概要+短編
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それは、少女にとって何の変哲もない昼下がり。いつもと変わらぬ街並みを往く多くの人の中に、見慣れた背中を見つけた彼女は、嬉々として声を上げる。
「アルハイゼン!」
呼び掛けてはみたものの、予想通りと言うべきか彼は振り向くことなく歩みを進め遠ざかっていく。
少女がアルハイゼンと呼んだ青年、彼の耳には騒音から心身を護る為の堅牢な装いが身に付けられていた。
故に、喧騒の最中 に於いて他者からの声に反応することは稀で、それを知る彼女はいつもの事だと悟り改めて呼び止める為に追いかけることを決める。
「…はぁ」
驚かせぬよう背中越しにではなく、彼を追い越して回り込む。逸る息も構わず、少女は予期せぬ出逢いに喜びに満ちた表情で声を掛ける。
「こんにちは、アルハイゼン」
視界の中心で手を振られ、流石に彼女を認識した男が、肩に架かるコードに触れながらゆっくりと頷いて少女の挨拶に応じる。
その表情には微かに困惑が混じり、何故ここで彼女と遭遇したか疑問に思っているようだった。
「ん…サージュ、君か。街中で逢うのは奇遇だな」
「本当にね。私も偶然背中を見かけて声掛けたんだけど、いつも通り返事がなかったから」
嘘偽りなく語り、決して意図して邂逅を画策したのではないことを告げるサージュ。
その答えに、男は彼女が自分を慮 って突然身体に触れることなく呼び止める方法を選んだことに気付き非を詫びる。
「そうか、それは面倒をかけたな。感謝する」
「いいのいいの、私がキミと話したくて追い掛けただけだから。っと…今日はお休みでいいのかな。忙しい訳じゃない?」
呼び止めてから、少女はアルハイゼンが仕事に追われ急く身でないことを確かめる。
折角彼の元まで走ったというのに、引き留められなければ意味がない。幸いなことに、彼の答えは是であった。
「ああ。丁度コーヒーでも飲みに行こうと思っていたところだが、君も来るか」
「それは良いね、さっき勢いよく走ったせいか喉乾いてたんだ」
青年の提案に、全力疾走を経て微かに額に汗の滲む少女が笑みと共に快諾する。
了承を受けた男は行きつけの喫茶店であるプスパカフェへと足を向け歩みを進め、サージュがそれに追従する。
「ところで、今日はどんな曲聴いてたの」
騒音を何より嫌うアルハイゼンの生活に欠かせない存在である両耳を覆うヘッドホンを指して、少女は問う。
ヘッドホンの接続先となるのは、これもまた彼が愛用している小型のオーディオプレーヤー。それは本来の用途である音楽を再生する以外にも、騒音を遮断するノイズキャンセリング機能を搭載している。
そんな高性能な品で、どのような音楽を堪能しているのか。彼女は単純に興味を持っていた。
「興味津々のところ残念だが…今日に限らず、ここ暫くの間は君が思うような一般的な音楽を聴いていないな」
少女の期待とは裏腹に、男は首を横に振る。それを聞いたサージュは、彼があまりに多忙を窮め、ついに音楽鑑賞を楽しむ余裕すらなくなってしまったのだと悟り眉を下げる。
「そうだったんだ…」
「気に止む必要はない。代わりに最近は専ら、川のせせらぎや焚火が爆ぜる音…そういった、ただの環境音がもたらす繊細な音の響きを楽しんでいる」
申し訳なさに謝罪を述べるが、男はそう悲しむことではないと彼女を宥め、新たな私的流行 を語る。
それを聞いた彼女は少しずつ笑みを取り戻し、アルハイゼンが好んで聴くと称した、楽器演奏による一般的な音楽とはまた異なる概念について詳細を求める。
「うーん、想像だけだとピンと来ないけど…凄く気になる。私にも聴かせて欲しいな」
新たな知見を広げようとする少女の眩しいくらいに輝く瞳を前に、彼は徐に足を止める。
どうやらこれから向かおうとしていたプスパカフェでは、彼女に聴かせるには相応しくないと判断したようだ。
「…なら、場所を変えよう」
「ん? どうして?」
「街中でこれを君に貸せ、と?」
唐突な予定変更に、思わず疑問符を浮かべるサージュ。その反応に対し彼は自らの耳を守るヘッドホンを指して、これをこんな喧騒の真っ只中で外すなど言語道断と言わんばかりの眼差しを向ける。
「うっ…確かに。そこまで考えてなかった」
「大丈夫だ、それだけ興味を示してくれていると言うことだろう」
苦笑を零しながら、少女は己の浅慮を恥じる。言われてしまえば当たり前のことだが、彼女は気付かずに無茶な要求をしようとしていたのだと心苦しくなる。
だが当の本人は然程気に留めておらず、足取りの重くなりつつあるサージュを手招きして呼ぶ。
「それに、最初は出来るだけ静かな場所で聴いた方がいい。周囲の音に掻き消されてしまうのは勿体ないからな」
そう、いつになく饒舌に語る。親しい間柄で趣味を共有する喜びに、珍しくも彼は上機嫌な様子で少女を新たな目的地へと導く。
カフェではない、より静寂が担保される場。多くの人が暮らし活気に溢れるスメールシティに於いて、そんな好都合な場所はそう多くない。
程なくして、その慣れ親しんだ道に気付いた少女は彼がどこを目指しているのかを察する。
「えへへ…ありがと」
意図せぬ好機による男の自宅への招待に、少女の頬が喜びから締まりなく緩んでしまう。
二人で余暇を過ごすことさえ貴重であるのに、家に招かれるとは露ほども思っていなかった彼女はその表情から喜びが滲み出していた。
「?」
「な、何でもないよ。どんな感じか楽しみだなって」
微かな恐怖をも感じさせる不気味な笑みを浮かべる少女を訝しむ彼に、サージュは平静を装い先述の言葉に対して噛み合わない答えを返す。
男は彼女の不自然な誤魔化し方にある意味で安心しつつ、微かに口角を上げてようやく見えてきた自らの邸宅を指す。
「…そうか。なら、心ゆくまで聴いていくといい」
付近に住宅が密集しておらず、かつ教令院や街中へのアクセスも良好な優れた立地に位置するアルハイゼンの家に辿り着いた二人。
鍵を開け少女を招き入れ、団欒の用意と共にリビングのソファに腰掛ける。緊張からぎこちない動きでこちらを見る彼女に、自宅という安心感を得た彼は余裕綽々と言った表情で見つめる。
「使い方はわかるか」
ヘッドホンを外し、サージュの前に突き出す。少女は緊張に息を飲んで、ゆっくりと頷いた。
「う…うん、一応」
遠慮がちに手を出して、少女は渡されたヘッドホンを耳に装着する。これほど優れたデザインと機能を有してはいなかったが、彼女自身も音楽を聴く為の機械を扱ったことが全くないわけではなかった。
それは、フォンテーヌ出身である父の作品。彼女が幼い時分に造られたそれは、今のアルハイゼンが使っている物と比べるには非礼にも程がある品質ではあったが、確かにその機械を用いて"音"に触れた記憶が残っていた。
「左右が逆だ」
「へ? あ、そ…そっか、受け取ってそのままの向きで着けたらそうなるよね…」
冷静に訂正され、サージュは羞恥から顔に熱を帯びていく。単純なことさえわからない状態に陥っている少女の焦燥に、男は小さく溜息を吐いて。
「試聴の前に、気分を落ち着かせた方が良さそうだな」
慣れた様子で彼女の為に紅茶を注ぎ差し出して、自分もコーヒーを片手に息抜きを促す。
カフェで提供される飲料と比べても遜色のない上質さは、安息の為には一切の妥協を許さない彼の理念を感じさせた。
「ごめんね、アルハイゼン。今日…いつも以上に変だ、私」
受け取った紅茶を喉を鳴らして飲み干して、空になったカップの底に目を落とし悲愴を呟く。
空回りしている自分に嫌悪を抱かれてしまっているだろうと不安を抱く少女は、左右を取り違えたヘッドホンを外したまま付け直す気になれずにいた。
「何故謝る? 君が緊張による奇怪な行動を取るのはいつもの事だと俺は認識しているが」
「うう、明言されるとそれはそれで自分が滑稽で辛い…」
「恐らく君のそれは努力によって改善出来る類のものでもないのだろう。無駄な足掻きはせず、素直にそういうものだと受け入れてしまった方が楽になれる」
少なくとも自分はそう考えることにした、とアルハイゼンは言う。彼は教令院内部に多く存在する、知識だけが頭に詰まった偏狭な者達に常々辟易していた。
故にそれらの愚者とは明確に異なる、無垢で突飛な発想に満ちた少女は愛すべき馬鹿とも呼べる対象であり、彼女の奇行を既に全く苦としていなかった。
「それ…褒めてるのか貶してるのかわかんないけど、まあいいや」
己の困惑を一笑に付し、本来の目的を果たすべくヘッドホンを持ち上げる。今度は左右正しく装着して、コードの道中に備え付けられた簡易操作盤に指を掛ける。
「…これでよし、と。ボタン押したらすぐ聴こえるようになる?」
「ああ、音量バランスが気になるようなら遠慮せず伝えてくれていい。すぐに調節する」
機械に不慣れで操作の覚束無い少女にとって非常に心強い申し出に安堵して、意を決して音を再生させる。
しかし、耳を澄ませど無音にしか聴こえない。
「あの…アルハイゼン、ちゃんと音出てるんだよね、これ…」
不安に思った少女が、耳を覆うヘッドホンを指して訊ねる。本体が問題なく稼働しているのを見て故障ではないと判断しつつ、アルハイゼンは原因究明の為、徐に彼女の元へ近寄り確かめる。
「俺の耳に合わせての音量では頭が割れると思って控えめにしていたんだが…小さくしすぎていたようだな。少しずつ大きくしていくから、適したところで止めてくれ」
「う、うん」
どうやら彼は事前にボリュームを下げていたらしいが、その配慮が極端過ぎたのが原因のようだ。
それもその筈、街路における喧騒を遮る為には、必然的に爆音にも程近い大音量での再生を要する。
つまりそのままでは、静寂に包まれたこの場所に於いてはヘッドホンから伝わる音そのものが騒音の元となりかねない。
しかしそうして聴覚への影響を気にし過ぎた結果、聴こえなくなってしまっては本末転倒。彼はサージュの様子を窺いながら、音量調整に着手する。
「…ん、水が滴る音がする」
そう呟いて、思わず少女は音の鳴る方へ振り返ってしまう。それこそがアルハイゼンが聴かせたかった音色のひとつで、実際に雨漏りに水が跳ねているわけではなかった。
ヘッドホンを指して、彼は音の出処が耳元であると指摘する。少女の集中を遮らぬよう、声は出さずに。
「あ、なるほど。これがそうなんだ」
釣られて彼女も声を顰めて頷き、耳に流れ込む微かな音に意識を向けるべく瞳を閉じる。
普段の暮らしに於いて何気なく聞き流していた音ひとつとっても、改めて聴くと様々な感覚を刺激するのだと知り、彼女は感慨深く呟く。
「すごいね…大自然の中に居るみたい」
「それがこの音源の醍醐味だ」
律儀に片耳だけヘッドホンを外して感動を伝えるサージュに、彼はどこか誇らしげに同調し、試聴を続けるよう促す。
「…」
再び流れる音に耳を傾けると、今度は葉が揺れるメロディが聴こえて来る。森に赴いた際の風の騒めきを想起し、不思議と全身が浮遊感に包まれる。
このままでは眠りに堕ちてしまいそうだと感じた少女は、魔の誘いを退けるべく慌ててヘッドホンを外す。
「どうした?」
「ずっと聴いてたら、心地好さで寝ちゃいそうで。ありがとうアルハイゼン…これ、返すよ」
外したヘッドホンを突き返し、紅く染まる頬を見られてしまわぬよう顔を背ける。
幾らこれ以上なく快適な環境が整えられていたからと言えど、好意を寄せる相手の眼前で眠るなど彼女にとっては一生の不覚で。
「眠るのなら、布団を持って来るが」
しかし彼は飄々と、突き返されたヘッドホンを受け取ることすらなく、いつもと変わらぬ双眸で彼女を見つめ突拍子もないことを告げる。
サージュは願ってもない申し出と逸る気持ちを必死に抑え、自戒を込めて強く首を振り否定する。
「いっ、いや…大丈夫。流石に今ここで寝る程非常識じゃないつもり」
この場で眠りに就くというのは、即 ち彼の休日を邪魔立てするにも等しい愚行。
ただでさえ多忙な男の貴重な時間を奪う訳には行かない、これ以上を求める前に立ち去ろうと、重い腰を上げようとして。
「…サージュ」
少女が重心を預けソファに沈めた手にそっと触れ、彼はサージュを真っ直ぐに見つめ名を呼ぶ。
「俺が君の寝顔を見たい、と望めば…君は応えてくれるのか」
「え、ぇ…と」
乞うように告げられた衝撃はまさに青天の霹靂で、彼女の頬はみるみる内に深紅に染まって行く。
だが逆に、その問いによって少女は彼の願いを叶えられなくなってしまったことに気付き、ひどく慌てた様子で両手を振ってみせる。
「むっ、無理無理! ビックリしすぎてそれどころじゃないよ…!」
「そうか、残念だ。これだけ環境を整えたこの場所でなら、心地好く眠ることが出来ると思ったんだが」
「っ…そりゃ、キミはそうかもしれないけど」
半ば自暴自棄にも近い想いを抱きつつ、少女は皆まで言わずに吐き捨てる。
どこまで自分の胸の内を見透かした上で、彼はこんな甘言を口にしているのだろう。
今すぐにも問い質したい気持ちに駆られるサージュだが、答えを聞くには今はまだ勇気が足りなかった。
「…」
会話が途切れ、沈黙が訪れる。互いの呼吸以外にはほぼ一切の音のない空間に、少女を更なる緊張が苛む。
やがて、アルハイゼンがサージュから突き返されながらも膝に放置したままにしていたヘッドホンを持ち上げる。
少女は何も言わず横目で様子を窺おうとして、普段はヘッドホンに隠され見ることのない彼の耳に目を奪われる。
「どうかしたか」
「や、その…いつもヘッドホンしてるから、今までキミの耳をちゃんと見たことなかったんだな…って」
慌てて弁明するサージュに、男は手元と机の機械、それぞれを造り上げた頃のことを思い起こす。
愛用のヘッドホンも、それを接続し音楽を再生するポータブルオーディオプレーヤーも、全て彼が自身の手で完成させたものだった。
二人が出会ってまだ日が浅い訳ではない筈だが、そんな彼女にすら驚かれる程の長い間、外界の喧騒を遮断してきたのだと気付き、彼は懐かしさを覚える。
「外出先でこれを外す機会など、滅多にないからな。一歩外に出れば、常に騒音と隣り合わせになる以上…俺にとってこのヘッドホンは無くてはならない代物だ」
相棒と称するに相応しいヘッドホンへと向ける眼差しは柔らかく、少女にはどこか哀愁を感じさせるものに思え、無意識に謝罪の言葉が零れた。
「ご、ごめん。そんなに大切な物だったのに、私…」
「大丈夫だ、仕組みは頭に残っている。たとえ壊れたとしてもまた造ればいい」
「また造れば…って、嘘…これ、まさかアルハイゼンが自分で?」
衝撃的な事実に、サージュは目を丸め驚愕する。嘘であってほしいと一縷の望みを賭けて恐る恐る訊ねてみるが、アルハイゼンの返事はまさかの肯定であった。
確かに彼は卓越した才能を持つ優れた人間だが、技師からの指導もなしに独学で音楽再生機を自作してしまうなど、少女には信じられないとしか表現しようがなかった。
「アーカーシャ端末から得られる知識もたまには役に立つ。君も毛嫌いせず、適度に使うといい」
アルハイゼンは己が常日頃から耳に装着しているもうひとつの端末を指して、少女も同じものを身につけている筈だと指摘する。
スメールでの生活のあらゆる用途に用いられ、民にとって半ば必需品となっているアーカーシャ端末だが、彼女は異国の民だと暗に自分を拒むそれを好ましく思っていなかった。
故にそこから知識を得るなどという発想には至らなかったのだが、そんな複雑な胸中を揶揄されてしまう。
「…毛嫌いはしてない、けども」
叱られた幼子のように不貞腐れ、口を尖らせるサージュ。少女が知識の礎を拒んでいるのではなく、知識の礎が少女を拒んでいるのだと、男は知る由もない。
何の憂いもなくアーカーシャ端末から知識を引き出せる彼には、見えぬ壁による痛みは決して伝わることがないのだろう、そんな諦念にも似た悔恨を彼女は抱いていた。
「でも凄いね、流石アルハイゼン。アーカーシャ端末があっても、こんなの中々作れないよ」
胸中を覆い尽くす黒い靄を掻き消すべく、彼の作品に話題を向ける。見れば見るほど精巧な技術の随意に、少女は魅せられて行く。
精悍な面立ちと銀糸に良く似合う翠緑の外観 も、恐らくは彼が自分の好みに合わせて設計したものだろう。
食い入るように見つめていた少女に、アルハイゼンはその憧憬の眼差しを羨望と捉えたのか、意外な提案を持ちかけてくる。
「欲しいのなら、君にもひとつ造ろう」
「えっ、いいよそんな。私じゃ持て余しちゃうだろうし…」
困ったように笑って、少女は青年の申し出を優しく拒絶する。口にした言い訳は本音が半分、もう半分は羞恥によるものだった。
「そう、だな」
小さく零し、それきり押し黙る。表情こそ少し長い前髪に隠れ読み取ることが叶わなかったが、相応に落胆しているのは声音から伝わってくる。
罪悪感に苛まれた少女は慌てて彼の方へ向き直って、自らの発言が正確ではなかったと訂正する。
「あ、そ…その、気持ちは嬉しいの。でも、こうして…たまに聴かせてもらうくらいで充分、っていうか…」
しどろもどろになりながら、サージュは無意識の内に次の約束を叫ぶ。そのまま彼女は返事も待たずに去ってしまい、男は我が家に一人取り残される。
「だからッ…また今度、ね!」
「…」
去り行く背を見送って、彼はそのままソファに身を預ける。肘で自らの頭の重みを支え、次に逢う日にはどんな音色を聴かせようかと思慮に耽る。
悩みつつも、不思議と憂いはなかった。彼女なら、きっとどんな音でも心からの笑顔を向けてくれる。そう信じて、彼はサージュに聴かせたい曲の選定に取り掛かった。
「アルハイゼン!」
呼び掛けてはみたものの、予想通りと言うべきか彼は振り向くことなく歩みを進め遠ざかっていく。
少女がアルハイゼンと呼んだ青年、彼の耳には騒音から心身を護る為の堅牢な装いが身に付けられていた。
故に、喧騒の
「…はぁ」
驚かせぬよう背中越しにではなく、彼を追い越して回り込む。逸る息も構わず、少女は予期せぬ出逢いに喜びに満ちた表情で声を掛ける。
「こんにちは、アルハイゼン」
視界の中心で手を振られ、流石に彼女を認識した男が、肩に架かるコードに触れながらゆっくりと頷いて少女の挨拶に応じる。
その表情には微かに困惑が混じり、何故ここで彼女と遭遇したか疑問に思っているようだった。
「ん…サージュ、君か。街中で逢うのは奇遇だな」
「本当にね。私も偶然背中を見かけて声掛けたんだけど、いつも通り返事がなかったから」
嘘偽りなく語り、決して意図して邂逅を画策したのではないことを告げるサージュ。
その答えに、男は彼女が自分を
「そうか、それは面倒をかけたな。感謝する」
「いいのいいの、私がキミと話したくて追い掛けただけだから。っと…今日はお休みでいいのかな。忙しい訳じゃない?」
呼び止めてから、少女はアルハイゼンが仕事に追われ急く身でないことを確かめる。
折角彼の元まで走ったというのに、引き留められなければ意味がない。幸いなことに、彼の答えは是であった。
「ああ。丁度コーヒーでも飲みに行こうと思っていたところだが、君も来るか」
「それは良いね、さっき勢いよく走ったせいか喉乾いてたんだ」
青年の提案に、全力疾走を経て微かに額に汗の滲む少女が笑みと共に快諾する。
了承を受けた男は行きつけの喫茶店であるプスパカフェへと足を向け歩みを進め、サージュがそれに追従する。
「ところで、今日はどんな曲聴いてたの」
騒音を何より嫌うアルハイゼンの生活に欠かせない存在である両耳を覆うヘッドホンを指して、少女は問う。
ヘッドホンの接続先となるのは、これもまた彼が愛用している小型のオーディオプレーヤー。それは本来の用途である音楽を再生する以外にも、騒音を遮断するノイズキャンセリング機能を搭載している。
そんな高性能な品で、どのような音楽を堪能しているのか。彼女は単純に興味を持っていた。
「興味津々のところ残念だが…今日に限らず、ここ暫くの間は君が思うような一般的な音楽を聴いていないな」
少女の期待とは裏腹に、男は首を横に振る。それを聞いたサージュは、彼があまりに多忙を窮め、ついに音楽鑑賞を楽しむ余裕すらなくなってしまったのだと悟り眉を下げる。
「そうだったんだ…」
「気に止む必要はない。代わりに最近は専ら、川のせせらぎや焚火が爆ぜる音…そういった、ただの環境音がもたらす繊細な音の響きを楽しんでいる」
申し訳なさに謝罪を述べるが、男はそう悲しむことではないと彼女を宥め、新たな
それを聞いた彼女は少しずつ笑みを取り戻し、アルハイゼンが好んで聴くと称した、楽器演奏による一般的な音楽とはまた異なる概念について詳細を求める。
「うーん、想像だけだとピンと来ないけど…凄く気になる。私にも聴かせて欲しいな」
新たな知見を広げようとする少女の眩しいくらいに輝く瞳を前に、彼は徐に足を止める。
どうやらこれから向かおうとしていたプスパカフェでは、彼女に聴かせるには相応しくないと判断したようだ。
「…なら、場所を変えよう」
「ん? どうして?」
「街中でこれを君に貸せ、と?」
唐突な予定変更に、思わず疑問符を浮かべるサージュ。その反応に対し彼は自らの耳を守るヘッドホンを指して、これをこんな喧騒の真っ只中で外すなど言語道断と言わんばかりの眼差しを向ける。
「うっ…確かに。そこまで考えてなかった」
「大丈夫だ、それだけ興味を示してくれていると言うことだろう」
苦笑を零しながら、少女は己の浅慮を恥じる。言われてしまえば当たり前のことだが、彼女は気付かずに無茶な要求をしようとしていたのだと心苦しくなる。
だが当の本人は然程気に留めておらず、足取りの重くなりつつあるサージュを手招きして呼ぶ。
「それに、最初は出来るだけ静かな場所で聴いた方がいい。周囲の音に掻き消されてしまうのは勿体ないからな」
そう、いつになく饒舌に語る。親しい間柄で趣味を共有する喜びに、珍しくも彼は上機嫌な様子で少女を新たな目的地へと導く。
カフェではない、より静寂が担保される場。多くの人が暮らし活気に溢れるスメールシティに於いて、そんな好都合な場所はそう多くない。
程なくして、その慣れ親しんだ道に気付いた少女は彼がどこを目指しているのかを察する。
「えへへ…ありがと」
意図せぬ好機による男の自宅への招待に、少女の頬が喜びから締まりなく緩んでしまう。
二人で余暇を過ごすことさえ貴重であるのに、家に招かれるとは露ほども思っていなかった彼女はその表情から喜びが滲み出していた。
「?」
「な、何でもないよ。どんな感じか楽しみだなって」
微かな恐怖をも感じさせる不気味な笑みを浮かべる少女を訝しむ彼に、サージュは平静を装い先述の言葉に対して噛み合わない答えを返す。
男は彼女の不自然な誤魔化し方にある意味で安心しつつ、微かに口角を上げてようやく見えてきた自らの邸宅を指す。
「…そうか。なら、心ゆくまで聴いていくといい」
付近に住宅が密集しておらず、かつ教令院や街中へのアクセスも良好な優れた立地に位置するアルハイゼンの家に辿り着いた二人。
鍵を開け少女を招き入れ、団欒の用意と共にリビングのソファに腰掛ける。緊張からぎこちない動きでこちらを見る彼女に、自宅という安心感を得た彼は余裕綽々と言った表情で見つめる。
「使い方はわかるか」
ヘッドホンを外し、サージュの前に突き出す。少女は緊張に息を飲んで、ゆっくりと頷いた。
「う…うん、一応」
遠慮がちに手を出して、少女は渡されたヘッドホンを耳に装着する。これほど優れたデザインと機能を有してはいなかったが、彼女自身も音楽を聴く為の機械を扱ったことが全くないわけではなかった。
それは、フォンテーヌ出身である父の作品。彼女が幼い時分に造られたそれは、今のアルハイゼンが使っている物と比べるには非礼にも程がある品質ではあったが、確かにその機械を用いて"音"に触れた記憶が残っていた。
「左右が逆だ」
「へ? あ、そ…そっか、受け取ってそのままの向きで着けたらそうなるよね…」
冷静に訂正され、サージュは羞恥から顔に熱を帯びていく。単純なことさえわからない状態に陥っている少女の焦燥に、男は小さく溜息を吐いて。
「試聴の前に、気分を落ち着かせた方が良さそうだな」
慣れた様子で彼女の為に紅茶を注ぎ差し出して、自分もコーヒーを片手に息抜きを促す。
カフェで提供される飲料と比べても遜色のない上質さは、安息の為には一切の妥協を許さない彼の理念を感じさせた。
「ごめんね、アルハイゼン。今日…いつも以上に変だ、私」
受け取った紅茶を喉を鳴らして飲み干して、空になったカップの底に目を落とし悲愴を呟く。
空回りしている自分に嫌悪を抱かれてしまっているだろうと不安を抱く少女は、左右を取り違えたヘッドホンを外したまま付け直す気になれずにいた。
「何故謝る? 君が緊張による奇怪な行動を取るのはいつもの事だと俺は認識しているが」
「うう、明言されるとそれはそれで自分が滑稽で辛い…」
「恐らく君のそれは努力によって改善出来る類のものでもないのだろう。無駄な足掻きはせず、素直にそういうものだと受け入れてしまった方が楽になれる」
少なくとも自分はそう考えることにした、とアルハイゼンは言う。彼は教令院内部に多く存在する、知識だけが頭に詰まった偏狭な者達に常々辟易していた。
故にそれらの愚者とは明確に異なる、無垢で突飛な発想に満ちた少女は愛すべき馬鹿とも呼べる対象であり、彼女の奇行を既に全く苦としていなかった。
「それ…褒めてるのか貶してるのかわかんないけど、まあいいや」
己の困惑を一笑に付し、本来の目的を果たすべくヘッドホンを持ち上げる。今度は左右正しく装着して、コードの道中に備え付けられた簡易操作盤に指を掛ける。
「…これでよし、と。ボタン押したらすぐ聴こえるようになる?」
「ああ、音量バランスが気になるようなら遠慮せず伝えてくれていい。すぐに調節する」
機械に不慣れで操作の覚束無い少女にとって非常に心強い申し出に安堵して、意を決して音を再生させる。
しかし、耳を澄ませど無音にしか聴こえない。
「あの…アルハイゼン、ちゃんと音出てるんだよね、これ…」
不安に思った少女が、耳を覆うヘッドホンを指して訊ねる。本体が問題なく稼働しているのを見て故障ではないと判断しつつ、アルハイゼンは原因究明の為、徐に彼女の元へ近寄り確かめる。
「俺の耳に合わせての音量では頭が割れると思って控えめにしていたんだが…小さくしすぎていたようだな。少しずつ大きくしていくから、適したところで止めてくれ」
「う、うん」
どうやら彼は事前にボリュームを下げていたらしいが、その配慮が極端過ぎたのが原因のようだ。
それもその筈、街路における喧騒を遮る為には、必然的に爆音にも程近い大音量での再生を要する。
つまりそのままでは、静寂に包まれたこの場所に於いてはヘッドホンから伝わる音そのものが騒音の元となりかねない。
しかしそうして聴覚への影響を気にし過ぎた結果、聴こえなくなってしまっては本末転倒。彼はサージュの様子を窺いながら、音量調整に着手する。
「…ん、水が滴る音がする」
そう呟いて、思わず少女は音の鳴る方へ振り返ってしまう。それこそがアルハイゼンが聴かせたかった音色のひとつで、実際に雨漏りに水が跳ねているわけではなかった。
ヘッドホンを指して、彼は音の出処が耳元であると指摘する。少女の集中を遮らぬよう、声は出さずに。
「あ、なるほど。これがそうなんだ」
釣られて彼女も声を顰めて頷き、耳に流れ込む微かな音に意識を向けるべく瞳を閉じる。
普段の暮らしに於いて何気なく聞き流していた音ひとつとっても、改めて聴くと様々な感覚を刺激するのだと知り、彼女は感慨深く呟く。
「すごいね…大自然の中に居るみたい」
「それがこの音源の醍醐味だ」
律儀に片耳だけヘッドホンを外して感動を伝えるサージュに、彼はどこか誇らしげに同調し、試聴を続けるよう促す。
「…」
再び流れる音に耳を傾けると、今度は葉が揺れるメロディが聴こえて来る。森に赴いた際の風の騒めきを想起し、不思議と全身が浮遊感に包まれる。
このままでは眠りに堕ちてしまいそうだと感じた少女は、魔の誘いを退けるべく慌ててヘッドホンを外す。
「どうした?」
「ずっと聴いてたら、心地好さで寝ちゃいそうで。ありがとうアルハイゼン…これ、返すよ」
外したヘッドホンを突き返し、紅く染まる頬を見られてしまわぬよう顔を背ける。
幾らこれ以上なく快適な環境が整えられていたからと言えど、好意を寄せる相手の眼前で眠るなど彼女にとっては一生の不覚で。
「眠るのなら、布団を持って来るが」
しかし彼は飄々と、突き返されたヘッドホンを受け取ることすらなく、いつもと変わらぬ双眸で彼女を見つめ突拍子もないことを告げる。
サージュは願ってもない申し出と逸る気持ちを必死に抑え、自戒を込めて強く首を振り否定する。
「いっ、いや…大丈夫。流石に今ここで寝る程非常識じゃないつもり」
この場で眠りに就くというのは、
ただでさえ多忙な男の貴重な時間を奪う訳には行かない、これ以上を求める前に立ち去ろうと、重い腰を上げようとして。
「…サージュ」
少女が重心を預けソファに沈めた手にそっと触れ、彼はサージュを真っ直ぐに見つめ名を呼ぶ。
「俺が君の寝顔を見たい、と望めば…君は応えてくれるのか」
「え、ぇ…と」
乞うように告げられた衝撃はまさに青天の霹靂で、彼女の頬はみるみる内に深紅に染まって行く。
だが逆に、その問いによって少女は彼の願いを叶えられなくなってしまったことに気付き、ひどく慌てた様子で両手を振ってみせる。
「むっ、無理無理! ビックリしすぎてそれどころじゃないよ…!」
「そうか、残念だ。これだけ環境を整えたこの場所でなら、心地好く眠ることが出来ると思ったんだが」
「っ…そりゃ、キミはそうかもしれないけど」
半ば自暴自棄にも近い想いを抱きつつ、少女は皆まで言わずに吐き捨てる。
どこまで自分の胸の内を見透かした上で、彼はこんな甘言を口にしているのだろう。
今すぐにも問い質したい気持ちに駆られるサージュだが、答えを聞くには今はまだ勇気が足りなかった。
「…」
会話が途切れ、沈黙が訪れる。互いの呼吸以外にはほぼ一切の音のない空間に、少女を更なる緊張が苛む。
やがて、アルハイゼンがサージュから突き返されながらも膝に放置したままにしていたヘッドホンを持ち上げる。
少女は何も言わず横目で様子を窺おうとして、普段はヘッドホンに隠され見ることのない彼の耳に目を奪われる。
「どうかしたか」
「や、その…いつもヘッドホンしてるから、今までキミの耳をちゃんと見たことなかったんだな…って」
慌てて弁明するサージュに、男は手元と机の機械、それぞれを造り上げた頃のことを思い起こす。
愛用のヘッドホンも、それを接続し音楽を再生するポータブルオーディオプレーヤーも、全て彼が自身の手で完成させたものだった。
二人が出会ってまだ日が浅い訳ではない筈だが、そんな彼女にすら驚かれる程の長い間、外界の喧騒を遮断してきたのだと気付き、彼は懐かしさを覚える。
「外出先でこれを外す機会など、滅多にないからな。一歩外に出れば、常に騒音と隣り合わせになる以上…俺にとってこのヘッドホンは無くてはならない代物だ」
相棒と称するに相応しいヘッドホンへと向ける眼差しは柔らかく、少女にはどこか哀愁を感じさせるものに思え、無意識に謝罪の言葉が零れた。
「ご、ごめん。そんなに大切な物だったのに、私…」
「大丈夫だ、仕組みは頭に残っている。たとえ壊れたとしてもまた造ればいい」
「また造れば…って、嘘…これ、まさかアルハイゼンが自分で?」
衝撃的な事実に、サージュは目を丸め驚愕する。嘘であってほしいと一縷の望みを賭けて恐る恐る訊ねてみるが、アルハイゼンの返事はまさかの肯定であった。
確かに彼は卓越した才能を持つ優れた人間だが、技師からの指導もなしに独学で音楽再生機を自作してしまうなど、少女には信じられないとしか表現しようがなかった。
「アーカーシャ端末から得られる知識もたまには役に立つ。君も毛嫌いせず、適度に使うといい」
アルハイゼンは己が常日頃から耳に装着しているもうひとつの端末を指して、少女も同じものを身につけている筈だと指摘する。
スメールでの生活のあらゆる用途に用いられ、民にとって半ば必需品となっているアーカーシャ端末だが、彼女は異国の民だと暗に自分を拒むそれを好ましく思っていなかった。
故にそこから知識を得るなどという発想には至らなかったのだが、そんな複雑な胸中を揶揄されてしまう。
「…毛嫌いはしてない、けども」
叱られた幼子のように不貞腐れ、口を尖らせるサージュ。少女が知識の礎を拒んでいるのではなく、知識の礎が少女を拒んでいるのだと、男は知る由もない。
何の憂いもなくアーカーシャ端末から知識を引き出せる彼には、見えぬ壁による痛みは決して伝わることがないのだろう、そんな諦念にも似た悔恨を彼女は抱いていた。
「でも凄いね、流石アルハイゼン。アーカーシャ端末があっても、こんなの中々作れないよ」
胸中を覆い尽くす黒い靄を掻き消すべく、彼の作品に話題を向ける。見れば見るほど精巧な技術の随意に、少女は魅せられて行く。
精悍な面立ちと銀糸に良く似合う翠緑の
食い入るように見つめていた少女に、アルハイゼンはその憧憬の眼差しを羨望と捉えたのか、意外な提案を持ちかけてくる。
「欲しいのなら、君にもひとつ造ろう」
「えっ、いいよそんな。私じゃ持て余しちゃうだろうし…」
困ったように笑って、少女は青年の申し出を優しく拒絶する。口にした言い訳は本音が半分、もう半分は羞恥によるものだった。
「そう、だな」
小さく零し、それきり押し黙る。表情こそ少し長い前髪に隠れ読み取ることが叶わなかったが、相応に落胆しているのは声音から伝わってくる。
罪悪感に苛まれた少女は慌てて彼の方へ向き直って、自らの発言が正確ではなかったと訂正する。
「あ、そ…その、気持ちは嬉しいの。でも、こうして…たまに聴かせてもらうくらいで充分、っていうか…」
しどろもどろになりながら、サージュは無意識の内に次の約束を叫ぶ。そのまま彼女は返事も待たずに去ってしまい、男は我が家に一人取り残される。
「だからッ…また今度、ね!」
「…」
去り行く背を見送って、彼はそのままソファに身を預ける。肘で自らの頭の重みを支え、次に逢う日にはどんな音色を聴かせようかと思慮に耽る。
悩みつつも、不思議と憂いはなかった。彼女なら、きっとどんな音でも心からの笑顔を向けてくれる。そう信じて、彼はサージュに聴かせたい曲の選定に取り掛かった。
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