短編集
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教令院の奥、知恵の殿堂。サージュはいつもの場所で、いつものように独り一向に進まぬ論文と睨み合いをしていた。
一見至って平凡な教令院の学生でしかない彼女だが、ひとつだけ、特別な存在である証となる授かり物を有していた。
それは、神の目。その神の目に興味を持ち、少女に好んで接触を図るようになった男が一人。
書記官アルハイゼンは、踊るように白紙と格闘する少女へとゆっくりと近付いて、その様子を揶揄する。
「随分と楽しそうだな」
「はぁ…そう見えるなら手伝ってよ。アルハイゼンが共同研究者になってくれたら、すぐにでもあらゆる申請が通せるのに」
「断る。俺は草神の研究に対して、君ほどの熱意を持てないからな」
少女にとっては絶望に近い発言をしながらも、彼はいつものように隣に座って、傍らで苦悩する彼女を眺める。
ふと、彼女の手が白く覆われていることに気付く。砂漠の民である証の褐色肌には不似合いの真白な包帯が目に留まり、抱いた疑問を臆することなく問い掛ける。
「…サージュ。その手はどうした?」
「あ、これ? 最近字を沢山書きすぎて、ちょっとね」
無事を伝えるようにヒラヒラと振って、しかし確かに痛みがあるらしく顔を歪める。
だが彼には少女がそれ程多くの字を書いたようには見えず、懐疑的な視線を向けざるを得なかった。
「論文は相変わらずほぼ白紙のようだが」
「まあ、どんなに書いても通らないものは通らないからね。一度提出したものを使い回すわけにもいかないし、また最初からやり直してるだけ」
言いながら記した走り書きによる蛇のような象形文字に、書記官としての血が騒ぎ指摘せずにはいられなくなるアルハイゼン。
彼女はその声音に潜む怒りを微かに感じつつも、それほど気に留めることなく適当な相槌と共にペンを進める。
「…その字の汚さは、怪我をしているからと認めるべきか」
「そういうことにしといて。えぇと、クラクサナリデビ様と砂漠の民の…」
「待て。今書かれた文字は…君が口にした言語とは到底似ても似つかない。まさかとは思うが、俺の目が狂っているのか?」
手を止めて、サージュは改めて自らの字を見やる。苦もなく文章を読み返して、男の疑惑の目に同調出来ず首を傾げた。
「そんなに読めないかな…」
「読む、の意味が変わってくるレベルだ。俺には古代文字よりも君の字の方が余程解読が困難に思える」
「嘘だぁ、流石にそこまでじゃないよ。それに、普段はもう少しまともに書けるし」
包帯による拘束の所為にして、少女がぼやく。その言を信じて、かつて論文になれなかった紙束を確かめるアルハイゼンの眉間は、みるみる内に皺を寄せていく。
ついには耐えきれず舌打ちまでして、怒りに任せ論文用紙を握り潰してしまった。
「ならその普段の字を見せてみろ。ッ…どこが真面だ、宝盗イタチでさえもっとマシな字を書くだろう」
動物以下と詰られ、返す言葉もなくなり茫然と己の手を見つめるサージュ。自分が書いてきた文字がそこまで罵倒されるほどとは思っていなかった彼女にとって、その怒りはまさに寝耳に水だった。
彼の深い溜息の後、少女は沈黙を嫌いすぐさまアルハイゼンへと向き直り、不屈の闘志を露わにする。
否定されたままでは終われないと反骨精神を抱く様は正しく教令院の学士らしく、彼は悦びと共にゆっくりと頷いて自らの矜恃を教え伝える。
「…どうしたら、アルハイゼンが認めてくれる字が書けるかな」
「まずはペンの持ち方を改めるといい。字が汚い原因の大半は、正しくペンを扱えていないことに起因する」
"書く"以前の問題なのかと、少女が困惑した様子で目を丸くする。長年慣れ切っていた持ち方が正しいものでないと知らされた衝撃は、彼女を袋小路に迷い込ませるには充分だった。
「こうだ。そのまま自分の名を書いてみろ」
しかし更に驚くべきことに、男は徐に彼女の手を包み、指先の位置や力の込め方まで細やかに指示してきた。
不意に触れた温もりに緊張が走るサージュにも構わず、そのまま字を書くよう促す。強張る手で彼女が書いた字には、わかりやすく震えが見えていた。
「あぅ、わ…わかった」
「ふむ…さっきよりはずっと良くなったが、まだ力が入り過ぎている。そんな調子では、手を痛めるのも当然だ」
成長を見せた筆跡に感嘆を零しつつ、アルハイゼンは少女の怪我の原因を悟る。
触れていた手が離れ、ようやく緊張から解放された彼女からは安堵の息が零れるも、悩みは果てなく。
「ありがとう、アルハイゼン。ん…ちゃんと持とうとすると、寧ろいつも以上に力んじゃうんだよね。指の使い方が良くないのかな」
「恐らくはそうなのだろう。もしくは、指だけではなく肘や肩に負担がかかり、それによって字の書き方が常に不安定になっている可能性もある」
「確かに、それはあるかも…いたた」
肩を回し、凝り固まった筋を解そうと試みるも、無理に伸ばしたせいで余計に痛めてしまう。
特に彼女の場合、研究費用の工面の為の労働により、勉学に励む以外にも腕や手を酷使する機会は少なくない。
字を書くという単純に見える作業ひとつ取っても、これ程奥が深いのだと知り、サージュは頭を悩ませる。
「…大丈夫か」
そっと、腫れ物に触れるような柔らかな声音で問うアルハイゼン。負担を強いていることに胸を痛めるような気概が彼の内にあったことに、少女は驚きを隠せなかった。
「あのアルハイゼンが、私を心配してくれてる…?」
「どうした。そんなに不思議なことか」
変わらぬ仏頂面で、真っ直ぐに少女を見つめるアルハイゼン。表情からは全く判断出来ないが、どうやら彼にも人の心があったようだ。
スメールの民は夢を見ない、そう己に根付く認識すらも疑いそうになりながら、彼女は感謝の意を込めて笑んだ。
「いや…ありがと。凄く嬉しい」
高揚する想いを胸に、再びペンを握る。教わったコツを意識して綺麗な字を書こうとして、これまでとそう変わらぬ拙さに落胆の表情を浮かべる。
「もう一回書いてみた! でも…あんまり上手くなった気がしないなぁ」
「さっきのはどうやら、幸運な偶然だったようだな」
目を閉じて手首を空振って、少女は感覚の違いを脳内でイメージしながら何度も試し書きを繰り返す。
意識はしている筈なのにどうしても上達しない道程の長さに焦れったくなったのか、今度は責任の矛先を己が使っているペンへと向け始めた。
「ね、アルハイゼンは普段仕事でどんなペンを使ってるの? このペン使っても綺麗に書けるかやってみてよ」
「はぁ…仕方ないな、これでいいか」
無理矢理に押し付けて、半ば落書き帳と化したノートの一頁に彼の筆跡を残すよう求める。
渋々承諾した彼が手癖で書いた殴り書きの文字を見て、彼女はそれが書記官のサインであるとすぐに見抜く。
「待ってアルハイゼン…サインじゃ上手かどうか、わかんない」
仮にこれが本気で丁寧に書いた文字だとすれば、彼は他人に字の醜美を指摘する資格などないことになる。
書記官としての仕事をする上で最も頻繁に書くのがこのサインだとはいえ、らしくない失態にアルハイゼンは素直に非を認め、今度は何を書き記すか思慮に耽ける。
「…そうだな、迂闊だった」
「書くこと思いつかないんなら、好きな食べ物の名前でもいいからさ」
サージュに急かされ、彼は昼食に食べたいと思ったものの名を書く。それは特別な何かを指したメニューというわけではなく、食事と称すには漠然としすぎた分類だった。
「肉…あははっ、確かに美味しいからね。覚えとくよ」
空白の中心に、欲求を主張するかのように書かれたその文字を見て、少女から笑みが零れる。
気恥ずかしさに強引に話題を戻すべく、持っていた彼女のペンを返却し、その使い心地を酷評する。
経年劣化によるものか、彼女の扱いの悪さ故か。接地面が潰れ、紙を強く傷付けてしまう使い方しか出来なくなっていた。
「そんなことより、ペンの話だっただろう。サージュ、君の癖の問題以上にこれの質は良くない。早めに別のものを用意した方がいい」
「あ、ほんと? 毎日山のように字を書いてるアルハイゼンが使いにくいって言うんじゃ、どうしようもないね」
手渡されたペンを見つめ、長年相棒として使い続けて来た実績は信頼の証左にならないことに、悲喜こもごもといった表情を見せる。
「…代わりのペンかあ。でもシティではあんまり筆記具売ってるお店見かけないしなぁ」
「街の店で売られているのは俺から見たら粗悪品ばかりだ。本当に質の高いものを探すのなら、オルモス港に行った方がいい」
「そうなんだ? オルモス港ね…今度行く時に見てみよっと」
街中ではなく港での購入を薦められ、何の疑いもなく納得して頷くサージュ。あまりにも純粋すぎるその瞳に、彼は少女が悪質な商人に騙されやしないか不安が過ぎる。
オルモス港はスメールという国の交易における玄関口でもあり、海を越えて運ばれる諸国の品は玉石混交となる。
確かに街では手に入らない良品に巡り会えることもあるが、そうでない粗雑なガラクタを押し付けられることも往々にしてある。
彼女がそれらを見分ける審美眼を持っているのかについて疑念しかない男は、自身も思いもよらぬ提案を持ち掛けた。
「都合が合えば、俺も同行しよう」
勿論驚いているのは、アルハイゼンだけではなく。サージュもまた、表情には出していない彼とは比べるべくもなく露骨に、驚嘆の意を露わにしていた。
「え、あ…うん。でもいいの? アルハイゼン、忙しいんじゃ」
「君一人では港の粗暴な商人の口車に簡単に載せられてしまいそうだと思ったまでだ。俺が着いていれば、少なくともその心配は無用になる」
理路整然と、同行の理由をでっち上げる。理由などなくただ傍に居たい、それだけの想いからの申し出であるとは、口にしている彼自身も気付いていなかった。
「…ありがと。キミが一緒なら心強いよ」
好意を巧妙に隠した厚意に喜びを胸に、サージュはその恩に報いることが出来るよう、自分なりの敬意を表する。
尤も、アルハイゼンが自分に恩を与えたくてこのような提案をしているとは露ほども思っていないことを、少女は僅かな付き合いの中でもよく知っている。
指摘すればたちまち、したいようにしているだけだと、そう不貞腐れるであろうことを。
「礼はいい。それよりも…たとえ今後ペンを買い替えたとしても、意図して綺麗な字を書く習慣が身に着けられなければ本末転倒だ。気を抜かないようにな」
「う、うん。頑張る」
拳を握り、己を律する。しかし意気込みだけでは結果が出ることはない。現に論文は殆ど白紙のまま一文字も書き進められておらず、 項垂れるしかなくなってしまう。
「がん…ばる、明日から…」
見たくなかった現実を思い出してしまいやる気が完全に削がれてしまったサージュは、雪解け水のように机上に溶けていく。
怠惰に堕ち行く少女に、わざとらしく嘆息して発破をかけるも、彼女は既に起き上がる気力を無くしていた。
「明日からではなく、今日も努力すべきだ。草神に顔向け出来なくなってもいいのか」
「それはそれ。今は英気を養うとき、だよ」
ひたすらに自分に都合のいい言い訳をして、腕を枕に微睡み始める。人気の少ない静寂に包まれた快適な空間でこそあれど、仮にも公共の場だと言うにも拘わらず。
「サージュ」
「大丈夫、ほんとに寝るわけじゃないって」
上目遣いで、自らを見下ろす男の鋭い瞳に向き合う。視線に棘こそ見え隠れしているが、本心から怒りを向けることはないと信じて微笑むと、彼は本当にそれで絆されてしまったらしく顔を背けた。
「私は、さ。キミみたいに翼を持ってないから…簡単には空を飛べないんだ」
腕枕の中で深淵を覗き込んで、感慨深く零す。空を目指し這い上がれば這い上がるだけ、堕ちた時の痛みは増す。
そんな心境を詩的な言葉で綴ってみるものの、芸術学方面への理解の薄い彼には、却って伝わりにくいものだったようだ。
「比喩的表現で誤魔化しても駄目だ。普段ならもっと勤勉な筈なのに、突然どうした」
「…べっつにー。頭がいい人は羨ましいなって話!」
無愛想にも程がある返しに興醒めしたサージュは、頬を膨らませて反抗心を露わにする。
しかし今度は直喩が過ぎたせいで、ぐうの音も出ない正論にて論破されてしまう。それはある意味で原点回帰、初歩中の初歩だった。
「なら君もそうなれるよう勉学に励むといい」
「うぐっ、やっぱりそこに戻ってきちゃうか…はあ。変な事言うんじゃなかった」
「尤も、君は他の怠惰な学生達に比べれば、余程勉強が好きな方だろう。何も困ることはないんじゃないのか?」
墓穴を掘ったことに頭を抱え、ますます陰鬱な気分に陥る少女。次第に憐憫の念を抱き始めたアルハイゼンが、慰めにもならない大味な肯定を示すも、当然それで彼女の表情は晴れることはなかった。
「知識欲を満たすのは得意でも、それを活かせる人になれるかはまた別なんだよね…私は自分の考えを人に正しく伝えるのが一番苦手だからさ」
少女の零す悲愴に、その苦悩をよく知る男は胸中で密かに納得する。本人に悟られれば、言語を捨てた直接的な行動を伴う叱責を受ける可能性が非常に高く、何としてもそれを避ける必要があった。
意思伝達力の低さ。それは彼女が共同研究者を得られず孤独に奮闘している、無視出来ない大きな要因のひとつだった。
「…成程」
敢えて今まで全くもって知らなかったかのような素振りで、他人事のように相槌を打つ。
天才とは常に孤独なものだと、他者からの理解を得ることを放棄した愚者達は己を殻に閉じ込めそう呪うように吐き捨てる。
しかし本当に優れた才を持つ者は、あらゆる批難を退け自らを認めさせる圧倒的な力と、他者を惹き寄せる魅力を持っているものだ。
彼からすればサージュも、今はまだ蕾が開花していないだけで、正しく天才の片鱗が垣間見えていた。
だからこそ、彼女と幾度となく言葉を交わし、自分と同じ高さに登りつめることを望む。
自他共に認める天賦の才を持つ身として、彼は少女の行く末を見届け、時には導いてやる必要があると、そう強く感じていた。
「あぁでも、アルハイゼンとよく話をするようになったお陰で…少しは会話が上手くなったかも」
「そうか。それは良かった」
こちらから答えを出すまでもなく成長を自覚していたらしく、少女が嬉しさを隠すことなくアルハイゼンへと笑みを向ける。
彼は彼女の一助となれたことへの充足感を悟られぬよう淡々と頷いて、それが幸福であることを努めて客観的に示す。
「ま…それでもまだまだ学術的議論を難なくこなす、って感じじゃあないけど」
苦笑と共に、少女が悪癖を恥じる。言葉を交わすことを不得手とする彼女は、我慢の限界を迎えた際に強引な手段を選びたくなることが稀ではなかった。
「そうだな。君のその気の短さは、この学術都市に於いては致命的な欠点になり得る。エルマイト旅団の傭兵達でも、もっと理知的に動くものだ」
「…うん」
言葉少なに頷き、それきり押し黙るサージュ。優れた傭兵であり荒事に長けていた母からも、怒りは常に抑えるべきものだと口酸っぱく叱られていたことを思い返していた。
それでも義憤の火を絶やさずにはいられないのは、クラクサナリデビへの信仰心の強さからか、あるいは疎外感からの存在証明か。
「アルハイゼンはさ、やっぱり砂漠の人は野蛮だと思ってる?」
恐る恐る問うのは、自己否定への恐怖から。けれど、彼は憮然とした表情で、サージュの不安を払拭する。
「全く。人間の出身地と性格の善し悪しに因果関係はない、何処で生まれたかなど、その人間を見定める物差しにはならない」
「そっか。なら、いいんだ。ありがと」
歯を見せて、彼女は笑う。喜びに満ちた表情には、溢れんばかりの好意が向けられていた。
けれどその眩しすぎる笑みはどこか儚く、触れたら消えてしまいそうな脆さを感じさせる。アルハイゼンはそれ以上、少女へと何も言うことが出来なかった。