
「褒めてないからね!?」
満足げな反応に間髪入れず指摘を叫び、どうしてこうも的外れな解を惜しげも無く出せるのかと眉を顰めるサージュ。
そもそも"的外れ"という解釈自体が誤りで、アルハイゼンは意図的に彼女との戯れを楽しむことしか考えていないだけなのだが。
「ところで、いつになったら降ろしてくれるの?」
「君が何も言わない限りは、このまま次の目的地へ向かうつもりだったが…仕方あるまい、あの樹を通り過ぎるまでに縮めるとしよう」
恋人と共に買い物や劇場の飼い犬との戯れを堪能していたサージュの元に、一人の少女が歩み寄る。
「こんにちは、今日はアルハイゼンさんと一緒に来てたんだね」
可憐な呼び掛け、それはこのバザールの名物でもあるズバイルシアターが誇る踊り子、ニィロウからのもので。
友人の声に気付いた少女は犬に合わせて落としていた腰をさっと上げ、嬉々とした様子でそれに応えた。
「ニィロウ! シアターの皆も元気そうで何より」
「ふふ、今日からちょうど新しい公演に向けて練習を始めたんだ。みんなやる気満々で頑張ってるの」
「え、ほんと? すごい、今度はどんな感じのストーリー?」
華やかな歓談、少女達の傍らに立つアルハイゼンは何を言うでもなくそのやり取りを見守る。
どうやら彼女が語る話を聞く限りでは、座長シェイクズバイルの次回作は有名な小説を舞台化したものであるようだ。
ニィロウの友人兼ファンであることはもちろん、その原典となる書籍の愛好家たるサージュは、願ってもない組み合わせに既に興奮を隠し切れていなかった。
「サージュ、これ…あげるね。もし良かったら一か月後、二人で見に来てくれたら嬉しいな」
友からの期待に満ちた眼差しを見たニィロウが差し出してきたのは、初公演のチケット二組。
サージュはそれを目にした瞬間、花が綻んだような笑みを浮かべるも、そこに記された日付に消沈して力なく首を振る。
「わっ! …あ、でもこの日は他に外せない用があるんだ…ごめん」
「そうだな。だからそのチケットは別の者に譲るといい」
両手を合わせ非を詫びる少女へ、それまで沈黙を保っていたアルハイゼンが言葉を重ねる。
至極残念だという口調でこそあれ、全く悲しそうでもなんでもない様は、まるで何かを隠しているかのようで。
ニィロウは公演の初日には二人の間でもっと大事なイベントがあるのだと察知し、その疑問を確かめるべくそっと耳打ちした。
「…もしかして、アルハイゼンさんと遠出デートとか?」
ほんの出来心からの問い、サージュは耳を真っ赤に染め上げて分かりやすく狼狽え始める。
「や、そっ、その、それは…! 遠出と言っても、キャラバン宿駅までだし…」
あわあわと両手を小さく、しかし目にも留まらぬ速さで振り、言う必要のない詳細までをもうっかり吐露する。
零れ落ちた羞恥に対し隣の恋人は何故だかしたり顔で、彼らが揃ってその日を心待ちにしているらしいことが窺い知れた。
「キャラバン宿駅かあ…楽しそうだね。うん、良いと思うな」
元よりこの二人は息ぴったりの相思相愛を体現した関係を長らく続けていたが、あと一歩のところで互いに踏み込むことが出来ず、つかず離れずを保っていた。
紆余曲折を経て名実ともに恋人となるまでの間の苦悩を知る身として、ニィロウはこうして彼女が骨の髄まで愛されている現状を自分のことのように喜んでおり、見ているだけでも自然と笑みが溢れてくるのだった。
とは言え揶揄いも程々にと、にこやかに頷いて、幸せに満ちた友人達へ祝福の意を示す。
それを受けたサージュは含羞んで感謝を伝え、談笑が終わりを告げる合図でもある座長の接近を目で指した。
「ん…ありがと。初日は無理だけど、別の日に絶対見るから! 練習、頑張って」
またねと手を振り合って、人気者を見送る少女。緊張が解け深い息を吐くと、横からアルハイゼンが手を繋いできた。
「ひゃっ?!」
「随分な驚きようだな。何か不満があるならすぐにでも放すが」
「な、ないよ! ある訳ない、けど…人が居るとこで急に来たから…もぅ」
唐突なスキンシップ、普段なら絶対にしてこない挙動に赤面する彼女を余所に、男はシアターで行われる稽古の様子を覗きに来たらしい客が増えていると示す。
この人の波を潜り抜けてトレジャーストリートに向かうとなると、確かに
そう頭では理解しつつも、恥ずかしがり屋のサージュにとって、恋人と指を絡めるという行為は市井の人々に自分達の仲を誇示するにも等しく。
「…」
少女は火照る熱をどうにか鎮めんと脳内で素数を数え、恋人同士が手を繋ぐのは至って自然なことだと言い聞かせる。
けれども結ばれるまでが長かった分、抱いていた照れと自己肯定感の低さによる不安が今もまだ尾を引いており、嬉しさよりもむず痒さの方が上回ってしまう。
「サージュ。名残惜しいのはわかるが、そろそろ行くとしよう」
「あぁ、ごめん…大丈夫だよ」
訝しげな呼名にぎこちなく笑んで、アルハイゼンの速度に追いつけるように歩幅を広げる。
エスコートには程遠いマイペースな足取りは、逆説的に何があってもこの手を離すつもりはないという意志の表れでもあった。
それでも少女は、愛しい恋人の背を見つめるばかりではなく隣に並び立ちたいと願いを込め、絡める指先の力を強める。
「やっぱ待って、アルハイゼン歩くの速い…」
グランドバザールの扉を潜り、木漏れ日の煌めく屋外へ出た頃。サージュが堪えかねて懇願を吐く。
微かに息が乱れ、心臓の音が高鳴っているのを感じる。それが緊張からなのか、単純な運動によるものか、彼女には既にわからなくなっていた。
「ああ、すまない。少し休むか…む?」
顧慮に対し、目を閉じて無言の首肯を返す。息を整えるので精一杯だったこともあり、傍らで吃驚を見せる男とその視線の先に映る姿に気付かず、鈴のような声からなる忠言に思わず肩が跳ねる。
「アルハイゼン。いくらサージュが相手でも、身勝手なペースで歩いていたらいつか嫌われてしまうかもしれないわよ」
「く、クラクサナリデビ様!?」
少女が瞼を開いたそこに立っていたのは、このスメールという国を治める魔神ことマハークサナリ。
人々からは前述のように"クラクサナリデビ様"と親しみを込めて呼ばれる、一見しただけでは愛らしい姿をしたただの幼子だが、これでも知恵を司るれっきとした俗世の七執政の一人である。
一般と比べても特に信心深い娘と、彼女から見て一応は部下となる己を、立場に
「彼女が俺を嫌うなど、万に一つもあり得ない話です。寧ろそのような野次を飛ばす貴女の方が、信徒に失望されかねない愚行を犯していると認識すべきかと」
売り言葉に買い言葉。たとえ自国の神であっても"ただの生態系の一環"と捉え、信仰心を全くと言っていい程持たない彼は、聞く人が聞けば青褪めるような辛辣な言葉を容赦なく浴びせる。
まさにその青褪める側の立場であるサージュは、あまりにも棘のある音吐に気を失いそうになりながら、無礼極まりない発言を慎むよう口を塞ごうとするも、片手は固く握られたまま動かせず、もう一方の手はそっと払われてしまった。
「ちょ、アルハイゼン、草神様になんてこと…!」
「君が草神様に対しどんなに強い信仰心を持っていようとも、それを理由に自身の心境を言い控えるのは美徳足り得ない。不快感を抱いたのなら、正直にそう伝えるべきだ」
「いいのよサージュ。アルハイゼンの言う通り、
魔神を見下ろす隼の眼光は、番を護る為にならどんなことでも――そんな強靭な意志を秘めていて。
心を読むまでもなく見て取れる絶対的な思慕に、人の愛の強さを知った草神はその激情の果てを確かめたいと、更に男を焚き付ける。
「もしかして、私に大好きな子を取られると思っているのかしら、アルハイゼン?」
「…ふん」
挑戦的な問い掛けに対し男は肘を立てるのみで、すぐには答えなかった。否、答える気がそもそもなかった。
草神ナヒーダはそのリアクションを"気になるのであれば心を読めばいい"と暗に告げているのだと認識し、指先で写真機を模したポーズを取り、そして。
「成程、それがあなたの答えね。なら遠慮なく試させてもらうわ」
魔神の権能を用いて垣間見たアルハイゼンの脳内思考は、想像を絶する饒舌さであった。
その自信の表れを裏付ける細やかな独白は、つい先刻何気なく口にした喩えを悔いる程。
更に言うならば、少女にとっては明確に畏怖すべき対象となる"草神"に歯向かったことさえ、揶揄いに対する意趣返しというだけで、本心から怒りを抱いていた訳ではないらしい。
どころか、サージュの焦燥を増幅させ反応を楽しみたいが為に敢えてそのような言い回しをした側面が強く、草神はまんまと策略に嵌められたと感嘆を零す外なく。
その上で、それら内に秘めるどの感情よりも強くナヒーダを驚かせたのは、かの男はそうした己の思惑を一切表に出さずにいること。
黙っている限りはあくまで泰然と振る舞い、傍らで一触即発の空気に怯える恋人の手を握るのみ。
末恐ろしい頭脳の持ち主が敵でなくて良かったと安堵する反面、ここまで難解ともなるとパートナーの気苦労は察するに余りあると、彼女は徐に信徒の娘を見遣る。
「えっと…?」
「サージュ。彼はあなたを本当に大事に想っているのね。とても素敵なことだわ」
何か粗相をしたかと困ったように眉を下げる少女へ向け、クラクサナリデビが心からの賛辞を贈る。
学術資産の共有のみを目的に、愛を育むことなく婚姻を結ぶ家庭も少なくなかったこの草の国で、生涯を懸けてただ一人を愛すると誓う男の愚直さに、彼女は胸の内が温かくなる想いを抱いていた。
「…ぅ、アリガトウ…ゴザイ、マス」
感極まって片言になるサージュ。恥じらいと共に喜悦が滲み出している一挙手一投足には、隣に立つ恋人も大層ご満悦のようで。
「では、俺達はこれから向かうところがあるので」
「し、失礼しますっ」
深々と頭を下げる少女とは対照的に、こちらを一瞥もせず歩き出していくアルハイゼン。
けれどもその足取りは遭遇時よりもずっと緩やかで、彼なりに恋人を慮っているのだと察せられた。
―
「はあ…寿命が五年は縮んだ気がする…」
「生物の一生涯に於ける心拍回数の話か? あれは人間には適用されない法則だと聞くが」
街を行く草神クラクサナリデビの元を去り、サージュの暮らす家がある居住区に着いた二人。
少女は力無く項垂れ肩を落とし、不意の邂逅によって加速したままの鼓動を鎮めようとそう零す。
が、横からすかさず学術的研究に基づいた反論が飛んで来て、その理論武装に閉口せざるを得なくなる。
「それに、幸福である人間の方がそうでない者と比べて十年以上寿命が伸びるという検証結果も出ている」
まさに自分がいい見本だ、とでも言わんばかりの笑みに、彼女は苦悩とは無縁の生活を送る恋人が心底羨ましいと悪態を吐く。
「…だとすればキミは、きっと五十年後も書記官やってるってことになりそうだね」
「そうだな。その頃には孫どころか曾孫がいてもおかしくないだろう」
「へぁ、ひひひ、ひ孫…!?」
予想だにしない返しに、まさか本気でそこまで生き永らえるつもりなのかと後退りする少女。
まだ決まってもいない展望をさも当然のように語るふてぶてしさは、彼女の脈拍を更に速めていく。
「ふむ。想定よりも随分と否定的な反応だな」
「だ、だって…結婚もしてないのに、孫とか子供とか…気が早いっていうか…」
もじもじと身を捩らせ尻すぼみに羞恥を告げて、サージュは握り締めた手を撫で
己とは全く異なる硬さのある雄々しい触り心地、いつかは彼と肌を重ね子を成す契りを交わすのだろうと想起してはいても、それが現実となるという実感はまだなく、口調には焦慮が見え隠れしていた。
「俺は君の首肯さえ受ければ、いつでも婚姻届を出す準備は出来ているが」
「アルハイゼンッ!」
階段飛ばしの展望に悲喜交々、少女は悲鳴にも似た叫び声で人を弄んでばかりの恋人の名を呼ぶ。
だが男の耳は優れた防音機能を持つヘッドホンに塞がれており、激昂も何のその、飄々とした態度でにんまりと笑む。
「冗談だ。流石の俺でも、君の筆跡は真似出来ない」
肩を竦めるアルハイゼンに、それはそうだと頭を抱える少女。何せ彼女は仮にも学者という身分でありながら自他共に認める"超"のつく悪筆で、常人には解読することさえ困難な程だったからだ。
「…そもそもその前に、大事な書類なんだから偽造なんて絶対ダメでしょ…はあ」
冷静、というよりかは諦め。驚かされることの連続で既に疲れ切っているサージュは、これまでと比べ幾分か落ち着いた口調で恋人を諌める。
とは言え相手は目的を果たす為には手段を選ばない男。必要とあらばきっと完璧に己の拙い字をも再現してみせるのではないか。そんな本来有り得ない妄想も、絶対にないとは言い切れず。
「勿論そうだ。だからもし君の返事を待たずに婚姻届を提出せざるを得ない状況となった場合、その時は別件を装って何が何でも君自身にサインを書いてもらう」
「うわ、まさかの事前申告!? 怖いよアルハイゼン、目が本気にしか見えな…」
迫真の眼差しに加え無言の圧力、どうやら今度は冗談ではないらしいと察した少女が慌てて非を認め謝罪を告ぐ。
そしてその上で、こちらにも言い分があるのだと、絡めた指に力を込めて真っ直ぐに彼の瞳を見つめる。
「っ…悪かった、茶化してごめん。けど、私に黙って籍を入れるのはやめてね」
「何故?」
「なんでって、そりゃ…もぅ、言わせないでよ」
腑に落ちないと言わんばかりのとぼけ顔、きっとこれも自分を翻弄する為の悪ふざけなのだろうと解釈し、サージュは不貞腐れつつ正直に想いの丈を伝える。
「キミがどんなプロポーズをしてくれるか、これでも毎日楽しみにしてるんだから…さ」
照れくさそうに口を尖らせての上目遣いでそう零して、言い終えるや否やすぐに視線を逸らす。
その破壊力はアルハイゼンの想定を大きく上回る愛らしさに満ちていて、彼は今すぐにでも恋人を抱き締めたい衝動を懸命に抑え頷いた。
「…そうか。なら、その期待に応えられるよう最善を尽くすと誓おう」
代わりに手の甲へそっと口付けを落とし、揺さぶりを掛けようと試みるも、彼女は嬉しそうに笑うのみで。
「えへへ、ありがと」
「ようやく耐性がついたか」
「まあね…今日は皆して私のこと揶揄ってくるから、流石に慣れてき…た…」
嘆息混じりの呆れ顔でそう笑うサージュの隙を突いて、男は恋人の腰を軽々と抱き上げる。
気を抜いた一瞬の内に、どういう訳か胸元にすっぽり収められてしまった少女は、一体何が起こったのか理解が追い付かず。
「ぅわぁっ?!」
「慣れたんじゃなかったのか?」
額に玉のような汗を浮かべ困惑の色を見せる彼女へと、アルハイゼンが挑発的な笑みを向ける。
その声音はまるで悪戯好きの子供のような無邪気さを孕んでいて、見慣れぬ一面に頬が熱を帯びていく。
そして、己がこの情愛を真に受け入れられるまでには、まだ時間を要するのだろうと顔を覆い隠す。
「…その顔はずるい」
「狡い? ふむ、そう来たか」
「褒めてないからね!?」
満足げな反応に間髪入れず指摘を叫び、どうしてこうも的外れな解を惜しげも無く出せるのかと眉を顰めるサージュ。
そもそも"的外れ"という解釈自体が誤りで、アルハイゼンは意図的に彼女との戯れを楽しむことしか考えていないだけなのだが。
「ところで、いつになったら降ろしてくれるの?」
「君が何も言わない限りは、このまま次の目的地へ向かうつもりだったが…仕方あるまい、あの樹を通り過ぎるまでに縮めるとしよう」
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