何ヶ月も読まずに放置しているままのリビングの本を片付けろ――掃除を請け負う同居人に詰られて渋々重い腰を上げたアルハイゼンが、見覚えのある表紙を前に訝しむ。
「…うん? これは…
サージュの本か。何故俺の手元にあるんだ?」
それは"恋人"である少女のコレクションのひとつで、過去、想いを通わせ合う前の彼女から借りたものであった。
とうの昔に読み終えた筈のそれが、どうして持ち主の元に戻ることなく一冊だけぽつりと残されているのか。
返すタイミングなど、いつでも良かった筈なのに。そんな風にぼんやりと考えながら、男はその本を借り受けた頃の旧懐に耽る。
―
「あっ、アルハイゼン。また来てくれたんだ」
知恵の殿堂の一角。前回の邂逅で"いつもここに居る"と語っていた通り、
サージュは今日も変わらず同じ席に座って本を読んでいた。
足音から来訪者に気付き顔を上げ、彼女がふっと微笑みかける。その嬉々とした声音に妙な気恥ずかしさを覚え、思わず視線を逸らす。
逸らした先で男の視界に飛び込んできたのは、以前とは比べるべくもない本の多さ。
一冊や二冊ではなく、段や柱といった単位で数えるべき急増と、それによる景観の急変に、彼は驚嘆を零さずにはいられなかった。
「…前よりも随分と本が増えたな」
「うん。自分の本も持ち込んでいいって聞いたから、まとめて置かせてもらうことにしたの」
少女が自分の本だと称した書籍の山には、生まれてからこれまで長年スメールで暮らしてきた彼では見たこともない装丁のものが数多く含まれていた。
それら全てが彼女一人の努力によって集められたものとは俄かには信じられず、アルハイゼンは疑念をストレートにぶつける。
「まさか…これだけの本を自力で揃えたと?」
「あぁでも、全部じゃないけどね。増えた内の八割くらいは、燃えずに残ってくれた分。今の家だと狭くて置ききれないから丁度良いと思って」
"燃えずに残った"そう説明して、少女は眉を下げ笑みを浮かべる。そして、この本達と自分が直面した業火を思い起こし表情を曇らせる。
自身の発現させた神の目によって漏出した力は、母を喪う悲愴だけに留まらず、大量の本を守ることにも繋がっていたのだと、哀歓の入り交じる想いを抱いていた。
「ほう? つまりこれらは、君の父親のものなんだな」
そんな彼女の愁いなど知る由もない男は、これらの本が、隣国フォンテーヌの出であり生態系の実地調査で各国を渡り歩いていたという彼女の父の蔵書なら、見慣れない装丁が多いのも当然かと納得してみせると、父を憎む娘は唇を食んでその見解を否定するのだった。
「違う…お父さんは、全部置いてった。だからこれは、私の本だよ」
言葉の端々から滲む煩悶、そこに宿る家族への怨嗟は、天涯孤独となって久しい男には計り知れないもので。
「…そうか」
努めて淡々と、理解を示す言葉だけを告げる。先刻の発言が失言だと悟った頃には既に遅く、彼女もまた会話を拒むかのように手元の本に視線を戻してしまった。
それでもアルハイゼンは二人の時間をこのまま沈黙のみで終わらせるのは耐え難いと、目に付いた本の塔へと半ば無意識に手を伸ばす。
「何?」
所有物へと伸ばされた手に気付いた少女が、苛立ちを隠し切れぬ低い声音で不自然な挙動に対し牽制の声を上げる。
不遜な態度によって他者の怒りを買うことが茶飯事であった男は、子猫が威嚇している程度でしかない憤懣など全く意にも介さず、慣れた様子で自身の行為の意図を答え、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「借りてもいいか」
「あ…えっと」
唐突な希求に、
サージュが最初に見せた反応は逡巡。けれどもすぐに快諾し、本好きの同志である彼ならばと微笑む。
「ん、いいよ。キミは、大事な本を傷つけたり汚したりしなさそうだから」
彼女が一瞬だけこれらの本を貸し渋った理由が、先刻の険悪な空気からなる警戒ではなく、まさかの本の扱い方を危惧してのことであったと知り、男は頭を抱えたくなる。
今のこのスメールという国が如何にアーカーシャを重用し、紙の書籍を軽視しているかを目の当たりにした彼は、眼前の少女が有象無象と異なり正しい価値観を持っているのだと安堵の息を吐く。
それと同時に、承諾を受けた以上いつ読んでもいい本よりも、機を逃せば次が何日後になるか予想もつかない彼女との会話の方が有意義だという気持ちが沸き起こり、男は意を決して口を開く。
「
サージュ、君はいつから読書を嗜むようになったんだ?」
彼からの問い掛けは予想だにしていなかったものらしく、驚いて目を丸々と開き記憶を反芻する少女。
だが、どれだけ考えても正解に辿り着くのは不可能だと諦め、その通りの結論を口にして肩を竦めた。
「うーん、いつからだろ…物心着いた時にはもう手当たり次第読むようになってたから、明確な時期は自分じゃわからないなぁ。アルハイゼンは覚えてるの?」
「いや、俺も似たようなものだよ。幼少期は祖母に字を教わったり、父の教本を参考にしたりしながら、家中の本を片っ端から読み漁っていた」
ごく自然に投げ戻された疑問に、男が自分も同類だと首を振る。思えば、祖母と暮らしていた頃からも文明の利器に頼りすぎることはなく、得た知識の正誤を見極める目を養ってきたのだと、不思議と懐かしい気持ちになっていた。
「…お母さんは?」
彼が語った家族に関する回顧の中で、挙げられなかったもう一方の親について聞かずにいられなかった少女が、胸元をキュッと押さえる。
彼女にとっては、やはり"母"という存在が一際特別なものであると認識すると共に、奇しくもこの小さき蕾が自らの母親と同じ学派であることに気付き、不安を払拭するように破顔する。
「母は君と同じ因論派だったそうだ。もしかしたら、その内…母の遺した論文を君が読む機会もあるかもしれないな」
励ましのつもりでそう口にしたアルハイゼンだったが、少女は彼が用いた言葉から存命ではないのだと察知し、触れてはいけない話題に踏み入ってしまったかと狼狽し出す。
「え…あっ…ご、ごめんなさい、私…」
「どうして謝る? 確かに俺に家族は居ないが、俺は別に気にしていない。気まずそうにされる方がこちらも対応に困る」
「…わかった」
敢えて少しだけ強い口調で諫め、それと同時に母だけでなく父も祖母も既に亡くなっていることを理解させ、この件に関してのこれ以上の謝罪を拒絶する。
彼女はどう返すべきか迷い、暫くの間眉を顰め押し黙っていたが、やがて皺の寄った眉間を解し力強く頷いて、話題の転換を試みる。
「そう言えば…知論派なんだよね、キミ。丁度今読んでた本で、読めない字があるんだけど…教えてくれる?」
沈鬱な空気を嫌った
サージュが持ち掛けたのは、男の専門分野についての教授。
彼女に乞われるのなら
吝かではないと身を乗り出して、難読だと嘆く部分について確かめる。
「どこだ」
「この辺り。我が子の
出生を…のとこ」
「ん?
出生のことか? ならその次の文字は"
偏に喜び"と読む」
開いていたページの中心付近を指で示し、その一節を声に出し読めない部分を知らせる少女。
違和感を正しつつ、アルハイゼンは彼女の指の先を目で追って問題の個所を見つけ、文脈に沿った読みを優しく説く。
しかし当人は教わった文字よりも不必要な訂正に含むところがあるらしく、物言いたげに口元を歪める。
それでも感謝の意を忘れることなく伝え、続け様に別のページで読み飛ばしていた部分を探すべく本を手元に戻す。
「…まあいいや。ありがとう。それと、今度はこっちの…
重複し」
「
重複」
今度は先刻よりも若干食い気味に言い換えられ、耐え兼ねた少女が勢いよく顔を上げて叫ぶ。
「間違ってる訳じゃないんだから直さなくていいよ! もう、聞きたいのがどの辺だったか忘れちゃったじゃない」
余計な指摘は不要だと憤慨する
サージュだが、男は深々と嘆息を吐いて彼女の言い分を否定する。
「
サージュ。君のように誤読する人間があまりに多いせいで、今でこそどちらも正しいとされるようになってしまったが、本来は
出生も
重複も誤りだ。俺は知論派として、これらの慣用読みを許容することは出来ない」
「っ…わ、わかったよ。けど、せめて私が聞きたいところを確かめるまで我慢して」
頬を膨らませこそすれど、全面的に正しいのは専門家である彼の方だと認め、渋々了承を告げる。
ただ、やはり話の腰を折られるのは癪だと不服を申し立てると、男は存外すんなりと誠意を見せるのだった。
「それについては、確かに俺に非がある。悪かった」
「ん、いいよ。本当の読み方があるって教えてもらうこと自体は私も有意義だと思うから、黙って見過ごして欲しい訳じゃないしさ」
アルハイゼンからの真摯な謝罪を受け、少女は宥免に頷き再び本に視線を戻し、目的の単語を改めて探す。
ようやく見つけた部分を問うと、今度は正しい読みが二種類あるのだと教えられ、彼女の口から感嘆が零れ落ちる。
「…っと。アルハイゼン、これは?」
「
憧憬。先程までとは異なり、
憧憬と読むのも別に間違いではない」
「ふうん、そういうのもあるんだね…面白いなぁ」
尽きぬ興味を抱かせる言葉の奥深さに、知らず知らずの内に目を輝かせる
サージュ。
彼女の持つ飽くなき探究心に、教令院での"先輩"としての本能にも似た衝動が疼き、男は学派の転属を提案せずにはいられなかった。
「どうだ、君も知論派に鞍替えするか?」
少女は不敵に笑む彼の目を驚いた様子で見つめ、けれど本懐を忘れる訳にはいかないと慌ただしく首を振る。
「え? あぁ…一瞬だけ、ちょっといいかもと思っちゃった。でも、私はクラクサナリデビ様のことをもっと知る為にヴァフマナに入ったんだもん、それは出来ないよ。機会があれば知論派の授業も取りたいけど、今は自分の学科で手一杯」
知論派への道は少女にとって魅力的な誘いではあれど、文字や言葉の研究は、敬愛する草神とは殆ど関わりがないと言っても過言ではない。
草神の歩んだ足跡を学び紐解くことこそが、己の果たすべき使命と信じて因論派に身を投じた彼女の神妙な面持ちに、アルハイゼンは静かに頷きそれ以上の勧誘を控え、そして。
「そうか。だが、君のその知識欲は普通の人間には持ち得ない特別なものだ。今後も大事にするといい」
"特別"と、自身の語彙の中で最上の称賛を送る。この時の少女は、彼の齎した言の葉に込められた熱がどれだけのものであるかなど知る由もなかったが、その想いの一端を確かに受け取り、眩い程の笑顔で応えてみせた。
「特別…ふふっ、ありがとう。じゃあさアルハイゼン、今度来るときはキミのお母さんの本持って来てよ。さっき私と同じ因論派だって言ってたよね」
「構わないが…君が読んで理解出来るレベルのものかどうかは保証しかねる」
「いいの。一回読んだだけじゃよくわからなくても、まずは色々な言説に触れてみたいから」
男は少女の希求を受け入れつつも、まだ入学してからそれほど長くはなく、年齢的にも成熟しきっていない彼女に母の蔵書が適しているか不安が過ぎる。
しかし
サージュ自身は、半端に理解しようとするよりも、知識を掴むことそのものに意味があるのだと口を尖らせ、彼の憂慮を一笑に付す。
「わかった。なら…そうだな、この本を読み終えるまでには用意しよう」
「ん、お願いね」
首肯と共に先刻借りる承諾を得た内の一冊の本を手に取り、誓いを立てる。それが、二人が初めて交わした約束だった。
―
「あれから何年経ったか…もしや、彼女も忘れているのか?」
ぱらぱらとページを捲り流し読みして、宣言に用いた記憶の通り一度は読み終えたものであることを確認する。
かつて交わした約束自体は違えることなく果たしており、更に互いが現在どころか未来に至るまで共生を確信している今、この本が両者どちらの手元にあろうが問題ないと言えば問題ない、のだが。
気付いてしまった以上は持ち主に返すべきだろうと、外出用の鞄に入れようとして、巻末に書かれた文章を見つけ押し留まる。
「…いや。彼女を家に呼んで、その時に渡すべきだな」
本の返却の口実として思案したのは、彼女をこの家に招くというささやかな願望の実現。
尤もその為には、厄介な同居人が不在であるタイミングを見計らう必要があった。
同居人ことカーヴェの存在について。家主であるアルハイゼン自身は、既に彼が居ようが居まいが特段気に留めることもないと感じていた。
が、仮にも"恋人"と憩いの時を過ごす心算であるのなら、やはり邪魔者となる他の異性の排除は必要不可欠だろうと考えを改める。
「確かこの辺りに、あいつが予定を記したメモを置いていたような…」
ブツブツと思考を無意識に吐き出しながら、それらしき用紙を捜索する。目ぼしい場所を一通り探ってみるものの、残念ながら発見には至らず。
「無いな。どうせ見ていないと思って捨てたのか、あるいは既に過ぎた期間の話だったのか…チッ、直接聞きに行くしかないか」
ほんの気まぐれで思いついた企みが随分と面倒を引き起こしたと舌打ちし、けれどその程度で断念するつもりはなく、迷わず彼の部屋へと足を向ける。
扉の前に立ちノックをして名前を呼び、まずは青年が対話可能な状態であるかどうかを訊ねる。
「カーヴェ、少しいいか」
「開いてる。今なら入って大丈夫だ」
長年の付き合いでなければ伝わらない絶妙に難解な返答もすぐに理解し、ドアを開け室内へ入っては寝台にどっかりと腰を下ろす。
まず初めに彼が"開いている"と称したのは、扉の前に阻むものが何もなく安全であることの証明。
次に口にした"入っても大丈夫"については、離席したくない作業の最中だと伝えると同時に、部屋の外に留まられての会話は避けて欲しいという意思表示だった。
同じ屋根の下で暮らす内に譲歩し合い身につけた互いの適切な距離感を保ちつつ、アルハイゼンは本来の目的を果たすべく声を上げた。
「向こう一月…いや、二週間でいい。君が家を空ける期間があれば教えてくれ」
「別にいいけど、君の方から僕のスケジュールを聞いてくるなんて…何だかちょっと気味が悪いな」
「余計な詮索は不要だ、早く予定表を寄越せ」
「今書いてるから大人しく待ってろ。あー、えっと…この日は確か午前中にメンテナンス作業があって、翌日には打ち合わせの為にキャラバン宿駅に向かわなくちゃで…」
予想だにしない要求に、自分には隠したい何かがあると悟ったカーヴェが、冗談混じりに答え口角を上げる。
すると男はそれを冗談とは捉えなかったらしく憤りを露わにし、早急に対応しろと言わんばかりに掌を突き出す。
そんな威圧にも一切動じることなく青年は手元の紙に細かなスケジュールを書き込んでいく傍ら、男が何故こんな申し出をしてきたかについての推論を唱える。
「なぁ、アルハイゼン。不在の日を聞いてくるってことは…僕がいないときに、
サージュをこの家に招待するつもりだろ」
「…それを聞いてどうする」
図星を突かれた家主の回答は、まさに居候の想定していた通りの一言一句違わぬもので。
「別にどうもしないさ。"恋人"をもてなすのは、"彼氏"である君のすべきことだからね。あ、でも…」
恫喝にも程近い声音で凄むアルハイゼンを揶揄し、恋人同士の仲に割って入るつもりはないことを念押しする。
けれど少女の笑む顔を想起して語る内、彼自身も果たさねばならない義理があったと思い出す。
「前に貰ったザイトゥン桃の件や、学院祭での諸々も含め…僕からもあの子に何か恩返しがしたいという気持ちはある」
「ふむ」
「あぁいや、その…君が嫌がるのなら勿論控えるつもりだけど」
端的すぎる相槌に、横槍による男のストレス増加を危惧した青年の肩がぴくりと跳ねる。
すかさず弁明を吐いて反応を窺うと、それまでの焦慮が嘘のようにふっと息を吐いて、心配するような事態には陥らないと笑んでみせた。
「
サージュが君と何を話そうとも、今更嫉妬心を抱くことはないよ。それに、彼女に対して恩を感じているのなら、その誠意は俺を通さず直接本人に伝えるべきだ。違うか?」
「…君の言い分も一理ある。ただ、人によっては他の男が自分の恋人に気安く話し掛けるのを快く思わない場合もあるから…一応、筋は通しておいた方がいいかと思ったんだ」
後ろめたさがあったのだと視線を逸らし、腕を組んで口を尖らせるカーヴェ。それを聞かされた男は、少女の交友関係を理由に挙げ、自分がそのような執着心を持つことはないと笑う。
「その理屈だと、学院祭への参加を許可しないくらいの束縛を強要することになるな。君だけではなく、彼女はセノやティナリとも親交があるのを忘れたか?」
「君ってやつは…全く、気を遣って損した! ほら、スケジュールは書き上がったからさっさと出て行ってくれ!」
拳をわなわなと震わせ怒りを露わにし、書き終えたメモを逞しい胸筋に押し付け退出を急かす。
渡されたメモを受け取ったアルハイゼンは驚く程素直に謝意を伝え、更に就寝の挨拶まで告げ去っていく。
「ああ、ありがとう。おやすみ」
慮外の感謝を耳にした青年は、まず初めに幻聴を疑う。次は夢を見ているのかもしれないと、頬をつねったりペン先を指に当てたりしてみるも、痛覚は正常であった。
先程の言葉が紛うことなき現実なのだと認識した彼は、翌日の外出時には荷物を増やす必要があるなと嘆息を吐いて、中断していた作業の続きに戻った。
「あいつが僕にお礼を言うなんて…明日は傘を持って出掛けよう」
S'épanouissent