学院祭も全ての日程が終了し、スメールシティにごく普通の日常が戻ってきた頃。アルハイゼンは、貴重な余暇を"恋人"と過ごす為、自らの家に彼女を招いた。
「お…お邪魔、します」
少女は緊張から身を縮こまらせ、同じ側の手と足が同時に出るような極めて不自然な挙動で、恐る恐る歩みを進める。
この家の主たる男がカーヴェとのルームシェアを始めるより前も含め、今日に至るまで一度も足を踏み入れたことのなかったその室内は、彼女が想像していたよりもずっと生活感に満ちたものであった。
「…」
驚嘆に足を止め、呆然と立ち尽くす
サージュ。初めて見る景色の物珍しさに何度も目を瞬かせているところに、家主が寛ぐよう促す。
「好きなところに座るといい。コーヒーを淹れてこよう」
「へっ? あ、うん…」
間の抜けた声で反応し頷いて、そそくさと最寄りのソファの端に腰掛ける。身体を休めても尚、逸る鼓動の音は収まらず、思わず生唾を呑み込む。
しかし、今の彼女にとってはゴクリと飲み込んだ音すらも、徒に焦燥感を増幅させるだけの材料でしかなく。
「すぅ…はぁ」
気を鎮めるべく深呼吸して、不意に感じた陽射しの暖かさに、思わず何事かと目を細める。
ゆっくりと瞼を開き頭上を見上げてみると、このリビングの照明は本来あるべき天蓋の位置を越えた遥か上空から吊り下げられており、その四方をステンドグラス状の窓が囲っていた。
自分が暮らす質素な家屋の造りからは考えもつかない贅沢な空間の活用方法に、文字通り彼とは住む世界が違うのだと思い知らされることとなる。
「はい、これ」
俯く少女の眼前に、カップが突き出される。はっと我に返って目を見開く彼女に微笑んで、男はそのコーヒーがすぐにでも飲める状態にあると伝える。
「既にミルクと砂糖は適量を入れておいた」
「…ふふっ、ありがとう」
隣に座ったアルハイゼンから受け取ったカップに早速口を付けて、最も自分好みの味わいに心が安らぐのを感じる。
過去に一度だけ問われ、何気なく答えたその適切なバランスを、他でもない彼が覚えていてくれたという事実は、少女にとってこの上なく幸福なことだった。
「美味しい。私の好み、一回しか教えたことない筈なのに…よく覚えてたね」
「俺が君のことについて訊ねて、それを忘れることなどあると思うか?」
「っ…そ、そういう言い方はずるいよ…」
真っ赤に頬を染め上げ、弱々しく反抗心を露わにする少女。言語を司る知論派に籍を置いていた彼ならではの巧みな論調に、
サージュはペースを乱されきっていた。
「あ、いや…その、嬉しいは嬉しいの。ただ…」
慌ただしく取り繕って、けれどもその先に続く言葉が見つけられず苦笑したまま硬直してしまう。
やはり自分はこの聡明な書記官と苦楽を共にする存在として相応しくないのではないか。そんな悲愴が過ぎり、眉を顰め視線を逸らす。
「
サージュ?」
歪んだ表情を訝しみ、アルハイゼンが少女の名を呼ぶ。彼女は咄嗟に非を詫び、複雑な心境の理由を語った。
「…ごめん、ちょっとネガティブになってた。住む家ひとつ取っても、私とキミとじゃこんなに差があるんだと思って」
羨望とも憧憬ともつかぬ愁いに満ちた瞳で、少女は再び己が佇む広々としたリビングを見渡す。
見事なまでに綺麗に整えられた本棚と、それとは対照的に埃を被ったまま放置されている楽器たち。
あちこちに置かれた新鮮なフルーツの山、そして何より心をチクリと刺す、水差しの傍に置かれたふたつの杯。
この家で暮らすのが彼一人では決してない、同居人の存在をこれでもかと証明する光景に、彼女は胸が痞えるような錯覚を抱いてしまう。
「そう悲観する必要はない。遅かれ早かれ、いつかは君もこの家で暮らすことになる」
「うん…って、ぅえっ!?」
生返事で頷いてから、その言葉の真意に気付き驚愕し、素っ頓狂な叫びを上げる
サージュ。
早鐘の如く高鳴る心臓の訴えなど知る由もなく、男は不敵に笑んで彼女を更に揶揄するのだった。
「俺を護ると初めに言い出したのは君の方だろう」
「確かに言った…けど、この家にはカーヴェ先輩だって居るし…」
しどろもどろになりながら、かの青年が暮らしている痕跡を一瞥し、すぐに視線を男へと戻す。
彼が持ち込んだであろう私物は少女の視界に入った限りでも相応に多く、それだけ彼がこの家に馴染んでいる証左でもあり。
「あのねアルハイゼン。私は…先輩が無事に暮らせる今の状態を邪魔したい訳じゃないの。寧ろその逆」
膝を抱え、少女は眉を下げて微笑む。それは男の"恋人"としてではなく、先輩カーヴェを慕う"後輩"としての告白に等しかった。
「先輩の借金が、あとどれくらいで返済出来るかは私には全然わからない。でも…少なくとも、今はまだここに留まる必要があるんでしょう。そこに割って入って追い出すなんて、とんでもない」
「…なら君は、あいつと三人で暮らすとでも言うのか?」
「ううん、流石にそれはカーヴェ先輩の方も嫌だろうし考えてないよ。んー…あと五年くらいあれば…その頃にはお互い落ち着いてるかなぁ」
眉を顰めて苦言を呈するアルハイゼンに首を振り、懐疑的な声で希望的観測を上げる少女。
あらゆる憂いを排し青年が心穏やかに暮らせるようになるまで、可能な限りは待ち続ける所存でいる彼女だが、それが叶うのがいつになるか、現状では推測すらも困難であった。
「どうだか。あの後先考えない浪費癖がなくならない限りは、猶予が何年あっても借金を完済出来るとは思えないが」
「あはは…それは言わない約束だよ…はあ。とはいえ、こればっかりは先輩自身の問題だしなあ…」
呆れ返った男の嘆きに苦笑を零して深々と溜息を吐き、少女は肩を落として思慮に耽る。
学院祭の賞金を得るという借金返済の為の千載一遇のチャンスを棒に振った今、
サージュが出来ることは皆無と言える。
故に青年がいつになったらこの家を出ることが可能か全く見通しが立てられず、眉間には皺が寄るばかり。
尤も、賞金を全額寄付するという、彼の選択そのものを否定するつもりは少女には一切なかった。
大規模な実験によって築かれた血に塗れた財産は謂わばそれこそが"呪い"にも等しく、青年がその代償までをも受け継がずに済んだことに、心の底から安堵していた。
「
サージュ、聞こえているか」
不意に名を呼ばれ、はっと我に返る。慌てて顔を上げると、不服そうに腕を組む"恋人"の姿があった。
すかさず謝罪を告げるも、臍を曲げてしまったのか彼は視線を重ねようとはせず、リビングの一角を占める雑貨棚に目を向ける。
「ん…? あっ…ご、ごめん! そうだよね、今はキミと二人で過ごしてるのに」
「別にそれはいい、今のこの家が俺一人のものでない以上、あいつのことは避けて通れない話題でもある。ただ…」
そこで一旦口篭り、心の奥底に募っていくもどかしさを掻き消すべく深い溜息を吐く。
それから彼女が何気なく零した呟きを拾い上げ、翡翠の中に朱を湛えた瞳を向け問い掛ける。
「君自身の準備が整うまでにも、あと五年もかかるのか?」
ぴくりと僅かに肩が跳ね、
サージュは口許を引き攣らせる。目線を右往左往させて狼狽した後、態とらしく可愛い子ぶって首を傾げてみせた。
「…長いかな」
「長過ぎる。俺にその間ずっと面倒な見合い話を断り続けろと言うのか」
わかりやすく甘える声にも断固として屈さず、現時点でも既に自身を苛む厄介事があることを伝える。
彼が縁談を受けているなど全く以て予想だにしていなかった少女はその言葉が俄かには信じられず、驚きから目を丸々と見開く。
「え、は…? アルハイゼン、お見合いするの?」
「しない。したくないからこそ、こうして君に危機感を持ってもらおうとしている」
「うぐ…でも、確かにそうだよね…元々キミは書記官っていう確固たる地位が確立されてて、更にそこに国を救った英雄としての栄誉…その上、辞めちゃったとは言え一度は代理賢者にまでなって」
そうして列挙していけばいく程、彼女は客観的に見たアルハイゼンという男の持つ価値の高さを思い知る。
抱いた劣等感は悲愴の刃となり胸を刺し貫き、再び少女の心を鬱屈としたマイナス感情で満たしていく。
「…
サージュ」
歯の浮くような称賛と、それに比例して沈んでいく視線。その両方を諫める意を込め彼女の名を呼び、敢えてプレッシャーを与えるかの如く破顔する。
「護ってくれるんだろう?」
「っ…うん。それは、勿論。だから…」
少女は緊張の面持ちで頬を染め、けれど双眸はしっかりと、己が護り抜くと誓った大切な存在の姿を見据えて頷く。
そして深く息を吸い、自分が彼に相応しいと思えるまでには、やはりそう短くはない歳月を費やす必要があるだろうと結論付け、そして。
「あと三年待って」
「待たない」
一世一代の決意表明も空しく、間髪入れずに否定が返ってくる。
サージュは出鼻を挫かれつつ懸命に譲歩しようとするも、本気を出した彼女が並外れた才覚を持っていることをよく知る男は、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
「っ…じゃ、じゃあ二年半…」
「さっきから随分と自己評価が低いな。君が因論派への入学の為に費やしたのは、確か半年程度だったと聞いた記憶があるが」
反証として持ち出したのは、少女が当初の予定であったアムリタ学院への道を蹴り、ヴァフマナ学院に入学するに至った経緯。
火事による怪我の治療と突然の鞍替えによって、入学試験当日までに彼女が学べる期間はたった半年足らずしかなかった。
それでも持ち前の知識欲を以て好成績を収め、実父の反対を覆して因論派に進んだ実績は、誰の目から見ても評価に値すべき優れた点である。
そうした目的の為にはどんな過酷な研鑽も厭わないだけの才能を持つこの少女が、自分と添い遂げるには三年も五年も必要だと思う理由がわからない――というのが男の見解だった。
しかし彼女自身はまだ自らの実力を認めるには至らず、知恵だけでは成り立たない武力の面についてはまだ未熟だからと眉を下げる。
「学科しかない入試と一緒にしないでよ。いくら努力したって、実力がついてくるまでには時間がかかる…アルハイゼンだって、ある日寝て起きたら突然その体格になってた訳じゃないでしょ」
力なく首を振って、愛する人を護るなどと宣うには軟弱過ぎる両腕を見つめ、無力さに唇を食む。
このままでは堂々巡りの悪循環に陥ってしまうと悟った男は、敢えて彼女が過剰だと感じる程度の肯定を以て自信を取り戻せるよう画策するのだった。
「ふむ、君の反論も一理ある。だが君自身は武器を用いずに戦う術を既に持っているし、寧ろそれに関しては俺以上の卓越したセンスがあると思っている。そこまで筋力に拘る必要はないんじゃないか」
「ちょっ…アルハイゼン? 急に褒めても何も出ないよ。あんまり持ち上げられると恥ずかしいし嘘っぽいからやめて」
「そうか。なら今後は控えよう」
動揺を誤魔化すべく、既に若干冷め始めていたコーヒーに口をつけて、その温さに顔を顰める少女。
それを元素力で冷却させアイスコーヒーへと変え、苦味の劣化と称賛による羞恥を強引に押し隠す。
そうしている内に、曇っていた視界が次第に鮮明になっていき、失敗を恐れるあまり臆病になり過ぎていたのだと考えを改める。
「…でも、ありがとう。お陰で少し元気出た」
衝動的に肩へと凭れかかり、甘える素振りを見せる。外では常に気を張っているせいで決して見せない不器用な彼女の緩みに、男は密かに"恋人"の特権を噛み締めていた。
「眠るのなら、前のように膝に来るといい」
「ううん、寝たら勿体ないもん。こうして二人で過ごせる時間は貴重なんだから、大事にしなきゃ…」
口ではそう言いながらも、得難い安らぎから来る睡魔には抗えず、噛み殺しきれない欠伸が漏れ出てしまう。
心を落ち着けられる喜悦自体は歓迎すべきものとは言え、今日の自分が求めているのはそのような揺蕩ではないと
サージュは頭を抱える。
「いややっぱりダメだ、気が緩んで瞼が重い…何かこう、目が覚めるような面白い議論でも出来れば違うと思うんだけど」
「議論ではないが、眠気を飛ばす方法ならひとつ確実なものがある。少し待っていてくれ」
意味深な言い回しに深読みして困惑する少女を余所に、男はすっと立ち上がり、数日前に整えた本棚の方へと向かっていく。
「ひえっ…!? …あ、あれ?」
焦燥を胸に見守る中、彼が手に取った一冊の本を見て、夢を見ているのかと考えた少女は自らの頬をつねり痛覚を確かめる。
何年も前に失くしたと思い込んでいた見覚えのあるその装丁に、目を疑わずにはいられなかった。
「…その本、キミが持ってたんだ」
「ああ。何かの手違いで、俺の蔵書の中に紛れ込んでしまっていたようだな。今まで気付かなくて悪かった」
「いいよいいよ、気にしないで。実を言うと…ちょうど一月前くらいかな。読もうとしたときになくて、オルモス港で見かけたから…買い直しちゃったんだ」
男が差し出したその書籍を前に感慨深げに微笑しつつも、もう同じ本が手元にあるからと両手を振って返却を拒む。
だが彼は一歩も引かず、本を持つ指先に力を込めて再び少女の眼前にそれを突き出す。
「だとしても、これは君が持っているべきだ」
「アルハイゼンがそこまで言うの、珍しいね。もしかして、間に手紙か何か挟んであるとか?」
冗談交じりに首を傾げ、彼が自分へと何かを仕込んでいるのだろうかと推測立ててみせる。
希望的観測からの発言は半分も当たっておらず、アルハイゼンは静かに首を振り、勿体ぶらずに読ませた方が早いと、本のページを開こうとして。
「手紙ではないが、君に宛てたメッセージが残っている。だから…」
「ふぅん…ねえアルハイゼン。それは、誰からのもの? "残っている"って言い回しからすると、キミが書いたんじゃないってことだよね」
言葉と態度の端に隠されたヒントを的確に摘み取り、努めて笑みを浮かべて訊ねる。
否、表情こそ笑顔であったものの、そこにポジティブな感情は一切含まれておらず、男は背筋が凍り付く感覚に襲われる。
焦慮により沈黙した彼の
顳顬から滴る冷汗を見て、少女は小さく溜息を吐き視線を逸らすように立ち上がる。
「…すぐに答えないってことは、お父さんかな。だとしたら、今は尚のこと読みたくない」
「
サージュ」
対話を拒む意思を見せる少女の手を咄嗟に掴み、落ち着いてソファに座り直すよう促す。
衝動に任せて振り払うかと思いきや、彼女は男の予想を裏切りその手を握り返してきた。
そしてゆっくりと向き直り、先刻の妥協した宣言よりも更にもう少しだけ短くなった年数を申告する。
「だから、あと二年。それまでは、またキミが預かっててよ。先輩がどうなってるかは抜きにして、私の決心が着いたら…そしたら、ちゃんと読むからさ」
真っ直ぐに彼の目を見つめ、それで手を打ってくれと言わんばかりに口角を上げて溜息を吐く。
慮外の宣告に驚いていたアルハイゼンは、首肯と共に目を閉じ、そう遠くない未来に想いを馳せる。
「わかった。なら、書かれている内容は…その時の楽しみにしておいてくれ」
サージュが口にした、半分も当たらなかった見当違いの推測。その答えを知る男は、彼女の"母"により懸命に綴られた、酷く不慣れな筆跡からなる祈りの言葉を反芻する。
"わたしよりもずっと賢いあなたなら、わたしでは枕にするしか出来なかったこの本を一緒に読める、大切な相手がきっと見つけられる"――要約すればそのような意味合いの文章となるそのメッセージは、確かに娘の幸福を願ったものであった。
親から子へ。連綿と受け継がれる想いは、死しても尚容易く断ち切ることは出来ないのだと、彼は自らの学んだ"文字と言葉"が齎す尊さを改めて実感せずにはいられなかった。
Pensée