「重くないか? もし疲れたなら、いつでも代わってやろう」
和気藹々の酒宴を終え、ガンダルヴァー村に戻る師弟と彼らに同行する少女に別れを告げた三人――否、二人の男達は静々と帰路を歩む。
祝杯だからと久方振りに深酒をしたせいか、すっかり眠り込んでしまった同居人を抱えて歩く家主へと、彼らと対等な友人の一人としてセノが問う。
「問題ない。君も知っている通り、こいつが酔い潰れて介抱する羽目になったことは一度や二度じゃない。もう慣れた」
「わかった、ならいい」
淡々とした表情を保ったままそう答えて助力の申し出を固辞し、アルハイゼンは同行者の手前素知らぬ顔で通り過ぎた古代の彫像を背中越しに一瞥する。
草神クラクサナリデビから直々に伝授されたワープ技術を用いれば、現在地であるパルディスディアイからスメールシティの自宅までの距離を無視して瞬間的な移動が可能であった。
実際にこちらへ向かう際にはその技術を使っていた彼だが、此度の帰還においてはそれを敢えて使わず、徒歩での移動を選んでいた。
その選択の理由。それは、この技術を身に着けていない相手、特に快眠状態にある青年を伴うことのリスクへの懸念が最たるもので、もう一つは単なる気まぐれにも等しく。
「…セノ。君が言う話とはなんだ?」
視線の先は進行方向である正面を保ったまま、半歩後ろにぴったりとついてくる大マハマトラへ問う。
宴会の席では憚られる話題に応える義理などないとは思えども、彼の真に迫った眼差しがどうにも気にかかり、男はその意図を確かめるべく誘導に乗り話に応じる気概を見せるのだった。
「俺が話したかったのは…お前と
サージュのことについてだ」
徐に立ち止まり、今回の会食に同席していた少女の名を挙げる。その名前を耳にした途端、男は釣られて足を止め警戒心を露わにする。
二人の関係性は、当事者たる自分達以外では、己に担がれ安らかな眠りに就いている青年しか知り得ない、というのが彼の認識であった。
まさか彼女自身が共通の友人相手に勝手に秘密を暴露するとは思えず、返答の声には焦慮が見え隠れしていた。
「…ふむ。俺はともかく、何故彼女の名が挙がる? 大マハマトラ殿に目を付けられるようなことは一切していないつもりだが」
「フッ…そう慌てるな。マハマトラとしてではなく、お前達の友として、俺はティナリとちょっとした賭けをしている」
肩を竦めて微笑みを返し、金狼の少年はアルハイゼンの苛立ちを鎮めるべく視線を向ける。
秘蔵のギャグを告げて緊張を和らげるという選択肢も一考したものの、切迫した表情から今の彼には逆効果でしかないと悟り、あくまで真剣な対話である体裁を保って続けた。
「単刀直入に聞く。お前は
サージュと、どこまで進んでいる?」
泣く子も黙る審判者から齎されたとは思えない、想像を絶するシンプルな問い掛けに、男は思わず拍子抜けしてしまう。
それと同時に、余計な詮索をと心の奥底で密かに毒を吐く。人の恋模様など聞いてどうするのかと、真面目に答える気も失せていく中、彼から意外な言葉が漏れ出る。
「ティナリは、『二人はとっくの昔に付き合ってる』と言って聞かないんだが…俺にはまだそれほど深い仲には見えなかった」
人を見る目に長けているマハマトラでも、判断を誤ることがあるのか。それが男の率直な感想だった。
尤も彼が見抜けなかったからと言って、完全な隠匿が成功している訳ではなく、いつ周知されるとも知れぬ状況は続いたままだと肝に銘じる必要はあるだろう。
少女が何かの弾みで漏らしてしまう可能性も勿論、肩の上で寝息を立てる青年が酔った勢いで吐く危険も往々にしてある。
回答を疎かにしたままそんな思慮に耽っていると、彼は痺れを切らしたらしく焦れた様子で土を踏む。
「それで、実際のところはどうなんだ? 俺が賭けに勝てるかどうか、教えてくれ」
「…結論から言えば、賭けは君の負けだ。ただ、改めて言われてみると…彼が想像しているような、誰の目から見ても仲睦まじい関係を築けているかまでは、俺には断言出来ないな」
立ち耳の少年の勝利、つまりは彼にとっての悲報を告げつつ、ここで長々と立ち話を続ける訳にはいかないと歩みを進め、これまで共に過ごしてきた日々を鑑みる。
まず初めに思い浮かべたのは、怒涛の学院祭期間。先代草神を巡る騒動も含め、ほぼ常に二人で行動していたと言ってもいい。
だがその間に"恋人"として過ごしたのは、ほんの僅かなひと時のみで、会話と言えるやり取りは、参加選手と審査員という立場からでしかないものが殆どだった。
それ以外では、余暇の合間を縫って互いの家で過ごしたり、リクエスト通りに作られた
サージュの手料理を食したりと、日々を満喫していることは確かではある。
振り返る限りでは"恋人"らしいことを全くしていないとまでは行かずとも、世間一般で言うカップルの姿形と、自分達の在り様はどこか程遠いようにも思えていた。
「なるほどな…少なくとも俺は、ティナリに言われなければ全く気付かなかっただろう」
「彼の洞察力も勿論優れたものだとは思うが、今回の件に限って言えば…そもそも君とティナリでは、情報アドバンテージが違いすぎる。賭け事としては些か不公平な程度には、な」
感嘆を零し、納得するセノ。彼が二人の関係を察することが出来なかったのも、ある種必然の道理だった。
何せ、この厳格な大マハマトラと自由奔放な書記官が互いに友人と呼べる仲となったのは、草神救出作戦を乗り越えた絆によるものが大きい。
その後も騒動の沈静化や学院祭など、為すべきことは山積みであり、全員が揃って食事をする機会は多くなかった。故にセノは、恋仲となる以前の彼らの距離感を知らないのだ。
更にこの無垢な少年が判断を鈍らせる要素として、渦中の少女が見せていた態度も大きく影響を及ぼしているだろう。
明朗快活な彼女は元より隠し事が苦手で、断罪者としての知見がなくとも彼女の嘘を見破るのは容易かった。
しかし、長年の信頼からかアルハイゼンとの間に結ばれていた絆は非常に強固なものであるらしく、想いを通じ合わせた前後に於ける、目に見える心境の変化は皆無と言っていい程。
彼女自身は恐らく無意識ながらも、そうして至って自然と振る舞うことにより、結果的にこの上なく疑われにくい状況を作り出していたのだった。
そして、男が考える"情報アドバンテージの差"。その最たるものは、自分達と彼との関係よりも、ティナリと少女の親交の深さにあった。
「まさに今日もそうだが、彼女はガンダルヴァー村に足を運ぶ機会がそれなりに多い。その上、彼らには親同士の繋がりもあるそうじゃないか」
今宵の宴で判明した、皆の親達が集って食事会をしたことがある仲だったという意外な縁。
中でも特に、同じ生論派同士だったという少年と
サージュの父は、その会食から三十年が経った今でも交流を続けているという証言もあった。
その関係性がそれぞれの子である彼ら自身の仲に全く影響がないとは思えず、男は言葉を重ねる。
「だから、会う度毎回ではないにしろ、自分の悩みや近況を気兼ねなく話すのに…ティナリが最も適した相手であるというのは、君の目から見ても明らかだと思うが」
「! なるほど…それであいつは、この賭けに俺が勝てたら限定カードをプレゼントしてくれると豪語していたのか…」
賭け事に臨む為の前提条件の忘失という、らしくない判断の真相。その原因が、彼の心酔するカードゲームこと七聖召喚絡みだったと知り、男は深い溜息を吐く。
茫然と立ち尽くす少年を置き去りにして帰ろうと考える傍ら、ふとした疑念が浮かび上がり、アルハイゼンは興味本位で訊ねる。
「巻き込まれついでに一応聞いておく。ティナリは勝利の報酬として、君に何を要求していたんだ?」
「今日飲んだ酒の内、一番いい瓶をもう一本…そういう約束だ。恐らくは、お前達のことを祝うという建前で、またこうして皆で集まるつもりなんだろう」
「人を酒の肴にするな、と言いたいところだが…カーヴェの愚痴を延々と聞かされるよりは余程マシか」
増していく一方である肩の重みに目を向け、今回の宴ではこの世の終わりかと紛う勢いで嘆いていた青年の姿を思い起こす。
これから先、華々しい未来が待っている筈のコレイには、この上なく悪い手本となってしまっていた彼の醜態を見続けるくらいなら、自分達の惚気を聞かせた方がまだ救われるだろう。
そんな消極的理由で頷いてから、存外その光景を想像することが不快ではない違和感に驚愕する。
「お前が赤くなるとは珍しい。カーヴェほど露骨でないだけで、酔ってるのか?」
男の胸の内に宿る熱を悟り、セノがその頬の赤らみを酒精によるものかと冗談めかして笑う。
指摘されるまで全く意識していなかった自身の高揚に、男は抱いた温かさを否定せず認める。
「かもしれないな」
「つまり、色々聞くなら今がチャンスということか。アルハイゼン、お前は
サージュのどこに惚れたんだ?」
彼が柔和な態度を見せた今こそが好機と言わんばかりに、緋色の瞳を輝かせて少年が問う。
色恋沙汰の話題として最もありふれた、かつ端的な問い掛けにも動じず、軽口を叩きながら思慮を巡らせる。
「…これまた大マハマトラ殿は、随分と無遠慮な質問を投げてくる。だがまあ、今日は気分がいいから…特別にその質問に答えるかどうか考えてあげるよ」
そう誤魔化して、問いに対する解を探るべく交際を結ぶより前の少女との日々を反芻するアルハイゼン。
常に泰然とした隙のない男にしては珍しく、今回ばかりはこの難題への明確な答えを持ち合わせてはいなかった。
そもそも、元来より他人に対し興味を持つことすら稀なこの現書記官は、彼女に対する好意を自覚したのもつい最近のことである。
これまでの短くはない刻の中で、当たり前のように議論を交わし、当たり前のように知恵を深め学び合っていたことで、既にとうの昔から共に過ごすことに違和感を持たない関係となっていたのだ。
自分と同じく家族との関係が希薄であること、知論派と因論派で専攻する分野が近いこと、神の目を持つ同士であったこと。
一般的な視点から見れば、確かにそれらの共通点は、親近感を覚えるには十分な条件が揃っていると言っていい。
しかしそうした普遍的な交友如きで恋慕を抱く、思春期男子のような初々しい時期は遠く過ぎ去っている。
それでも、すぐに思い出せる記憶は
サージュの喜怒哀楽で満ち溢れており、如何に彼女ばかりを見ていたかと思わず自嘲してしまう。
「アルハイゼン、坂がある。気をつけろ」
「ん? ああ、忠告ありがとう」
不意に、旧懐から現実へと呼び戻す声が響く。すぐに謝意を告げ、警戒するよう示された場所に目を向ける。
長々と考え込んでいたにも拘らず文句ひとつ言わずに待ち続け、けれど伝えるべきはしっかりと伝える姿勢に、何故だか愛する少女の笑みがふと脳裏に浮かぶ。
「…答えは見つかったか?」
僅かに見開かれた瞳を逃さず捉え、そう問い掛けるセノ。男は逡巡を悟られていたことに少々面食らいつつも首肯を返し、万感の想いを言の葉として紡ぐ。
「俺は、彼女が笑っている顔を見るのが好きだ。勿論それ以外にも、悲哀や義憤…その全てを受け止めたい。俺にとって
サージュは、唯一そう思わせてくれた"特別"な存在なんだ」
「そうか。それがお前の気持ちなんだな」
「ああ、質問に対する回答はこれで満足か」
疑う余地もない本心からなる告白に静々と耳を傾け、少年はこの飄々とした男が持つ、見かけの無愛想さからは想像もつかない熱の籠った感情を受容する。
それと同時に、学者としての探究心から次は彼女がどのようにして彼の想いに応えたのか興味が沸き立つ。
「俺の最初の問いは確かに証明されたが、
サージュがお前を認めた経緯についてはまだ…」
「これ以上深掘りするつもりなら、俺にもあの
旨酒を奢ってもらうが」
期待に満ちた視線を疎んだアルハイゼンが、気怠そうな態度を包み隠さず諫言を口にする。
しかし書記官とはまた異なる要職に従事する彼に対する牽制として、金銭で解決可能な要求は全く以て適切ではなく、何食わぬ顔で話を続けようとするのだった。
「その程度でいいのか? なら一本と言わず、お前と
サージュでそれぞれ飲む分を買ってやる」
「前言を撤回する。酒は要らないから、その好奇心を他へ向けてくれ」
終わりの見えない追究を忌避し、強引にでも興味の対象を変える必要があると焦慮を見せる。
するとセノは一瞬だけ思考に集中し歩みを緩めすぐにペースを戻し、酒宴の席ではティナリによって巧妙に遮られ続けたせいで切り出せず終いになっていた話を思い出し語り始めた。
「他の話題か…そうだ、前にも言っていた、七聖召喚の大型大会が開かれる。来週末、もし休みなら…お前達も是非出てくれ」
「…俺にカードゲームをやれと?」
「そうだ。お前はたかがカードゲームと侮っているようだが、七聖召喚はただのゲームとは一味違う」
またその話か。そう喉まで出かかるのを寸でで抑え、頭ごなしに拒絶するのも無粋かと渋々耳を傾ける。
「理想的なダイス配分、エースを戦闘不能にさせない立ち回り、目的のカードを必要なタイミングで引き当てる期待値の計算、予想外の一手からのリカバリー、その他諸々…七聖召喚は思考の訓練としても優れている。お前なら、すぐに上級プレイヤーになれる筈だ」
理路整然と説き伏せられたことで、児戯と思い込んでいたその娯楽が想像よりもずっと奥が深いと知り、俄かに興味が沸くアルハイゼン。
参加する意欲を口にしようとして、そうする為には必要不可欠なものの存在を思い出す。
「ふむ。だが俺は、自分のカードを持っていない。大型大会と言うからには、手ぶらで参加出来るほど甘くはないんだろう?」
「なら
サージュから借りればいい。俺があいつに一人でも練習出来るよう分け与えたデッキが二種類、それに加えて調整用のパーツが一通り揃っているから、好きな方を使え」
根本的な問題を抱えていることを告げるも、彼はまるでこうなる未来を見越していたかの如く、既に事前の根回しを済ませていたようだ。
他でもない
サージュに自分も必要とするものを与えられているのなら心配無用かと首肯しつつ、男はその的確過ぎる周到さに驚嘆を零す。
そして、手間や財を惜しまぬ援助をしてでもこの遊戯を布教したいのか、そう訝しげな眼差しを向ける。
「随分至れり尽くせりだな。確か、物によっては相当な額がするカードもあると聞いた覚えがあるが」
「カーヴェが俺に譲ろうとしたもののことを指しているのなら、お前が心配する必要はない。あれは特殊な加工が施されているから高い値がつけられているものであって、普通に使う分には安価で手に入るものが殆どだ」
男の疑念の原因が、青年が学院祭の優勝賞品の副賞として得た限定仕様のカードに起因するものと察知したセノが反証を返す。
それから、何故自分がこれだけ対戦相手を増やす為に尽力するかについて、懇々と諭すように語ってみせた。
「利己主義者のお前には理解出来ないかもしれないが、興味を持った相手にはこれくらいして当然だ。七聖召喚に限らず、対戦型の遊戯は…一緒に遊ぶ仲間がいなければ決して成り立たないからな」
言葉の端に秘められた哀愁に、男は孤独の苦しみを知る者としての古傷の痕を垣間見た気がした。
直接口には出さずとも、その声は"
サージュを独りにするな"と諌めているようにも思え、彼もまた少女を一人の友として大切にしているのだと悟る。
「成程、君の善意がこいつのような考えなしの衝動的なものでないことは理解した。本当にその大会に俺が出場するかはともかく…君の助言通り、彼女にカードを借りてルールを覚えるくらいはしておくよ」
「ああ。俺も、いつかお前と本気の決闘が出来る日を楽しみにしている」
重くのしかかる背中の理想主義者を揶揄しつつ、期待を裏切らぬよう力強く頷いてみせ、誓いを立てる意志を込めて向けられた拳に応え突き合わせる。
そしてようやく間近に見えてきたスメールシティの聖樹を見上げ、長かった帰路もあと少しだと気付く。
ワープ技術を得て以後、その叡智を活用してばかりであった男だが、こうして友と語らいながら歩くのもたまには悪くないと微笑み、それぞれの家に戻るべく別れを告げた。
「またな、セノ」
「おやすみ。カーヴェにもよろしく伝えておいてくれ」
緩やかにうねる長い坂を上り、まさか己もカードゲームに手を出す日が来るとは思わなかったと感慨に耽る。
運んでいる間も終ぞ起きる気配のなかった青年が知れば、どんな驚愕に満ちた表情をするだろうか。
そう考える最中、ふと重要なことを思い出す。これまではセノがどれだけ誘っても多忙を理由に断っていた彼女が、何故自分の知らぬ内にカードゲームを本格的に始める準備を整えていたのだろう、と。
「…それにしても、あいつはいつの間に彼女を勧誘したんだ?」
Allié