短編集
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「サージュ」
名前を呼ばれ、私はそこでようやく目が覚める。より正確に言うなら、自分が眠っていたことに気付く。
「ん、ごめんアルハイゼン…いつの間にか寝ちゃってたみたい」
「大丈夫だ。そろそろフォンテーヌ廷に着く」
巡水船の終着点を視線で指して、アルハイゼンが本を閉じる。久しぶりの水国だけど、この人は相変わらずみたいだ。
私が寝ていて、更にアルハイゼンは起きていても話を聞いてくれないことを知っているからか、運航ガイドのメリュジーヌ…アイベルちゃんも、今回ばかりは静かに私達の向かい側、本来であれば乗客の席に座っていて、思わぬタイミングで得られた小休憩を満喫していたみたいだった。
「みたいだね、んんっ…はぁ、この景色も久しぶりだなぁ」
減速し始める巡水船の上で大きく伸びをして、下船の準備を整える。と言っても、既に荷物はアルハイゼンが持っていてくれたし、大してすることはなかった。
やがて船はゆっくりと停泊し、私達は国の中心地であるフォンテーヌ廷のターミナルに降り立つ。
それからアイベルちゃんに手を振って別れを告げ、正面に見える昇降機で一階を指定する。
セントラルポートホールを通り過ぎて外に出てすぐに見える、大きなクロックワークマシナリー…だよね? そのシンボルを横目に右手に進んで、目指すのは街一番のカフェ。
前に来た時も、その前に来た時も。フォンテーヌに来る度に、私達はまずはそこでコーヒーを楽しむのがお決まりになっていた。
「いつもの?」
「そうだ」
聞くまでもないことを一応念の為確認して、アルハイゼンには先に席へ座っていてもらう。
私はカフェのカウンターに向かい、今日は何を注文するかメニューを見ながら思いを馳せる。
新商品や季節限定品があればそれにしようかと考えてメニュー表を眺めていたものの、どれもピンと来ず、結局私も前に来たときと同じものを頼むことにする。
「おかえり。どうやら今日は、あまり気に入るものがなかったようだな」
「まぁ、この前食べたものも充分美味しかったからいいんだけどね。折角なら珍しいのにしようと思ってたから、ちょっと肩透かし喰らった気分」
注文を終え席に戻った私を出迎えて、ほんの少しの愁いを的確に見抜いてみせるアルハイゼン。
尤も、これはどちらかというと、自分との考え方の違いを揶揄っているだけなのだと思う。
彼はどこに行ってもマイペースで、その国ごとの特色を楽しんだり、食べたことのないものに挑戦してみたりする、なんてことをしない分、私みたいに何を選ぶか悩んでいる姿を滅多に見ない。
だから当然食事で失敗する機会も殆どなくて、ある意味では非常に安定した考えを持っているとも言える。
そういった自分の信念をしっかり持っているあたりは、出逢った頃からずっと変わらない、私がアルハイゼンを好きなところのひとつかもしれない。
「…どうした、食べないのか?」
「ん?」
唐突にそう訊ねられて、思わず首を傾げる。するとアルハイゼンは目線を私の顔よりも下に向けて、テーブルに置かれているチョコレートケーキを見つめる。
「えっ、いつ来たの!?」
「今しがた目の前に置かれたばかりだが…まさか気付かなかったと?」
困惑する声に、私は恐る恐る頷く。指摘された通り、頼んだものが来ていたことにも気付かない程、ぼうっとしてしまっていたらしかった。
確かにアルハイゼンのことを考えてはいたけど、そんなに深く考え込んでいたつもりはなかったから、何だか凄く恥ずかしい。
「し、仕方ないでしょ。考えごとしてたんだから」
その羞恥心を少しでも掻き消すようにケーキを口に運んで、一緒に頼んだコーヒーを勢い任せに呷って、おかわりを注文する。
折角の異国旅行だというのに、どうにも今日は調子を狂わされている気がする。いや、だからこそ、なんだろう。
二杯目のコーヒーを啜りながら、私は深呼吸する。この国に来た目的は一旦忘れて、今はこの甘味と苦味を堪能するべきだ。
「どう、美味しい?」
「数年ぶりとはいえ、そう簡単に味は変わらない。サージュ、君の方はどうだ?」
「そっか、良かった。私のケーキも、前来たときと同じ味。ちゃんと美味しいよ」
微かに口角を上げて、満足そうに是を答える。それから私にも同様の質問をして、暗に一口欲しいとねだってくる。
珍しいな、いつもは私が食べるか聞いても眉を顰めるばかりなのに。案外アルハイゼンの方も、今日の大一番を前に緊張してる…なんて、そんな訳ないか。
「食べる?」
「ああ」
若干前のめり気味に頷いて、差し出した皿を手元に引き寄せる。残っている内の一割ほどを切り分けて食べて、嬉しそうな表情で照れ隠しにもならない不服を零してみせた。
「悪くはないが、想定よりも甘かった」
「そりゃ、スメールのお菓子よりは控えめかもしれないけど、チョコレートケーキだからね。でもコーヒーによく合う、程よい感じでしょ?」
「…そうだな」
苦笑交じりにそう告げ、美味しかったことを渋々認め皿を返す。本当に、素直じゃないなあ。
だいぶ前、私が初めて手料理を作ったときも、最初は似たような言い回しで誤魔化してきたのを思い出して、なんだか頬が熱くなってくる。
「ふふっ。その反応、懐かしいな」
感慨に耽っていると、思っていたことをうっかり本当に口に出していたらしく、訝しげな視線が突き刺さる。
そんな昔のことを振り返るのも少しだけ照れ臭い気もしつつ、下手に隠したところで無駄なので正直に伝えることにする。
「懐かしい?」
「そ。付き合いたての頃…ご飯作ってあげたときと同じだなって。覚えてる?」
カマを掛けるつもりでそう訊ねると、アルハイゼンはこれ以上ないくらいの大きな溜息を吐いて目を閉じる。
これは、若干…本当に僅かにだけれど、怒ってるときの仕草だ。忘れる筈がない、そう言いたげな雰囲気が漂っているのがわかる。
覚えているのは勿論、それを大切な思い出だと感じてくれていたんだと、今更当時の幸福が蘇って嬉しくなってしまう。
「俺が忘れていると思うのか、君は」
「いいや、全く。でも、覚えててくれて嬉しい」
予想通りの反論に首を振って、思ったままの喜びを伝える。あれから何年か経ったけど、あの頃のことは私達の中で、良くも悪くも強く印象に残っている日々なのは間違いない。
平穏を何より、それこそ私のことよりも大好きなアルハイゼンからすれば、あの一年は激動のものだっただろうから。
「…コーヒーでお腹膨れちゃった。これ食べて」
「仕方ないな」
残ったケーキの最後の一口を押し付けるようにフォークを向けて、自分の中のごちゃごちゃになった感情を誤魔化す。
アルハイゼンの傍で生きる道を選んだこと自体は、全く後悔していないし、心残りもない。
彼がそんな私の願いに応えてくれたのも、勿論心の底から喜ばしいこと、それだけは確かだ。
ただ、何年経とうが恥ずかしいものは恥ずかしい。彼は国を救えてしまう程の天才で、他人に心を開くことは滅多にない。
そういう凄い人に私なんかが好かれている…否、愛されているなんて、それこそ夢みたいな話だ。
こんなに幸せを与えられ続けていて、本当にいいのだろうか。私は受けた恩を返せているだろうか。そう不安になることは、今だって少なくない。
「美味しかったよ」
押し付けた甘味を無言でリスのように咀嚼してそれを飲み込んだ後、アルハイゼンはふっと破顔する。
普段は無愛想で仏頂面ばかりな人だけど、不意に見せてくれるこの笑顔が、今の私の一番の弱点と言ってもいい。
恥ずかしさでおかしくなってしまいそうだと、私は気を逸らすべく懐中時計を指して退店の意図を伝える。
それを見た彼はすんなりと了承して席を立ち、手を差し伸べる。勿論拒む理由はなく、その手を強く握り返す。
「え…えっと、じゃあ、出よっか」
「わかった」
カフェ・リュテスを去り、次なる目的地に向けて歩みを進めるものの、どうにも足が重くなってしまう。
何せ次に目指すのは、フォンテーヌの人々だけでなく私達のような外からの来訪者にも有名な、カップル御用達のデートスポットなのだ。
ルキナの泉――フォンテーヌの全ての水が集まる場所で、人が流した涙さえも例外ではないとされている。
それだけではなく、子供が欲しい夫婦がコインを投げ入れると、その願いを叶えてくれるという言い伝えもある、由緒ある場所だ。
「緊張しているのか?」
再び巡水船に乗るや否や、開口一番にそう聞かれ、思わず肩が跳ねる。振り返って表情を見た限りでは、わかって聞いているから余計に質が悪い。
「まあ…流石にちょっとね。だって、こ、子宝祈願の泉なんだよ…?」
「どれだけ信憑性が高くとも、所詮は言い伝えだ。スメール人である俺達にも通じるとは限らない」
深呼吸しつつ想いの丈を吐き出すと、アルハイゼンは呆れたように嘆息して、そう宥め賺す。
それだけじゃなく、完全に人の心を弄ぶような態とらしさで腕を組んで笑んで、私を揶揄ってくるのだった。
「それに、泉に硬貨を投げるだけで願いが叶うというのなら、人が努力する意味もなくなる。あまり期待しない方がいい」
「べっ、別に…期待なんてしてないし。けど、少しくらい意識してくれてもいいのに、って…」
羞恥を押し隠そうと売り言葉に買い言葉で反抗してから、とんでもない失言をしてしまったことに気付く。
「…」
アルハイゼンは突如として押し黙り、小さな呻きを零す。そして徐に瞼を閉じ、組んだ腕の中で人差し指をリズミカルに動かしては、密かに奥歯を噛み締める。
これは多分、どう伝えるのが正解か悩んでいる。これまでの長い付き合いの中で、言い方ひとつですれ違ったことは一度や二度じゃない。
だから慎重に、私を怒らせないよう細心の注意を払って、言葉を選んでいる。なら私に出来るのは、待つことだけだ。
「サージュ、君はどうやら俺を過大評価しているようだな」
どれくらい待ったかわからないくらい経ってから、やっと口を開いたアルハイゼンから齎されたのは、悲愴に満ちた声。
そんなつもりはない筈と異を唱えようとしたところを、すっと伸びてきた手に制止される。
何事かとその手を見つめていると、今度は私の背後を指して、もう間もなく巡水船を降りる時が迫っていると示す。
「どういう意味…」
「続きは降りたらにしよう。そろそろ終着点だ」
下船した後、今度は私を待たずにどんどん先へ進んで行ってしまう。慌てて駆け寄って肩を掴もうとしたところを振り向き様に躱され、勢いよくバランスを崩してしまった。
「待ってアルハイゼン、さっきの…って、うわっ!?」
このままでは盛大に転ぶと悟り、受け身を取ろうと身構える。けれどその前に抱き留められ、否、抱き締められて事なきを得る。
いや、これはこれで無事では済まない状況な気もする…! 心臓の音が嫌でも耳に響いて、恥ずかしいことこの上ない。
…ん? 何かがおかしいような…自分の心臓の音が、こんな至近距離で聞こえるなんておかしい。
まさかと思って顔を上げると、赤らんだ頬が眼前に飛び込んできて、図らずも声が上擦ってしまう。
「え、あ…」
「ようやく理解したか?」
視線に気付いたアルハイゼンは、ケーキを食べさせた後のようにまた微笑んで、抱擁する手に一瞬だけ力を込め、すぐに開放する。
往来のど真ん中でキスでもされるのかと思って正直かなり焦ったけど、流石にそれは杞憂だった。
「サージュ。いくら俺が自分の感情を表に出さない性分とは言え、あの泉に向かうことを…何とも思っていない訳がないだろう」
お互い深い溜息を吐いた後、視線を重ね合う。と言っても、これだけ真摯な想いを受けて、私が返せるのはこの一言だけだけれど。
「ごめん」
「わかればいい。さて…先を急ごう。あまりのんびりしていると、後の予定に差し支える」
「あ、いや…ちょっと待って。本当は泉の前でと思ってたけど…沢山の人に見られてると恥ずかしいから、今渡すね」
照れ隠しに手を引くアルハイゼンを呼び止めて、いそいそと腰の鞄から匣を取り出す。これは今日の為に用意していた、私からの気持ち。
銀の髪に混じった薄緑によく似合う、綺麗な色をした燐灰石の小さなピアスが入った匣を突きつけて、中を開いて見せた。
「誕生日おめでとう」
全く想像していなかったタイミングでのプレゼントは流石のアルハイゼンにとっても驚きに満ちたものなのか、目を何度も瞬かせて感嘆を零す。
困惑しつつもしっかりと受け取って、角度によって色を変える美しさを堪能する。暫くの間そうして眺めた後、そっと匣を閉じる。
それからその匣を大事そうに鞄にしまって一息吐いて、改めて私の目を見て感謝の言葉を伝える。
してやられた、と言わんばかりの満足げな口許の緩みに、私自身も幸福感が胸の内に溢れてくる。
「…ありがとう、サージュ。今年に限って、何が欲しいか執拗に聞いてこなかったのは…この旅行がその代わりだからではなかったんだな」
「そりゃあね。私はいつだって、キミに恩を返す機会を狙ってるんだよ? その絶好のチャンスである誕生日を逃す訳には行かないもの」
したり顔、で合ってるんだっけ。とにかくまあ、そういう表現が相応しいだろう表情で、彼を上目で見つめる。
アルハイゼンはそれでサプライズの理由に納得して頷いた後、今度はこれを選んだ理由が気になるらしく首を傾げてみせる。
「ところで、どうしてピアスなんだ? まさか、君が開けてくれるのか?」
「それもいいし、別の使い方でも勿論構わない。石が小さめのやつを選んだのは、アルハイゼンが好きに出来るようにと思って」
「なら、後で加工してもらうとしよう。半年もあれば、流石に間に合うだろう」
「え、半年後って…何かあったっけ。付き合ったのは全然別の時期だし、花神誕祭はもっと後の話でしょ…」
示された時期に何があったか心当たりが全くなく、どうにか当てられないか考え込んでいると、アルハイゼンは答えを教えてくれないままスタスタと歩いて行ってしまう。
迂闊な発言で機嫌を損ねさせてしまったと気付いた時には既に遅く、私は必死に後を追い非を詫びるしか出来なかった。
「何でもない。君がこれを俺に渡したことを忘れた頃、また思い出させてあげるよ」
「あ、ちょっ…! ごめんってば、置いていかないで!」
そんなやり取りをしていたら、長いと思っていた筈の道もあっという間で、私達はいつの間にかルキナの泉の目の前に着いていた。
偶然と言うべきか、ある意味これもまた運命の悪戯なのか。彼は噴水が丁度止まったその瞬間を見逃さず、徐に振り返っては私の名を呼ぶ。
「サージュ」
水音が立てば掻き消されてしまいそうな小さな声で、アルハイゼンはそっと唇を震わせる。
頬に灯る熱に込められた感情を噛み締め、私は泉に願うように胸に手を当て、愛する人との永遠を誓う。
「愛している」
「…ふふっ、ありがとう。私も大好きだよ。これからもずっと…隣でキミを護らせてね」