本に囲まれた自室、
サージュは自身の寝台に布団の上から寝転がり、先日の出来事を思い起こす。
「はぁ、どうしよう…」
少女を悩ませる種は、自らの発言。クラクサナリデビを敬愛する気持ちに変わりはないが、彼女が成した功績を調べ紡ぐことに迷いを抱いてしまったのは消せない事実となっていた。
そんな中で見出したもう一つの道が、優れた傭兵だった母の背を追い、想い人を護る為に武器を取るという選択。ただしこれは完全に少女の淡い願望でしかなく、現実のものにするつもりなど一切なかった。
胸の内に秘めておくべき筈の夢を張本人の目の前で口にしてしまい、あまつさえそれを受け入れられてしまうという予期せぬ事態。
想いが通じていること自体は幸福には変わりないが、それが彼の本心か単なる相槌かを確かめられずに今に至る。
「勢い余ってあんなこと言っちゃったけど…まさか肯定してくるなんて思わなかった、これから先どんな顔して会えばいいのさ…」
火照る顔を手で覆い、醜態を恥じる少女。そのまま布団に潜ってしまいたいとも思いながら、身体を傾ける。
指の隙間から見えた景色にある筈のない影を見つけ、彼女は驚愕と共に飛び起きる。
「って、うぇ!? あああアルハイゼン…な、なんで私の家に居るの!?」
生々しい叫びにも動じることなく少女を見下ろすのは、彼女が想いを寄せる張本人。
今日の突然の来訪は当然の如く彼女が知らされたものではなく、何故平然と部屋に入っているのか疑問に思う
サージュへと男は彼女の貸出カードを突き出す。
「君に貸与している本の中に、貸出期間を過ぎているものがあると言われてな。俺が一番都合が良かったから、直々に取り立てに来たまでだ」
「あ…ごめん、そこにあるので全部だと思う」
カードを一瞥することもなく、少女は自らが借り続けている本達が積み重なるひとつの小さな山を指す。
自然な流れで答えて、それらを持ち帰ろうとするアルハイゼンをそのまま見送ろうと視線で追う。
が、彼が部屋を出る直前で我に返った少女は、どうして男が自分の家に入り込むことが出来たのか聞かねばならぬと慌てて引き止める。
「…じゃなくて! 待ってアルハイゼン、どうやって家の鍵開けたの」
施錠されている筈の家の鍵をこじ開けてまで本を取り立てに来たにしては違和感が拭い切れず、他の意図がないか探る
サージュ。
しかし彼の反応は焦る少女とは対照的に至って平静を保っており、彼女を宥め
賺すように真実を告げる。
「最初から開いていたが」
「え。うそ…」
可能な限りの速度で頭をフル回転させ、施錠の記憶を呼び起こそうと試みるも、どれだけ辿っても昨夜に鍵を閉めた記憶はなく。
「ごめん」
「俺に非を詫びるより、防犯意識をもっと高く持つように気をつけてくれ」
深い嘆息。謝罪を受けることが目的ではなかった彼は、見当違いの返答に苛立ちを抱いているようだった。
微かに見えた悲哀の瞳に
サージュもそれ以上は何も言えず、所在のない目線は空を仰ぐ。
「…」
どれだけ思考を巡らせても、浮かぶのは謝罪の言葉だけ。寝台の上で膝を抱え、少女は彼が去ってしまうのを止めることすら出来ず膝の中に顔を埋める。
「
サージュ」
唐突に名を呼ばれ、肩が跳ねる。その勢いのまま顔を上げた彼女の目の前にあったのは、己を真っ直ぐに見つめるふたつの瞳。
想像以上に近い、どころではない至近距離に現れた彼に再び驚嘆の叫びが漏れる
サージュ。慌てて飛び退いた彼女に、男は不服そうな声で呟く。
「ひゃわぁっ!?」
「そこまで驚く程か」
「驚くよそりゃ、そんな近くだと思わなかったもん…」
暴れる、と称するのが相応しい程に激しく脈を打つ心臓を抑えながら、少女は自身の驚きを伝える。
「やはり危機管理能力が著しく低下しているな。そんな調子で本当に大丈夫なのか疑わしく思えてくる」
周囲に対する警戒がままならないのも、日常に於いての義務を果たせないのも、全て原因はひとつしかないのに。
そう喉まで出そうになる
サージュだが、彼女は自分の弱さの理由を彼の所為にしたくなくて、強がりでしかない虚勢を張る。
「だ、大丈夫だよ。心配してくれて…えっと。ありがと」
再び謝罪の言葉を口にしようとして、寸ででそれを感謝へと昇華させる。だが、それでもアルハイゼンは納得行かない様子で彼女を見つめる。
「…まだ憂いが晴れないようだな」
「アルハイゼンは悪くないよ、私がずっと変なだけ…」
的確に少女の機微を見抜いた、鋭い指摘。教令院で共に学び互いを高めて来た日々が証明する通り、彼は
サージュの性分などとうに知り尽くしていた。
「そんなことより…仕事中、なんでしょ。サボってたら定時上がり出来ないよ」
それでも少女は自らの迷妄を隠し通す為に、彼がここに来た当初の目的を果たさせるべく話を逸らす。
借りたままの本達を一纏めに麻袋に詰め、アルハイゼンの胸元に押し付ける。遠回しに拒絶する素振りを見せた彼女に、彼は。
「返却の催促に来た時点で、今日の仕事は既に終わっている。滞納していようがいまいが、実際に本を返すのは君の責務だからな」
「っ…!」
これまで返却を滞らせたことがなく仔細を知らずにいた少女は、不敵に微笑む男の正論に唇を食む。
体良く追い返すつもりが居座る理由を与えてしまった失態に頬が熱くなるのを感じ、怒りに任せて背を向ける。
「じゃあ…これ返しに行かなきゃ」
次の一手として、言われた通り本を返すべく外出の支度を整えようと荷物を漁り始める
サージュ。
流石の彼もこれを止めることは出来ないと踏んでの行動だったが、知略に長けた男は少女の一歩先を行く。
「そうか。なら同行しよう。俺が話を通せば、初犯の君なら罰則なしで済むだろう」
「…」
どこまで事前に計画していたか計り知れぬ周到さに、少女は思わず言葉を失う。
「少しでいいから…一人にさせてよ」
やっとの事で絞り出した本音。彼が傍に居るだけで胸の奥が焼ける程熱くなる現状では、正常な思考など不可能だった。
「断る。今の君は…君が自覚している以上に不安定な状態にある」
「アルハイゼン」
改まって名を呼び、拒絶を露わにする
サージュ。大好きな筈の彼からの不器用な優しさが受け入れられず、ゆっくりと首を振る。
しかしそれでも彼の瞳は少女を真っ直ぐに捉え、些細な変化でさえ見逃さない。頬を伝う雫に触れ、そっと指で拭う。
「…怖いんだ、私」
震える声音で零れるは、愛憎の苦しみ。感情が大きくなればなる程、喪失への恐怖も増していく。
「大好きだからこそ…キミに失望されたくない、嫌われたくないって、そう思ってるのに…どうして情けない姿ばっかり見られちゃうんだろう」
「俺がそれを望んでいるからだ」
肩を落とす少女を抱き寄せ、アルハイゼンが優しい声で言う。人々からあらゆる感情を向けられてもそれを一切気にも留めない彼が、何故自分だけには執着するのか。
学派も立場も何もかも異なる少女は、所詮自分など他人でしかない筈だと一蹴しようとして、その認識が誤りだと突きつけられる。
「なんで私なんか…他人に興味無いんじゃ」
「
サージュ、君は俺の生活を豊かにしてくれている。自身にとって明確なメリットを齎す相手は"他人"の範疇に含まれない。だろう?」
あくまで彼女自身に認めさせるべく、敢えて断言せず同意を求める言い回しで男は告げる。
だがそれですんなりと納得して笑みを浮かべるだけの素直さが、今の
サージュにある筈もなく。
「…よくわかんないよ。大したことしてないもん」
傍から見れば極まった利己主義にも思える彼の普段の言動を思い起こし、不貞腐れる少女。
アルハイゼンの思考が他者の動向によって左右されることなど皆無にしか思えず、少女は己の影響がそれ程までに大きいものだとは到底考えようもなかった。
「俺が君から受けている好意の数々が"大したこと"でないのなら、君はもう少し自分の日々の言動を見直すべきだな」
「なっ、どういう…」
「そのままの意味だ。少なくとも、カーヴェやセノに向けるものと俺に向く感情が全く異なる温度であることくらいは隠した方がいい」
冗談交じりの指摘、それを本心から受け止めてしまい苛立ちに拳が震える
サージュ。
内側から溢れ出る想いを悟らせまいと、少女は彼の腕の中から無理矢理に離れ、男から背を向けて全てを否定する。
「め…迷惑だったなら、そう言ってよ」
「被害妄想も甚だしいな。俺が君に対し一度でもそう思ったことがあるのなら、その時点で包み隠さず伝えている」
「それは、そう…だけど」
たとえ他者が傷つこうとも、自身の思想を公言することに躊躇いのない彼を思い出し、好意を否定された記憶を持たない少女は同意するしかなくなる。
心のどこかでまだその主張を認められず背中越しに一瞥した彼の瞳には、対話を拒もうとする少女への怒りが込められているように見えた。
覚悟を決めた娘は身を翻して向き直り、己の弱さが成す迷いを吐き出す。だがそんな脆弱な心さえ、彼はとうの昔に見透かしていたことだった。
「私は…キミを利用しようとしてるだけなんじゃないかって」
「それの何が悪い? 俺は気にしたことなどないが」
あまりにも簡単に論破されてしまい、少女は返す言葉もなくなる。狼狽する彼女を余所に、アルハイゼンは自身の発言に対し訂正を独り言ち、それから同意を求める。
「いや、少し語弊があるな。他人の踏み台にされるのは俺も御免だ。だが、君の目的はそういうものとは違うだろう」
「…多分。 …ん、どっちかと言うと"依存"…なのかな。失くした居場所を求めて、キミに甘えようとしてるだけなのかも」
クラクサナリデビが如何に優れた神であるか、などというスメールに於ける"常識"を追究しようとする少女の教令院での立場は、非常に不安定なもので。
掴み損ねた夢の代わりに、新たな支柱として選んだのが彼であったという、唯それだけのことかもしれない。そう彼女は吐き捨てて、己の惨めさを呪う。
「そうか。その対象が俺でよかった」
「アルハイゼン、そういうの心臓に悪いからやめてよ…」
「どう言われようと止めるつもりはない。君はこれくらいハッキリ言わないと通じないようだからな」
不安と自己嫌悪に俯く少女とは対照的に、不敵に微笑んで、自分に翻弄される彼女を見つめるアルハイゼン。
尤も彼自身は
サージュを弄んでいるつもりなど毛頭ない。彼のストレート過ぎる表現は、いつだって相手の心を激しく揺さぶるものであるというだけだった。
「考えてもみろ。今の君のような、地に足の着いていない儚く脆い存在が、俺以外の誰になら支えられると言うんだ?」
「い…ない。私には…キミしか居ない」
口篭り、少女は返答を渋る。一人だけ、獅子の如く強い志を持つ女性が脳裏に過ぎったが、ここで他者の名を持ち出しては話を複雑に捻じ曲げるだけでしかない。
アルハイゼンしか該当し得ないと肯定する意を込めて彼女はゆっくりと首を振り、心を委ねる証の代わりにそっと身を寄せる。
自らを文弱と称するには不相応な程しっかりと鍛え上げられた身体に触れ、心臓から伝わる鼓動を確かめる。
鳴り響く音は至って平静を保っており、それに反するように少女の心拍は急速に跳ね上がっていく。
「けどね…キミには色んな人が一目置いていて、沢山の人がキミを求めてる。私だけが占有するには…勿体なさすぎるよ」
アルハイゼンは自分でその功績を誇ることこそないが、草神を、延いてはスメールを救った英雄の一人に数えられる。
そこに至るまでの才覚と行動力、それは当然ながら引く手数多の稀有な能力であり、少女が私欲の為に奪っていいものではない。
そう思い
サージュは身を引き彼から離れようとするが、最初から少女を逃がすつもりのない男に手首を掴まれ、逃げ道を奪われる。
「俺が自分の能力をどう使おうと、それは俺の自由だ」
掴んだ手首を離さぬまま少しずつ指を掌へと上げ、彼女の指と絡める。
それから一歩、また一歩と壁に追い詰め、完全に身柄を拘束する。更に空いた手は少女の頬に触れ、視線を逸らすのを封じるという周到さに、彼女は為す術もなくなる。
「それに、もし俺がそれだけ高く評価されているのなら、俺を護る君の責任も相応に重大なものとなるな」
「っうぇ…その話、蒸し返す…?」
間抜けな声を漏らしつつも、
サージュが露骨に不服を露わにする。あのまま互いに触れることなく有耶無耶にしておくべきだと思っていたのは、どうやら彼女の方だけだったようだ。
「当然だろう、最初からその話をするのが目的だったんだ。本の返却催促など、合法的に仕事を抜け出して君の家に来る為に取って付けた理由でしかない」
「…あぁ、何となくそんな気はしてたけど…はあ」
深々と息を吐いて、力無く壁に凭れる。ズルズルと沈んで行く身体がやがて地に堕ち、そのまま彼女は床に座り込む。
それに伴う
サージュの重みに耐え兼ねたアルハイゼンは絡めていた指を離し、我が物顔で少女の寝台に腰掛ける。
一見すれば主従が逆転したようにも見える歪な光景にも構わず、彼女は男を見上げ、そして。
「確かに一度は願った夢ではあるけど、私がキミの命を預かるなんて…笑える話だよ」
掌の上で薄氷を創り出し、そっと指で触れて壊す。砂塵のように容易く崩れ去った氷雪は、少女の弱さそのものを表しているかのように脆く儚いものだった。
「そうか? 俺は嬉しかったよ。君が常に隣にいる生活は、さぞかし楽しそうだと思った」
喜怒哀楽、特に他者に対し好意的な反応を滅多に見せることない男の晴れやかな笑みが、窓の隙間から差し込む光を背に輝く。
それは太陽の煌めきを受けて夜空を照らす月の輝きにも等しく、彷徨える星のひとつでしかない少女には酷く眩しく思えていた。
「…私、キミを護れるくらい強くなれるかな」
「なってもらわなくては困る。話の通じない輩を武力で黙らせるのは疲れるからな」
少女を深海から引き上げるかのように、アルハイゼンは手を差し述べる。光に導かれた小さな星は、ようやく心の底から笑みを向けることが出来たのだった。
「あはは…っ。そういうのでいいなら、任せて」
彼の手を取って、
サージュは笑む。初めから持つには高すぎる目標に行動を恐れるのではなく、些細なことでしかなくとも、一歩踏み出す勇気を胸に抱いて。
たとえもう一度道を間違えたとしても、彼ならそれを正してくれる。そう信じて、彼女は自らが腰に提げる神の目にそっと触れた。
「キミに相応しい光になれるよう、頑張るね」
Lumière