概要+短編
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今日も今日とて滞りなく職務を終え、帰路を歩むアルハイゼンの行く手を阻む女性が一人。
彼女は両手いっぱいに色とりどりの花束を抱えていて、どうやら所属はその花束に相応しく生論派であるらしいと察せられる緑色の学章を帽子につけていた。
有象無象がひしめき合う教令院、名も知らぬ相手の顔を記憶するほど他人に興味のない男は、早く帰りたいという意思を隠すことなくその学生と対峙する。
「あのっ、書記官様…これ受け取ってください!」
ある意味で予定調和、わざわざ通り道に立ち塞がって自らの存在をアピールするだけはある積極性。
下手に断る方が面倒だと悟った彼は、突き出された花束を渋々受け取り、そのまま謝意も告げずにこの場を去ろうとする。
「そ、それで…その! また次の機会で構いませんので、二人でお食事にでも…」
プレゼントだけでは飽き足らず、彼女はまだ何やら言い足りないことがあるらしく、あろうことか日を改めての誘いを叫ぶ。
知論派である身からはあまりに月並みで無価値な惹句 、アルハイゼンは容赦なくヘッドホンの遮音機能を起動させる。
その所作で身の程を知ったのか、彼女は深々と頭を下げ去り行く背を見送るしかなくなる。
そうして何も始まらずに終わった男女のやり取り、不服そうにその光景を見つめる陰がひとつ。
「…何あれ」
ぽつりと憤懣を零す少女、名前はサージュ。因論派に籍を置き、これまた密かに件の書記官に心を寄せる内の一人であった。
突然現れて抜け駆けとしか言いようのない暴挙を繰り広げた競争相手 に立腹し、自分も何か気を惹く手を考えねばと焦燥に拳を握り締める。
―
少女が衝撃的なシーンを目撃してから数日が経ったある日。本を読みながら歩く彼を見つけ声を掛けようとして、それどころではないトラブルに遭遇しているのだと気付く。
「失礼、足元までは見えていなかったようだ」
「ううん、だいじょうぶ…わたしもあそんでて、まわり見てなかったから」
アルハイゼンが身を屈め対話する相手、それは街路で友人達とボール遊びに興じていた小さな女児。
聡明な親の元で育ったのか、あるいは。故意ではなかったと言えど理不尽な大人とぶつかっても涙ひとつ見せず、それだけでなく彼の持つ本に興味を示す。
「おにいちゃん、どんな本を読んでたの?」
「これか? もし興味があるのなら、今回のお詫びにあげよう」
「え、いいの! ありがとう…大事にするね」
嬉しそうに本を抱き、女児は満開の笑顔を向け感謝を告げる。書への好奇心の芽生えにあてられた男はつられて破顔し、満足気に頷いて去って行く。
「またねおにいちゃん! ご本よんだら、またおはなしさせてーっ!」
嬉々として叫ぶ女児に、振り向きこそしないものの手を振り再会を拒まない素振りを見せる。
長年片恋を患ってきたサージュでも予想だにしない反応、すっかり人混みに紛れてしまった背を追うことも出来ず、彼女は肩を落とす。
「あ…また声かけそびれちゃった。それにしても、アルハイゼンがあんな優しい顔するなんて。意外と子供好きなのかな…いや、本好きが嬉しかっただけ、だよね…?」
―
また別の日。今度は知恵の殿堂で休憩中に本を読んでいるところに、かつては優れた教師として名を馳せた老婦人が声を掛けてくる。
「卒業して暫く経つのに、あなたは変わらず研究熱心ね」
彼が"ヤンチャ坊主"と行動を共にしていた頃を知る老教師は感慨深げにそう呟いて、臆することなく隣に座す。
流石に明確に立場が上の相手故か、普段のように邪険に扱うことこそないものの、特に会話を楽しむ気も起きず、アルハイゼンはやはり無言のまま書物を読み進める。
「懐かしいわね、その横顔。私もあと十…いや、二十年若ければ…」
「…?」
呟かれた旧懐、それはとうに過ぎ去った青春への羨望。どことなく学年一の秀麗な優等生の面影を感じさせる眼差しを見て、老婦は在りし日の思い出に目を細める。
しかしそれは何十年も前のこと、彼の父が仮に存命でも互いの顔を覚えてはいないだろうと、訝しげな声には首を振り、未練を断つかの如く席を立つ。
「いえいえ、何でもないわ。邪魔してごめんなさいね」
図書館の隅、大量の本を壁にし身を潜めて彼らの様子を窺っていたサージュは、老若問わず日毎に別の女性からそれぞれ異なる形でのアプローチを受けている男を見かね、一体どういうことだと奥歯を噛み締める。
「もう、今度は先生まで…! まさかアルハイゼン、モテ期なの…!?」
―
「はあ…確かに顔はいいけどさあ…あんな不愛想な人が、それだけであそこまで色目を使われることあるかなあ…」
日に日に募っていく煩悶を抑えきれず、少女は歩みを進める最中にもぶつぶつと愚痴を零す。
女性に言い寄られること自体が避けられないのであれば、せめて邪魔の入りにくい酒場で待ち構えようとして、その目論見すらも叶わないと大人のやり取りを見せつけられることとなる。
「お兄さん、好きなだけ飲みなよぉ」
「あぁ」
酒場の外、テラス席にて。遠巻きでもわかりやすい色香を武器に、屈強な女戦士がアルハイゼンの肩を抱いて酒瓶を傾ける。
男はグラスに注がれていくアルコールをじっと見つめ、次に彼女へと視線を向け表情を観察する。
毒や劇物が入っていないか警戒しているのか、すぐには酒に手を付けない様は、まるで相手の出方を窺っているようで。
「大丈夫だってば、いきなり取って食ったりしないからあ。でも本当に、近くで見れば見る程カッコいいねえ、あんた」
一方、女戦士は既に出来上がっているらしく、若干呂律が回っておらず声のトーンも波が激しかった。
彼が最も嫌う人種だとサージュが安堵したのも束の間、垣間見えた表情はどこか楽しげで、少女は居た堪れない気持ちになる。
「ッ…!」
飛び出して二人を妨害するか、いっそ全てを諦めるか。選びようのない重圧に押し潰されそうになって、咄嗟に物陰に隠れる。
それでも目に焼き付いた光景を忘れることは出来ず、どうしようもない複雑な想いが涙となって滴り落ちる。
確かに相手は上澄みも上澄み、教令院の書記官である。身の程知らずの恋だったと指摘されれば、彼女自身も頷くほかない。
そうでなくとも引く手数多、生涯を共にする女性を選ぶのも本人の望むがままだろう――ここ数日間でうっすらと脳裏を支配しつつあった結論に、少女は。
「…帰ろう」
今は心を蝕むだけだと思考を放棄して、賑やかなトレジャーストリートを全力疾走して家路に着く。
手を付けるべき課題も、冒険者ノートへの記帳も。一切合切の責務を投げて枕に目玉を押し付け、意識を闇に溶かしていった。
―
失意の中、無心で布団に飛び込み、泥のように眠ってから一夜が明けた早朝、日の出もまだの頃合い。
耳慣れない物音が聞こえたことで目を覚ましたサージュは、重い瞼を開けて不審なその音の先へ向かう。
「ん、なに…誰…?」
「サージュ。俺だ、アルハイゼンだ」
玄関の向こう側、己の名を呼ぶ声は、まさかの人物で。無我夢中でドアを開け迎え入れて、けれど意中の相手が家を訪ねる状況を信じられず幻覚を疑う。
「え…夢?」
「確かに今のスメール人なら皆、等しく夢を見られるようにはなったが…今ここに俺が居るのは紛れもなく現実だ」
「でも、どうしてこんな朝早くに…?」
ありえないとは言えなくなった冗談に苦笑して、彼は少女が在宅であったことに胸を撫で下ろす。
それから、本来であれば非常識と断じられても文句も言えない時間帯の訪問、その理由となった宝玉を取り出して見せる。
「昨日、これが道に落ちていたのを見つけた」
男の手に載せられているのは、サージュが授かった神の目。彼と出会った切っ掛けでもあり、命そのものにも等しい代物。
自分では失くしたことさえ気付かなかったそれを、この男は偶然見つけ、純然たる善意で家まで届けに来たのだと言う。
夜を越えた罪悪感で眉を下げる様に力強く首を振って、少女は落涙と共に謝意を告げる。
「本当なら一刻も早く君の手元に返したかったんだが…少しばかり厄介事に巻き込まれて遅くなった。すまない」
「ううん、キミが謝ることじゃない…わざわざ来てくれてありがとう」
「どうして泣く? それだけ大事なものなら、もっと管理に気をつけ…」
極まった感情の奔流は衝動を抑えられず、勢いのままにアルハイゼンへとしがみつく。
「好き…大好き」
胸に顔を埋めようとして、涙が服の染みになってはいけないと寸でのところで踏み留まる。
己に彼の正装を汚す資格はないと嗚咽を咬み殺し、すぐに離れなければと足の先に力を込める。
取るべき行動、頭では理解していても、矛盾した感情が自らの手足のコントロールを奪い、もっと触れていたいと願わずにはいられなくなってしまう。
「ごめんね…三十秒でいい、すぐ離れるから…少しだけ、このまま」
「サージュ」
言葉を紡ぎ終えるよりも先に名前を呼ばれ、決別の宣告を強引に覆す抱擁を返される。
サージュは自らの身に何が起こっているかもわからず、困惑から声が上擦り心音が加速していく。
夢ではないと当人から直々に念を押されたことで、触れた頬から伝わる熱の高さも重なる鼓動も本物なのだと嫌でも実感させられ、今にも爆発しそうな程だった。
「へ、ぁ、アルハイゼン…?!」
「秒数は問わない。君が満足するまで、何分でも、何時間でも」
「いっ、いい、大丈夫…! そんなに長くもたない、から…」
意中の人に包まれることによる焦燥は限界を迎え、これ以上は気を失いかねないと強引に逃れる。
逸る想いをどうにか鎮めようと深く息を吸って、詳細な説明を求めるべきだと恐る恐る彼の目を見上げるも、交わる視線に見え隠れする好奇に堪えかねすぐに顔を背けざるを得なかった。
「あの…状況が飲み込めないんだけど」
苛立ちを抑え必死にそれだけ絞り出すも、男は何故怒りを見せるのかとでも言いたげな目で呆気に取られるばかり。
「? 俺は君の好意に応えただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「…じゃあキミは、好きって言われたら…誰彼構わず抱き締めるってこと?」
秘したる想いの全く読めぬポーカーフェイスから齎されたのは、先の抱擁はあくまで受動的なものだったという説明。
利己主義とはかけ離れているようにしか思えぬ優しさが俄かには信じ難く、いつの間に博愛精神を学んだのかと突っ撥ねる。
しかし彼は少女のよく知る孤高の書記官アルハイゼン、自身にとって何の益もないことをするような性分ではなく。
「まさか。俺にも選ぶ権利はある。名前も知らない初対面や、親子ほども年の離れた相手…そういう手合いなら、たとえ懇願されても断るつもりだ」
肩を竦め、ここ数日で向けられた多数の不可思議な熱意に辟易していたことをそれとなく吐露する。
サージュはその真意を正しく解釈したものの、だとすれば何故昨夜の彼は女傭兵相手に笑みを浮かべたのだろうか。
解明とは縁遠くなった謎に表情はくしゃくしゃに歪み、心の奥底に鉛が落ちたような感覚に陥る。
そんな懊悩を知ってか知らずか。男は感慨深げに息を吐いて、日々の不快感を学びに昇華させたと証明してみせた。
「だがまあ…たまには自分が他人からどう見られているか確かめるのも悪くない。お陰で、この外見にもそれなりに価値があると判明したからな」
「ひぇっ」
至近距離に迫る相貌、自宅の壁に追いやられ逃げ場を失った少女は極めて間の抜けた声を漏らす。
その慌てた様子から、自らの顔面そのものが彼女を篭絡する武器足り得ると確信した男は、余すことなくそれを活かそうと震える頬に手を添えた。
「サージュ。俺も君が好きだ」
柔らかな微笑み、真摯な眼差しからなる万感の想いは相愛を証明し、少女の瞳から一筋の涙が伝う。
一度溢れ出した歓びは止めどなく流れ、サージュは堰を切ったように嗚咽を漏らしては伸ばされた腕を掴む。
それからストーキングと批難されて然るべき罪悪を吐き出して、自分がいかに矮小な人間かを懺悔する。
「ずっと見てたの…キミに、謝らなくちゃって」
「構わない。あくまでそれは、俺に話しかけようとして阻まれた結果だろう。正当な理由あってのことなら、特に咎めるつもりはないよ」
「ん、ごめん…ありがとう」
宥免を受け、少しずつ笑みを取り戻す少女。夜明け前には想像もしていなかった顛末に、晴れて両想いとなった実感が積み重なり、胸の内に宿った喜悦が膨らんでいく。
「…ひとつだけ聞かせて。昨日、あの傭兵さんと談笑してたときの表情は…どういうことだったの?」
その幸甚をチクリと刺すのは、脳裏に過った昨夜の光景、神の目を落としても気付かぬ程に取り乱した酒場での一幕。
少女の心を蝕む衝撃的なシーンについて、本人からの返答は思っていたよりも彼らしくないもので。
「ああ、あれか。彼女の誘惑自体は、特に俺の好奇心を満たせるものではなかったが…面と向かってこの顔を褒められたのは流石に初めてだったからな。だが、そこで肯定的な反応をしたのが大きなミスだった」
「…付き纏われた?」
不安げな声に首肯し、逃れる為にほぼ一夜を明かす羽目になった苦悩を思い起こし大きな嘆息を吐く。
彼が持っているのは、初対面の相手から見ても称賛に値する整った面立ちだけでなく、教令院の書記官という高い地位とそれに見合った収入、そしてその座に在るに相応しい聡明な知能。
望めば何人でも侍らせることさえ可能と言っていい、それがアルハイゼンという男なのだ。
「あのアクシデントさえなければ、君の神の目をもっと早く届けに来れたんだが」
にも拘らず彼は美女とのチャンスを棒に振り、紛失物を渡す為にこの家へやって来たと言う。
どう考えても不釣り合いだとしか思えない少女は、損得勘定の秤が壊れていると泣きながら笑って、自虐と共に羨望を呟く。
「もったいないなあ。あんな綺麗な人、街でそうそう見かけないのに」
「俺は獲物より男を狩る方が得意な傭兵崩れよりも、自らの身命に真摯に向き合える人間の方が遥かに興味深い。例えば君のように」
微かな怒りを声に乗せ、謙遜とも呼べぬ自己嫌悪を諫めるべく、敢えて歯の浮くような台詞で気を惹こうと試みる。
すっかり言い包められてしまったサージュは困窮を露わに目を逸らして、興奮冷めやらぬ心臓を鎮めようと胸元を握り締める。
「く、ぅ…そういうのずるいよ…」
「狡い? ふむ、確かに一理ある。自身の好意を伝えるのに、他人と比べて一方を下げ、相対的にマシだとでも言うかのように伝えるのは不誠実だな」
「えっ、あ、そういう意味じゃ…!?」
知論派としての矜持がそうさせるのか、あるいは。何気ない言葉が忌諱に触れたらしく、アルハイゼンは少女の耳許に顔を寄せ、もう間もなく落ち着かせられたかもしれなかった心を再び掻き乱すのだった。
「サージュ。俺は、もし自分が特定の一人と結ばれるのなら、その対象は君であって欲しいと常日頃から願っていたよ」
項垂れるようにしてごく自然に密着し、ここぞとばかりに胸の内に秘めていた愛を囁く。
とは言えども、彼もまた想定を越えた運命の好転に気持ちが追い付いておらず、鼓動の音が加速度的に増していくのを感じる。
「尤も、あくまでそれは俺自身の身勝手な願望でしかないと…ついさっきまで、そう思ってたんだがな」
「し、仕方ないでしょ…っ。毎日のように議論を交わして、時には一緒に秘境を調査したり、夜ご飯食べに行ったり…好きになるなって言う方が無理があるもん」
顔だけでなく首の裏まで真っ赤にして唇を尖らせ、共に過ごした時間の長さが慕情をここまで増幅させたのだと白状するサージュ。
対人関係における熟知性の原則を全く信じていなかった男は彼女を抱き寄せ、そう思わせるに至るまで共に過ごせた幸甚を噛み締め、更なる情愛を育んでいこうと密かに誓いを立てた。
「ふっ…そうだな。たとえそれが単純接触効果による脳への暗示でしかなくとも、俺は嬉しいよ」
彼女は両手いっぱいに色とりどりの花束を抱えていて、どうやら所属はその花束に相応しく生論派であるらしいと察せられる緑色の学章を帽子につけていた。
有象無象がひしめき合う教令院、名も知らぬ相手の顔を記憶するほど他人に興味のない男は、早く帰りたいという意思を隠すことなくその学生と対峙する。
「あのっ、書記官様…これ受け取ってください!」
ある意味で予定調和、わざわざ通り道に立ち塞がって自らの存在をアピールするだけはある積極性。
下手に断る方が面倒だと悟った彼は、突き出された花束を渋々受け取り、そのまま謝意も告げずにこの場を去ろうとする。
「そ、それで…その! また次の機会で構いませんので、二人でお食事にでも…」
プレゼントだけでは飽き足らず、彼女はまだ何やら言い足りないことがあるらしく、あろうことか日を改めての誘いを叫ぶ。
知論派である身からはあまりに月並みで無価値な
その所作で身の程を知ったのか、彼女は深々と頭を下げ去り行く背を見送るしかなくなる。
そうして何も始まらずに終わった男女のやり取り、不服そうにその光景を見つめる陰がひとつ。
「…何あれ」
ぽつりと憤懣を零す少女、名前はサージュ。因論派に籍を置き、これまた密かに件の書記官に心を寄せる内の一人であった。
突然現れて抜け駆けとしか言いようのない暴挙を繰り広げた
―
少女が衝撃的なシーンを目撃してから数日が経ったある日。本を読みながら歩く彼を見つけ声を掛けようとして、それどころではないトラブルに遭遇しているのだと気付く。
「失礼、足元までは見えていなかったようだ」
「ううん、だいじょうぶ…わたしもあそんでて、まわり見てなかったから」
アルハイゼンが身を屈め対話する相手、それは街路で友人達とボール遊びに興じていた小さな女児。
聡明な親の元で育ったのか、あるいは。故意ではなかったと言えど理不尽な大人とぶつかっても涙ひとつ見せず、それだけでなく彼の持つ本に興味を示す。
「おにいちゃん、どんな本を読んでたの?」
「これか? もし興味があるのなら、今回のお詫びにあげよう」
「え、いいの! ありがとう…大事にするね」
嬉しそうに本を抱き、女児は満開の笑顔を向け感謝を告げる。書への好奇心の芽生えにあてられた男はつられて破顔し、満足気に頷いて去って行く。
「またねおにいちゃん! ご本よんだら、またおはなしさせてーっ!」
嬉々として叫ぶ女児に、振り向きこそしないものの手を振り再会を拒まない素振りを見せる。
長年片恋を患ってきたサージュでも予想だにしない反応、すっかり人混みに紛れてしまった背を追うことも出来ず、彼女は肩を落とす。
「あ…また声かけそびれちゃった。それにしても、アルハイゼンがあんな優しい顔するなんて。意外と子供好きなのかな…いや、本好きが嬉しかっただけ、だよね…?」
―
また別の日。今度は知恵の殿堂で休憩中に本を読んでいるところに、かつては優れた教師として名を馳せた老婦人が声を掛けてくる。
「卒業して暫く経つのに、あなたは変わらず研究熱心ね」
彼が"ヤンチャ坊主"と行動を共にしていた頃を知る老教師は感慨深げにそう呟いて、臆することなく隣に座す。
流石に明確に立場が上の相手故か、普段のように邪険に扱うことこそないものの、特に会話を楽しむ気も起きず、アルハイゼンはやはり無言のまま書物を読み進める。
「懐かしいわね、その横顔。私もあと十…いや、二十年若ければ…」
「…?」
呟かれた旧懐、それはとうに過ぎ去った青春への羨望。どことなく学年一の秀麗な優等生の面影を感じさせる眼差しを見て、老婦は在りし日の思い出に目を細める。
しかしそれは何十年も前のこと、彼の父が仮に存命でも互いの顔を覚えてはいないだろうと、訝しげな声には首を振り、未練を断つかの如く席を立つ。
「いえいえ、何でもないわ。邪魔してごめんなさいね」
図書館の隅、大量の本を壁にし身を潜めて彼らの様子を窺っていたサージュは、老若問わず日毎に別の女性からそれぞれ異なる形でのアプローチを受けている男を見かね、一体どういうことだと奥歯を噛み締める。
「もう、今度は先生まで…! まさかアルハイゼン、モテ期なの…!?」
―
「はあ…確かに顔はいいけどさあ…あんな不愛想な人が、それだけであそこまで色目を使われることあるかなあ…」
日に日に募っていく煩悶を抑えきれず、少女は歩みを進める最中にもぶつぶつと愚痴を零す。
女性に言い寄られること自体が避けられないのであれば、せめて邪魔の入りにくい酒場で待ち構えようとして、その目論見すらも叶わないと大人のやり取りを見せつけられることとなる。
「お兄さん、好きなだけ飲みなよぉ」
「あぁ」
酒場の外、テラス席にて。遠巻きでもわかりやすい色香を武器に、屈強な女戦士がアルハイゼンの肩を抱いて酒瓶を傾ける。
男はグラスに注がれていくアルコールをじっと見つめ、次に彼女へと視線を向け表情を観察する。
毒や劇物が入っていないか警戒しているのか、すぐには酒に手を付けない様は、まるで相手の出方を窺っているようで。
「大丈夫だってば、いきなり取って食ったりしないからあ。でも本当に、近くで見れば見る程カッコいいねえ、あんた」
一方、女戦士は既に出来上がっているらしく、若干呂律が回っておらず声のトーンも波が激しかった。
彼が最も嫌う人種だとサージュが安堵したのも束の間、垣間見えた表情はどこか楽しげで、少女は居た堪れない気持ちになる。
「ッ…!」
飛び出して二人を妨害するか、いっそ全てを諦めるか。選びようのない重圧に押し潰されそうになって、咄嗟に物陰に隠れる。
それでも目に焼き付いた光景を忘れることは出来ず、どうしようもない複雑な想いが涙となって滴り落ちる。
確かに相手は上澄みも上澄み、教令院の書記官である。身の程知らずの恋だったと指摘されれば、彼女自身も頷くほかない。
そうでなくとも引く手数多、生涯を共にする女性を選ぶのも本人の望むがままだろう――ここ数日間でうっすらと脳裏を支配しつつあった結論に、少女は。
「…帰ろう」
今は心を蝕むだけだと思考を放棄して、賑やかなトレジャーストリートを全力疾走して家路に着く。
手を付けるべき課題も、冒険者ノートへの記帳も。一切合切の責務を投げて枕に目玉を押し付け、意識を闇に溶かしていった。
―
失意の中、無心で布団に飛び込み、泥のように眠ってから一夜が明けた早朝、日の出もまだの頃合い。
耳慣れない物音が聞こえたことで目を覚ましたサージュは、重い瞼を開けて不審なその音の先へ向かう。
「ん、なに…誰…?」
「サージュ。俺だ、アルハイゼンだ」
玄関の向こう側、己の名を呼ぶ声は、まさかの人物で。無我夢中でドアを開け迎え入れて、けれど意中の相手が家を訪ねる状況を信じられず幻覚を疑う。
「え…夢?」
「確かに今のスメール人なら皆、等しく夢を見られるようにはなったが…今ここに俺が居るのは紛れもなく現実だ」
「でも、どうしてこんな朝早くに…?」
ありえないとは言えなくなった冗談に苦笑して、彼は少女が在宅であったことに胸を撫で下ろす。
それから、本来であれば非常識と断じられても文句も言えない時間帯の訪問、その理由となった宝玉を取り出して見せる。
「昨日、これが道に落ちていたのを見つけた」
男の手に載せられているのは、サージュが授かった神の目。彼と出会った切っ掛けでもあり、命そのものにも等しい代物。
自分では失くしたことさえ気付かなかったそれを、この男は偶然見つけ、純然たる善意で家まで届けに来たのだと言う。
夜を越えた罪悪感で眉を下げる様に力強く首を振って、少女は落涙と共に謝意を告げる。
「本当なら一刻も早く君の手元に返したかったんだが…少しばかり厄介事に巻き込まれて遅くなった。すまない」
「ううん、キミが謝ることじゃない…わざわざ来てくれてありがとう」
「どうして泣く? それだけ大事なものなら、もっと管理に気をつけ…」
極まった感情の奔流は衝動を抑えられず、勢いのままにアルハイゼンへとしがみつく。
「好き…大好き」
胸に顔を埋めようとして、涙が服の染みになってはいけないと寸でのところで踏み留まる。
己に彼の正装を汚す資格はないと嗚咽を咬み殺し、すぐに離れなければと足の先に力を込める。
取るべき行動、頭では理解していても、矛盾した感情が自らの手足のコントロールを奪い、もっと触れていたいと願わずにはいられなくなってしまう。
「ごめんね…三十秒でいい、すぐ離れるから…少しだけ、このまま」
「サージュ」
言葉を紡ぎ終えるよりも先に名前を呼ばれ、決別の宣告を強引に覆す抱擁を返される。
サージュは自らの身に何が起こっているかもわからず、困惑から声が上擦り心音が加速していく。
夢ではないと当人から直々に念を押されたことで、触れた頬から伝わる熱の高さも重なる鼓動も本物なのだと嫌でも実感させられ、今にも爆発しそうな程だった。
「へ、ぁ、アルハイゼン…?!」
「秒数は問わない。君が満足するまで、何分でも、何時間でも」
「いっ、いい、大丈夫…! そんなに長くもたない、から…」
意中の人に包まれることによる焦燥は限界を迎え、これ以上は気を失いかねないと強引に逃れる。
逸る想いをどうにか鎮めようと深く息を吸って、詳細な説明を求めるべきだと恐る恐る彼の目を見上げるも、交わる視線に見え隠れする好奇に堪えかねすぐに顔を背けざるを得なかった。
「あの…状況が飲み込めないんだけど」
苛立ちを抑え必死にそれだけ絞り出すも、男は何故怒りを見せるのかとでも言いたげな目で呆気に取られるばかり。
「? 俺は君の好意に応えただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「…じゃあキミは、好きって言われたら…誰彼構わず抱き締めるってこと?」
秘したる想いの全く読めぬポーカーフェイスから齎されたのは、先の抱擁はあくまで受動的なものだったという説明。
利己主義とはかけ離れているようにしか思えぬ優しさが俄かには信じ難く、いつの間に博愛精神を学んだのかと突っ撥ねる。
しかし彼は少女のよく知る孤高の書記官アルハイゼン、自身にとって何の益もないことをするような性分ではなく。
「まさか。俺にも選ぶ権利はある。名前も知らない初対面や、親子ほども年の離れた相手…そういう手合いなら、たとえ懇願されても断るつもりだ」
肩を竦め、ここ数日で向けられた多数の不可思議な熱意に辟易していたことをそれとなく吐露する。
サージュはその真意を正しく解釈したものの、だとすれば何故昨夜の彼は女傭兵相手に笑みを浮かべたのだろうか。
解明とは縁遠くなった謎に表情はくしゃくしゃに歪み、心の奥底に鉛が落ちたような感覚に陥る。
そんな懊悩を知ってか知らずか。男は感慨深げに息を吐いて、日々の不快感を学びに昇華させたと証明してみせた。
「だがまあ…たまには自分が他人からどう見られているか確かめるのも悪くない。お陰で、この外見にもそれなりに価値があると判明したからな」
「ひぇっ」
至近距離に迫る相貌、自宅の壁に追いやられ逃げ場を失った少女は極めて間の抜けた声を漏らす。
その慌てた様子から、自らの顔面そのものが彼女を篭絡する武器足り得ると確信した男は、余すことなくそれを活かそうと震える頬に手を添えた。
「サージュ。俺も君が好きだ」
柔らかな微笑み、真摯な眼差しからなる万感の想いは相愛を証明し、少女の瞳から一筋の涙が伝う。
一度溢れ出した歓びは止めどなく流れ、サージュは堰を切ったように嗚咽を漏らしては伸ばされた腕を掴む。
それからストーキングと批難されて然るべき罪悪を吐き出して、自分がいかに矮小な人間かを懺悔する。
「ずっと見てたの…キミに、謝らなくちゃって」
「構わない。あくまでそれは、俺に話しかけようとして阻まれた結果だろう。正当な理由あってのことなら、特に咎めるつもりはないよ」
「ん、ごめん…ありがとう」
宥免を受け、少しずつ笑みを取り戻す少女。夜明け前には想像もしていなかった顛末に、晴れて両想いとなった実感が積み重なり、胸の内に宿った喜悦が膨らんでいく。
「…ひとつだけ聞かせて。昨日、あの傭兵さんと談笑してたときの表情は…どういうことだったの?」
その幸甚をチクリと刺すのは、脳裏に過った昨夜の光景、神の目を落としても気付かぬ程に取り乱した酒場での一幕。
少女の心を蝕む衝撃的なシーンについて、本人からの返答は思っていたよりも彼らしくないもので。
「ああ、あれか。彼女の誘惑自体は、特に俺の好奇心を満たせるものではなかったが…面と向かってこの顔を褒められたのは流石に初めてだったからな。だが、そこで肯定的な反応をしたのが大きなミスだった」
「…付き纏われた?」
不安げな声に首肯し、逃れる為にほぼ一夜を明かす羽目になった苦悩を思い起こし大きな嘆息を吐く。
彼が持っているのは、初対面の相手から見ても称賛に値する整った面立ちだけでなく、教令院の書記官という高い地位とそれに見合った収入、そしてその座に在るに相応しい聡明な知能。
望めば何人でも侍らせることさえ可能と言っていい、それがアルハイゼンという男なのだ。
「あのアクシデントさえなければ、君の神の目をもっと早く届けに来れたんだが」
にも拘らず彼は美女とのチャンスを棒に振り、紛失物を渡す為にこの家へやって来たと言う。
どう考えても不釣り合いだとしか思えない少女は、損得勘定の秤が壊れていると泣きながら笑って、自虐と共に羨望を呟く。
「もったいないなあ。あんな綺麗な人、街でそうそう見かけないのに」
「俺は獲物より男を狩る方が得意な傭兵崩れよりも、自らの身命に真摯に向き合える人間の方が遥かに興味深い。例えば君のように」
微かな怒りを声に乗せ、謙遜とも呼べぬ自己嫌悪を諫めるべく、敢えて歯の浮くような台詞で気を惹こうと試みる。
すっかり言い包められてしまったサージュは困窮を露わに目を逸らして、興奮冷めやらぬ心臓を鎮めようと胸元を握り締める。
「く、ぅ…そういうのずるいよ…」
「狡い? ふむ、確かに一理ある。自身の好意を伝えるのに、他人と比べて一方を下げ、相対的にマシだとでも言うかのように伝えるのは不誠実だな」
「えっ、あ、そういう意味じゃ…!?」
知論派としての矜持がそうさせるのか、あるいは。何気ない言葉が忌諱に触れたらしく、アルハイゼンは少女の耳許に顔を寄せ、もう間もなく落ち着かせられたかもしれなかった心を再び掻き乱すのだった。
「サージュ。俺は、もし自分が特定の一人と結ばれるのなら、その対象は君であって欲しいと常日頃から願っていたよ」
項垂れるようにしてごく自然に密着し、ここぞとばかりに胸の内に秘めていた愛を囁く。
とは言えども、彼もまた想定を越えた運命の好転に気持ちが追い付いておらず、鼓動の音が加速度的に増していくのを感じる。
「尤も、あくまでそれは俺自身の身勝手な願望でしかないと…ついさっきまで、そう思ってたんだがな」
「し、仕方ないでしょ…っ。毎日のように議論を交わして、時には一緒に秘境を調査したり、夜ご飯食べに行ったり…好きになるなって言う方が無理があるもん」
顔だけでなく首の裏まで真っ赤にして唇を尖らせ、共に過ごした時間の長さが慕情をここまで増幅させたのだと白状するサージュ。
対人関係における熟知性の原則を全く信じていなかった男は彼女を抱き寄せ、そう思わせるに至るまで共に過ごせた幸甚を噛み締め、更なる情愛を育んでいこうと密かに誓いを立てた。
「ふっ…そうだな。たとえそれが単純接触効果による脳への暗示でしかなくとも、俺は嬉しいよ」
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