ぎんたま
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
祈莉が兄の紹介により鴨太郎と結ばれ共に暮らすようになってから、今日で一週間になる。と言っても彼女の日々の生活にはあまり変化は生じず、仕事も退職することなくそのまま勤め続けていた。
そのため、彼女の方が帰宅が遅くなる日も少なくない。妻らしいことが何も出来ていないという罪悪感を抱きつつも、今日は帰宅の早い鴨太郎が待つ新居へと戻る祈莉。
「た…ただいま帰りましたっ」
もう一週間が経つと言うのに、今もまだ敷居を跨ぐ度に胸の鼓動が昂るのを感じる彼女の声は僅かに上擦っていて、それに気付いた鴨太郎が驚いたように目を見開いていた。
「…あぁ、祈莉か。遅かったな」
「すみません、今日はそれなりに遠方まで行っていたもので…すぐに夕食の支度をします」
「それなら心配ない。付き合いで呑んだ帰りでね、土産にと君の分を持ち帰ってきた」
そう言って机に置いてある包みを指す鴨太郎。江戸の治安維持部隊として名を馳せる真選組の重鎮が訪れる店に相応しい、位の高さの窺える弁当を一目見て、祈莉は思わず息を飲む。
それからすぐに深々と頭を下げて、"妻"は感謝の意を示す。だが緊張しきっているせいで見え隠れする不自然な堅苦しさを疎んだ"夫"が、少しでもそれを和らげようと声色を変える。
「あ…ありがとう、ございます」
「そんなに畏まらないでくれ。僕達は夫婦だ、支え合うのは当然のことだろう」
祈莉に座るよう促して、彼は膝に乗せていた書物を開く。何度も読み返されたらしいその本にはいくつも折り目がつけられており、すぐさま目的のページが開けるようになっている。
「鴨さん、その本…」
「これかい? もうずっと読み続けて、随分くたびれてしまったが…手放すには惜しくてね」
本には鴨太郎の長年の想いが込められているようで、それを見つめる瞳は、祈莉には計り知れない深い哀しみを抱いて見えた。
日々の生活で彼が時折顔を見せる、その悲愴。多くを語ることのない彼は、一体何を思うのか。祈莉は彼の妻として、秘める胸の痛みを知りたいと願わずにはいられなかった。
「ともかく、この本については君が詮索するようなことは何もない。気にせず食事を続けてくれ」
だが、鴨太郎はそんな彼女の心を見透かしたかのように呟いて、呆然と浮かんだままの箸を指す。
表情こそ笑みを浮かべているものの、声色には苛立ちが見えこれ以上この話を広げることは許さないと言わんばかりに、無心で書物に目を落とす鴨太郎。
その様に彼女は迂闊に彼を刺激するわけにもいくまいと、静かに非を詫びるしかなかった。
「…すみません」
祈莉の殊勝な謝罪に我に返った鴨太郎は、重心のずれた眼鏡を指で押し上げながら、不安に押し潰されそうな表情をする彼女にそっと慰めの言葉をかける。
「いや良いんだ。僕の方こそ…どうやら少々気が立っていたらしい」
「酒宴の席で、何か不快なことでも?」
「…あぁ。武州からの付き合いの君ならば、近藤さんや土方くんの酒癖の悪さは知っているはず」
旧知である彼らの名を聞き、祈莉の目が僅かに見開かれる。彼らとは暫く顔を合わせていなかった故の羨望からか、あるいは。
だが彼女はすぐさま平静を取り戻し、鴨太郎に同調してみせる。散々迷惑を被ってきた日々を思い起こしながら、しかしそれが心地よいものなのだと笑う。
「ええ…嫌というほど飲まされて来ましたから。あの人たちと何度も呑んだおかげで私、下手な男の人よりずっとお酒が強くなってしまって困ってるんですよ」
「ほう、それは意外だったよ。そう豪語するほどなら、いつか君とも酒を酌み交わしてみたいものだな」
祈莉の言葉に対し、好敵手を見つけたと言わんばかりの喜び勇んだ笑みを隠しきれない鴨太郎。
期待に目を輝かせる様は少年らしくもあり、彼の新たな一面を発見した彼女の頬が緩む。
「…嬉しそうだな。やはり彼らの話題が聞けて気が和らいだのかな」
「いえ、私は鴨さんが…あなたがそんな無邪気な笑顔を見せてくれたことが嬉しくて。いつも険しい顔ばかりでしたから」
眉間を指して、祈莉は鴨太郎が普段から気難しい表情を浮かべてばかりだと指摘する。
「僕が?」
心外と言いたげな視線を向けるが、彼女の首肯にそれ以上否定することが出来なくなってしまう。
肩の力が入ったまま安らげていないことを見透かされ、鴨太郎は堅くなっていた身体を解しながら大きく息を吐く。
「…言われてみれば確かにそうかもしれないな。すまない、心配させてしまっていたかい」
「大丈夫です。お兄や総悟くんたちの姿を見てきて…大変な仕事なんだってことはよく知っていますから、そこは全然気にしてません。けど…」
途切れ途切れに会話を挟み、ようやく食事を終えた彼女がそっと箸を置き一礼をして姿勢を正す。それから、これまでの間ずっと喉に詰まり続け言えずにいた言葉の続きを紡ぐ。
「少しだけ、寂しく思ってはいました。ほんのわずかでもいい、頼ってほしい…と」
光に照らされていた表情が隠れ、影が深くなる。 欲とすら呼べない小さな願いを零して、彼女はそれ以上何も言わなかった。
否、何も言うことが出来なかった。生来より自己主張が不得手な祈莉にとって、それが精一杯の勇気を振り絞って放たれたものであるから。
「頼る、か」
そんな言葉などとうの昔に忘れたとでも言うような、憧憬を孕んだ瞳で虚空を見つめる鴨太郎。光も届かぬ深淵の闇を抱える彼には、彼女が口にしたそれは最も縁遠い言葉だった。
何も語らないこと自体が否定に繋がることを知りつつも、弱きを曝け出すにはまだ足りず。
「…出過ぎた真似ですね。すみません」
「いや…そうでもないさ、確かに僕は人を頼ることを知らない」
そう吐き捨てて尚、彼は祈莉の目を見ようとはしなかった。彼女はそれに気付きながらも責めることなく、ただ黙って続く言葉を聞き入れる。
「支え合うと口では言いながらも、心のどこかで君の優しさを容受することを拒んでしまう自分がいる」
どれだけ研鑽を重ねても、どれほどの栄誉を得ようとも叶わない願いを抱く鴨太郎にとって、彼女が持つ淡い輝きは疎ましささえ感じるほどに強く輝いて見えた。
人間の汚れ歪んだ面を知り尽くす彼にとって、祈莉という女性の持つ打算など一切ない善意など、既に遠い幻想となってしまっていた。
「…人を疑うことなく生きてきた君には理解できない感情かもしれないね、祈莉」
「そうでもないですよ。私は聖人君子なんかじゃありません、疑うことの辛さも裏切られる悲しみも…全て知っているつもりです。ただ、それでも誰かを信じたいと思っているだけなんです」
片付けようとした弁当の蓋に気付かず隠れていた一味唐辛子を見つけ、それを哀しみに満ちた瞳で見つめる祈莉。
その辛味に数ヶ月前に亡くした親友を想起して、彼女を翻弄した運命を静かに呪えど、悪意を持つ人までをも憎むことは彼女は今も出来ずにいる。
そして、彼女が砕けることなく握り続けるその信念そのものが、誰のことも受け入れられないまま生きてきた鴨太郎の胸中を騒がせていく。
「そうか。僕にもそんな風に思える日が来ると信じたいよ」
掠れる声で鴨太郎が呟く傍らで、微かな風の音が窓を叩きその粒を掻き消してしまう。
喧騒の前触れを報せるかのごとく風の音は激しさを増し、間もなく雨に変わるであろう暗雲を運んでくる。
やがて訪れる動乱、その渦中に既に引き込まれていることを、静かに微笑みを湛える彼女はまだ知らない。
そのため、彼女の方が帰宅が遅くなる日も少なくない。妻らしいことが何も出来ていないという罪悪感を抱きつつも、今日は帰宅の早い鴨太郎が待つ新居へと戻る祈莉。
「た…ただいま帰りましたっ」
もう一週間が経つと言うのに、今もまだ敷居を跨ぐ度に胸の鼓動が昂るのを感じる彼女の声は僅かに上擦っていて、それに気付いた鴨太郎が驚いたように目を見開いていた。
「…あぁ、祈莉か。遅かったな」
「すみません、今日はそれなりに遠方まで行っていたもので…すぐに夕食の支度をします」
「それなら心配ない。付き合いで呑んだ帰りでね、土産にと君の分を持ち帰ってきた」
そう言って机に置いてある包みを指す鴨太郎。江戸の治安維持部隊として名を馳せる真選組の重鎮が訪れる店に相応しい、位の高さの窺える弁当を一目見て、祈莉は思わず息を飲む。
それからすぐに深々と頭を下げて、"妻"は感謝の意を示す。だが緊張しきっているせいで見え隠れする不自然な堅苦しさを疎んだ"夫"が、少しでもそれを和らげようと声色を変える。
「あ…ありがとう、ございます」
「そんなに畏まらないでくれ。僕達は夫婦だ、支え合うのは当然のことだろう」
祈莉に座るよう促して、彼は膝に乗せていた書物を開く。何度も読み返されたらしいその本にはいくつも折り目がつけられており、すぐさま目的のページが開けるようになっている。
「鴨さん、その本…」
「これかい? もうずっと読み続けて、随分くたびれてしまったが…手放すには惜しくてね」
本には鴨太郎の長年の想いが込められているようで、それを見つめる瞳は、祈莉には計り知れない深い哀しみを抱いて見えた。
日々の生活で彼が時折顔を見せる、その悲愴。多くを語ることのない彼は、一体何を思うのか。祈莉は彼の妻として、秘める胸の痛みを知りたいと願わずにはいられなかった。
「ともかく、この本については君が詮索するようなことは何もない。気にせず食事を続けてくれ」
だが、鴨太郎はそんな彼女の心を見透かしたかのように呟いて、呆然と浮かんだままの箸を指す。
表情こそ笑みを浮かべているものの、声色には苛立ちが見えこれ以上この話を広げることは許さないと言わんばかりに、無心で書物に目を落とす鴨太郎。
その様に彼女は迂闊に彼を刺激するわけにもいくまいと、静かに非を詫びるしかなかった。
「…すみません」
祈莉の殊勝な謝罪に我に返った鴨太郎は、重心のずれた眼鏡を指で押し上げながら、不安に押し潰されそうな表情をする彼女にそっと慰めの言葉をかける。
「いや良いんだ。僕の方こそ…どうやら少々気が立っていたらしい」
「酒宴の席で、何か不快なことでも?」
「…あぁ。武州からの付き合いの君ならば、近藤さんや土方くんの酒癖の悪さは知っているはず」
旧知である彼らの名を聞き、祈莉の目が僅かに見開かれる。彼らとは暫く顔を合わせていなかった故の羨望からか、あるいは。
だが彼女はすぐさま平静を取り戻し、鴨太郎に同調してみせる。散々迷惑を被ってきた日々を思い起こしながら、しかしそれが心地よいものなのだと笑う。
「ええ…嫌というほど飲まされて来ましたから。あの人たちと何度も呑んだおかげで私、下手な男の人よりずっとお酒が強くなってしまって困ってるんですよ」
「ほう、それは意外だったよ。そう豪語するほどなら、いつか君とも酒を酌み交わしてみたいものだな」
祈莉の言葉に対し、好敵手を見つけたと言わんばかりの喜び勇んだ笑みを隠しきれない鴨太郎。
期待に目を輝かせる様は少年らしくもあり、彼の新たな一面を発見した彼女の頬が緩む。
「…嬉しそうだな。やはり彼らの話題が聞けて気が和らいだのかな」
「いえ、私は鴨さんが…あなたがそんな無邪気な笑顔を見せてくれたことが嬉しくて。いつも険しい顔ばかりでしたから」
眉間を指して、祈莉は鴨太郎が普段から気難しい表情を浮かべてばかりだと指摘する。
「僕が?」
心外と言いたげな視線を向けるが、彼女の首肯にそれ以上否定することが出来なくなってしまう。
肩の力が入ったまま安らげていないことを見透かされ、鴨太郎は堅くなっていた身体を解しながら大きく息を吐く。
「…言われてみれば確かにそうかもしれないな。すまない、心配させてしまっていたかい」
「大丈夫です。お兄や総悟くんたちの姿を見てきて…大変な仕事なんだってことはよく知っていますから、そこは全然気にしてません。けど…」
途切れ途切れに会話を挟み、ようやく食事を終えた彼女がそっと箸を置き一礼をして姿勢を正す。それから、これまでの間ずっと喉に詰まり続け言えずにいた言葉の続きを紡ぐ。
「少しだけ、寂しく思ってはいました。ほんのわずかでもいい、頼ってほしい…と」
光に照らされていた表情が隠れ、影が深くなる。 欲とすら呼べない小さな願いを零して、彼女はそれ以上何も言わなかった。
否、何も言うことが出来なかった。生来より自己主張が不得手な祈莉にとって、それが精一杯の勇気を振り絞って放たれたものであるから。
「頼る、か」
そんな言葉などとうの昔に忘れたとでも言うような、憧憬を孕んだ瞳で虚空を見つめる鴨太郎。光も届かぬ深淵の闇を抱える彼には、彼女が口にしたそれは最も縁遠い言葉だった。
何も語らないこと自体が否定に繋がることを知りつつも、弱きを曝け出すにはまだ足りず。
「…出過ぎた真似ですね。すみません」
「いや…そうでもないさ、確かに僕は人を頼ることを知らない」
そう吐き捨てて尚、彼は祈莉の目を見ようとはしなかった。彼女はそれに気付きながらも責めることなく、ただ黙って続く言葉を聞き入れる。
「支え合うと口では言いながらも、心のどこかで君の優しさを容受することを拒んでしまう自分がいる」
どれだけ研鑽を重ねても、どれほどの栄誉を得ようとも叶わない願いを抱く鴨太郎にとって、彼女が持つ淡い輝きは疎ましささえ感じるほどに強く輝いて見えた。
人間の汚れ歪んだ面を知り尽くす彼にとって、祈莉という女性の持つ打算など一切ない善意など、既に遠い幻想となってしまっていた。
「…人を疑うことなく生きてきた君には理解できない感情かもしれないね、祈莉」
「そうでもないですよ。私は聖人君子なんかじゃありません、疑うことの辛さも裏切られる悲しみも…全て知っているつもりです。ただ、それでも誰かを信じたいと思っているだけなんです」
片付けようとした弁当の蓋に気付かず隠れていた一味唐辛子を見つけ、それを哀しみに満ちた瞳で見つめる祈莉。
その辛味に数ヶ月前に亡くした親友を想起して、彼女を翻弄した運命を静かに呪えど、悪意を持つ人までをも憎むことは彼女は今も出来ずにいる。
そして、彼女が砕けることなく握り続けるその信念そのものが、誰のことも受け入れられないまま生きてきた鴨太郎の胸中を騒がせていく。
「そうか。僕にもそんな風に思える日が来ると信じたいよ」
掠れる声で鴨太郎が呟く傍らで、微かな風の音が窓を叩きその粒を掻き消してしまう。
喧騒の前触れを報せるかのごとく風の音は激しさを増し、間もなく雨に変わるであろう暗雲を運んでくる。
やがて訪れる動乱、その渦中に既に引き込まれていることを、静かに微笑みを湛える彼女はまだ知らない。
7/36ページ