『
サージュ。あなたが私を思い出さなければ、あなたもあなたの大切な人も、誰も苦しむことはなかった』
四人の脳裏に響いた声。それこそが"彼女"の苦しみであり、世界に残されて"しまっていた"痕跡を今度こそ消し去らんと、かつての神の権能が
サージュを襲う。
記憶を直に掻き乱されるかのような、吐き気を催す艱苦に悶絶して呻きを上げる少女に寄り添い、パイモンがその身を案じる。
男は想定を越える最悪の事態に苛立ちを募らせつつ、努めて平静を保って残ったもう一人をその瞳に捉える。
「あ、ぐ…うぅ…ッ」
「
サージュ!? 大丈夫か?」
「今のがマハールッカデヴァータの声、そうだな旅人」
観念し、ようやく恐る恐る首肯する。男の鋭い眼光に喉が痞え、それ以上には何も言えなかった。
しかし彼にとってはその肯定だけで十分過ぎる確証、やはり先代草神についての情報は今のこの世界に於ける"禁忌"と化しているのだと悟る。
「…場所を変えよう。ここに留まっていては、村の人間に影響を及ぼす可能性がある」
苦痛に顔を歪ませる少女を抱え、足早に歩き出す。そうして彼が向かった先に佇む彫像を見て、パイモンは驚嘆した様子で声を上げる。
「あれ、ワープポイント…? お前も使い方を知ってるのか…なんかちょっと意外だな、こいつしか使えないと思ってたぜ」
「少し前、クラクサナリデビ様に伝授してもらった。だが彼女の説明では、神の目を持つ者の特権だと言う話だった気がするが…ふむ」
神の目を持たぬ身でのワープポイントの利用。異邦の旅人が理外の存在であることを強調する事象に、だから"彼女"の記憶を保っていられたのだと確証に至るアルハイゼン。
以前にアーカーシャを通じてその身を構成する情報データを収集した際にはまだ見えていなかった特異性は、一筋の光明にも等しかった。
一刻も早く少女の苦痛を取り払う為、彼は
人気のない場として真っ先に思い描いた地――キングデシェレトの霊廟を目指す。
「ここって…」
転移した先は旅人達にとっても既に覚えのある景色だったらしく、二人は揃って顔を見合わせては何故この地を選んだのかと言わんばかりの視線を向ける。
男もまた自身の記憶にあった筈の砂嵐が忽然と消えていることに気付き、その変化にもこの両名が関係しているのだろうと推測する。
「どうやら、君達も既にここを訪れたことがあるようだな」
「ああ、まあ…成り行きでちょっとな。けど、どうしてこんなとこに来たんだ?」
「別にこの場所自体に深い意味はない。人が居なければどこでも良かった」
迷うことなく霊廟の中に足を踏み入れ、男は風砂に曝されることのない奥まで歩みを進める。
そこで
サージュを休ませ額に滲む汗を拭って、己の内に渦巻く不安を搔き消すべく言葉を連ねていく。
「世界樹の枯凋、魔鱗病、死域…俺達の認識において、そういったスメールに蔓延る危険は、全てクラクサナリデビ様が本来の力を取り戻したことによって解決した。 …そう、思っていた。だが今回"彼女"の存在に触れたことで、その結論は間違っていたと認めざるを得ない」
苦虫を噛み潰したような声で、彼は語る。真実を知らぬ民としては及第点以上の正確"だった"推論の否定に、旅人が口を挟む余地はなかった。
代わりに反論を絞り出したのは
サージュ。覚束無い足取りでどうにか立ち上がり、力無く首を振る。
因論派として、草神を愛する者として。自国の歴史を学び紡いできた彼女の悲痛な叫びは、突如広がり出した赤黒い霧に無情にも打ち砕かれることとなる。
「…でも、それが全部マハールッカデヴァータ様のせいなんかじゃ…ない、のに…いいことも悪いことも、全部丸ごと忘れてしまうべきだなんて、そんな哀しい結末は嫌だよ…!」
『これを見ても…本当にそう思うの?』
霧が晴れ、そこに立つ人影が姿を現す。アルハイゼンによく似た、けれど瞳に禁忌の緋を湛えた彼とは明確に異なる存在を前に、酷く怯えたパイモンが旅人の背に隠れる。
「わっ、なんだ!? アルハイゼンがもう一人…? どういうことだよ…」
「ふん…先代草神様とやらは、随分と悪趣味なようだな」
旅人と同じように少女を庇い立てながら、自分と瓜二つの顔をした人型に容赦なく刃を向ける。
かつて己が大賢者を欺く際に扮した姿を完全に模倣した、否、それ以上に毒々しい赤に彩られた"それ"を前に、血が煮え滾る想いを抱いていた。
『
サージュ、俺は』
狂気に染まった、と称するのが最も相応しい妖しげな笑みを浮かべて、彼は手を差し伸べる。
アルハイゼンは動揺から足が震える少女をそっと抱き寄せ、自身のヘッドホンを外し彼女の耳に宛てがう。
それから再生機器本体を取り出して手渡し、遮音機能を作動させて呪いの声を完全に断つ。
「気安くその名を呼ばないでくれ。耳が穢れる」
飄々と笑む己と似て非なる存在、その喉元に白枝の刃を突き付け、男は柄を握る手に力を込める。
同じ顔が対峙する異様な光景、横で傍観に徹していた"彼女"は、諦念に満ちた声で男の幻影を霧散させ自身を具現化し、小さく溜息を吐く。
『そう…この程度の
瞞しは、あなたには通じないようね』
「!?」
"彼女"の姿を見た瞬間、男の脳内にノイズが走る。眼前に立つのは、砂に埋もれた謎の遺跡でセノや旅人達と見た、"先代草神"マハールッカデヴァータそのものであった。
世界樹から抹消されていた"彼女"の、存在しない記憶が真実となり急速に書き換わっていく恐怖に、滝のように汗が滴り思考が儘ならなくなる。
それだけではなく、次第に身体の駆動にも違和が生じ始める。腕は痺れ、鉛のように肩が重い。
不調を訴える箇所に触れた男は、その有り得ない症状に驚愕し言葉を失ってしまう。
「お、おい…アルハイゼン、凄い汗だぞ…? それに、肩もなんか変だ…」
「これは…魔鱗病? そんな、どうして…!」
貸し与えられていたヘッドホンを元の在るべき場所へ戻し、急変した"恋人"の容態に驚愕する
サージュ。
力を取り戻した現草神クラクサナリデビが根絶させた筈の奇病が何故と、潤む瞳で"彼女"を見つめる。
『私の記憶がある限り、あなた達スメールの子は常にその病魔に脅かされる。だから、覚えていてはいけないの』
「え…」
今にも泣き出しそうな娘を懇々と諭すように、"彼女"は己が如何に危険な存在であるかを体現する。
その言葉を耳にした少女は、すぐに自らの背を確かめ、何の違和感もないことに焦燥を抱く。
罹患したが最後の不治の病、自分には何故その影響がないのか。やはり自分はスメールの民ではない忌み子なのか、絶望が胸の内を蝕む彼女に、マハールッカデヴァータが語る。
『
サージュ。あなたに魔鱗病の症状が表れないのは、あなたがフォンテーヌの民の血を引いているからではないわ。もっと別の何か…魔神に近しい存在から与えられた祝福のような、素敵な護りによるもののようね』
「祝福…心当たりはあるのか」
「…ううん」
眉を顰める男の問い掛けに懸命に記憶を辿るも、首を振って否定するしかない
サージュ。
幼い頃に両親と共に各地を訪れ、多くの国をこの目で見た自負はあれど、人ではない上位の存在に出逢った覚えはないと唇を噛み締めた。
「そうか」
端的に返して、眩む視界を閉ざし精神を研ぎ澄ます。その最中、不意に肩にひんやりとした感触が走る。
その冷たい心地良さに驚いて振り返った視線の先で、少女がくしゃくしゃの顔で涙を堪えていた。
「アルハイゼン…ごめん。私のせいで、キミをこんな目に」
「謝罪は不要だ。これは君が責任を負うようなことじゃない」
自己嫌悪に駆られる少女を宥め、触れられた肩の手を握り返す。彼女の氷元素のお陰で奇病の痛苦も和らぐ気がするなどと思いながら、男は覚悟を決める。
「やっぱり…全部なかったことにするしか、ないんだね」
「…あぁ。不都合を全て忘れ、元の在るべき形に戻す…それが、唯一の救いだろう」
零れ落ちる汗を乱雑に拭い、悪夢を終わらせるべく剣を握る。しかし魔鱗病による震えから一瞬だけ決心が揺らぎ、手が止まってしまう。
その刹那、旅人がアルハイゼンを遮り徐に一歩踏み出して、自らの剣で地に転がる神の缶詰知識を刺し貫く。
更にその足で缶詰知識の器を粉々に砕き、ひとつ残らず欠片を拾い集める。手の中の缶詰知識"だったもの"をじっと見つめ、少女達に非を詫びた。
「旅人…」
「二人共、ごめん」
『いいえ。ありがとう、第…降臨者。また…の手を煩…せてしまっ…うね』
砕けた缶詰知識と薄れつつある黒煙が示す通りの乱れた幻が、呪いの再来を食い止めた理外の者へ謝意を告げる。
最期の別離を悟った"彼女"は自分を現世に繋ぎ止めていた少女へ微笑んで、そっと手を振り還っていった。
「アルハイゼン!」
「俺は大丈夫だ。 …もう、心配はない」
何も言えぬまま茫然とその影を見送り、我に返った
サージュは慌てて男の元へ駆け寄る。
そして彼の身を蝕んでいた魔鱗病の症状が跡形もなく消えていくのを確かめ、心の底から安堵する。
男もまた己が無事であることを伝え、彼女の不安を拭い去るように瞳に滲む涙を拭う。
「ところで…降臨者って?」
消え行くマハ―ルッカデヴァータが旅人へ向けて遺した、全く以て耳慣れない呼び名に首を傾げる少女。
自らの学んだテイワットの長い歴史の中では見られなかった未知の語句に訝しむ彼女からの問いに、パイモンが相棒の言葉を代弁する。
「あぁ、ナヒーダがファデュイの執行官から聞いた話だと、こいつはテイワットの外から来たらしいんだ」
「テイワットの外…か。成程、それなら確かに、これまで感じていた違和感や疑問点の全てに納得がいく」
アルハイゼンが旅人の異質さの本質を理解し頷いた頃、旅人の掌に握られていた缶詰知識の残骸が完全に消失した。
その瞬間を合図として、僅かに世界が歪んだような奇妙な違和感が四人の脳を刺激する。
テイワットに属さない身であるが故に唯一全てを"覚えていられる"旅人は、それが世界樹による"歴史の修復"が行われたからだろうと、どこか懐かしい感覚に耽っていた。
ただひとつ気掛かりなのは、今この場で起こっていた全ての事象は"彼女"の存在なくして成立することは有り得ない、"彼女"そのものへの干渉であったということ。
再び世界から消え去った存在を巡る問答を、一体世界はどう繕ったのか。渦中の少女達を見つめ、旅人は。
「えっと、その…旅人、パイモン。それにアルハイゼンも…私の我儘に巻き込んじゃってごめん」
深々と、少女が三人へ向けて頭を下げる。突然どういうことかと困惑していると、彼女はゆっくりと頭を上げながら言葉を続ける。
「結局、先代草神様のことについては殆どわからないまま…最後の手掛かりだった神の缶詰知識も砕けちゃった」
「…だが、"いたかもしれない"で止まっていた先代草神の存在を、ハッキリと思い出せただけでも良しとすべきだろう。こればかりは、旅人の助けがなければ成し得なかったことだからな。感謝している」
「ん? どうしたんだよ、顔色が悪いぞ…さっきの疲れがまだ残ってるのか?」
眉を寄せる姿に不安を抱いた最高の仲間からの献身に頷き、状況を整理して伝えるよう求める。
すると彼女は肘を立てて希求を快諾し、旅人の"知らない"事の顛末についてを語り始めた。
「元々、
サージュの研究の役に立てたいからって、アルハイゼンが神の缶詰知識をオイラ達に見てくれって頼んできただろ? けど、ここに来てそれを使おうとしたら大変なことになって…真っ赤なもう一人のアルハイゼンが出てきたり、そいつの攻撃からお前を庇った
サージュに魔鱗病の症状が出たり…覚えてないか?」
概ね合致していると思いきや、やはり所々に相違の見える説明に、整合性がそこで保たれていることを察知する旅人。
話を聞く中で特に違和感のあった、少女の魔鱗病という一大事を不安に思い声を掛けると、彼女は蝕まれていた掌を握っては開き、無事を示し微笑んだ。
「うん、今はもう大丈夫…なんともない。心配してくれてありがとう」
「それで…結局のところ、
サージュが知りたがってた、ナヒーダの前にスメールを守ってた神については、何もわからずじまいだったな」
次に相棒が語るのは、旅人にとっては最も重要な主題となる、世界樹によって改変された事象について。
存在していたこと自体を忘れなければならない筈だった"彼女"のことを、何故皆が覚えているのか。
疑念に満ちた目で男を見上げると、彼はひどく呆れた様子で、己と同じ顔をした個体の語った怨嗟を旅人に伝える。
「俺を模した異形の存在が、頻りにそう口にしていたんだ。自分は先代草神と共に世界に忘れられた身だとな。その割には、崇拝している先代についての情報は一切持っていなかったが」
「でもそこで私達はようやく、先代の草神様が過去に間違いなく居たって事実を認識出来たんだ。魔神戦争を経る前の罪までもが、クラクサナリデビ様のせいじゃないって…やっとわかった」
悲喜交々、といった表情で溜息を吐く
サージュを前に、旅人は自身の中にひとつの仮説を立てる。
一度は完全に存在を抹消された
マハールッカデヴァータの名を再び巧妙に覆い隠し世界への悪影響を留めつつ、けれど確かに"彼女"が居たという証を見つけられたのは、当代であるクラクサナリデビへの強い信仰心を持つ
サージュの執念によるものだろう、と。
原神――神の眼差しを受け、神の目を授けられた者が持つとされる、強い願いの力。
その願いの強さが見せた奇跡に、テイワットの行く末を見届ける者として、彼女達が掴んだその小さな希望の灯を絶やさずにいられるようにと、旅人は密かに祈りを込めて目を閉じた。
「…そうだった、早くスメールシティに帰らないと。きっとカーヴェ達がお腹を空かせて待ってるぞ…!」
「え、嘘…それ本当? なのに私…うわ、どうしよう、先輩怒ってないかな…」
旅人が余韻に浸る間もなく、パイモンは今日の自分達がこの二人に逢いに来た本来の目的を思い出し、声高らかに叫ぶ。
今の今まで全く聞かされていなかった衝撃の発言に、少女は自らの身勝手に青年達までをも巻き込んでしまったことを知り慌てふためく。
「ああ! オイラ達、元々はお前らをご飯に呼ぶ為にこっちまで迎えに来たんだ。なんと、今日はあいつの奢りなんだぜ!」
「ご飯? 賞金を全額寄付すると言っていたあの様子で、そんな余裕がどこから出たのか…興味があるな」
「だよね。皆を待たせてるのも悪いし、どうしてそうなったか気になるし、単純にお腹も空いちゃったし…急ごう、アルハイゼン!」
緊張の連続から解き放たれたことで急速に空腹を感じた
サージュが、逸る気持ちを抑え切れず"恋人"に手を差し伸べる。
男は旅人達が隣にいることも気にせずごく自然にその手を取り、彼女の歩幅に合わせて歩く。
垣間見えたその表情は普段からは想像もつかない程に晴れやかで、驚いた二人は自分達も彼らに倣おうと手を取り合った。
「おうっ! オイラ達も、早くあいつらのところに戻ろうぜ!」
Détruire