ぎんたま
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丑三つ時も過ぎた頃。祈莉は疲れ切って悲鳴を上げる身体とは裏腹に、どれだけ布団で目を閉じて眠ろうとしてもそれが叶わずにいた。
意志とは相反した状況に耐えかねた彼女は空気を入れ替えるべく廊下の窓をほんの少し開け、その隙間からどんよりとした夜の空を眺める。
星一つ見えない暗雲の立ち込める空模様はどこまで行っても灰色で、時折流れてくる生ぬるい風もまた不穏を感じさせていた。
「…どうした」
「あぁ、鴨太郎さん。起こしてしまいましたよね…すみません」
その光景に気付いた男が、不審な挙動をしている"妻"に彼女の背後から呼び掛ける。声色は静かに、だが僅かに苛立ちの見え隠れするものだった。
心のどこかでこれを予想していたのか、驚く素振りもなく声を掛けられすぐさま振り返ると、彼女は"夫"へ深々と頭を下げて自らの非を詫びる。
「いや、目を覚ましたのは偶然さ。君が物音を立てたせいではない」
「すみま…いえ、ありがとうございます」
真正面から謝罪されたことで怒りが鎮まったらしく、鴨太郎は彼女の弁に対しフォローの言葉を告げる。
常日頃からの遠慮と卑下による癖で再び詫びてしまいそうになるのを慌てて飲み込んで、本当に伝えるべき感情である感謝の意を口にする祈莉。
だが鴨太郎は、そもそも理由もなく深夜になっても眠らずに起き続けていること自体に大きな違和感を抱き、彼女へ就寝を促す言葉を告げるのだった。
「それよりも、こんな夜更けまで起きていては明日の仕事に差し支えるだろう」
「そうなんですけど…どうにも眠れなくて」
鴨太郎の勧めに理解を示しつつも、彼女の身体はそれを拒む。夫婦になって日が浅い故の緊張からか、それとも。
「…やはりもう少し慎重に事を運ぶべきだったか」
「どうかしましたか?」
「いや。なんでもない、こちらの話だ」
祈莉に訊ねられ、口を滑らせていたことに気付く鴨太郎。だが慌てることなくそれを誤魔化して、再び思慮を巡らせる。
鴨太郎が彼女へと接触したきっかけ。それは、彼女の兄であり自身の同僚でもある男、新見一識に対する牽制かつ脅迫のためだった。
一識が自分の命よりも大事にしている妹を娶るという格好で人質に取り、自分にとって疎ましい存在である彼を貶め、行動を縛る。
そのためならば、何も知らない祈莉を利用するなど鴨太郎には造作もないこと、のはずだったのだが。
「祈莉。僕との生活は窮屈かい」
彼女を苦しませてはいまいか、そんな不安が過る。思わず問うた言葉は、鴨太郎自身も想像だにしないものであった。
「とととんでもない! 今が幸せすぎて不安な気持ちはちょっぴりありますけど…」
「そうか、それなら良いんだが」
慌てて鴨太郎の言葉を否定し、頬を染め艷めく表情を見せる祈莉を前に、彼は思わず心の底から安堵する。
利用するためだけの相手と決めたはずの彼女に、ひどく感情を揺さぶられていることに気付き、鴨太郎は自分の中で何かが崩れていくのを感じつつ、それを決して表に出さぬよう努める。
「しかしそうなると、君の不眠は一体何が原因なのか推測が困難だな。何か思い当たる節はないか?」
「うーん…自分ではちょっと思いつかないですね」
唸りながら不眠に繋がるような疲労の原因を考える祈莉だが、元来より他人に対して優しすぎる嫌いのある彼女のこと、それが負担になっているのだとは思いさえせず。
「仕事が疲れると言っても、普段通りの範囲の筈ですし…」
「小さなことでもいい。僕との生活をするようになって以後、仕事で変わったことがあるなら教えて欲しい」
鴨太郎はその些細な機微を見抜き、彼女へと問い掛ける。まだ祈莉という娘と出会ってから日の浅い彼にとって、普段の動向を計るにはこの上なく好都合と言えた。
彼女は微かに頷いて、それからゆっくりと自身の身の回りのことを一つ一つ反芻し始める。いつもなら瞬時に記憶から切り離して忘れるよう努める細かな事象も含めて考え、ふとあることを思い出すのだった。
「そうですね…五日前ぐらいに、作業の手順が少し入れ替わりました。それに中々慣れなくて、ストレスが溜まってるんでしょうか」
恐る恐る口に出して、鴨太郎の反応を窺う祈莉。彼が頷くと同時に、彼女は不安と共に渦巻いていた靄が晴れたような、そんな気分になっていた。
「恐らくはそれが原因の一つだろうな。身体に定着した筈の行動とは別のやり方を強要されると言うのは、目に見える以上に精神的な負担が大きい」
「なるほど。鴨太郎さんはやっぱり博識ですね、近藤さんやお兄が先生と敬うのも頷けます」
素直な想いから彼を褒め称える祈莉だが、気分を害した鴨太郎は眼鏡の位置を正しながら自らを卑下する。
幼少の頃より彼に植え付けられ続けて来た歪みは、称賛という行為自体を否定してしまうことに通じていた。
「…そうでもないさ。君の兄…一識君も知識は相当に豊富だったろう?」
だがそんな卑屈な怨嗟の声さえ、彼女には翳りですらなく何事も無かったかのように受け流される。
深淵より深い闇を抱える鴨太郎にとって、それがどうしようもないほどに救いであったのだと気付くのは、まだ先の話。
「うーん…? お兄の場合は博識って言うのか微妙なとこですよ、間違った情報も堂々と披露してきますから」
「ほう、それは初耳だな。今後彼と話す際には気をつけなければ」
「ふふっ。是非そうしてください。鴨太郎さんなら騙されることは無いと思います…けど」
心の底から無関心な話題と切り捨てながらもそれを悟られぬように相槌を打っていると、不意に祈莉の口から大きな欠伸が漏れる。
鴨太郎はそっとその生物学的本能による挙動から目線を逸らし自身が釣られて追従してしまうのを防ぎ、そして彼女の言葉を待つ。
「す、すみません…話に夢中になってたせいですかね、なんだかさっきまでが嘘のように眠くなってきました」
言いながらも再び欠伸が漏れ出る祈莉。本来の目的が達成出来たにも拘らず謝罪の言葉が出てしまうのは、鴨太郎に負担をかけてしまったという自責があるからだろうか。
「謝ることは無い、君が眠りに就くために最善を尽くしたまでだ」
「本当に…ありがとうございます」
「眠気が消えない内に、先に布団へ行ってもう休むといい。僕もすぐに行く」
そう告げて、祈莉が開けていた窓の外へ目を向ける鴨太郎。彼女は何か伝えたげに唇を噛むものの、静かに了承のみを伝えて立ち去ることを決める。
「…わかりました。おやすみなさい、鴨太郎さん」
「ああ…おやすみ」
風の音さえ止んだ暗雲の空を見つめ、鴨太郎は自らの胸中に渦巻く澱みが幾重にも増していくのを感じる。
所詮は何も知らぬ莫迦な女と切り捨てるつもりでいた筈の祈莉に、これほどまでに深く心を揺り動かされているという事実は、彼の自尊心では決して認めることの出来ないもので。
「新見祈莉…やはりあの男の妹なだけはある。まるで僕の心を読んでいるかのような眼をしている…これ以上余計なことを気取られないようにしなければ」
意志とは相反した状況に耐えかねた彼女は空気を入れ替えるべく廊下の窓をほんの少し開け、その隙間からどんよりとした夜の空を眺める。
星一つ見えない暗雲の立ち込める空模様はどこまで行っても灰色で、時折流れてくる生ぬるい風もまた不穏を感じさせていた。
「…どうした」
「あぁ、鴨太郎さん。起こしてしまいましたよね…すみません」
その光景に気付いた男が、不審な挙動をしている"妻"に彼女の背後から呼び掛ける。声色は静かに、だが僅かに苛立ちの見え隠れするものだった。
心のどこかでこれを予想していたのか、驚く素振りもなく声を掛けられすぐさま振り返ると、彼女は"夫"へ深々と頭を下げて自らの非を詫びる。
「いや、目を覚ましたのは偶然さ。君が物音を立てたせいではない」
「すみま…いえ、ありがとうございます」
真正面から謝罪されたことで怒りが鎮まったらしく、鴨太郎は彼女の弁に対しフォローの言葉を告げる。
常日頃からの遠慮と卑下による癖で再び詫びてしまいそうになるのを慌てて飲み込んで、本当に伝えるべき感情である感謝の意を口にする祈莉。
だが鴨太郎は、そもそも理由もなく深夜になっても眠らずに起き続けていること自体に大きな違和感を抱き、彼女へ就寝を促す言葉を告げるのだった。
「それよりも、こんな夜更けまで起きていては明日の仕事に差し支えるだろう」
「そうなんですけど…どうにも眠れなくて」
鴨太郎の勧めに理解を示しつつも、彼女の身体はそれを拒む。夫婦になって日が浅い故の緊張からか、それとも。
「…やはりもう少し慎重に事を運ぶべきだったか」
「どうかしましたか?」
「いや。なんでもない、こちらの話だ」
祈莉に訊ねられ、口を滑らせていたことに気付く鴨太郎。だが慌てることなくそれを誤魔化して、再び思慮を巡らせる。
鴨太郎が彼女へと接触したきっかけ。それは、彼女の兄であり自身の同僚でもある男、新見一識に対する牽制かつ脅迫のためだった。
一識が自分の命よりも大事にしている妹を娶るという格好で人質に取り、自分にとって疎ましい存在である彼を貶め、行動を縛る。
そのためならば、何も知らない祈莉を利用するなど鴨太郎には造作もないこと、のはずだったのだが。
「祈莉。僕との生活は窮屈かい」
彼女を苦しませてはいまいか、そんな不安が過る。思わず問うた言葉は、鴨太郎自身も想像だにしないものであった。
「とととんでもない! 今が幸せすぎて不安な気持ちはちょっぴりありますけど…」
「そうか、それなら良いんだが」
慌てて鴨太郎の言葉を否定し、頬を染め艷めく表情を見せる祈莉を前に、彼は思わず心の底から安堵する。
利用するためだけの相手と決めたはずの彼女に、ひどく感情を揺さぶられていることに気付き、鴨太郎は自分の中で何かが崩れていくのを感じつつ、それを決して表に出さぬよう努める。
「しかしそうなると、君の不眠は一体何が原因なのか推測が困難だな。何か思い当たる節はないか?」
「うーん…自分ではちょっと思いつかないですね」
唸りながら不眠に繋がるような疲労の原因を考える祈莉だが、元来より他人に対して優しすぎる嫌いのある彼女のこと、それが負担になっているのだとは思いさえせず。
「仕事が疲れると言っても、普段通りの範囲の筈ですし…」
「小さなことでもいい。僕との生活をするようになって以後、仕事で変わったことがあるなら教えて欲しい」
鴨太郎はその些細な機微を見抜き、彼女へと問い掛ける。まだ祈莉という娘と出会ってから日の浅い彼にとって、普段の動向を計るにはこの上なく好都合と言えた。
彼女は微かに頷いて、それからゆっくりと自身の身の回りのことを一つ一つ反芻し始める。いつもなら瞬時に記憶から切り離して忘れるよう努める細かな事象も含めて考え、ふとあることを思い出すのだった。
「そうですね…五日前ぐらいに、作業の手順が少し入れ替わりました。それに中々慣れなくて、ストレスが溜まってるんでしょうか」
恐る恐る口に出して、鴨太郎の反応を窺う祈莉。彼が頷くと同時に、彼女は不安と共に渦巻いていた靄が晴れたような、そんな気分になっていた。
「恐らくはそれが原因の一つだろうな。身体に定着した筈の行動とは別のやり方を強要されると言うのは、目に見える以上に精神的な負担が大きい」
「なるほど。鴨太郎さんはやっぱり博識ですね、近藤さんやお兄が先生と敬うのも頷けます」
素直な想いから彼を褒め称える祈莉だが、気分を害した鴨太郎は眼鏡の位置を正しながら自らを卑下する。
幼少の頃より彼に植え付けられ続けて来た歪みは、称賛という行為自体を否定してしまうことに通じていた。
「…そうでもないさ。君の兄…一識君も知識は相当に豊富だったろう?」
だがそんな卑屈な怨嗟の声さえ、彼女には翳りですらなく何事も無かったかのように受け流される。
深淵より深い闇を抱える鴨太郎にとって、それがどうしようもないほどに救いであったのだと気付くのは、まだ先の話。
「うーん…? お兄の場合は博識って言うのか微妙なとこですよ、間違った情報も堂々と披露してきますから」
「ほう、それは初耳だな。今後彼と話す際には気をつけなければ」
「ふふっ。是非そうしてください。鴨太郎さんなら騙されることは無いと思います…けど」
心の底から無関心な話題と切り捨てながらもそれを悟られぬように相槌を打っていると、不意に祈莉の口から大きな欠伸が漏れる。
鴨太郎はそっとその生物学的本能による挙動から目線を逸らし自身が釣られて追従してしまうのを防ぎ、そして彼女の言葉を待つ。
「す、すみません…話に夢中になってたせいですかね、なんだかさっきまでが嘘のように眠くなってきました」
言いながらも再び欠伸が漏れ出る祈莉。本来の目的が達成出来たにも拘らず謝罪の言葉が出てしまうのは、鴨太郎に負担をかけてしまったという自責があるからだろうか。
「謝ることは無い、君が眠りに就くために最善を尽くしたまでだ」
「本当に…ありがとうございます」
「眠気が消えない内に、先に布団へ行ってもう休むといい。僕もすぐに行く」
そう告げて、祈莉が開けていた窓の外へ目を向ける鴨太郎。彼女は何か伝えたげに唇を噛むものの、静かに了承のみを伝えて立ち去ることを決める。
「…わかりました。おやすみなさい、鴨太郎さん」
「ああ…おやすみ」
風の音さえ止んだ暗雲の空を見つめ、鴨太郎は自らの胸中に渦巻く澱みが幾重にも増していくのを感じる。
所詮は何も知らぬ莫迦な女と切り捨てるつもりでいた筈の祈莉に、これほどまでに深く心を揺り動かされているという事実は、彼の自尊心では決して認めることの出来ないもので。
「新見祈莉…やはりあの男の妹なだけはある。まるで僕の心を読んでいるかのような眼をしている…これ以上余計なことを気取られないようにしなければ」
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