「あ…そうだ、他にも話したいことがあったんだった。緊張と眠気ですっかり忘れてた…」
約束の証として返却を固辞した本を元あった場所に仕舞いながら、
サージュは貴重な二人きりの機会に、彼に確かめねばならないことがあったと思い出す。
「アルハイゼン、まだ時間大丈夫? そろそろカーヴェ先輩が帰ってくる頃だとしたら、日を改めるつもりだけど」
「問題ない。今日はあいつが家に戻るのは夜遅くになると聞いている」
「…!」
険悪だとばかり思っていたルームメイト達が日々の予定を共有していると知り、驚愕から言葉を失う少女。
学院祭での対話を経て、頑なだった青年の心境も好転しつつあるのだろうと自然と表情が綻び、彼女は安堵の息と共にアルハイゼンが待つソファへと戻る。
「そっか、なら良かった。それで…聞きたいことっていうのは」
彼の隣に腰を下ろし無言で目を合わせ、先日のニィロウとの密談にて浮上した疑問について考える。
ファデュイの侵攻、及び草神救出作戦に関して、これまで聞く機会はいくらでもあった筈なのに、今に至るまで触れずにいたのは、やはり己の中に悔恨が残り続けているが故だろうか。
翡翠の中に朱を秘めた鮮やかな瞳が細やかに動くのを見つめ、どう言葉を紡ぐか逡巡し、そして。
「キミにとって、書記官の地位って…どれだけ大切なものなの?」
敢えて草神救出作戦の決行に纏わる意思をストレートに問うのではなく、その由来となったであろう職位への固執を始点として訊ねる。
スメール教令院に在籍する者にとって書記官という肩書きは、賢者ほどではないにせよ敬意を抱かせるものではあった。
尤も、まさに彼自身の自由奔放ぶりが示す通り、その実態はそれほど重要な役職ではない。
この気ままな書記官は、必要がなければ会議にも顔を出さず、仮に出席したとしても記録する事項は最低限のみ。
それでも尚、代理でこそあれど一度は賢者となった身で、その座を辞して書記官へと"戻った"ことに、何らかのヒントが隠されているのではないかと少女は推測していた。
「別に俺は、書記官であること自体に誇りを持っていたり、重要性を感じていたりする訳ではない。あの役職が、俺にとって一番都合がいいというだけだ」
突然改まって一体どうしたのか。アルハイゼンは物言いたげな面持ちで腕を組み、特にはぐらかすでもなくそう答える。
ある意味で予想通りの解答に、彼女はこの"恋人"の心情を紐解くのは一筋縄ではいかないと思い知る。
「ん、ありがとう。だとしたら、もしスメールから書記官っていう仕事がなくなったら困るってこと?」
本質に辿り着く前に警戒されぬよう、気楽な雑談と思わせるべく冗談交じりに笑んでそう問い掛ける。
すると男は少女の想定よりもずっと深刻な表情で考え込み、意外な返答を齎すのだった。
「今のように、金に不自由せず好きに研究し続けることが出来なくなるのは…少し困るかもしれないな」
「ふふっ…そうだね。あれだけ好条件な職場は、スメールどころか…テイワット中を探してもそう多くはないと思うよ」
真剣に答えているからこそ沸き起こるシュールさに堪え切れず、
サージュは抱腹し肩を震えさせる。
聡明な頭脳と謙虚さが導き出した解が、決して妥協などではなく、真に彼にとって相応しい立ち位置なのだと気付かされ、それを守ろうとする意思を持つのも当然だと納得する。
「安定した稼ぎ自体も得難いものだし…それにある程度以上の自由が伴う仕事なんて、殆ど聞いたことない。大賢者みたいに偉くなれば高給取りになれるかもしれないけど、そうなると今度は大きな責任を負う必要がある…」
ぶつぶつと呟く少女へ、驚いたような視線が向けられる。何か意見があるのだと察知した彼女は、眼差しに応えるべく顔を上げた。
「ん?」
「書記官になりたいのなら、君も目指すといい。知論派以外からでも応募の受付をしていた筈だ」
意味深に微笑を浮かべ、少女が絶対に選ぶことのない道を提示してみせるアルハイゼン。
言われた彼女は呆れ返った表情で嘆息を吐いて、上目で"恋人"を睨みつけ反抗的な態度を示す。
「アルハイゼン、それ…わざと言ってるでしょ」
「当然だ。君のあの字で書記官が務まるなどとは全く思っていない」
「はあ…」
悪筆を揶揄していたことをあっさりと認められ、少女の口からもう一度大きな溜息が零れる。
こんな屈辱を味わうくらいなら回りくどい質問などせず、直接確かめればよかったと鬱屈した想いを胸に秘め、ソファに凭れ掛かった。
「気を悪くしたか?」
「あぁいや大丈夫だよ、気にしないで。話の本質はそこじゃないから」
いつになく物寂しげな声で問われ、少女は抱いていた悲愴を否定すべく慌ただしく両手を振る。
困惑した下がり眉を訝しみつつ、男は彼女が何気なく口にした言葉について思慮を巡らせる。
「…」
「元々は、ニィロウと…私がスメールを離れてた間のことについて話をしてたのがきっかけなんだ」
「ほう」
答えを見つけ出すよりも先に、
サージュが問いを重ねるに至った事の発端について語り始める。
彼女が父の怪我を看病する為フォンテーヌへと赴いていた期間、それはこの国に未曽有の危機が迫っていた時期とほぼ同じであった。
自国の為に何も出来なかったという後悔は、ようやっと情勢が安定してきた今も少女を苦しめ続けていた。
だからこそ、彼にとってその発言は青天の霹靂にも等しく。意図して避け続けてきた、謂わば禁句だと思い込んでいたその一件に関して、どこから説明すべきか。
思わず頭を抱えたくなってしまうような衝撃に、自然と男の声音が一段と低くなっていた。
「草神様の信者ではないキミが、危険を冒してまで脅威に立ち向かったのは…一体何の為だろう、って。キミは頭がいいから、もし万が一この国がファデュイの管理下になったとしても…」
想像もしたくない末恐ろしい可能性を語る少女の顎を引き、皆まで言わせることなくそれを遮る。
「
サージュ。君はひとつ大きな勘違いをしている」
羞恥からか、あるいはネガティブな発想による罪悪感か。俯いて視線を逸らそうとするのを阻み、真っ直ぐに彼女を見据える。
少女は暫くの間硬く目を瞑り怯えた様子で震えていたが、やがて決心が着いたのかゆっくりと目を開き、眼差しに応える。
緊張を解すべくそっと頭を撫でて、噓偽りこそないものの意図的に情報を削ぎ落とした"真実"を告げ、彼は本心を覆い隠す。
「彼らの野望を放置すれば、その影響は俺個人の問題には留まらず、スメール全土に及ぶ。そうなると、巡り巡って俺の安定した生活も脅かされることになる。その危険を未然に防いだ結果が今だ」
「…そう、なんだ」
疑念の晴れきらぬ曖昧な相槌に、アルハイゼンはそれでこそ己の"恋人"に相応しいと満足げな笑みを浮かべる。
彼女が尚も疑い続けている通り、今しがた男から発せられた解は完全ではなく、ある重要な情報が隠されていた。
その一点こそが、そもそも彼が大賢者達の謀略を阻止するに至った発端であり、ひいては少女自身にも深く関わりのある部分となっていた。
「先程君は俺を"草神信者ではない"と言ったが…信徒ではないからこそ、彼女がこれまでのスメールに於いてどのような立場に居たかをよく理解しているつもりだ」
眉を顰めて熟考する少女へヒントを与えるかの如く、男は
件の大一番で自身のアーカーシャ端末に投影する際に用いた装置を持ち出し、それを徐に光らせる。
「今となっては彼らも忘失した存在…先代草神の威光が、あの事件の本質的な鍵となっている」
「えっ、嘘…!?」
紅に侵食される、かつてのアーカーシャシステムの姿を目の当たりにし、驚愕と共に思わず立ち上がる。
いつかの悪夢で見た、そしてキングデシェレトの霊廟で対峙した紛うことなき"あの色"に、彼女は畏怖を抱かずにはいられなかった。
「心配ない、これ自体はただ色を可変させるだけのプログラム装置だ。だが…これを利用したことで、俺が持っていた神の缶詰知識にも影響が出て、あのような紛い物の姿を映し出したのかもしれないな」
警戒心を剥き出しにする少女を宥め、もう一度隣に座らせる。その流れで頭を撫でようとするも、彼女は恥ずかしいのか頑なに触れさせようとしなかった。
「神の缶詰知識…アルハイゼンは、本当に使ってないんだよね」
「ああ。でなければ、学院祭の後であれを君に見せることも出来なかった。だろう?」
先述の神の缶詰知識を巡る一件で邂逅した、アルハイゼンの姿を巧妙に模した存在に関しても、二人の中では気掛かりでこそあれど語るには引け目を感じる話題となっていた。
しかしその謎を解明する術はなく、今となっては議論を徒に横道へと逸らすだけのものでしかない。
男は本題を忘れてはならないと小さく息を吐き、順を追って説明すべく騒動が起こるより前の教令院、ないしスメール国内での空気感を思い出させようと試みる。
「話を戻そう。以前の大賢者達…いや、スメールの多くの人が、クラクサナリデビ様を快く思っていなかったことは"覚えて"いるか?」
「…言われてみれば、今とは全然違ってたね。これも、草神様達に関する歴史が改変されているからなのかな」
大きく目を見開いて、自らが敬愛する草神が虐げられていた事実を忘れかけていたという衝撃に驚きを露わにする。
尤も草神に纏わる記憶を少女が本当に忘却する筈もなく、先代草神が世界から消し去られた影響のせいだと彼らは結論づける。
「恐らくはそうだろう。ふむ…そういう点から考えると、国をファデュイに明け渡すなどという愚行に走る動機を失った彼らは今…アビディアの森で何を思って更生に努めているのだろうな」
感慨深げに呟いて、国家転覆を企てた極悪人達に興味を持ち始めるアルハイゼンに、少女は何も言えず押し黙る。
善悪という二極化した物差しで人を見ない彼に掛かれば、喉元を過ぎた熱はこうも容易く塗り替わるものなのだろうか。
そう思ってしまった途端、いつか自分との関係にも興味がなくなれば簡単に切り捨てられてしまうのではないかと不安が過ぎり、胸が軋む。
「
サージュ?」
「え、あ…ごめん。キミが言ったこと、考えてた」
名を呼ばれてすぐに反応出来なかった体たらくを、当たらずとも遠からずな言い訳をでっち上げて誤魔化す。
男は彼女から滲み出る微かな寂寥の気配を見逃さず、失言を挽回するべく半ば強引にその身を抱き寄せた。
「うひゃあっ!?」
うら若き少女の口から発せられたとは到底思えぬ素っ頓狂な声に、アルハイゼンは怪訝そうな顔で"恋人"を見下ろす。
「そんなに驚くことか」
「いや、タイミングの問題…考えごとしてる最中にいきなり抱き締められたら、キミだってびっくりするでしょ」
昂る鼓動を鎮めようと胸元を押さえ、
サージュが真っ赤になった頬を膨らませて不服を申し立てる。
とは言え、彼が少女を抱き寄せた真の目的は、まさにその突拍子もない行動を以て動転させることで果たされるものであったのだが。
「ああ。それが狙いだからな」
「…ありがと、う」
不承不承の、ぎこちない感謝の言葉。まるで全てを見透かすかのような隼の真摯な瞳には敵わず、彼女は懸命に笑みを浮かべる。
「さっきの話…えっと、キミがクラクサナリデビ様の救出作戦で危険な役を買って出た理由、ニィロウが私の為だなんて言ってたの…本当だったらいいのになって思っちゃった」
抱擁により幾分か気が緩んだ少女が、先日友と語り合った際に芽生えた、心の内に秘める夢想を吐露する。
あの日は照れ隠しから有り得ないと断言したものの、彼が成し遂げた"偉業"の動機が、利己的なものだけではないと願う気持ちをどうしても捨てきれずにいた。
「ニィロウの想像についての真偽は一旦置いておくとして…当時、君のことを一切思い浮かべなかったと言えば嘘になる」
腕の力を強め、アルハイゼンは"恋人"の想いに応える。直接的な肯定を示すには未だ彼の中で不確定要素が多く、瞭然たる事実だけを証明するのが精一杯であったが。
「魔神信仰に関する造詣の深い君が強く推していたあの考察は、俺にも賛同出来る点があったからな」
「クラクサナリデビ様のこと以外で…だよね。え、何のことだろう」
「俗世の七執政と、それらの魔神達が司る元素に関する推論だ」
自虐からか、我らが草神の話題を意図的に外して推測し始める少女の疑念をすぐに晴らし、男は過去に彼女が研究の過程で導き出したひとつの可能性を口にする。
"各国の神とその国民達の信仰によって七元素のエネルギーを調和することで、世界は均衡を保っているのではないか"――
因論派としてテイワットの歴史を学ぶ内に
サージュが見つけた一筋の光明は、魔神に対する信仰心を全くと言っていい程持たぬ男にとっても非常に興味深いものであった。
「君の考えに則れば、やつらが企てた創神計画とやらは、その均衡を根本から崩す愚行でしかない」
「…私の話、信じてくれてたんだ」
かつてのスメールでは証明不可能な根拠のない荒唐無稽な幻想と一蹴されるのみだったその説を、彼は否定するどころか認めてくれていたのだと知り、少女の瞳が涙で滲む。
せめてその雫を零さぬようにと大きく息を吸って堪える彼女へ、今度はその幸甚を無に帰すかの如き言葉の刃が突き刺さる。
「あと、これは今だから言えることだが…あの騒動の頃に君がフォンテーヌに赴いていたことは、俺にとって最善とは行かずとも、かなり理想に近いパターンだった」
「ッ…!? それ、どういう…」
誤解を招く表現を真に受けた少女に、話は最後まで聞けと諌め、苦みばしった表情を和らげるべく頬に手を寄せる。
「君達が帰るべき場所を失わせる訳にはいかない。 …そう思えた」
柔らかな笑みを前に、彼女はとうとう堪え切れなくなった涙をぽろぽろと流し、けれどすぐさまそれを乱暴に拭い深呼吸する。
そして旧懐を深める内に脳裏に過ぎった、自国の窮地に駆け付けらなかったもう一人の存在を思い起こす。
「ありがとう、でも私"達"って…あ。カーヴェ先輩もあの時期、スメールに居なかったんだっけ」
「そうだ。あいつがあの場に居れば、ニィロウのような一般人を危険に晒さずに済んだものを…まあ、計画自体はどうにか遂行出来たから、今となっては些事ではあるが」
「先輩も先輩で、大変だったみたいだからね。それは言いっこなしだよ」
自分とは異なり、かの青年は必要とされていたという事実に微かな寂寞を抱きつつ、それを悟らせぬよう反論を口にする。
彼が国を離れていた時期に何をしていたか、その仔細までは知らされていないものの、味わった苦労の一端を騒動の調査中に愚痴として聞かされている少女は、不在をあまり責めることが出来なかった。
「らしいな。だが、俺には理解出来ないだろうと説明を放棄されたよ」
騒動が終わった後、混乱の只中での青年との口論を想起し、嘆息を吐いて肩を竦めるアルハイゼン。
人知れず別の災難に巻き込まれていた気持ちを推し量る優しさなどないと決めつけられ、まともに事情を聞くことさえ叶わなかった拒絶を、彼は今も鮮明に覚えていた。
「…」
話題がこの家に住まうもう一人に移った所為か。ふと会話が途切れ、静寂がリビングを覆う。
会話の流れで勢いに任せて互いが密着していたことに今更気付いたらしく、少女が含羞を隠し切れなくなっていく。
「そっ、そうだ。アルハイゼン…後で甘さ控えめのお菓子作ったら、食べる?」
「君の手作りだというのなら、食べない道理はないな」
気を紛らせるべく、
サージュが友との歓談で得た、正確には無理矢理に握らされたレシピについて語る。
男は迷うことなくそう即答し期待を向け、照れる彼女をまじまじと見つめて笑んでみせた。
「ん…わかった、じゃあ練習しとく。この前のお肉より美味しいって言ってもらえるくらい頑張るから」
微笑みを返し、"恋人"として全力で彼の想いに応えるべく決意を固める。その表情に哀しみは一切なく、晴れ晴れとした意志の強さだけが輝いていた。
「ああ、楽しみにしているよ」
Réminiscence