短編集
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「…はあ」
深い溜息を吐き、机に頭だけを伏せ脱力しきった姿勢で寝そべる少女。そんな彼女の元に、一人の少年が歩み寄る。
「元気なさそうだね。どうしたの、また共同研究のチャンスを逃した?」
「あぁ、ティナリ君…まさにその通りだよ…ほんと、嫌になっちゃう」
ティナリと呼ばれた、普通の人間とは異なる長い立ち耳と艶やか毛並みの尻尾を携えた少年が、ごく自然に彼女の隣に着席してそう問い掛ける。
ワルカシュナ、そう呼ばれる種族と縁の深い彼とは、親同士が同じ生論派の友人という縁で親しくなり、いつしかこうして互いに近況を語り合う気の置けない仲となっていた。
憂いの種を的確に見抜かれた少女は項垂れたままその問いに頷き、二進も三進も行かぬ自身の学者としての現状に嘆きを零す。
「それで? 今度は何が原因で破綻したのか聞いてあげる」
机に肘を着き、少年は馴染み深い友人が持つ悩みを少しでも晴らそうと意味深長な笑みを浮かべる。
サージュにとって、その慰めでも嘲笑でもない傾聴は何よりも心地好く、完全に愚痴を吐くような口振りで視線を彼へと向けるのだった。
「一緒に調査に行った子が要領悪すぎて、私だけならその日の内に終わる作業に三日も掛かるって言われてさ…はぁ」
皆まで語らず、嘆息を以て会話を一旦終える少女。不服を隠しもせず沈黙する彼女を見下ろしながら、少年は同情心から眉を下げる。
個人の実力が千差万別であることを認めていながらも、不必要なまでに協調性を重視する教令院という小さな社会に於いて、本来の才能を活かせずに無為な停滞を強いられる者は少なくない。
そして今回の件に関しては、少女本人がその被害者となったが故の決裂、ということらしい。
ティナリは彼女が以前にもほぼ同じ理由で貴重な協力者を失っていた気がする、などと思惟に耽りつつ、どのような返答を齎すべきか逡巡する。
「ティナリ君のところはどう? そういう進捗の妨げになるような人いない? 大丈夫?」
少年が口を開くより早く、サージュは己の一歩先を行く彼が正しく団結出来ているかを確かめる。
その問いを切っ掛けに、同じ目標に向かって切磋琢磨し合う仲間達の顔を思い浮かべる内、自然と笑みが零れ出ていた。
「たまにお互い自分の専門分野が一番だ、って譲り合わない状態にはなるけど…そこまで大きな問題になるほどじゃないかなあ」
反芻していくにつれ、少なくとも研究の面に於いては、己は充分に恵まれている立場にあるかもしれないと考える。
知能に一定以上の差があると会話が成立しなくなる、という俗説に懐疑的になる程度には全員と真っ当な議論を交わすことが出来る上、個人の性格の悪さを発端とした不和も起こっていない。
傍目から見れば順風満帆と称するのが最も相応しい状況に、サージュが羨望を抱くのも無理はなかった。
とはいえこの調和も、グループ内のメンバーが皆、揃いも揃って生論派であることに起因していることを少年は承知していた。
彼女の所属する因論派や、研究分野が近似している者を見つけられる確率の高い知論派もしくは妙論派の人間とでは、同じ結果を得ることは困難だろう。
そこまでの熟考を経て彼は、この孤立しがちな少女が抱える問題を解決するには相応の覚悟が必要だと察知し、意を決して身体ごと彼女へと向き直る。
「サージュ。結局、手伝いとかはしてあげたの?」
「最初は少し…けど、一から十まで付き合ってたら自分のやるべきことも出来ないし、相手の為にもならないじゃない。それに、何が何でもあの人とじゃなきゃ共同研究を立ち上げられない、って訳でもないだろうから…もうどうでもいいやと思って」
そう語り、その際に書き上げたレポートを手繰り寄せては眉を顰め、それをクシャ、と握り潰す少女。
ティナリは彼女の"足手まといが居なければ"と言わんばかりの視線を咎めようとして、その言い分自体は思いの外利己的という程でもないと考えを改める。
「まあ…善良かつ優秀な人が、その才能を周りに利用されて搾取される側に…ってのも、学院の中では結構問題になることが多いからね。そういうストレスで、他人に潰されたくないって気持ちはわからなくもない」
「…それは、そうかもしれないけど」
物言いたげな少女の発言を、そうとは気付かれないようにやんわりと遮りつつ、彼は続け様に持論を展開する。
「でも、その彼女…で、いいのかな? 本当に要領が悪いだけなのかは、ちゃんと振り返ってみた方がいいよ。君が気付かないところで助けられていた可能性もあるし、実は他の分野では君以上に聡明なのかもしれない」
そう告げる少年の瞳には、人の一面だけを見て判断してはならない、そう諫めるような優しさが籠っていた。
あくまで互いの相性の悪さが軋轢の原因だったと考えるティナリは、顔も知らぬ相手が彼女の中で膿のような存在にならないようにと言葉を尽くす。
「謝りに行けとまでは言わないけど、そう考えるくらいの方が…一方的に怒り続けるよりはずっといい筈だから」
「うん…」
サージュはゆっくりと起き上がって、机に伏したまま時間が経ち冷え切った頬を押さえ首肯する。
ただその表情は尚も不満げなまま変わらず、露骨に納得が行っていない様子が垣間見えていた。
「ティナリ君」
反論があるのか、少女は俯きがちに目線を向け、徐に彼の名を呼ぶ。声に反応し耳がぴこ、と揺れたのを見て、その愛くるしさに微笑してから口を開いた。
「…一個だけ訂正するね。その子、男の子」
「あぁ、そうなんだ。じゃあ、彼と言うべきだったね」
「ん。で、その上でティナリ君にはわからないだろう苦労話をさせてもらうけど」
断片化された情報からは汲み取ることが不可能だった、件の相手が"彼女"ではなく"彼"だと告げられ、ティナリは静かに頷き自らの発言を修正する。
それから少女は学派が異なることによる周囲の空気感の差異を説き、それもまた己の悩みの種となっているのだと溜息を吐く。
「因論派には…明論派と同じくらい、ロマンチストが多くてさ。自分達が同じチームになれたのは運命だ! なんて口説き文句があちこちで飛び交ってるんだ実は」
矢継ぎ早にそう告げて、これ以上は言わずと知れたことと大袈裟に肩を竦めてみせる。
生論派では聞いたこともない愛の告白に、尻尾の毛が逆立つ恐怖を抱きながら、少年は口角を引き攣らせる。
「…大変だね」
「本当にそうなんだよ…あんまり言いたくないけど、成績悪い人ほどそういうの多いイメージあるから、どうしても警戒しちゃう」
あくまで自分たちの本分は学業である以上、色恋にかまけている場合ではないのに。そう憤るサージュ。
草神への信仰心を爆発させるあまり、自身の魅力について一切考えたこともない彼女は、先述の男子のように好意を隠しきれない相手に対し辟易するばかりであった。
だからこそ、共通の研究を通じて絆を深めた学生同士で愛を育むという感覚が理解出来ないのだろう。
この調子では今後も似たような状況を繰り返し、夢破れる者が後を絶たないのではないか。
少年は前途多難な友人に対しどう助言したものかと思慮を巡らせ、それが易々と解決していれば苦労はないと自嘲する。
「でもなあ…君の両親みたいに、学者同士で結婚しないってパターンの方が、教令院では珍しいぐらいだからなあ」
ふと、少女がこのような固定概念に囚われる所以について思い起こす。彼女の父は生論派の出だが、母は教令院の卒業生ではなく、アアル村出身の傭兵である。
スメールの一般的な学者達の形態とは少し異なる家庭に生まれたことで、彼女の中にある常識が自分や他の人間とはまるで別物となっている可能性があると思い呟くと、予想通りの反応を見せるのだった。
「え、そうなんだ…?」
「僕の知ってる限りでは、ね。だから、調査とか課題で一緒になった相手と、学術的な議論を交わす以上のことをしようとする気持ちを、良くないことだ…とは、僕には断言出来ない」
そうして自分の両親達も想いを通じ合わせたのだ、と感慨に耽りつつ少女を諭すティナリ。
いつかそんな風に大切にしたい相手と巡り会えれば、彼女も変われるだろうと少年は信じていた。
「…だとしても、自分より知能レベルの低い人は恋人に出来ないよ。同じか、いっそ私より頭いいくらいじゃないと」
「それは僕も同感。あと個人的には、なるべく自分の専門分野で語れる方がいいな」
「なっ…そんなの、私だって同じだもん。植物詳しくなくて悪かったよ」
恋を知らぬが故か、高望みする少女に対し、彼は同調しつつも挑発するような視線で揶揄する。
互いに歯に衣着せぬ物言いが許せる間柄でこそあるものの、二人の学んできた分野は共通する点がそう多くはなく、学者として有意義な議論を交わすには物足りない相手だというのが両者の見解であった。
「ははっ! 君と付き合うことなんて考えてないよ。そもそも今は恋愛に興味なんてないし、それに…」
自らが恋人として相応しくないと断言され不貞腐れる彼女を笑い飛ばし、少年が上目で全てを見透かしたように問う。
「サージュ。君は、僕のことも異性として見てくれてないだろ?」
「!」
驚愕に目が見開き、サージュは唇を食む。咄嗟に何も言い返せない歯痒さが胸を軋ませ、俯くしかなく。
たとえ恋愛感情を抱いていなくとも、彼に対し他の知人友人とは明確に一線を引いた扱いをしているつもりでいた少女にとって、その発言は想像以上に心を抉られるものであった。
「そうでも…ない。ティナリ君が男の子だって、正しく認識してるよ」
憂いを少しでも晴らすべく自らの意思を伝えるも、かつて邂逅の際に放った失言を掘り返され思わぬカウンターを食らってしまう。
「ふーん? 出会って早々、開口一番に『その尻尾、触ってもいい?』なんて聞いてきた君が?」
「うぐ、ごめんってば…最初は興味が勝ってそんなことも言ったけど、今はちゃんと弁えてるでしょ」
謝罪と共に両腕を背に回し、その失態以後はそういった愚行は侵していない筈だと主張する。
ティナリは彼女のあまりにも露骨過ぎる態度に苦笑を零して、当時と異なり今は警戒する必要もないと己の尾を差し向ける。
「別に怒ってないよ。君が触りたいなら、触ってもいい」
眼前で揺れるハンターグリーンの尻尾に、少女がごくりと息を吞んで恐る恐る手を伸ばす。
けれど寸ででその手をピタリと止め、遠慮がちに視線を向けてもう一度彼の意思を確かめる。
「…ほんとに嫌じゃない?」
「大丈夫。そりゃあ最初は、許可したら何されるかわからないと思って断ったけど…さっき君自身が言ったじゃないか。今は弁えてるって」
不安げな眼差しを一笑に付し、これ見よがしに尾を振って少女を誘惑してみせるティナリ。
友として、確かな信頼を得ているのだと実感した彼女は、安堵の息を吐いて謝意を告げ、そして。
「ありがとう。じゃあ…触らせてもらうね」
まずはそっと指先で触れ、それからゆっくりと手のひら全体を使って滑らかな毛並みを堪能する。
ひと撫でしただけでもわかる艶の良さに、サージュの表情は一瞬にして緩みきってしまう。
今まで数多の動物を愛でてきた中でも、一度たりとも得たことのない幸福感に、少女は我を忘れて夢中で彼の尾を撫で続けていた。
「わぁ…フカフカだ…それに、サラサラしてる」
「念入りに手入れしてるからね。今日は、カルパラタ蓮から得た成分で作られたオイルを使ってみたんだ」
「…はッ! そ、そうなんだ」
漏れ出た感嘆を受けて得意気に語る少年に、半ば意識を失いかけていた少女が慌てて相槌を打つ。
焦慮を隠しきれていない声の抑揚を察知した彼の立派な耳が揺れ、再び挑発的な目で意味深長に問いを投げる。
「サージュ…そんなに触り心地良かった?」
ぶんぶんと空気を薙ぐ音が聞こえて来そうな勢いで、彼女は力強く何度も頷いて肯定を示す。
「想像してたのと違い過ぎて、びっくりしちゃった。もっとハスキーとか柴犬系の、ごわごわした感じかなと思ってたから」
少女の中では、より自分にとって馴染み深い犬――その中でも、どちらかと言うと硬さのある毛並みをイメージしていたようだ。
しかし彼は己の血筋に誇りを持っているらしく、先入観を突き崩すべく懇々と諭すようにサージュへ笑いかけるのだった。
「僕達の種族は、本質的には犬というよりも狐に近いからね。君なら、そこの違いはわかるだろ?」
「あー…なるほど、そうだったんだ。狐かぁ…」
モフモフと尾を揉みしだく手を止めないまま、少女は印象と実態がまるで異なっていた理由に納得する。
その上で、テイワットで一般的な茶色の毛並みを持つ個体や砂漠地帯に生息するコサックギツネではなく、遥か海の彼方で固有の進化を遂げた稲妻の狐を思い起こす。
「狐と言えば…稲妻の黄色い狐、あれ可愛いよね…」
「え? そうかなあ…写真でしか見たことないけど、結構目つき鋭くなかったっけ」
訝しげに首を傾げるティナリに、少女は小さく首を横に振って疑念を否定し、自らの腕関節から手にかけての辺りを指す。
「顔じゃなくて、この辺の…手袋してるみたいな毛の色がさ。可愛いだけじゃなくて、カッコよさもあるというか」
異国、それも遠い海を越えた先でしか見られない姿への憧れが先行しているとしか思えない様子で目を輝かせるサージュ。
そんな彼女へと、少年は理解を示しこそすれど納得は出来ないと言わんばかりに反論を告げる。
「言いたいことはわかった。けどそれを言ったら、コサックギツネも似たようなものじゃないか」
「勿論それもそれで可愛いよ、ただね…あの現実離れした外見には、どうしても惹かれるものがあるって話」
少女は彼の主張を認め大きく頷いて、それでも尚、稲妻の狐への執着を抑え切れずに熱弁する。
「それに稲妻には普通の狐だけじゃなく妖狐も居て、何百年も生きてるらしいから…その辺りもっと踏み込んで調べられたら、私の研究にも役立つかもだし。あ、そうだ…」
熱い想いを語っていく内にまた別の話題を見つけ、彼女は嬉々として近場にあった本を広げ出す。
だがその旺盛な好奇心を全て受け止めるには時間がいくらあっても足りないと、ティナリは両腕を上げ話を遮る。
「もう大丈夫、それ以上は長くなるだろ」
「ちぇー。ティナリ君だって、自分の好きな分野の話題だと止まらなくなる癖に」
諫言に口を尖らせこそすれ、本気で怒ることは当然なく、少年を揶揄して溜飲を下げる。
彼はそんな反論を意にも介さずあっけらかんと開き直って、サージュとは友人として以上の親密な関係を望む間柄ではないと再認識していた。
「そうだよ。だから、僕の話を静かに聞き入ってくれる相手が見つかれば、それがベストだと思う」
「…居ればいいね、教令院に」
「居ないかもね。まあでも僕は、付き合うなら絶対に学者同士でないと嫌だ! って気持ちとかは一切ないから、出逢いの場がどこでも問題はないかな」
後頭部で手を組んでそれを支えにし、椅子に重心を預けてそう零す。意外な発言に驚いた少女は、彼が見ているのは教令院の中だけではないと知り、身を乗り出して進路について問う。
「え、ティナリ君、卒業したら院を出るの?」
「うん、そのつもり。生論派の研究ならここ以外でも出来るってのは、君のお父さんや僕の両親も証明してくれてるしさ」
どこか寂しげな声にも動じることなく少年が小さく頷いて、まだ明確ではない未来について思い描く。
座学よりもフィールドワークが適している彼ら生論派にとって、卒業後も学院に残り続けるメリットはあまり多くはない。
そういった意味でも、そう遠くない内にこの教令院を離れる覚悟だけは常に持っておくべきだと考えていた。
予期せぬ離別を悟り、一瞬だけ視線が下へ向く少女だったが、友としてその選択を支持すべきだと、朗らかな笑みを浮かべて祝福の言葉を伝える。
「そっかあ…でもティナリ君だったら、どこに行ってもやっていけるだろうから…応援してるよ」
ティナリは送られた激励に謝意を告げ、彼女の行く道を阻む茨が、少しでも切り開けるようにと未来を願う。
ほんの少しだけ抱いてしまった、恋心にもなれない淡い想いを胸に秘めながら。
「ありがとう、サージュ。君も早く…君自身のことをちゃんと大切に扱ってくれる相手に出逢えるといいね」