えぺ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「…よっぽど堪えたみたいだね、オビさん」
オビ・エドラシム、レジェンドとしての名前は"シア"。ボレアス出身でアリーナのスター、という触れ込みでAPEXゲームに参戦した選手だ。否、その筈、だった。
先日のメディア出演の折、マスコミに心無い誹謗を受けてしまった。その時の心の傷が原因だろう、珍しくアポ無しで僕の元にやって来た。
いつもならば、彼はどんな暴言や中傷を受けようとも気丈な振る舞いでスルーしていたのだが、奇しくもそのメディア出演にて責められたのは愛した故郷ボレアスでの批難。彼の非などどこにも無いはずなのに、どうしてここまで好き放題言われなければならないのか。
「すみません、連絡もなしに」
土砂降りの中をやって来た彼は濡れ鼠のように痩せ細っており、それが一層不安を掻き立てる様を見せていた。
招き入れてすぐタオルを差し出して水気を取り払って貰いながら、僕は以前ソマーズ博士から贈られ来客用にと取っておいた紅茶の準備を始める。
「いいんだよ。あんなことがあった後だ…僕でいいなら幾らでも頼ってくれ」
冷えた空気が、湯を沸かす僕の背中にゆっくりと近付いてくる。オビさんが僕の元に来ているのだと、見るまでもなくわかる。
抱き締めたい衝動を抑えようとしているのを察知したので、作業の手を止めて振り向くと、彼は慌てふためいた様子で飛び退いてしまった。
「ありがとうございます…クオレ」
「ハグしたかったらしてもいいんだよ、オビさん。遠慮しなくていいから」
「え、あ…だ、大丈夫です。折角お茶の準備をしてもらっている所ですし、その邪魔をするわけには」
否定しつつも、顔色は芳しくない。視線も泳いでいるし、声音も上擦っている。誰がどう見ても、空元気以外の何者でもなかった。
「…わかった。砂糖はいる?」
彼が自ら踏み出してくれないのなら、僕から攻め込むにはまだ尚早だということ。
紅茶の準備を粛々と進めながら、少しずつ様子を窺うしかない。この氷牢を溶かすのは骨が折れそうだ。
「いえ、最初はそのまま頂こうと思います」
「ということは、二杯目からは使う…と。ちょっと待ってて、今奥から探すから」
彼を和ませる冗談のつもりで、砂糖は既にティーポットの隣に置いてあるのを確認した上で、わざと戸棚に身を半分捩じ込む。
暗がりから背後を一瞥してみるも、オビさんは特に何を言うでもなく、茫然と僕を眺めている。本当に砂糖を探しているのだと信じているようだった。
失敗した。そこまで周囲への意識を向けられない状態にあるとは。僕が思っている以上に、彼の心の傷は深刻なのだと知る。
「あれ、無いな…」
踏ん切りがつかず、一芝居打ってみる。が、やはり反応はない。返事さえないのも、いつもの彼だったら有り得ないことだ。
そもそも戸棚のこんな奥深くに砂糖なんて仕舞ったら虫や鼠が大喜びではないか。それさえわからないのか、今のオビさんは。
そんなことを考えながらゆっくりと身体を出そうとしていた所を、僕は最後の最後で油断してしまう。
「っ痛!」
後頭部を思い切り強打し、四つん這いから更に身を縮める。流石にその音で彼も呆けていた意識が呼び戻されたらしく、ようやく慌てて僕の元へと駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、クオレ…!?」
「っ…あぁ、なんとか。驚かせてごめん」
「いえ、謝らないでください…上の空だった私にも責はあります」
狼狽するオビさんを宥めようと、コブが出来ていそうで痛みに響く頭を押さえながら立ち上がる。
視線の先に映る彼の瞳はまるで波が揺らぐ水面のようで、今にも決壊しそうだった。
「オビさんのせいじゃないよ。さっきそこに出してたのに、それをすっかり忘れてた僕のせいだ」
そう言って、ポットの横を指す。砂糖を詰めた瓶が、確かに鎮座している場所を。
「ああ…そんな所にあったのですね。私が早く気付いていれば…」
「僕も気付かなかったんだからそれは言いっこなしだよ」
隙あらば自責の言葉を零す彼。釘を刺すつもりで、少しだけ語気を強めて諌める。
尚も後ろめたいらしい彼はとうとう僕から背を向けてしまい、表情を悟らせさえしてくれなくなった。
だがこちらを見てくれないのなら、それはそれで構わない。さっき戸棚を探ったときに何故か眠っていた覆面を顔に着け待機し、オビさんが振り向いたときに驚いてくれるのを期待する。
暫くして、ポットが適温に達したのを知らせる音が鳴り、それを合図にオビさんが僕の方へと振り返る。しかし奇怪な姿の僕を一目見たオビさんの反応は、驚嘆よりも困惑に近いものだった。
「…マキネッタさん、それは?」
「これはね…誰だっけかな、ヒューズ氏だったかな…今度実装する予定のスキンの仮案で使うからと頼まれて作った物なんだけど」
どう考えても滑稽な僕の姿を見て、思い切り笑い飛ばして欲しいのに、優しい彼は困ったように眉根を下げるのみ。
これでも駄目なら、一体どうやったらオビさんに笑みを取り戻せるのだろう。何だか僕まで気持ちが落ち込みそうだ。
「とりあえずこんなのはどうでもいい、お湯も沸いたことだ。お茶を淹れるよ」
覆面を乱雑に放り捨てながら、来客用のソファにオビさんを強引に座らせ待機させる。それから僕はティーカップに茶葉を入れお湯を注ぐ。
熱気と共に香る爽やかな匂いで、少しでいいからオビさんがいつもの調子を取り戻してくれればと願う。
「ありがとうございます」
「身体冷えてるだろうから熱めにしたけど、火傷しないようにだけ気をつけて」
「はい」
カップを両の手で包み込むように持ち、伝わってくる熱を自身に循環させるオビさん。
そのまま一口仰ぎ、嘆息を零す。呟いた言葉はやはりと言うべきか、止めどなく溢れる悲しみだった。
「…私は、自惚れてしまっていたのでしょうか」
「それは違うよ」
すかさず否定して、彼の目を真っ直ぐに見つめる。僕はボレアス人ではないけれど、故に彼らの抑圧された感情が矛先を違えていることくらいはわかる。
「オビさんは故郷の人達だけじゃなくて、全ての人の為に頑張っていた。それは僕が証明する」
とは言えども、シンジケートも最近特に色々と不穏な空気を纏う組織だ。民衆が誰かの手によって"シアを貶めろ"と唆されている可能性もある。
僕のような下っ端の知らない裏で何かが起こっているとすれば、それが昨今のオビさんへのブーイングに繋がっているのかもしれない。もしそうだとすれば、凄く腹立たしいことだ。
「ありがとう…ございます」
歯切れの悪い感謝の言葉。今は、今だけは僕のことが信じきれなくても仕方がない。
「頑張ったのに空回りすることは、どんなことでも起こり得る…けど、だからと言って全てを諦めるのは違う。そうだろう、オビさん」
「…ええ。そうですね…私に出来ることをしなければいけませんね」
普段ハートチャンバーが携えられている辺りに手を当て、彼は深く息を吐く。
そしてそれから、この状況下においては想像もつかないような、とんでもないことを言い出す。
「近い内に、一度ボレアスに帰ろうと思います」
「それは駄目だよ。危険すぎる…今のボレアスは君を拒絶こそすれ、歓迎してはくれない」
「だからこそです。私は皆と向き合わなければならないのだとわかりました」
そのまま折角の紅茶も飲み干すことなく立ち去ろうとするオビさんの腕を取り、無理矢理にでも引き留めようとこちらを向かせる。
「オビさん」
「止めないでください、クオレ」
「ッ…なら、僕も一緒に行く」
しかし彼はゆっくりと首を振って、僕の心を読んでいるかのように優しい声で諭す。
それは拒絶にも似た、柔らかな声音。僕にとっては、ある種の絶望を意味するものだった。
「貴方を巻き込む訳にはいきません」
「でも…」
口では憤りを顕にしつつも、その先が続けられず言葉に詰まる。既に彼の意志は固く、僕がどうこう言って変えられる状態にはないのだ。
「…それならせめて、その一杯は飲み終えてからにしてほしいかな」
どうにか突破口を見つけられまいかと、ふと目に入ったカップに残された飲み残しを指摘すると、オビさんは慌てて踵を返してソファに戻る。
なんとか再び座らせることには成功したが、これ以上グダグダと感情論を垂れ流して引き留めるのも、本当は得策ではないのだろう。
けれどそれでも、無謀過ぎる暴挙に対して何も出来ないのは心苦しいと、足掻きたくなる想いが捨てきれなかった。
「そうですね…失礼、気が逸りすぎてしまいました。貴方が後頭部を打ってまで探してくれた砂糖を使わないのは勿体無いですからね」
「思い出しただけで恥ずかしいからやめて…」
先の失態を思い起こし顔が火照る。しかしオビさんはそんな僕を見て、いくらか柔和な笑みを取り戻してくれたようだ。
僕の道化で笑ってくれたのならそれでいい。後頭部の瘤になりそうな痛みは、無駄じゃなかったということだ。
「でも、ようやくオビさんも笑えるようになってくれたみたいだね」
そう指摘して初めて気がついたようで、彼は自分が笑っていたことに驚く様子を見せる。
「感謝します…今日貴方の元に来ていなければ、私は心が折れたままでした」
「本当によかった。僕だけじゃなくて、みんな君のことを心配していたから」
安堵感に緊張の糸が切れたのか、疲れの波が押し寄せてくる。愛用の椅子に全体重を預け、僕は深く嘆息を零す。
しかし疲れてばかりもいられない。オビさんは空になったカップを見つめ、暗に二杯目を待ち望んでいるのが見える。
「おかわり、要るかい?」
疲弊を悟られぬよう密かに気力を振り絞って立ち上がり、カップを受け取ろうと手を差し伸べる。だが、無言のオビさんが差し出したのはカップではなく、自らの掌だった。
「えっ」
違和感を覚えつつも手を握ると、有無を言わさず引き寄せられ、そのまま僕の身体はソファに座るオビさんの膝の上に鎮座する形になる。
突然のことに逸る鼓動に思考が追いつかず、彼の顔を直視することもままならない。
恐る恐る視線を上げつつ名を呼ぶと、彼はつい数分前のぎこちない笑みなど嘘のように、怪しげな微笑みを湛えていた。
「…ええと。オビさん?」
「おや、驚かせてしまいましたか。ですがクオレ、貴方が言い出したことですよ」
「そうだったかな…」
どうやら彼は僕が先刻告げた申し出を過大解釈しているらしく、それでこんなに積極的なようだ。まあ、別にそういう流れになるのならそれは構わない。
ただ、すんなりと了承するのも何だか癪で茶化すつもりで惚けてみると、彼は露骨に寂しげな表情を見せる。これは流石に罪悪感を抱かずにはいられなかった。
「いえ…すみません。無理強いするつもりは無いのです」
「ああ違うんだ、僕こそごめん。少し…驚いただけ」
すっかり自信を無くしてしまったのか、オビさんは俯きがちにこちらを見つめてくる。
しかし人々から呪いの子と蔑まれる所以となった筈の彼の瞳は、僕には煌々と輝く星の光のように見えた。
油断すれば吸い込まれてしまいそうなほど魅力的で、一瞬たりとも目を逸らせなかった。
「…クオレ? 私の顔に何かついてましたか」
呆けた顔で自分を見つめる姿に困惑したのか、訝しむような口ぶりで僕を呼ぶ。
我に返った僕はゆっくりと頬に手を伸ばして、思ったことをありのままに伝える。
「綺麗な瞳 だな、って」
そう告げた途端、一瞬だけ、その瞳が見開かれる。言ってはいけないことを口にしてしまったかと冷や汗が噴き出しそうになるが、それを知ってか知らずかオビさんはすぐに僕を強く抱き締める。
「家族以外で私に直接そう言ってくれたのは…貴方が初めてです」
「言ったのは僕が初めてでも、同じように思っている人はもっと沢山居る筈だよ」
「…そうかもしれませんね。ですが私にとっては、他の誰でもない貴方の想いだからこそ…こんなにも胸が熱くなるのです」
震えるその腕の力が増すと共に、彼の熱が更に伝わってくる。少しでもその温かさを受け止めようと、僕もオビさんの背に腕を回した。
間近に身を寄せたことで心臓の音が喧しく鳴り響くのが聞こえてしまいそうだと思うと、なんだか途端に気恥しさを感じる。
だが、そもそもオビさんは騒音の中からでも他人の鼓動を聴き分けられるほどの聴力を持つ人だったのを思い出し、今更慌てても遅いのだと気付く。
「クオレ、本当に…ありがとう」
掠れた声で僕への感謝を告げる。常に他者への礼儀を忘れない彼が敬語を使わずに語った言葉を聞くのはこれが初めてだ。
もしくは、あまりにも微弱な音が、声という形にならなかっただけなのかもしれない。真相は定かでないが、確かめるのも野暮だろう。
「もう大丈夫そうだね」
気が付けば、オビさんの震えが止まっていた。それを確認して僕は彼から少し離れようとする、が。
「いえ。まだまだ足りません。暫くこのまま居させてください」
「…はいはい」
甘えたい盛りの子供の我儘のような口調で、僕を羽交い締めにしかねない勢いで抱きついてくる。それはそれで、不思議と心地よかった。
それがどんな形であれ、誰かから求められるのは、やはり嬉しいものなのだろう。そう、強く思った。
オビ・エドラシム、レジェンドとしての名前は"シア"。ボレアス出身でアリーナのスター、という触れ込みでAPEXゲームに参戦した選手だ。否、その筈、だった。
先日のメディア出演の折、マスコミに心無い誹謗を受けてしまった。その時の心の傷が原因だろう、珍しくアポ無しで僕の元にやって来た。
いつもならば、彼はどんな暴言や中傷を受けようとも気丈な振る舞いでスルーしていたのだが、奇しくもそのメディア出演にて責められたのは愛した故郷ボレアスでの批難。彼の非などどこにも無いはずなのに、どうしてここまで好き放題言われなければならないのか。
「すみません、連絡もなしに」
土砂降りの中をやって来た彼は濡れ鼠のように痩せ細っており、それが一層不安を掻き立てる様を見せていた。
招き入れてすぐタオルを差し出して水気を取り払って貰いながら、僕は以前ソマーズ博士から贈られ来客用にと取っておいた紅茶の準備を始める。
「いいんだよ。あんなことがあった後だ…僕でいいなら幾らでも頼ってくれ」
冷えた空気が、湯を沸かす僕の背中にゆっくりと近付いてくる。オビさんが僕の元に来ているのだと、見るまでもなくわかる。
抱き締めたい衝動を抑えようとしているのを察知したので、作業の手を止めて振り向くと、彼は慌てふためいた様子で飛び退いてしまった。
「ありがとうございます…クオレ」
「ハグしたかったらしてもいいんだよ、オビさん。遠慮しなくていいから」
「え、あ…だ、大丈夫です。折角お茶の準備をしてもらっている所ですし、その邪魔をするわけには」
否定しつつも、顔色は芳しくない。視線も泳いでいるし、声音も上擦っている。誰がどう見ても、空元気以外の何者でもなかった。
「…わかった。砂糖はいる?」
彼が自ら踏み出してくれないのなら、僕から攻め込むにはまだ尚早だということ。
紅茶の準備を粛々と進めながら、少しずつ様子を窺うしかない。この氷牢を溶かすのは骨が折れそうだ。
「いえ、最初はそのまま頂こうと思います」
「ということは、二杯目からは使う…と。ちょっと待ってて、今奥から探すから」
彼を和ませる冗談のつもりで、砂糖は既にティーポットの隣に置いてあるのを確認した上で、わざと戸棚に身を半分捩じ込む。
暗がりから背後を一瞥してみるも、オビさんは特に何を言うでもなく、茫然と僕を眺めている。本当に砂糖を探しているのだと信じているようだった。
失敗した。そこまで周囲への意識を向けられない状態にあるとは。僕が思っている以上に、彼の心の傷は深刻なのだと知る。
「あれ、無いな…」
踏ん切りがつかず、一芝居打ってみる。が、やはり反応はない。返事さえないのも、いつもの彼だったら有り得ないことだ。
そもそも戸棚のこんな奥深くに砂糖なんて仕舞ったら虫や鼠が大喜びではないか。それさえわからないのか、今のオビさんは。
そんなことを考えながらゆっくりと身体を出そうとしていた所を、僕は最後の最後で油断してしまう。
「っ痛!」
後頭部を思い切り強打し、四つん這いから更に身を縮める。流石にその音で彼も呆けていた意識が呼び戻されたらしく、ようやく慌てて僕の元へと駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか、クオレ…!?」
「っ…あぁ、なんとか。驚かせてごめん」
「いえ、謝らないでください…上の空だった私にも責はあります」
狼狽するオビさんを宥めようと、コブが出来ていそうで痛みに響く頭を押さえながら立ち上がる。
視線の先に映る彼の瞳はまるで波が揺らぐ水面のようで、今にも決壊しそうだった。
「オビさんのせいじゃないよ。さっきそこに出してたのに、それをすっかり忘れてた僕のせいだ」
そう言って、ポットの横を指す。砂糖を詰めた瓶が、確かに鎮座している場所を。
「ああ…そんな所にあったのですね。私が早く気付いていれば…」
「僕も気付かなかったんだからそれは言いっこなしだよ」
隙あらば自責の言葉を零す彼。釘を刺すつもりで、少しだけ語気を強めて諌める。
尚も後ろめたいらしい彼はとうとう僕から背を向けてしまい、表情を悟らせさえしてくれなくなった。
だがこちらを見てくれないのなら、それはそれで構わない。さっき戸棚を探ったときに何故か眠っていた覆面を顔に着け待機し、オビさんが振り向いたときに驚いてくれるのを期待する。
暫くして、ポットが適温に達したのを知らせる音が鳴り、それを合図にオビさんが僕の方へと振り返る。しかし奇怪な姿の僕を一目見たオビさんの反応は、驚嘆よりも困惑に近いものだった。
「…マキネッタさん、それは?」
「これはね…誰だっけかな、ヒューズ氏だったかな…今度実装する予定のスキンの仮案で使うからと頼まれて作った物なんだけど」
どう考えても滑稽な僕の姿を見て、思い切り笑い飛ばして欲しいのに、優しい彼は困ったように眉根を下げるのみ。
これでも駄目なら、一体どうやったらオビさんに笑みを取り戻せるのだろう。何だか僕まで気持ちが落ち込みそうだ。
「とりあえずこんなのはどうでもいい、お湯も沸いたことだ。お茶を淹れるよ」
覆面を乱雑に放り捨てながら、来客用のソファにオビさんを強引に座らせ待機させる。それから僕はティーカップに茶葉を入れお湯を注ぐ。
熱気と共に香る爽やかな匂いで、少しでいいからオビさんがいつもの調子を取り戻してくれればと願う。
「ありがとうございます」
「身体冷えてるだろうから熱めにしたけど、火傷しないようにだけ気をつけて」
「はい」
カップを両の手で包み込むように持ち、伝わってくる熱を自身に循環させるオビさん。
そのまま一口仰ぎ、嘆息を零す。呟いた言葉はやはりと言うべきか、止めどなく溢れる悲しみだった。
「…私は、自惚れてしまっていたのでしょうか」
「それは違うよ」
すかさず否定して、彼の目を真っ直ぐに見つめる。僕はボレアス人ではないけれど、故に彼らの抑圧された感情が矛先を違えていることくらいはわかる。
「オビさんは故郷の人達だけじゃなくて、全ての人の為に頑張っていた。それは僕が証明する」
とは言えども、シンジケートも最近特に色々と不穏な空気を纏う組織だ。民衆が誰かの手によって"シアを貶めろ"と唆されている可能性もある。
僕のような下っ端の知らない裏で何かが起こっているとすれば、それが昨今のオビさんへのブーイングに繋がっているのかもしれない。もしそうだとすれば、凄く腹立たしいことだ。
「ありがとう…ございます」
歯切れの悪い感謝の言葉。今は、今だけは僕のことが信じきれなくても仕方がない。
「頑張ったのに空回りすることは、どんなことでも起こり得る…けど、だからと言って全てを諦めるのは違う。そうだろう、オビさん」
「…ええ。そうですね…私に出来ることをしなければいけませんね」
普段ハートチャンバーが携えられている辺りに手を当て、彼は深く息を吐く。
そしてそれから、この状況下においては想像もつかないような、とんでもないことを言い出す。
「近い内に、一度ボレアスに帰ろうと思います」
「それは駄目だよ。危険すぎる…今のボレアスは君を拒絶こそすれ、歓迎してはくれない」
「だからこそです。私は皆と向き合わなければならないのだとわかりました」
そのまま折角の紅茶も飲み干すことなく立ち去ろうとするオビさんの腕を取り、無理矢理にでも引き留めようとこちらを向かせる。
「オビさん」
「止めないでください、クオレ」
「ッ…なら、僕も一緒に行く」
しかし彼はゆっくりと首を振って、僕の心を読んでいるかのように優しい声で諭す。
それは拒絶にも似た、柔らかな声音。僕にとっては、ある種の絶望を意味するものだった。
「貴方を巻き込む訳にはいきません」
「でも…」
口では憤りを顕にしつつも、その先が続けられず言葉に詰まる。既に彼の意志は固く、僕がどうこう言って変えられる状態にはないのだ。
「…それならせめて、その一杯は飲み終えてからにしてほしいかな」
どうにか突破口を見つけられまいかと、ふと目に入ったカップに残された飲み残しを指摘すると、オビさんは慌てて踵を返してソファに戻る。
なんとか再び座らせることには成功したが、これ以上グダグダと感情論を垂れ流して引き留めるのも、本当は得策ではないのだろう。
けれどそれでも、無謀過ぎる暴挙に対して何も出来ないのは心苦しいと、足掻きたくなる想いが捨てきれなかった。
「そうですね…失礼、気が逸りすぎてしまいました。貴方が後頭部を打ってまで探してくれた砂糖を使わないのは勿体無いですからね」
「思い出しただけで恥ずかしいからやめて…」
先の失態を思い起こし顔が火照る。しかしオビさんはそんな僕を見て、いくらか柔和な笑みを取り戻してくれたようだ。
僕の道化で笑ってくれたのならそれでいい。後頭部の瘤になりそうな痛みは、無駄じゃなかったということだ。
「でも、ようやくオビさんも笑えるようになってくれたみたいだね」
そう指摘して初めて気がついたようで、彼は自分が笑っていたことに驚く様子を見せる。
「感謝します…今日貴方の元に来ていなければ、私は心が折れたままでした」
「本当によかった。僕だけじゃなくて、みんな君のことを心配していたから」
安堵感に緊張の糸が切れたのか、疲れの波が押し寄せてくる。愛用の椅子に全体重を預け、僕は深く嘆息を零す。
しかし疲れてばかりもいられない。オビさんは空になったカップを見つめ、暗に二杯目を待ち望んでいるのが見える。
「おかわり、要るかい?」
疲弊を悟られぬよう密かに気力を振り絞って立ち上がり、カップを受け取ろうと手を差し伸べる。だが、無言のオビさんが差し出したのはカップではなく、自らの掌だった。
「えっ」
違和感を覚えつつも手を握ると、有無を言わさず引き寄せられ、そのまま僕の身体はソファに座るオビさんの膝の上に鎮座する形になる。
突然のことに逸る鼓動に思考が追いつかず、彼の顔を直視することもままならない。
恐る恐る視線を上げつつ名を呼ぶと、彼はつい数分前のぎこちない笑みなど嘘のように、怪しげな微笑みを湛えていた。
「…ええと。オビさん?」
「おや、驚かせてしまいましたか。ですがクオレ、貴方が言い出したことですよ」
「そうだったかな…」
どうやら彼は僕が先刻告げた申し出を過大解釈しているらしく、それでこんなに積極的なようだ。まあ、別にそういう流れになるのならそれは構わない。
ただ、すんなりと了承するのも何だか癪で茶化すつもりで惚けてみると、彼は露骨に寂しげな表情を見せる。これは流石に罪悪感を抱かずにはいられなかった。
「いえ…すみません。無理強いするつもりは無いのです」
「ああ違うんだ、僕こそごめん。少し…驚いただけ」
すっかり自信を無くしてしまったのか、オビさんは俯きがちにこちらを見つめてくる。
しかし人々から呪いの子と蔑まれる所以となった筈の彼の瞳は、僕には煌々と輝く星の光のように見えた。
油断すれば吸い込まれてしまいそうなほど魅力的で、一瞬たりとも目を逸らせなかった。
「…クオレ? 私の顔に何かついてましたか」
呆けた顔で自分を見つめる姿に困惑したのか、訝しむような口ぶりで僕を呼ぶ。
我に返った僕はゆっくりと頬に手を伸ばして、思ったことをありのままに伝える。
「綺麗な
そう告げた途端、一瞬だけ、その瞳が見開かれる。言ってはいけないことを口にしてしまったかと冷や汗が噴き出しそうになるが、それを知ってか知らずかオビさんはすぐに僕を強く抱き締める。
「家族以外で私に直接そう言ってくれたのは…貴方が初めてです」
「言ったのは僕が初めてでも、同じように思っている人はもっと沢山居る筈だよ」
「…そうかもしれませんね。ですが私にとっては、他の誰でもない貴方の想いだからこそ…こんなにも胸が熱くなるのです」
震えるその腕の力が増すと共に、彼の熱が更に伝わってくる。少しでもその温かさを受け止めようと、僕もオビさんの背に腕を回した。
間近に身を寄せたことで心臓の音が喧しく鳴り響くのが聞こえてしまいそうだと思うと、なんだか途端に気恥しさを感じる。
だが、そもそもオビさんは騒音の中からでも他人の鼓動を聴き分けられるほどの聴力を持つ人だったのを思い出し、今更慌てても遅いのだと気付く。
「クオレ、本当に…ありがとう」
掠れた声で僕への感謝を告げる。常に他者への礼儀を忘れない彼が敬語を使わずに語った言葉を聞くのはこれが初めてだ。
もしくは、あまりにも微弱な音が、声という形にならなかっただけなのかもしれない。真相は定かでないが、確かめるのも野暮だろう。
「もう大丈夫そうだね」
気が付けば、オビさんの震えが止まっていた。それを確認して僕は彼から少し離れようとする、が。
「いえ。まだまだ足りません。暫くこのまま居させてください」
「…はいはい」
甘えたい盛りの子供の我儘のような口調で、僕を羽交い締めにしかねない勢いで抱きついてくる。それはそれで、不思議と心地よかった。
それがどんな形であれ、誰かから求められるのは、やはり嬉しいものなのだろう。そう、強く思った。
24/28ページ