知恵の殿堂の隅、定位置とも言える場所で少女は青ざめた顔で無くし物を探していた。
「ない…ない!」
本の隙間から机の裏まで、隅々まで見回すが、目当てのものは見つからない。彼女にとっては大事な宝物の一つが、忽然と消え失せてしまった。
「…
サージュ、何をしている」
淡々と、しかし微かに困惑した様子で声を掛けるは少女の友人、アルハイゼン。
勉学に励む場であるこの知恵の殿堂に於いて相応しくない奇行に、彼は説明を求めた。
「あぁ、おはよアルハイゼン…私の栞、見なかった? 今朝使おうと思ったのに見当たらなくて」
探し物を続け顔を上げることのないまま、少女は手を振りそれを挨拶の代わりとする。
男は彼女の反応から無くした栞が余程大切なものであることを察知し、捜索に加勢すべく詳細な特徴を訊ねる。
「どんな栞だ?」
「えっと…モンドの花、なんて名前だっけな…赤いやつ。それの押し花で作った栞なんだけど」
疎覚えながらも明確な特徴を伝える
サージュ。彼はそれだけのヒントで充分に理解したらしく、まずは机に大量に載せられている本の中にその栞が挟まっていないか探し始めた。
「風車アスターのことか」
「そうそれ! 来て早々手伝わせちゃってごめんね」
彼には彼の用がある筈なのにと、少女は男の貴重な時間を使わせてしまう非を詫びる。
しかし彼は問題の解決が優先だと語り、彼女への協力を惜しまない姿勢を見せる。尤も、手伝う理由そのものは彼らしい合理性に偏ったものだったが。
「構わない。横で奇怪な動きをされていては、集中出来るものも出来なくなるからな」
「あはは…おっしゃる通りで」
「これか? …いや、違ったか」
男の言い分に罪悪感に駆られる
サージュを余所に、彼は見つけた栞が目的の代物かと期待を込めて声を上げる。
だがそこに挟まれていたのは色味が近いだけの似て非なる花の栞で、恐らくはスメールの砂漠でのみ咲くあの花だろうとアルハイゼンは推測する。
これまで気に留めたことがなかったが、どうやら彼女は他にも多くの本に個別の栞を挟んでいるようだ。
そのどれもがモンドや稲妻といった各国の限られた地でしか自生しない珍しい花を象っており、本物を押し花にしているもの、書物に描かれた絵を模写したらしきものとが混在していた。
「紛らわしいよね、ごめん…色んな花を栞にしてるから、似てる色のは他にも見間違えるかも」
「そうだな」
短く零して、引き続き風車アスターの栞を探すアルハイゼン。クラクサナリデビ以外に彼女が執心するものがあるとは思っていなかった彼は、少女の意外な趣味に興味を抱き始めていた。
「花が好きなのか」
「んー…ちょっと微妙。花そのもの、というよりは…花を通じて伝わるその土地の雰囲気が好き」
「なるほど。確かに生論派相手に同じように言えば、批判的な視線は避けられないな」
花ひとつ取っても、ヒトを含めた生態系を知る糧に用いる生論派とは専門を違える少女の視線は当然ながら全く異なるものである。
「そうだね、ティナリ君には言えないなぁ」
「尤も、思想が異なることそのものは悪いことではないとは思うが。学派が分かれているのは、何も他の学派を否定する為ではない」
草元素の神の目を持ち、草神の庇護下で暮らしながらも草花そのものには興味を持ったことなどない彼にとって、たかが花の何に少女がそこまで惹かれる理由があるのか単純に知りたいと思う欲があった。
だが、考えれば考える程、彼にとっては好ましくない可能性に辿り着く。彼女がアムリタ学院に移ろうものなら、先述の立ち耳と大きな尾を携えた少年との接触は今の非ではなく増えるだろう。
草神を追う最中、正しく神を敬う文化の根付く他の地に対する憧憬が沸くことも往々にしてあった彼女が、国の個性を見出した内のひとつが花というだけだと、そう彼は結論付け、深く考えるのを止めた。
「ところで、これらの栞はいくつかが本物の花を用いているが、絵でしかないものとの差は何だ」
「自分で手にした花は、ちゃんと押し花にしたの。でもまだ実物を見たことないものは、それが出来ないから代わりに図鑑から模写したってだけ」
聞けば単純な差でしかなく、確かに男が見比べる限りは本物の花を用いた栞はスメールで咲く花のものが殆どだった。
その他は彼女が描いたものばかりで、やはりスメールに暮らすだけでは他国の花を手にする手段はそう多くないのだと心のどこかで彼は安堵する。
「風車アスターは、一度モンドを訪ねた際に助けてくれた人から貰ったものなんだ。だから大事にしてたのに…どこ行っちゃったんだろ」
悲壮に俯き、手が止まる
サージュ。喪失の痛みは重くのしかかり、彼女の心をも蝕む。
だが男は、少女が風車アスターがそれだけ大切なもの、と断言するに至る経緯が解せず、半ば吐き捨てるように零す。
そもそもの話、少女がいつあんな遠方にまで赴いたのかさえ彼は全く知らされていなかった。疎外感と嫉妬が入り交じり、言葉尻が強くなっていく。
「珍しいな。
サージュ、君がモンド自体にそこまでの愛着を持っていたとは」
「うん…あの国はほら、風神さまを祀っている教会があるから。この国にも同じような建物があったらいいのにと思って見に行ったんだ」
巨大な風神像の背を護るようにして建てられたモンドの西風大聖堂を指して、彼女は願いを込めて語る。
神を祀る像も、信心深い民の集まる場も、どれもが少女にとっては憧れるに相応しいものだが、門外漢の彼には面白くないものでしかなく。
「…それは妙論派の領分だろうな」
妙論派、と口にしたことでルームメイトの誇らしげな顔を思い出してしまい、アルハイゼンの中で苛立ちが増す。
彼が建てたアルカサルザライパレスはスメールの優れた建造物として報じられる程の場所で、
サージュもその建築美を褒めていた記憶が蘇る。
「ふふっ。でもカーヴェ先輩に頼むくらいなら自分で建てるよ」
「そうした方がいい」
冗談めかして笑う少女に、男は本心から即答する。自分が気に入って家に持ち返ったインテリア家具を毎回のように頭ごなしに否定されることに辟易している彼は、カーヴェのセンスを心から認めることが出来なかった。
「それで、モンドに行った時…丁度着いたのが夜だったんだけど。湖面に映る星がとても綺麗だった」
興味の対象が二転三転していく様に、いかにモンドへの旅が彼女にとって多くの経験をもたらしたかを察知する。
他国の情勢を知ることは自国の学びを得る上でも重要なことには違いないが、スメールにはそれらの知識を得るには十分過ぎる程の資料や書籍が集まっている。
だからこそアルハイゼンは、実際に国境を越えてまで遠方へと旅に出る彼女の行動力に懐疑的な気持ちを抱かずにはいられなかった。
「随分と移り気な旅路だな。星の観察など、明論派以外に興味を持つ人間が居るとは」
「それだけ色々あったってこと。今までずっとクラクサナリデビ様のことだけ見て生きてきたけど…本当に私のやりたいことは正しいのかなって考えちゃった」
「…」
感慨深く外に目を向ける少女に、返す言葉が浮かばなかった。そこでようやく、男は自分が焦燥を抱いていることに気付く。彼女が本当に求めるものは、自分には与えることが出来ないのではないかと。
これまで彼は、少女の読めない難解な言語を翻訳することで充足を得ていた。彼女の役に立つことがどこか幸福であったのだと、今に至りようやく知る。
「ごめん、変な事言ったかな」
「いや。自分の研究内容が正しいと信じられず、論文の題材を変えざるを得ない学生はいくらでもいる。君だけが持つ悩みではない」
唐突に我に返り、謝罪の言葉と共に不安を吐露する
サージュ。彼女が揺らぐのは、ある意味で必然でもあった。
現在のスメールに於いて、クラクサナリデビは建国から魔神戦争に至るまでの永きに亘り国を統治してきた偉大な神である筈が、魔神戦争の影響で記憶を失いそれ以降半ば隔離され虐げられてきた身だ。
そんな粗雑な扱いをされるべきでない草神に対し、国家はそれを隠蔽し、選ばれた民のみが特権による甘い汁を吸い続けてきた。
腐敗しきっていた国の惨状を直視出来ず、道半ばで思い悩むのも無理はない。少女にとって、アルハイゼン達が解決に導いた"草神救出作戦"はそれだけ大きな出来事だったのだ。
そう頭では理解した上で、彼女にも安堵させる甘い言葉を吐きながらも、彼の心の奥底は焦げ付くように熱を帯びる。
「ん…アルハイゼン?」
異変に気付いた少女が、栞を探すことも忘れて眉間に皺を寄せる彼の側へと回り込んでその身を案じる。
心配されるべきではない立場の筈がいつの間にか逆転している現状に不甲斐なさを覚え、彼は自らの心情を整理すべくゆっくりと思考を紡ぐ。
「君の選択を俺が狭める権利はない以上、どんな選択をしても君の自由だ。が…先述した三学派における知識は皆無と言っていい。これまでのように、俺が教えられることも無くなるだろう」
「うっ…そっか、それもそうだよね…それは嫌だなぁ」
共に肩を並べて学ぶことに慣れきっていて、二人の関係がいつ壊れてもおかしくない薄氷の上に成り立つものだと、指摘されて初めてそれを理解する
サージュ。
勿論その別離を現実のものにしたいとは全く思って居らず、迂闊な発言を繰り返していた今日の会話に少女は心が痛む。
「…キミが根気強く教えてくれるから、難しい文献も読み解こうと思えたんだ。もし他の学院に転属してその助けがなくなるとしたら、私は耐えられる気がしない」
ありのまま、思った通りの感情を吐き出す。いつしか彼女にとっても、アルハイゼンの存在は他に埋めようがない大きな存在となっていた。
「だろうな」
「あ…でもね、実は…いっそ学生であること自体をやめて…キミ専属の傭兵になろうかな、なんてことを思ったこともあるんだ」
想定内の反応に、男は自信ありげに同調する。だが彼女はそう零した口で今度は、彼が全く想像だにしていなかった選択肢を提示する。
新たな導、それはかつての両親の面影。自身の永遠の憧れである母のように、大切な存在を護る立場になりたいと笑んだ。
「言ったことあるかわからないけど、私のお母さんはエルマイト旅団の人間でさ。お父さんとも最初はただの雇用関係だったみたい」
「ほう。それは初耳だな」
それだけ告げ、静かに少女が続けるのを待つ。しかし彼女は恥ずかしいのか机の下に潜り、今なお見つからない栞を探す素振りをして言葉を詰まらせる。
暫く経った後、ようやく口を開いた彼女の声音は哀愁を感じさせつつも、どこか両親への羨望を隠しきれていなかった。
物心着いた頃には両親を亡くしていたアルハイゼンは、その淡い感情に胸の奥に棘が刺さったような感覚に陥る。
「お母さん、強かったんだって。でもお父さんが好きで一緒になって、最期までお父さんと私のことを守ってくれた」
"最期"と、その言葉運びの妙を聞き漏らさず、男は
サージュの母の末路を察する。
少女は深くは語らなかったが、母が魅せたその最期の輝きこそが、彼女が自らも知らず知らずの内に心の奥底で求めているものなのだろう。
話を終えて、男は
夙に忘れていた両親への、そして自分を育てた祖母への想いが蔵書の記憶と共に蘇る。
サージュの母と同じように彼らもまた、少年だったアルハイゼンにとって己の道標になってくれていたのだと。
「だから私もキミとそんな風になれたらいいな、って…ごめん、今のなし」
「悪くないんじゃないか。無為に学院に残り続けるより、余程価値のある時間の使い方だろう。勿論、俺は君を死なせるつもりは微塵もないが」
「…え?」
予期せぬ肯定に、
サージュの思考が止まる。耳にした言葉がまるで初めて見た夢のように優しいものであったことが信じられず、驚きに自ら顔を彼の方へ向けようとする。
自分の居場所さえ忘れていた彼女を待ち受けるのは殴打の痛み。勢いよく机に頭を打ちつけ、悶えながら再びしゃがみ込む。
「いっ…
痛ぁ!」
「大丈夫か」
頭を抱える彼女に手を差し伸べ、安全な場所まで導く。微かに涙が滲んでいるのは、頭部への激痛による生理現象からだけではないようにも思えたが、彼はそれに言及することはせず心に秘める。
「うん、なんとか…」
机の下から這い出て、少女は無事を伝える。つい数刻前に守ると理想を語った相手に助けられている不甲斐なさに唇を噛み締め悔恨を露わにする。
だが逆に、この騒動によって彼女が漏らした告白にも近い熱情を有耶無耶に出来たとも言える。改めて先刻の答えを訊ねるには、少女には勇気が足りなかった。
ふと、膝に伝わる冷たさが異なることに気付く。床のものとは明確に違う、己がよく知る紙質。
それは探し求めていた紛失物が、見落としていた机の足元すぐ側で助けを求めていたことを示していた。
「こんなとこにあったんだ、通りで見つからないわけだよ」
「
サージュ、これが探していた栞か」
「そう。汚れてなくてよかった…」
胸元で大切に栞を抱き、安堵の息を零す。灯台下暗しと称するのが最も適している場所にあったことに、少女はこれが偶然ではないと感じていた。
たとえ進む道を見失ったとしても、 すぐ隣には自分を導く存在がある。その温もりを離したくはないと、彼女は願いを込めてもう一度栞を見つめる。
「無事に見つかって何より」
「本当にね。ありがとう、アルハイゼン」
社交辞令にも似た祝辞、そこに含まれた鋭利さには触れず本心から感謝の意を伝える
サージュ。
あてのない探査による疲弊と、自分ではない誰かに向けた笑みに、男は苛立ちを隠すことなく再度苦言を呈して釘を刺す。
「あぁ。二度目は無いと思ってくれ」
「気をつけます…」
「…それで、
サージュ。結局これは誰が君に贈ったものなんだ?」
音もなく栞を奪い取り、アルハイゼンは食い入るようにその栞に挟まれた風車アスターを見つめる。
平たくなったことで特徴的な風車の形状が潰れ、風情は無くなったようにも見えるその押し花の栞。
これを贈ったのがどんな男か、その答えを聞くまでは梃子でも動かないと言わんばかりの視線に気付くことさえなく、少女は憧憬を語る。
「名前は聞けなかったんだけど…綺麗な
女性。遊撃隊の人らしくて、ディシアさんと同じように大きな剣を軽々と振り回してた。お母さんも…あんな風に戦ってたのかな」
その戦い方は母を想起させると口にする
サージュに、男は急速に胸の閊えが取れる。
何を執着していたのかと自分でも可笑しくなる程に、"遊撃隊の彼女"への興味が薄れていくアルハイゼンだった。
「そうか」
「うん…?」
直前までの様相とは打って変わって淡白な返答に、少女は彼の意図が掴めず訝しむ。
幾つもの可能性を考え、やがて一つの結論に辿り着くが、それはきっと自惚れでしかなく。胸の内に秘めるべきものだと知りながら、彼女はそっと願いを込めて呟いた。
「あ、もしかして…妬いてくれてる?」
M'aider