概要+短編
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休憩時間に訪れた知恵の殿堂にて、男は珍しくサージュが自分の"巣"ではなく外に出て他人と――それも異性の相手と語らう姿を目撃する。
「…ほう」
遠巻きにも聞こえてくる声は努めて明るく、一見和気藹々の談笑にも見えるその光景だったが、彼は少女の表情からその対話が決していいものではないことを悟る。
張り付いた笑みに感情は込められておらず、視線も一切交わらない。否、意図して目を合わせるのを避けているとしか言いようがない程で。
尤もその悪癖に気付いているのは傍観者であるアルハイゼンだけで、あの露骨さから窺い知る限りでは本人さえも全くの無自覚なのだろう。
「どうもありがとう。それじゃあ、私はこれで」
呆然と眺めている内に話が一区切りついたのか、あるいは彼女の方からあれが議論に値しない相手だと見限ったのか。
普段ならあまり意図して使うことのない、ある種の冷酷ささえ感じさせる言い回しで席を立ち、脇目も振らずに自分の居城へと戻っていく。
今日は機嫌が悪いのであれば近寄らない方がいいか――そう思い踵を返そうとしたところを、城壁となる本の隙間から手招きする満面の笑みに射貫かれる。
逃げるのは許さない、とでも言いたげな鋭い眼差しに耐えかねた男は、渋々少女が待つ氷牢の内側に潜り込む。
「来てくれてよかった。今日は…キミと話がしたい気分だったんだ」
サージュは先刻までとは別人のように落ち着いた様子で微笑みかけ、喜悦に満ちた声でそう語る。
名も知らぬ彼との会話が余程ストレスだったのだろうか、どこか物憂げな瞳が妙に蠱惑的に感じられ、男は思わず息を呑む。
「アルハイゼンはさ、私がどんな話をしても…それこそ本当にしょうもない内容でも、とりあえず全部聞いてくれるじゃない」
「基本的にはそうだな」
腕を枕にして机に伏す少女に首肯を返し、男はそう感じさせるに至った過去の記憶を反芻する。
確かに指摘された通り、自分から話を遮ったことは数える程度しかなく、その数少ない中断も激昂を鎮めさせる為である場合が殆どだった。
と言ってもその待遇は彼女が"特例"なだけであり、アルハイゼン自身は意図して耳を傾けていた訳ではなかったのだが。
「それ、教令院の中では意外と貴重なんだなぁ…って。そう思ったら、キミと話すのが楽しい理由がわかった気がしてさ」
感慨深げに呟いて、少女はらしくもなく告白じみた発言をしてしまった照れ臭さから顔を埋める。
一方で彼はその言葉の真意には気付かず、かつての自戒も込めた一般論とそれに準じた対策を語るのみで。
「院内には自らが最も優れた知能を持った人間だと信じて止まない者が多いからな。そういう人種は、他人の意見をそもそも聞く気がないと思った方がいい」
「…うん」
的外れでは決してないものの、期待していた形とは異なる反応に、サージュは曖昧な同調しか出来ず。
弁舌に長けた彼のこと、全て理解した上で敢えて触れてくれなかった可能性もあり、どう会話を続けたものかと逡巡し喉が痞える。
「? どうした」
「えっ? いや、その…なんでもないよ。気にしないで」
微かな呻きを聞き逃さず、アルハイゼンは心底不思議そうな顔で挙動不審な少女を見遣る。
彼女は気に掛けられたことそのものに驚いて身を起こすも、正直に想いを告げる勇気もなく曖昧に誤魔化して視線を逸らす。
紅潮した頬、定まらない目の位置、そして上擦った声。どこからどう見ても様子がおかしい理由を男は不調が原因だと捉え、医師に診てもらうべきではないかと進言する。
「何でもないようには見えないが。熱があるのなら、病院まで同行しよう」
けれども当の本人は自身の異変を体調不良によるものだとは断固として認めず、善意の申し出に首を振るばかり。
「だっ…大丈夫だってば。キミの方こそ、休憩中でしょ。今からビマリスタンまで行ってたら、仕事始まっちゃう」
「仕事? そんなものは後からどうとでもなる。君を放置していい理由にはならない」
迫真の表情でそう告げ、上昇しているであろう体温を確かめようと無理矢理に手を伸ばす。
少女は寸でのところでそれを阻止するも、至近距離にやって来た彼の整った顔を直視出来る筈もなく。
「ッ…」
どうしようもなく高鳴る鼓動を抑えきれず、咄嗟に背を向けるしかなくなるサージュ。
いっそ互いに気持ちが通じ合っていると確信出来さえすれば、また違った反応を返せるのに――
悶々とした感情が渦を巻いて今にもここから逃げ出したくなる中、男は尚も彼女を案じ続ける。
「サージュ」
通りの良い、けれど決して不快感を感じさせない落ち着いた低音で名を呼ばれ、まるでこちらを向いてくれと懇願されているかのような気分になる。
実際にそういった意図が込められているかは定かではなかったが、少女は恐る恐る振り返って、潤んだ瞳でアルハイゼンを見つめる。
「何故泣く? 苦しいのか?」
「…そうかもね」
「なら、やはり診察を受けに…」
当てずっぽうでしかないその推測も、胸の動悸が治まらないという一点に於いては全く以て正しいもので。
恋心を自覚したばかりの少女は彼の言葉を否定する気も起きず、ぎこちなく笑んで適当に相槌を打って、どうしてこんな朴念仁を好きになってしまったんだと心の中で自嘲する。
しかし一度意識し始めた以上、その恋情をなかったことにすることは出来ない。このまま雑念に囚われ続けていては今後に支障が出ると、意を決して男の名を呼び、そして。
「アルハイゼン」
心配そうに宙に浮いたまま行き場を失っていた手を取り、ごつごつとした触り心地の長い指、グローブで隠れていない地肌の見える部分にそっと口付けを落とす。
言語の専門家たる彼を相手に、言葉で愛を告げるという真っ向勝負を挑むつもりは最初からなかったサージュの、せめて多少なりとも動揺を誘うことが出来ればという一心からの行いだったが、その効果覿面ぶりは予想以上であった。
「…」
己が身に一体何が起こったのか。思考の為のリソースは指先に確と残る唇の感触に全て奪われ、男は何度も目を瞬かせる。
まさか彼女の好意に異性としての情愛が込められていたとは思いもよらず、予想だにしない積極性を前にどう反応すべきか硬直してしまう。
「ぇと…嫌だったなら謝る。ごめん」
永遠にも感じられる長い沈黙を嫌悪と捉え、少女がすかさず非を詫びて立ち上がりこの場を去ろうとする。
喪失感に満ち行く心に針の一穴を空けるのは、アルハイゼンからの慌ただしい宥免だった。
「…待て、君が謝る必要はない。ただ驚いていただけだ」
触れられた指先を唇で撫で、無意識に間接キスをする。その所作から決して自分が嫌われている訳ではないと悟った少女は、内心密かに勝利を確信していた、のだが。
「君の言動があまりにも突拍子がなさ過ぎて、どう解釈すればいいか少しばかり理解に苦しんでいる」
ポーカーフェイス、否、おそらく本当に意識などしていないのだろう無表情で、彼は淡々とそう語る。
天然なのか、それとも。少なくとも恋愛対象として見てもらえていないという惨い現実を思い知り、サージュの心拍が急速に落ち着きを取り戻していく。
「あ、そ…」
投げ遣りな返しを吐いて、よく考えるまでもなく当然のことだと無理矢理に自らを納得させる。
元より他人との関わりを最小限とし、誰かから好かれようとしたことなど一度たりともないこの書記官が、異性からの好意を察せる筈がないのだと、一連の流れから彼女はそう解釈せざるを得なかった。
尤もその推察は誤りで、本人は正しく少女の想いを受け取りこそしているのだが、如何せん考えが読めない男のこと、惚れた強みがあろうと易々と心境を見抜けるものではなく。
「そんな難しく考えなくていいよ、なんなら忘れてくれても…」
「それは出来ない」
アルハイゼンは珍しく言葉を遮って、身体ごと視線を逸らそうとした少女の腕を掴み真っ直ぐにその目を見つめる。
いつになく熱の篭った眼差しは彼女の思考を焼き焦がし、まともな言葉を紡ぐことを阻む。
「ぅ、あ、ちょ…」
焦燥がそのまま口から漏れ出して、堪らずサージュはキュッと眉を顰め視界を閉ざす。
「…ふむ」
拒むでも喜ぶでもなく、ただ恥ずかしがっているだけの少女を前に、男は掴んだ腕をゆっくりと離しつつ、その様相を堂々と観察し始める。
微かに震える身体、膝の上で固く握られた拳、ぴったりと張り付いて開きそうにない瞼。
緊張しているのが一目瞭然の彼女からは、いいから早く楽にしてくれと呪詛にも似た悲痛な叫びが聞こえてくるかのようで。
「サージュ。君が病院に行く必要がないことはわかった」
「だから、最初からそう言ってるでしょ!」
敢えて踏むべき段を外し時を遡った頓珍漢な発言で少女の正気を取り戻させ、緊張を解こうと試みる。
その目論見はまさに狙い通りにことを運び、激昂した彼女は声を荒げ憤慨してみせる。
それでこそいつものサージュだと男は満足気に頷いて、慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「あっ、ご、ごめん…?」
取り乱した自責の念から謝罪を告げようとして、何故彼が微笑んでいるのか理解出来ず首を傾げる。
「…なんで笑ってるの」
「今の反応が、とても君らしいと思っただけだ。もし不快だったのなら詫びよう」
「私らしいって…はぁ」
恋煩いの相手に面と向かって短気を揶揄され、彼女の口からこの上なく深い嘆息が零れ出る。
他でもない彼がそれを是としているのが尚更質が悪いと思いながら、指摘された悪癖を恥じ俯く。
とは言え見方を変えれば、この不遜な書記官の前でならば、己を偽らずにいられるという証左でもある。
少なくとも、自分の長所だけでなく欠点をも理解し、受け止められるだけの器量は持ち合わせているのだ。
この狭い世界の中、そんな人間が果たしてあと何人存在しているだろうか。もしかしたらそのたった一人がアルハイゼンなのではないか。
脳内思考を駆け巡る煩悶をどうにか鎮めねばと逸るあまり、少女は気付けば自らも想像だにしていなかった挑発を口にしていた。
「じゃあキミは、お詫びに何をしてくれるの?」
まるっと言い終えてから、サージュは何を思ってこんなことを口走ったのかと焦慮に苛まれる。
しかしそれを悟られたが最後、二度と今回のようなチャンスは巡って来ないだろう。
いつ見抜かれるとも知れぬ虚勢であることは覚悟の上で男に視線を向けると、彼は随分と柔和な態度で誠意を示すのだった。
「何を、か。どうすれば君が満足するかを見極めるのは難しいが、いくつか案は思いついた」
「ふぅん…適当にどれか一個言ってみてよ」
即座に複数の解を導き出す聡明さに感嘆を零しながら、その一例に興味が湧いた少女は挑発交じりにそう強請る。
すると彼は徐に腕を組んでこちらをじっと見つめ、試すような声でとある疑問を投げ掛けた。
「甘いものは好きか?」
「…まあ、それなりに」
「なら、これを食べるといい」
「ん、どうも」
誘導尋問の末、アルハイゼンは自身の腰に巻かれた鞄の中から一粒の飴玉を取り出して手渡す。
彼女は素直に受け取り口に含むが、やがてそれを食べ終える頃、あまりにも呆気なさすぎると顔をしかめる。
「え…まさか終わり?」
「そうだと言ったら?」
「いやいや、こんなので気が済むと思わないでよ!」
冗談とも本気ともつかない笑みに再度憤りをぶつけると、男は首肯と共に今度は完全なプライベートでの逢瀬を提案してくる。
「ああ、勿論。だからここからが本題だ。仕事が終わった後、プスパカフェでバクラヴァを奢ろう。それでいいか?」
決して他意はないと頭では理解しつつも、思いもよらぬ展開に頬が緩んでしまうサージュ。
好いた相手からのデートの誘いを受けない理由はないと何度も頷いて、期待に胸を馳せる。
「…い、いいよ。うん。バクラヴァでもナツメヤシキャンディでも、何でも嬉しい」
意識していないとふにゃふにゃに緩み続ける頬を押さえ、幸甚をこれでもかと滲ませる。
けれどもその約束が果たされるのは、どんなに早くとも互いの責務を恙なく終えた後。
暫しの別れを間近に悟った少女は即座に気持ちを切り替え、勉学に励む意欲を見せた。
「よし。次の講義、あんまり好きじゃないテーマだったけど…ちゃんと頑張る。アルハイゼンもお仕事頑張って」
「頑張らなければならない状況になること自体が、俺にとっては望ましくないんだがな」
少女からの激励に対し同調とは真逆の怠惰な反応を返して、アルハイゼンは肩を竦める。
皮肉めいた言い回しこそしているものの、極めて有能なこの書記官が、万が一残業を強いられたり本来不要な仕事を強いられたりすれば、それは既に有事なのだ。
何よりも平穏を好む男にとって、そうなる未来は出来得る限り――否、是が非でも避けたいもので。
「ふっ、まあいい。サージュ、また後で落ち合おう」
憂慮を一笑に付し、再会の約束を告げ去っていく。心なしかその足取りは軽やかに見え、サージュは彼も普段とは異なる場での談笑を楽しみにしているのだと信じ、声には嬉しさが隠し切れなかった。
「またねアルハイゼン。入口の前で待ってるから!」
次第に遠ざかる背中を手を振りながら見送って、自分も次なる目的地に向け移動しなければと荷物を纏める。
夕暮れ時にまた会う際には、今度こそはっきりと胸の内に秘める想いを伝えようと決意を新たに、彼女は己が城を後にした。
「…ほう」
遠巻きにも聞こえてくる声は努めて明るく、一見和気藹々の談笑にも見えるその光景だったが、彼は少女の表情からその対話が決していいものではないことを悟る。
張り付いた笑みに感情は込められておらず、視線も一切交わらない。否、意図して目を合わせるのを避けているとしか言いようがない程で。
尤もその悪癖に気付いているのは傍観者であるアルハイゼンだけで、あの露骨さから窺い知る限りでは本人さえも全くの無自覚なのだろう。
「どうもありがとう。それじゃあ、私はこれで」
呆然と眺めている内に話が一区切りついたのか、あるいは彼女の方からあれが議論に値しない相手だと見限ったのか。
普段ならあまり意図して使うことのない、ある種の冷酷ささえ感じさせる言い回しで席を立ち、脇目も振らずに自分の居城へと戻っていく。
今日は機嫌が悪いのであれば近寄らない方がいいか――そう思い踵を返そうとしたところを、城壁となる本の隙間から手招きする満面の笑みに射貫かれる。
逃げるのは許さない、とでも言いたげな鋭い眼差しに耐えかねた男は、渋々少女が待つ氷牢の内側に潜り込む。
「来てくれてよかった。今日は…キミと話がしたい気分だったんだ」
サージュは先刻までとは別人のように落ち着いた様子で微笑みかけ、喜悦に満ちた声でそう語る。
名も知らぬ彼との会話が余程ストレスだったのだろうか、どこか物憂げな瞳が妙に蠱惑的に感じられ、男は思わず息を呑む。
「アルハイゼンはさ、私がどんな話をしても…それこそ本当にしょうもない内容でも、とりあえず全部聞いてくれるじゃない」
「基本的にはそうだな」
腕を枕にして机に伏す少女に首肯を返し、男はそう感じさせるに至った過去の記憶を反芻する。
確かに指摘された通り、自分から話を遮ったことは数える程度しかなく、その数少ない中断も激昂を鎮めさせる為である場合が殆どだった。
と言ってもその待遇は彼女が"特例"なだけであり、アルハイゼン自身は意図して耳を傾けていた訳ではなかったのだが。
「それ、教令院の中では意外と貴重なんだなぁ…って。そう思ったら、キミと話すのが楽しい理由がわかった気がしてさ」
感慨深げに呟いて、少女はらしくもなく告白じみた発言をしてしまった照れ臭さから顔を埋める。
一方で彼はその言葉の真意には気付かず、かつての自戒も込めた一般論とそれに準じた対策を語るのみで。
「院内には自らが最も優れた知能を持った人間だと信じて止まない者が多いからな。そういう人種は、他人の意見をそもそも聞く気がないと思った方がいい」
「…うん」
的外れでは決してないものの、期待していた形とは異なる反応に、サージュは曖昧な同調しか出来ず。
弁舌に長けた彼のこと、全て理解した上で敢えて触れてくれなかった可能性もあり、どう会話を続けたものかと逡巡し喉が痞える。
「? どうした」
「えっ? いや、その…なんでもないよ。気にしないで」
微かな呻きを聞き逃さず、アルハイゼンは心底不思議そうな顔で挙動不審な少女を見遣る。
彼女は気に掛けられたことそのものに驚いて身を起こすも、正直に想いを告げる勇気もなく曖昧に誤魔化して視線を逸らす。
紅潮した頬、定まらない目の位置、そして上擦った声。どこからどう見ても様子がおかしい理由を男は不調が原因だと捉え、医師に診てもらうべきではないかと進言する。
「何でもないようには見えないが。熱があるのなら、病院まで同行しよう」
けれども当の本人は自身の異変を体調不良によるものだとは断固として認めず、善意の申し出に首を振るばかり。
「だっ…大丈夫だってば。キミの方こそ、休憩中でしょ。今からビマリスタンまで行ってたら、仕事始まっちゃう」
「仕事? そんなものは後からどうとでもなる。君を放置していい理由にはならない」
迫真の表情でそう告げ、上昇しているであろう体温を確かめようと無理矢理に手を伸ばす。
少女は寸でのところでそれを阻止するも、至近距離にやって来た彼の整った顔を直視出来る筈もなく。
「ッ…」
どうしようもなく高鳴る鼓動を抑えきれず、咄嗟に背を向けるしかなくなるサージュ。
いっそ互いに気持ちが通じ合っていると確信出来さえすれば、また違った反応を返せるのに――
悶々とした感情が渦を巻いて今にもここから逃げ出したくなる中、男は尚も彼女を案じ続ける。
「サージュ」
通りの良い、けれど決して不快感を感じさせない落ち着いた低音で名を呼ばれ、まるでこちらを向いてくれと懇願されているかのような気分になる。
実際にそういった意図が込められているかは定かではなかったが、少女は恐る恐る振り返って、潤んだ瞳でアルハイゼンを見つめる。
「何故泣く? 苦しいのか?」
「…そうかもね」
「なら、やはり診察を受けに…」
当てずっぽうでしかないその推測も、胸の動悸が治まらないという一点に於いては全く以て正しいもので。
恋心を自覚したばかりの少女は彼の言葉を否定する気も起きず、ぎこちなく笑んで適当に相槌を打って、どうしてこんな朴念仁を好きになってしまったんだと心の中で自嘲する。
しかし一度意識し始めた以上、その恋情をなかったことにすることは出来ない。このまま雑念に囚われ続けていては今後に支障が出ると、意を決して男の名を呼び、そして。
「アルハイゼン」
心配そうに宙に浮いたまま行き場を失っていた手を取り、ごつごつとした触り心地の長い指、グローブで隠れていない地肌の見える部分にそっと口付けを落とす。
言語の専門家たる彼を相手に、言葉で愛を告げるという真っ向勝負を挑むつもりは最初からなかったサージュの、せめて多少なりとも動揺を誘うことが出来ればという一心からの行いだったが、その効果覿面ぶりは予想以上であった。
「…」
己が身に一体何が起こったのか。思考の為のリソースは指先に確と残る唇の感触に全て奪われ、男は何度も目を瞬かせる。
まさか彼女の好意に異性としての情愛が込められていたとは思いもよらず、予想だにしない積極性を前にどう反応すべきか硬直してしまう。
「ぇと…嫌だったなら謝る。ごめん」
永遠にも感じられる長い沈黙を嫌悪と捉え、少女がすかさず非を詫びて立ち上がりこの場を去ろうとする。
喪失感に満ち行く心に針の一穴を空けるのは、アルハイゼンからの慌ただしい宥免だった。
「…待て、君が謝る必要はない。ただ驚いていただけだ」
触れられた指先を唇で撫で、無意識に間接キスをする。その所作から決して自分が嫌われている訳ではないと悟った少女は、内心密かに勝利を確信していた、のだが。
「君の言動があまりにも突拍子がなさ過ぎて、どう解釈すればいいか少しばかり理解に苦しんでいる」
ポーカーフェイス、否、おそらく本当に意識などしていないのだろう無表情で、彼は淡々とそう語る。
天然なのか、それとも。少なくとも恋愛対象として見てもらえていないという惨い現実を思い知り、サージュの心拍が急速に落ち着きを取り戻していく。
「あ、そ…」
投げ遣りな返しを吐いて、よく考えるまでもなく当然のことだと無理矢理に自らを納得させる。
元より他人との関わりを最小限とし、誰かから好かれようとしたことなど一度たりともないこの書記官が、異性からの好意を察せる筈がないのだと、一連の流れから彼女はそう解釈せざるを得なかった。
尤もその推察は誤りで、本人は正しく少女の想いを受け取りこそしているのだが、如何せん考えが読めない男のこと、惚れた強みがあろうと易々と心境を見抜けるものではなく。
「そんな難しく考えなくていいよ、なんなら忘れてくれても…」
「それは出来ない」
アルハイゼンは珍しく言葉を遮って、身体ごと視線を逸らそうとした少女の腕を掴み真っ直ぐにその目を見つめる。
いつになく熱の篭った眼差しは彼女の思考を焼き焦がし、まともな言葉を紡ぐことを阻む。
「ぅ、あ、ちょ…」
焦燥がそのまま口から漏れ出して、堪らずサージュはキュッと眉を顰め視界を閉ざす。
「…ふむ」
拒むでも喜ぶでもなく、ただ恥ずかしがっているだけの少女を前に、男は掴んだ腕をゆっくりと離しつつ、その様相を堂々と観察し始める。
微かに震える身体、膝の上で固く握られた拳、ぴったりと張り付いて開きそうにない瞼。
緊張しているのが一目瞭然の彼女からは、いいから早く楽にしてくれと呪詛にも似た悲痛な叫びが聞こえてくるかのようで。
「サージュ。君が病院に行く必要がないことはわかった」
「だから、最初からそう言ってるでしょ!」
敢えて踏むべき段を外し時を遡った頓珍漢な発言で少女の正気を取り戻させ、緊張を解こうと試みる。
その目論見はまさに狙い通りにことを運び、激昂した彼女は声を荒げ憤慨してみせる。
それでこそいつものサージュだと男は満足気に頷いて、慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「あっ、ご、ごめん…?」
取り乱した自責の念から謝罪を告げようとして、何故彼が微笑んでいるのか理解出来ず首を傾げる。
「…なんで笑ってるの」
「今の反応が、とても君らしいと思っただけだ。もし不快だったのなら詫びよう」
「私らしいって…はぁ」
恋煩いの相手に面と向かって短気を揶揄され、彼女の口からこの上なく深い嘆息が零れ出る。
他でもない彼がそれを是としているのが尚更質が悪いと思いながら、指摘された悪癖を恥じ俯く。
とは言え見方を変えれば、この不遜な書記官の前でならば、己を偽らずにいられるという証左でもある。
少なくとも、自分の長所だけでなく欠点をも理解し、受け止められるだけの器量は持ち合わせているのだ。
この狭い世界の中、そんな人間が果たしてあと何人存在しているだろうか。もしかしたらそのたった一人がアルハイゼンなのではないか。
脳内思考を駆け巡る煩悶をどうにか鎮めねばと逸るあまり、少女は気付けば自らも想像だにしていなかった挑発を口にしていた。
「じゃあキミは、お詫びに何をしてくれるの?」
まるっと言い終えてから、サージュは何を思ってこんなことを口走ったのかと焦慮に苛まれる。
しかしそれを悟られたが最後、二度と今回のようなチャンスは巡って来ないだろう。
いつ見抜かれるとも知れぬ虚勢であることは覚悟の上で男に視線を向けると、彼は随分と柔和な態度で誠意を示すのだった。
「何を、か。どうすれば君が満足するかを見極めるのは難しいが、いくつか案は思いついた」
「ふぅん…適当にどれか一個言ってみてよ」
即座に複数の解を導き出す聡明さに感嘆を零しながら、その一例に興味が湧いた少女は挑発交じりにそう強請る。
すると彼は徐に腕を組んでこちらをじっと見つめ、試すような声でとある疑問を投げ掛けた。
「甘いものは好きか?」
「…まあ、それなりに」
「なら、これを食べるといい」
「ん、どうも」
誘導尋問の末、アルハイゼンは自身の腰に巻かれた鞄の中から一粒の飴玉を取り出して手渡す。
彼女は素直に受け取り口に含むが、やがてそれを食べ終える頃、あまりにも呆気なさすぎると顔をしかめる。
「え…まさか終わり?」
「そうだと言ったら?」
「いやいや、こんなので気が済むと思わないでよ!」
冗談とも本気ともつかない笑みに再度憤りをぶつけると、男は首肯と共に今度は完全なプライベートでの逢瀬を提案してくる。
「ああ、勿論。だからここからが本題だ。仕事が終わった後、プスパカフェでバクラヴァを奢ろう。それでいいか?」
決して他意はないと頭では理解しつつも、思いもよらぬ展開に頬が緩んでしまうサージュ。
好いた相手からのデートの誘いを受けない理由はないと何度も頷いて、期待に胸を馳せる。
「…い、いいよ。うん。バクラヴァでもナツメヤシキャンディでも、何でも嬉しい」
意識していないとふにゃふにゃに緩み続ける頬を押さえ、幸甚をこれでもかと滲ませる。
けれどもその約束が果たされるのは、どんなに早くとも互いの責務を恙なく終えた後。
暫しの別れを間近に悟った少女は即座に気持ちを切り替え、勉学に励む意欲を見せた。
「よし。次の講義、あんまり好きじゃないテーマだったけど…ちゃんと頑張る。アルハイゼンもお仕事頑張って」
「頑張らなければならない状況になること自体が、俺にとっては望ましくないんだがな」
少女からの激励に対し同調とは真逆の怠惰な反応を返して、アルハイゼンは肩を竦める。
皮肉めいた言い回しこそしているものの、極めて有能なこの書記官が、万が一残業を強いられたり本来不要な仕事を強いられたりすれば、それは既に有事なのだ。
何よりも平穏を好む男にとって、そうなる未来は出来得る限り――否、是が非でも避けたいもので。
「ふっ、まあいい。サージュ、また後で落ち合おう」
憂慮を一笑に付し、再会の約束を告げ去っていく。心なしかその足取りは軽やかに見え、サージュは彼も普段とは異なる場での談笑を楽しみにしているのだと信じ、声には嬉しさが隠し切れなかった。
「またねアルハイゼン。入口の前で待ってるから!」
次第に遠ざかる背中を手を振りながら見送って、自分も次なる目的地に向け移動しなければと荷物を纏める。
夕暮れ時にまた会う際には、今度こそはっきりと胸の内に秘める想いを伝えようと決意を新たに、彼女は己が城を後にした。
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